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ブログ

ダイエーの看板が消える
一世を風靡した実業家の軌跡...

ブログ・人生は十人十色Vol.1はこちら

2016年5月5日初稿:5月28日に更新 尾林 正利


撮りたい被写体を自作して、作品完成後に効果的なライティングテクニックを駆使して、大伸ばしが出来るカメラで撮って発表する、そういうシュールなアートをインスタレーションといいます。YOU TUBEに投稿されるような、インスタグラムではありません。
板を様々な形に切り抜いて、レイアウトしたものを、リンホフ・スーパーテヒニカV型 4×5インチ判のビューカメラで撮りました。
1980年代終わりのバブル景気全盛の時代に、大阪市北区天満にあった、ぼくの写真スタジオで制作しました。商品撮影などの合間に、このような作品を撮って楽しんでいたのです。
今はそういうクリエイティブなインスピレーション (ひらめき) が湧いてこず、ただの老人になってしまいました。
とは言え、WEBページを制作するときは、二十代にカムバックし、今でも時を忘れて徹夜することがありますね。
継続は力なり...。

WEBページ制作 ・記事・写真・イラスト・WEBデザインは、尾林 正利 です

大阪から、2年後 (2018年) にダイエーの看板や屋号が消える...
ダイエーを買収したイオンリテール (株) がダイエーの事業を承継

今年の3月22日朝 9時ごろに、大阪市営地下鉄谷町線の出戸駅 ( でとえき ) の南出口にあるダイエー長吉店へ買物に行きました。
個人的には、開店直後にスーパーへ行くようなことは滅多にないのですが、その日の朝、トイレに入ったら紙がかなり減っていたので、急いで12個入りのエルフォーレ・シングル ( 大王製紙製 ) を補充するため自転車 ( 前後に荷台が付いたママチャリ ) で行ったら、いつもは開いている筈の二カ所の入口のシャッターが降りていたんです。どうやら臨時休業らしい。

入口の壁には、「店内改装のため3日間休業して、3月25日からイオン長吉店として営業を開始します」と張り紙してありました。
「ダイエーさんがイオンに変わる? それで改装工事か...しゃーないなぁ、ライフ ( 総合スーパー ) へ行かな」。ダイエー出戸店の西隣にあるコンビニ「ローソン」でも、トイレット・ペーパーを売っていると思いますが、単価が安くて場所を取る12個入りは置いてないと思います。

因みに、出戸駅前のダイエー長吉店から、ライフ喜連瓜破 (きれうりわり) 店まで、片側2車線の長居公園通りを西進して、空荷のママチャリで凡そ12分です。
地下鉄利用なら、電車を待つ時間が最長で凡そ10分、喜連瓜破駅まで電車に乗っている時間が約1分半、駅のプラットホームから地上の通りに出るまで4分〜6分ほど掛かるので、ママチャリの方が早いのです。しかも、大阪市内でトイレットペーパーだけを持って地下鉄に乗るような日本人はおらんでしょう。
気付かなかったダイエーの臨時休業で、その日の予定は1時間ほど狂ってしまいました。

        

「ちょっと、ちょっと、知ってはりまっか?ダイエーさんが、( イオンさんに )買収されるなんて、えらい、世の中になってしまいましたなぁ!」
 「シャープさんも、台湾の電機メーカーの子会社になってもーて、赤字減らしに人減らし...大阪の商売人は、この先どないなんねんやろ? そぉそぉ、そーいえば、最近、吉永小百合はん、シャープのコマーシャルに出てはりまへんな。アクオスの...」(※と思っていたら、2016年5月22日に、シャープ・エアコンのテレビCMに吉永さんがカムバック...安心しました)

ぼくを含め、大阪のおっちゃんたちや、おばちゃんたちは、大阪育ちの企業の行く末に、大なり小なり心配していると思います。
ま、出戸駅南口からダイエーという店名が消えても、イオンさんがダイエーさんの店を引き継ぐので、利用客にとっては、食料品の値上げや、阪急百貨店梅田店の食品売場のような高級路線?にならなければ、経営者が誰になっても、どーでもええ話しなんですが、個人的には、過去にダイエーさんがやっていたメンズファッションの販促関係の仕事をしたこともあり、ダイエーの屋号が2018年に消えるのは、寂しいと言うか、自立再生を出来なかったのが残念ですね。

大阪でスーパーと言えば、やはり、プロ野球球団の福岡ダイエーホークスのオーナーであったダイエーさんが一番有名なんですが、ダイエー創業年の1957年から2011年まで、住んでいた自宅近くにダイエーのお店がなかったので、個人的には馴染みがなく、自宅近くにあったライフさんやイズミヤさんを長い間利用していました。

ダイエー長吉店さんで頻繁に買物するようになったのは、2011年3月半ばからです。
ま、ワケありで地下鉄出戸駅近くに引っ越して、食料品・日用品の買物や銀行ATM ( Automatic Teller Machine=現金自動預け払い機 ) が3台も1階に設置されていて、何かと便利だったからです。

店舗改装から2カ月経った、2016年5月下旬時点のイオン長吉店では、以前より食料品売場がキレイに整頓されて、ママチャリを利用した年配の専業主婦が圧倒的に多いです。
昼間〜夕方の買物でレジで精算を待っていると、買物客の殆どが4千円前後を買って行かれますが、年金生活で、エンゲル係数 ( 家計の全消費支出から飲食費支出を差し引いた割合 ) を25%以下にしたいぼくは、2千円前後です。だから最近は外食をしません。昼間の買物中に店内を見渡すと、働き盛りの男性客は殆どいませんね。

というのは、働き盛りの男性が昼間にスーパーで買物していると、主夫か失業者に見られそうなので、行き難いのでしょうね。でも、若い頃から、昼間にスーパーで買物するのは全然平気ですし、その日の"お買い得"の野菜や肉などを買ってきて、自分で料理します。

男が自分で料理する...ぼくの世代では亭主関白が多いですが、現在では男が台所に立つのは珍しいことではありません。自分が料理してみて気が付くのは、思ったより材料費と手間隙が掛かるのは「カレーライス」だと思いますね。カレーって、誰でも簡単に作れそうに見えますが、プロ並みに美味しく作るのは難しいんです。
だから、手っ取り早く、レトルト食品で、安くて美味しい「ボンカレーネオ・中辛」を買ってくる方が、はるかに安上りで手間要らずなんですが、ぼくは「洋風カレー」より、「和風カレー」が好きなのです。

ま、自分好みのカレーを作る時は気合いが入りますね。
Lサイズのジャガイモ5〜6個、Lサイズのタマネギ4個、西洋ニンジン2本、Lサイズのトマト1個・青森産ニンニク1個、和牛より安いオージービーフ (カレー用) 200g〜250g × 2 パック、カレーパウダー、カツオ昆布出汁4袋、片栗粉、胡椒、一味唐辛子、醤油、キャノーラ油 (菜種油) などを用意して料理します。レシピは我流です。

上記の食品を集めると、材料費だけで、ボンカレーネオ"コクと旨みのオリジナル"の10箱パック(大塚食品の通販で税込み3080円)以上しますが、ぼくも大鍋で作るので、12食分ぐらいの量になります。
つまり、朝はカレースープとして、昼はカレーうどんに、夜はカレーライスに転用でき、飽きたら冷蔵庫へ保存。でも、カレーを作るのは、秋から春までの寒い時期が多いです。

昨今のぼくは高齢者になって、忘れっぽくなったので、6点以上の買物に出掛ける時は、必ず、その日に買う物を普通紙にメモしてポケットに入れてから出掛けます。
それをしないと、いざ、料理するときに、「しもた、醤油買うの忘れてた」とか、生ものを冷蔵庫にしまうときに「サランラップ買うの忘れた」と、自分に腹が立つのは、しょっちゅうです。

さて、ダイエーさんの1号店が出来たのは1957年( 昭和32年 ) に遡ります。ぼくが中1の頃です。
その年の9月23日に大阪市旭区の京阪電鉄千林駅前に、床面積30坪の「主婦の店・大栄 (ダイエー) 」が開店したのです。最初は薬屋さんだったそうです。

ダイエーの前に付けられた「主婦の店」というのは、1949年に福井県出身の参議院女性議員の奥むめお氏が代表になって、"主婦の店" ブランド"を立ち上げ、 加盟小売店から「不良品追放」 を指導しました。

不良品追放...食品業界に於いての不良品は1957年に遡らなくても、近年でも不正行為が見受けられます。
記憶に残る中国・上海の食品加工会社で造られた、大手ファーストフーズ店向けのハンバーグやチキンナゲットの原料にカビの生えた肉を使っていたことが内部告発のビデオで判明...。
さらに日本のレストランで出された国産の天然クルマエビ料理に輸入の養殖海老を常態的に使っていたという食品偽装商法も横行...。まともにやっている食品会社やレストランにとっては、業界全体に悪影響を及ぼす大迷惑な不正行為でした。

ま、そういう不正もあるので、先ずは「バッタもん追放」からですね。
バッタもんとは、メーカーさんが製造した商品の中から、ワケありで破棄された商品を扱う産廃処理業者などが「未だ使える」と判断し、依頼主に無断で闇ルートを経由して転売された商品のことです。商品自体は本物なので、買い手が付くわけです。

2016年1月に、愛知県で「ココイチ廃カツ横流し事件」が起き、壱番屋さんのパート従業員が、愛知県内のスーパーで買物中に、偶然 "廃棄した筈のビーフカツが売られていた” のに気付いて壱番屋本部に通報し、本部が現物を取り寄せて自社の廃棄品だと確認し、壱番屋さんはビーフカツだけを一般に売るようなことをしていないので、廃棄を依頼した産廃処理業者の不正転売が判明したのです。
大量のビーフカツ廃棄の理由は、製造時に異物混入の可能性があったからで、ワンロットの冷凍食品を破棄したそうです。
この産廃処理業者は、ココイチさん以外に数社の食品廃棄物も不正に転売して、スーパーや給食会社などに再販して社会問題になりました。もったいない精神がとんでもないことに。

次に、パチもん追放:ブランド品の類似商品を扱う "パチ屋" からの仕入も禁止。
上記のような「主婦の店」選定運動を全国展開し、審査投票で合格した店舗には「主婦の店」を名乗ることが許されたのです。 主婦の店の看板を掲げた店舗で買えば安心ですとPRしたので、加盟店は増加しました。

パチもんと云えば、ぼくが小学生の頃に食べた、ロングセラーの「森永ミルクキャラメル」の偽物を思い出します。今でもイオン出戸店のレジ前で森永ミルクキャラメルを売っていますが、今から60年前は、パッケージをよーく見たら「森永」が「松永」になっていたミルクキャラメルを遠足に持っていきました。黄色いパッケージにロゴやデザインが酷似していて、最初は違いに気付きませんでした。
名が売れた本物があれば、その偽物があるわけで、大阪市中央区松屋町のレトロチックな駄菓子屋へ行けば、今でも売っているかも知れません。

サイダーも、「三ツ矢サイダー」だと思って飲んだら、「三ツ帆サイダー」でした。
ぼくが子供の頃は、お菓子やドリンクがニセモンだらけ。食品の規制が緩かったですね。
中学校の校外実習で、アサヒビールの吹田工場へ見学にいって、初めてホンモノをタダで飲めました。アサヒビールさんは、見学に行った200人の生徒にサイダーをプレゼント・・・太っ腹でした。
でも、その時のお礼をケロッと忘れてしまって、今は晩酌に、キリンのどごし<生>500Imlを飲んでいます。Im (_ _) m

パチもんの最高傑作?は、「アリナグロン」,,,タケダのアリナミンとライオンのグロンサンを足して2で割ったたもの...当時70歳超えた祖母が健在な頃、置き薬屋のおっちゃんが持ってきて、瓶を見て笑ってしまいました。ホンモノより効きそうですね。ま、国産品のパチもんは大分減りましたが。

テレ朝の「世界の村で発見!こんなところに日本人」を観ていると、タレントの「千原せいじ」さんが発展途上のアフリカ諸国を旅する番組の中で、バイク店や家電店では、KAWASAKI、SONY、PANASONICのパチもんが、堂々と売られ、わんさか登場します。現地の人は、KAWASAKやKAWASAKA が made in Japan だと信じ切っています。カワサキ モータースジャパンさんにとっては、ニセモンが多すぎて困ったものですね。

因みにこの時代は、三種の神器 ( さんしゅのじんぎ ) と言って、14インチ型白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が日本の技術革新による量産技術の進歩で安く販売されるようになり、三種の神器が平社員のサラリーマン家庭にも普及し、とくに電気洗濯機と電気炊飯器は専業主婦から大変喜ばれました。

家電メーカー各社は、新聞広告とテレビCF (Commercial Film) に、日本映画界のトップ女優を起用し、三洋電機は木暮実千代 (こぐれ みちよ)、東芝は山田五十鈴 ( やまだ いすず ) 、松下電器は高峰秀子を起用、庶民の生活水準がようやく欧米に少し近づいた時代です。因みに女優の高峰秀子さんは、女流作家の壺井栄原作・木下恵介監督による「二十四の瞳」で、瀬戸内海の小島にある小学校分校の女教師を演じられ、個人的には印象に残る女優さんです。

主婦の店の御墨付でスタートしたダイエーさんが、2016年に社名がイオンに変わる・・・
今回は、浮き沈みが激しい「流通小売業」をブログのテーマにしてみました。途中で、ぼくのブログは本題から何度も外れるところもありますが、途中でテレビコマーシャルのような本題と無関係なカットインに、ご容赦下さい。

一時は福岡ダイエーホークスのオーナーで、スーパーマーケット業界の覇者と呼ばれた、ダイエー創業者の中内㓛 ( なかうち いさお:功ではなく㓛と書く ) 氏は、1922年 ( 大正11年 ) 生まれです。
ぼくより22歳も年上になり、年の差では親のような存在ですが、ブログでは、文脈を考えて、失礼ながら中内㓛氏を中内さんと書かせて戴きます。
販促の写真撮影の仕事で、ダイエーさんの本社に行った記憶はありますが、元社長とお会いしたことはありません。

ぼくよりも20歳も年長の男性で、徴兵検査で甲種・乙種の合格者なら、戦争になると召集令状を受けて、戦地へ動員されていると思いますが、中内さんも22〜23歳の時に大日本帝国陸軍第14方面軍の混成旅団の歩兵としてフィリピンのルソン島で戦争体験をされました。

中内さんは、大阪市此花区 ( 淀川左岸の河口付近の区域 ) の生まれで、父の秀雄さんは大阪薬専 ( 今の阪大薬学部 ) 出身で、祖父の中内栄 ( さかえ ) 氏は、土佐出身の士族で、大阪医学校 ( 今の阪大医学部 ) を卒業して神戸で眼科医になられ、「ダイエー」の名は、医師になられた祖父の名から採用したもので、「大いに栄える」という意味らしいです。

中内さんは大学受験に落ちて進学を諦め、二十歳 ( はたち ) になった1942年に大阪本社の「日本綿花 」に就職されます。
因みに、日本綿花とは、WEBで調べると1892年:明治25年に創業した老舗の商社です。

中学校の社会の授業で学んだように思うのですが、明治中期から昭和初期までの大阪は、東洋のマンチェスター (イギリスで起きた 産業革命の発祥地で、綿紡績で栄えた英国でNo.2の商業都市:昨今では サッカー日本代表の香川真司選手がマンチェスター・ユナイティッドに在籍していた) と譬えられたほど、大阪紡績 ( 後に東洋紡績 )を筆頭に紡績工場が沢山出来ました。ということで、大阪府南部 (泉州) の紡績工場を見学したこともあります。薬品の臭いが記憶に残っていますね。ここまでは中学時代に習いました。

明治15年 (1882年) 創立の大阪紡績の場合は、自動織機の動力は蒸気機関を利用し、工場の照明はガス燈だったので薄暗く、明治19年に「大阪電灯 (大阪電燈 )」という電力会社が出来て、大阪紡績と道頓堀の中座に送電 (自家発電)を開始 し、大阪府に初めて電灯が点いたんです。
因みに大阪市の誕生は、明治22年 (1889年) です。最初は大坂三郷 (北組・南組・天満組 ) を市域として、三郷を北区・東区・南区・西区の4区に振り分けてスタートし、大阪府知事が市長を兼任していました。

今では大阪市の玄関になるJR大阪駅周辺は、明治7年に大坂府西成郡曽根崎村梅田という田圃の中に鉄道省の官営鉄道 ( 後に日本国有鉄道:JNR→現在は民営のJR) の大坂停車場 (梅田ステンショ:Umeda Station ) が出来て、大坂〜神戸間に汽車ポッポが走ったんです。
田圃の中に鉄道の停車場 ( 駅 ) って、不便やろ。何でや?
明治初期の日本住宅の99%が木造建築なので、火の粉が飛び散る汽車は危険だから、人家が密集した市街地近くに汽車を通させない住民運動が起こり、汽車鉄道と商売敵になる人力車組合などが、鉄道省に陳情して、街中の道路上に線路を敷くことが出来なかったワケです。

大坂という漢字名が大阪という漢字に公式に変わったのは、明治22年に大阪市が誕生してから官報などで徐々に書き直されていきました。
その理由は、 坂という漢字は「士」へんに「反」と書いて、士族(武士)が反抗するという意味にも取られます。 明治時代の初めは、版籍奉還や廃藩置県で藩の土地が国に没収、藩士の解雇、藩主に多額の金を貸している商人は、藩債が御破算に・・・。明治政府に恨みを抱いている旧藩主や武士・豪商も多く、「大坂」の儘では、薩摩士族の反発、明治10年 ( 1877年 ) の「西南戦争」のような事態を招くおそれがあったので、誰からも突っ込まれない無難な「大阪」に漢字を変えたそうです。験担ぎですわ。
ところが、昭和の初めになっても、大坂城だけは大坂城のままでした。

何でかというと、1610年に起きた大坂の陣で、太閤秀吉が建てた初代大坂城の本丸と天守閣は、徳川家康・秀忠の幕府軍の砲撃や放火で焼失し、徳川秀忠が再建した二代目大坂城天守閣も江戸時代に落雷で焼失、その後、昭和5年まで、大坂城に天守閣がなかったので、大阪人は、太閤秀吉を敬って大坂城の名前を残したのです。

昭和6年に、大阪市は、パリのシャンゼリゼ大通りを模範にした、儀礼式(パレード)が出来る御堂筋建設と地下鉄御堂筋線の工事に莫大な費用が掛かることから、大坂城天守閣再建に関しては、第七代・大阪市長の関一 (せき はじめ) さんのアイディアで、大阪市民に寄付を募り、大阪本社のゼネコン・大林組がエレベーター付きの天守閣を建てました。

しかし、太閤はんが建てた豪華な金ピカのお城とは異なり、昭和に建てられたお城なので、地図で大阪城と書き換えられました。 大阪城の殆どは国有地で、西の丸庭園は市有地です。
国有になった大坂城の壕内や馬場は、明治時代の初めに官軍の練兵場「大坂鎮台」が出来、兵器工場の「大阪工廠」が建てられ、大日本帝国陸軍第4師団の本部が置かれ、国家機密のため、昭和5年まで一般市民は立入禁止だったのです。

でも、大阪市民や財閥の寄付で建てた大阪城 (竣工は昭和6年:1931年10月)なので、いくら石頭の陸軍大将でも、寄付した市民に立入禁止にすることは出来ず、大阪市民が大阪城天守閣に上ることを許されたのです。第七代・関市長って凄い方ですよ。
でも、太平洋戦争の開戦前や戦後しばらくは、一般人の立入は禁止でした。戦後の大阪城は米進駐軍の駐屯地になって、アメリカ陸軍のMP (憲兵) がドライブするジープが大阪市内を走り回っていました。第二次世界大戦後のイタリアのローマ市も米軍ジープが走り回っていましたが、イタリアは三国同盟を寝返ったので敗戦国ではなく、米軍から払い下げられたジープをパトカーに使っていました。ドライブしてたのは、ローマ警察の警官です。

大阪ミナミの代表格である南海難波駅前は、大阪府西成郡難波村のネギ畑に、明治18年に私鉄の阪堺鉄道 (今の南海電鉄のルーツ ) の難波停車場ができました。
明治19年には、大阪電灯ができましたが、鉄道へ配電できる電力供給ができず、阪堺鉄道は汽車鉄道でスタートしました。

大阪市が誕生したとき、難波新地だけが大阪市南区に編入されましたが、明治30年に難波村は南区に編入し、後に東区と合併して現在は中央区になっています。
因みに大阪府西成郡とは、上町台地の丘陵麓から西側の低地エリアで、大正14年(1925年) 4月の大阪市の市域拡大の際に、西成郡で人口の一番多い今宮町から「今宮区」案が出され、玉出町も「玉出区」を主張し、両町にわだかまり (不満) がないように、郡名を残して「大阪市西成区」にしたそうです。

明治時代の大阪は、庶民の夜の暮らしは、ガス灯や石油ランプ、行灯などでした。これが明治末に千日前で発生した「ミナミの大火」の原因になります。
大阪紡績では夜でも電灯が煌煌と工場内を照らしたので、繁忙期の操業は女工さんたちが昼夜2交代の24時間フル稼働でした。当時は、労働基準法なんてありません。10代未満の女子児童も指先が細いので役に立ち、成人女性と一緒に働いていたようで、今ならブラック企業ですね。
初代の通天閣をルナパークに建てたおっちゃんは、大阪電灯の初代社長の土居通夫 (どい みちお) 氏です。通天閣に自分の名をつけました。本当は「通電閣」にしたかったんとちゃいますか。

やがて、民営の大阪電灯は、大阪市交通局の市電・地下鉄事業などの電力確保ため大阪市に買収されることになります。そうなると、電気を使いたい工場や商店、裕福な市民は困りますわなぁ。そのために、民需用の大同電力という会社が出来て、その後、水力発電の「宇治川電気」などが大阪に進出し、林立する電力会社の統廃合が進み、関西配電を経て関西電力が戦後に誕生したワケです。

ところで、日本で一番早く創立した東京電力 ( 旧東京電灯:ドイツ製の交流発電機を使用し、周波数を50Hzで送電) の経営者が、徳川家康のように虎視眈々と日本中の電力供給を一社で独占するため、中部地方に進出。危機感を募らせた関西の大阪電灯は、東京電灯に対抗するため、ドイツ規格と異なるアメリカのGE製の交流発電機を使い60Hzで送電を開始したのです。凡そ130年前から電力会社同士は仲が悪かったようです。

でも、時代は130年も流れ、東電の関西進出の心配が無くなって安心していたら?2016年は、配電の自由化で、大阪ガスが、東京ガスと規格や歩調を合わせ、太陽光発電と併用できる売電可能な、家庭用燃料電池コージェネレーションシステム「エネファームやエコウィル ( 都市ガス、プロパンガス、灯油を使って発電させ、排熱を利用して給湯に使う ) 」を開発し、何と電力配電事業に積極参入...原発反対の世論と裁判官の手痛い判決で、点検の終わった福井の原発を動かせず、火力発電所が頼りの関西電力は大慌て。

今、大阪のテレビCMで顧客争奪合戦を繰り広げています。大阪ガスはLNGタンカーを8隻も持っていますからね。関西電力は3隻。福井県は関電の廃炉原発にも課税すると言い出して、電気代値下げを延期した関西電力が四面楚歌の状態で可哀想です。

ま、今では、家電製品で交流100V〜220Vの可変電圧、50Hz〜60Hz の可変周波数の機器はありますが、いずれ、発電所から送電される交流の周波数は、電力会社のエゴではなく、法律で全国統一した方がいいでしょうね。西日本から東日本に、東日本から西日本に引っ越す時に、交流周波数の切り換えスイッチの無い電子レンジなどは使えなくなって困りますからね。

大阪では江戸時代から平野郷で綿紡績が盛んで、中河内で採れる河内綿を使った家内的手工業の紡績が盛んに行われていましたが、明治政府の「富国強兵」の国策需要に綿布の生産量が欧米に全然追い着かないので、実業家の重鎮・渋沢栄一氏の協力で、外国商社を介せず、綿布原料のインド綿を大量に輸入する貿易商社が、大阪市内に創立されることになったのです。それが、日本綿花です。

大阪市平野区には「区民わた畑」があって、毎年、綿の栽培が行われており、地元の小学生たちが授業で綿の実を摘んで綿糸を作る実習を行っています。だから、重要なのは綿の花でなく、綿の実が商品なのです。その誤りに気付いたのか?日本綿花→日綿実業→ニチメン→双日に発展していきます。 もし、太平洋戦争が無かったら、事業欲が旺盛な中内さんはニチメンの社長になっていたかも知れませんよ。

ところで、1942年当時の日本はどんな時代かと言うと、当時は大日本帝国 (今は日本国) と呼ぶ国名で、米国を中心とした連合国のA,B,C,D, ( America=アメリカ合衆国、British=イギリス=グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 、China=中華民国、Dutch=オランダ王国 ) の国々と戦争状態にありました。

とは言っても、大日本帝国陸海軍が、日本から10,000km以上も離れた、アメリカ本土やイギリス本土、オランダ本土を攻撃したのではなく、A=アメリカの植民地ハワイ諸島オアフ島のパール・ハーバーを攻撃、B=イギリスの植民地シンガポールを攻撃、C=蒋介石が統治していた中国本土を攻撃、D=オランダの植民地・インドネシアのジャワ島パレンバン石油プラントへの攻撃でした。

日本綿花で働いていた中内さんにも21歳の時、1943年1月に市役所兵事課職員から赤紙=( 國民兵召集令状 )を受け取って応召し、赤紙に記載された日時に、両親や兄弟と水盃 ( みずさかずき=再会できないかも知れない別れの儀式 ) を交わして入営されたと思います。
入営とは兵営 ( へいえい=軍隊宿舎 ) に入るという意味です。直ぐには軍務に動員されず、陸軍施設などの練兵場で射撃や匍匐 ( ほふく) 前進などの軍事訓練を受けます。

入営してまもなく、当時21歳の中内さんは、大本営 ( 大日本帝国陸海軍の最高統帥機関 ) が、隷下の陸海軍師団に命じた「捷1号作戦 ( しょういちごうさくせん:分かりやすく言うと、日本軍がアメリカから奪ったフィリピンの領土と制海権と制空権を防衛する作戦 ) 」のため、戦場になるフィリピンのルソン島へ歩兵として動員されました。

フィリピンの首都マニラ (ルソン島) に着くと、陸軍・第14方面軍の山下奉文 ( やました ともゆき ) 陸軍大将麾下の独立混成58旅団 ( 凡そ1万3千名の兵団 ) の歩兵として従軍しました。
ここで、旅団って何や?といいますと、師団と旅団の大きな違いは、陸軍1個師団 ( 1万人前後の兵団 ) は、歩兵+砲兵+輜重兵 (しちょうへい ) の構成ですが、旅団には輜重兵が付かないので、兵士個々の食料や水、着替えの衣類、簡易テント、寝袋、スコップ、ナイフ、弾薬は、背負いながら、手には銃剣を持って徒歩でキャンプ (野営場所) まで運び、飯盒 (はんごう=アルミ製の携帯調理器)でご飯を炊かなければなりません。きびしーっ。

そのために二十歳の徴兵検査で成人男性を素っ裸にして一人前の皇軍兵として役に経つかを検査し、甲・乙・丙に分類し、甲と乙は合格。招集後に厳しい軍事訓練があるわけです。野営ですから、オカズは、荷物運びや怪我で弱った軍馬を食肉に、それを食い潰すと、野生の鹿、猿などの動物やヘビやトカゲの爬虫類、鳥、魚を捕まえて調理します。これを現地調達といいます。ま、今の自衛隊で特殊部隊なら、 そのような飢餓に対応できる身体作りのサバイバル訓練をしていると思いますね。

中内さんが従軍した旅団は、フィリピンのルソン島中央部西岸のリンガエン湾方面のジャングルでフィリピン防衛の守備隊として、フィリピンへ戻ってきたマッカーサー陸軍大将が率いる米陸軍上陸部隊を迎撃するため、1945年1月から8カ月に及ぶ血みどろの激戦で、旅団に死傷者続出。
戦力を消耗して米軍に反撃できない旅団の部隊には、大本営から玉砕 (ぎょくさい=全員自決) を命じられたのですが、山下奉文大将は、旅団各部隊の玉砕を許さず、遊撃作戦 (ゲリラ作戦) の続行を命じ、終戦になって、わずか千名が奇蹟的に生還しました。その中に飢餓や手榴弾の怪我に耐えたヘトヘトの中内さんがいたわけです。

フィリピンで下級士官または兵士として戦って、無事に生き残った有名人を3名挙げますと、
先ずは、レイテ島で米軍と戦った通信兵の大岡昇平氏で、復員してから作家活動に入り「レイテ戦記」を発表。この作品はまだ読んでいませんが、ミリタリーマニアの本ではなく、兵士の視点から捉えたドキュメンタリー (実録) のようです。

次は、士官候補生で陸軍曹長の小野田寛郎 ( おのだ ひろお ) 氏です。
小野田さんは1945年8月15日の終戦 ( 昭和天皇の終戦の詔:みことのり ) を知らず、フィリピン・ルバング島のジャングルで情報将校として遊撃戦 ( ゲリラ戦 ) を29年間も継続して軍務に就きました。
29年間にたった1人 ( 二人いたのですが、一人は死亡) で、米兵やフィリピンゲリラ兵を50名も殺傷...当時の上官がフィリピンへ渡って、小野田曹長に武装解除の命令を下し、やっと帰国できるようにしました。

1974年まで1人で米軍と戦った、皇軍の模範になる愛国心に溢れた強者ですが、国際法では、戦争終結後の軍人の武力行使で相手が死んだ場合は、相手国から殺人罪で起訴されるので、日本政府は、アメリカ政府とフィリピン政府から大統領の「恩赦」を願い出て帰国させました。
小野田さんは復員後に、戦後の日本社会の風潮に馴染めず、ブラジルへ移住して牧場を経営されたそうです。

3番目は、スーパーのダイエーを創業した中内さんです。
1945年1月からルソン島のジャングルで8月まで潜伏し、飢えやマラリアと戦い、刑死を覚悟して終戦直前に投降し、23歳で米軍の捕虜収容所に。
中内さんは、ジュネーヴ条約を知らなかったのでしょうね。ジュネーヴ条約とは、戦時中の俘虜 (ふりょ) の待遇に関する条約:1929年から発効) で、捕らえた敵将兵への拷問や虐待を禁ずる協定です。但し、自国または相手国がその条約に加盟していない場合は、拷問や虐待、殺害、裁判官の資格がない軍人によって裁かれる懲罰裁判も有り得ます。

したがって、敵の捕虜になるよりも、集団自決 (玉砕:ぎょくさい) の方を重んじた日本軍部トップの反対で、大日本帝国時代はジュネーヴ条約に加盟していなかったのです。今の日本は先の大戦でジュネーヴ条約未加入を猛反省し、自衛隊は軍隊として、ジュネーヴ条約に加盟していますよ。国連のPKO (Peacekeeping Operations) 平和維持活動していますから...。

大日本帝国陸軍は軍規紊乱 (びんらん) 対策のため、1941年1月の陸軍観兵式に陸訓第1号として「戦陣訓」を示達 (じたつ)・・・「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」を東条英機陸軍大将は部下の将兵に徹底させたんですが、戦陣訓を守らなかったのは本人でした。

1945年8月15日正午、四国宣言受諾...無条件降伏という終戦結果に、無能な最高司令官として生き恥を衆目に晒し、逮捕直前に、戦陣訓を思い出して自殺未遂・・・ダグラス・マッカーサー元帥麾下の進駐軍のMPに逮捕され、ジープに乗せられて巣鴨プリズンへ...。

東条大将らが行ったその軍国主義の冷酷さは、1944年3月〜7月の「インパール作戦 (ジンギスカン作戦=荷物を運ぶ牛馬を食肉に自給) 」で第15方面軍を指揮した牟田口廉也陸軍中将の訓辞に表れています。

「諸君、○○烈兵団長は、軍命に背き○○○方面の戦線を放棄した。
食う物がないから戦争は出来んと言って、勝手に退 (さが) りよった。これが皇軍か。

皇軍は食う物がなくても、敵を倒すまで戦わなければならないのだ。
兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは、戦いを放棄する理由にはならん。
弾がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。
腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。
日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。
日本は神州である。神々が守って下さる…」

司令官のこんな考え方で、この作戦に動員された日本兵の凡そ85,000人の内、26,000人が戦死、30,000人以上がマラリアや赤痢、餓えで衰弱死し、放置されたままの遺体は、ビルマ ( ミャンマー ) の熱帯ジャングルの中で埋葬されずに朽ちて白骨になっていったのです。勿論、対戦相手の英軍側も多くの戦死者や病死者を出しました。
牟田口中将は大本営からインパール作戦失敗で解任され、帰国後の報告で作戦失敗の責任を師団長に転嫁された。・・・一将功なりて万骨枯る。

中内さんが飢餓地獄のフィリピンのジャングルで見た夢は、家族と一緒に、すき焼きを食べているシーンでした。復員したら「すき焼きを腹一杯、食ったろ!」
戦争って、将校以上の軍人にとっては、大出世のチャンスですが、二等兵にとっては、上官から扱き使われて何のメリットもない。今の自衛隊のことは入隊した経験がないので、何とも言えませんが、ぼくが上から頭ごなしに命令される団体行動に向いてないのは確かです。

中内さんも、ルソン島でゲリラ戦を強いられ、敵の手榴弾で負傷された。攻撃した米軍のベースキャンプに充分な食料があり、しかも、食後のデザートにアイスクリームを食べている。この差は一体なんやろか?この戦争で中内さんは日米の国力の差、考え方の違いを痛感されました。

因みに、まだ米進駐軍が大阪城や堺市の浜寺や八尾空港に駐屯していた頃、ぼくは小学生低学年でしたが、ある日、街道で休憩していた米進駐軍の車列があって、うす汚いぼくらは乞食のように両手を伸ばしてG.I. (General Infantry)と呼ばれた米陸軍歩兵からガムとコンビーフの缶詰を貰い、初めて牛肉の味を知りました。おいしいかったですね。当時は砂糖の甘味にも飢えていたので、チューインガムは噛んでから吐き出さず、呑み込んでましたよ。

日本がアメリカと戦争して負けたのは、軍事力の差ではなく、食べ物の差 (経済力の差) だと小学生の頭でも気付きましたね。大手新聞社が戦時中に「食べられる草」とか「食べられる虫」を特集していたようですが、冬になったら、何を食っていいのやら...。健常な人でも、水だけ飲んで十日も絶食すれば、肋骨が浮いて体重が15キロぐらい減って目が霞むし、胃液が喉元まで這い上がってきてギブアップ。全身がふらついて階段を上れません。「腹が減っては、戦は出来ず」その通りですわ。

歩兵は20kgほどの荷物を担いで行軍しますから、それに見合った栄養のある食事が必要です。
皇軍は食う物がなくても、敵を倒すまで戦わなければならないのだ。そのようなファイトを持てというのなら判らんでもないけど、マジで飯も食わせずに戦わせたら虐待です。2000年前の紀元1世紀のローマ帝国でも、奴隷の剣闘士には御馳走を与え、恩赦もありましたよ。

最近になって判ったことなんですが、進駐軍の兵士たちが、日本の子供たちにフレンドリーで気前が良かったのは、実は、GHQ(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers:連合国軍最高司令官総司令部) マッカーサー元帥の、日本の子供に対する懐柔策らしく、Made in U.S.A.の食料バラマキの原資は、何と日本政府が在日米軍に払っていたそうなんです。
な〜んや。要領のいいマッカーサー元帥らしい。高校卒業の頃まではマッカーサー元帥を大尊敬していたのに。騙されていましたわ。

2016年4月に、言いたい放題のドナルド・トランプ次期米大統領候補は、「日本が攻撃されたら、アメリカは助けに行くが、逆にアメリカが攻撃されたら日本は助けに来ない。日本は安保ただ乗りや。おれが当選したら、日本から相応のカネをぶん取ってやる」とほざいていますが、とんでもない。

日本政府が在日米軍へ基地提供や諸経費負担は、平成28年度予算では5818億円、米軍基地に勤務する米将兵家族に対する「思いやり予算」は1920億円で高額です。
しかし、逆に、米政府が日本の駐留米軍に対する費用負担は、2002年で44億ドル超えで、現在、北朝鮮と休戦状態にある韓国の駐留米軍の凡そ5倍以上で、突出しています。

その訳は、米太平洋艦隊司令部と米海兵隊司令部が、横須賀と沖縄にあるからです。
ま、米将兵の給料まで日本が負担すると、在日米軍は、日本国の「傭兵」になってしまいますね。この米軍駐留の抑止力が、核保有して、ミサイル配備を増強する中国人民共和国と北朝鮮の暴走を防いでいるワケなんです。米太平洋艦隊司令部がハワイへ、米海兵隊司令部がグアムに移転すると、中国軍は尖閣に「トロイの木馬」を座礁させて、99%中国領にしてしまいます。

余談の余談になりますが、太平洋戦争を通して、当時の米大統領や米高官から毀誉褒貶の二面性を持つマッカーサー元帥が強運で要領のいい人物だと云うのは、世渡りが天才的に上手なことです。
ダグラス・マッカーサーの父、アーサーも軍人で、アメリカ合衆国の原住民をジェノサイトする「インディアン戦争」に於ける州の指揮官でした。ダグが子供の頃は、父が赴任する砦 (とりで:高い木の柵で囲んだ騎兵隊の営舎で馬場や倉庫、酒場も併設) の指揮官邸に家族と一緒に暮らしていたそうで、心の中では日本人をインディアン並みと思っていたかも知れませんよ。

ジョン・ウエインが騎兵隊指揮官として主演したジョン・フォード監督の「黄色いリボン」が参考になると思いますが、最近では、インディアン狩りをテーマにした西部劇の上映や上演は、インディアンの人権を配慮して米国内では禁止されています。

晩年のマッカーサーが「日本人は12歳」って、言ってたそうですが...。それは、大人の日本男子の身長が155〜165cmぐらいで、アメリカ人男子の12歳ごろになるので、そういう発言をしたのでしょう。12歳と言ったのは学力の程度ではありません。

ダグラス・マッカーサーは、身長180cmもありますが、白人のアメリカ人としては背が低い方なので、ハイ・ティーンのマッカーサが、息子想いの母が長期滞在するホテルから通学してくるマザコン生徒だったので、エリート育ちを妬む悪ガキで腕力の強いマッチョな大男が多い士官学校でからかわれ、度々鉄拳制裁のイジメに遇って、身長の低さにコンプレックスを抱き、司令官になってからは、写真を撮られる時は、カメラマンに「ロー・アングルから撮れ」と細々と命令していたようです。日本の新聞に載せる時は、数枚の写真をGHQ本部に持って来させ、事前にチェックしました。

アーサー・マッカーサーは、日露戦争後に日露講和条約 (ポーツマス会議) が行われた頃に在日アメリカ大使館へ武官として、士官学校卒業間もない息子のダグラス・マッカーサー少尉と一緒に来日しました。
その時に、大日本帝国海軍・聯合艦隊司令官の東郷平八郎元帥や乃木希典陸軍大将と面会され、明治天皇から陶磁器を下賜されたそうです。

ここで気になるのは、東郷平八郎元帥は、身長153cm。乃木希典陸軍大将は、162cm。ポーツマス会議の全権大使、小村寿太郎外務大臣は 身長143cm。今から思うと、大男揃いのロシア軍に勝てたのは、奇跡に近いです。

1905年のポーツマス会議で、ロシアの全権大使・セルゲイ・ウィッテは、身長180cmで、身長143cmの小村大使を上から目線で睨みつけ、
「日露戦争の賠償金を払えって?何故だ!ロシアは、たまたま日本海海戦で負けたが、戦はこれからだ。陸戦では勝負がついてない。ナポレオンを負かした世界一屈強なロシア陸軍は、ニコライ2世のため、極東(シベリア ) へ集合して日本軍と戦いたいと志気が高い。勝つのは我がロシアだ!ロシアは日本と講和などは望んでないし、びた一文も払わない!」

......結局、日本は、ロシアの内情を知りながら、ポーカーフェイスのウイッテのハッタリに負けて、ロシアへの賠償金請求は諦め、セオドア・ルーズベルト米大統領の仲介で、北緯50度以南の樺太と、北緯50度以南の千島列島が日本領になりました。
講和条約締結後、吉報を待っていた日本のメディアや日本国民は、日本政府の弱腰外交にガッカリ。上野公園などで暴動も起きました。

マッカーサーは、米陸軍参謀総長 (大将) まで昇格した後は、陸軍少将の地位に戻って定年退職した後、帰米しても名誉職のポストが無いのでフィリピンに残り、暫定政権のケソン大統領の軍事顧問に就任しました。
というのは、マッカーサーはウエストポイント米陸軍士官学校をトップの成績で卒業し、校長も勤めて、教官のパワハラや生徒間の陰湿なイジメ、"野獣小屋"の悪習を廃止させ、校風を近代的に改革した実績もあったので、フィリピン軍を訓練して強くして貰うため、招聘にはVIP待遇です。
ケソン氏の計らいで、高給と、給料よりも高額な交際費、インセンティブ付き報酬の支給は勿論、ケソン氏がオーナーのマニラの最高級ホテルVIPルームを執務室に用意し、米比の通訳も出来る専用のボーイと専用のコック長を付けて貰って就任できたことです。レシート収集家の桝添さんは羨ましいでしょうなぁ。

ところで、その当時の中国では、大日本帝国・関東軍の軍事力を背景にした内地からの植民が顕著になり、米政府は南京で建国された中華民国政府 (蒋介石総統) を「清朝」に代わる近代国家として承認していましたが、中国の北東四省に、日本が清国の宣統帝 ( 愛新覚羅溥儀氏:あいしんかくら ふぎ ) を皇帝に擁立した「満州国」を建国したので、日米は中国大陸に於ける利権が衝突して、険悪な状態になっていたんです。

米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は、満州問題の膠着で、日米開戦を予測して戦争準備に掛かり、当時の台湾が日本領になっていて、日本軍の航空基地があり、自国の植民地であったフィリピンへの米州兵の増派と、最新の爆撃機や戦闘機、潜水艦で軍備強化するため、フィリピン政府の軍事顧問マッカーサー陸軍少将に極東軍司令官への復職を命じ、マッカーサーは、棚からぼた餅の2階級特進して陸軍大将の地位を条件に現役復帰も叶ったわけです。だから、日米開戦は、マッカーサーにとっては大出世する追い風になったワケです。

マッカーサーは、フィリピンに於ける米比軍の戦力アップのため、米本土から最新鋭の戦略爆撃機、ターボエンジン4基搭載のB-17フライング・フォートレスと急降下艦上爆撃機:ダグラス・ドーントレスA-24、戦闘機:カーチスP-40など200機余りを至急、マニラ北西のクラーク基地に送るようにマーシャル参謀総長に依頼しました。そして、実行されました。

一方の大日本帝国海軍は1941年12月8日の真珠湾攻撃の直後、台湾の日本軍基地から飛び立った海軍航空隊の零戦と一式陸攻の計106機が、アメリカ本土からフィリピンに送られてきた新鋭の爆撃機や戦闘機が駐機するクラーク米軍基地を急襲し、108機の新品米軍機を破壊し、マッカーサー大将は日本の軍事力 ( 戦闘機の性能とパイロットの練度 ) を完全にナメきって油断し過ぎ、フィリピンのアメリカ極東空軍は壊滅状態になったそうです。もちろん、最新兵器を送ってもらった米大統領には、正直に報告できませんわな。攻撃してきた日本軍機は700機以上!パイロットは日本人ではなく、ドイツ人が操縦していた...エトセトラ、エトセトラ。

さらに、本間雅晴陸軍中将が率いる大日本帝国陸軍第14軍のマニラ侵攻によって、マッカーサー大将はバターン半島の沖にあるコレヒドール要塞へ逃げて立て籠もり、米比軍は日本の第14軍の捕虜になり、バターン半島を徒歩で死の行進...。米軍の武器弾薬、兵糧、米軍トラックは日本軍が没収。

ヘタレな大将に期待を裏切られたフランクリン・ルーズベルト大統領は激怒され、極東アメリカ軍の最高司令官が日本軍に捕まるのを危惧したルーズベルト大統領はマッカーサー大将をオーストラリアへ待避するように命令したのです。

戦争中の最前線で最高司令官が指揮下の軍隊を残して戦線離脱するのは、病気以外では考えられないので、オーストラリアに着いてから、マッカーサーは「I shall return !私はフィリピンに必ず帰ります」とフィリピン向けやアメリカ向けのラジオ放送で発表したのです。しかし、マッカーサー大将の本音は、恥をかかせた本間中将に、敵意を剥き出しにして、必ず仕返しするという意味だったのです。

オーストラリアへ渡ったマッカーサー大将は、ニューギニアなどの南西太平洋方面軍の最高司令官になり、太平洋戦争の総指揮を米海軍太平洋艦隊最高司令官のチェスター・ニミッツを抑えて頭角を現し、米軍を牛耳り、日本を踏み台にして大出世。有能な部下にアイゼンハワー ( 連合国軍ヨーロッパ・アフリカ方面の最高司令官の後に米大統領になる) ・・・アイクもニミッツも、広島・長崎への原爆投下には反対されていた...。ウエストポイント陸軍士官学校OBのアイク(ドワイト・アイゼンハワー) が大統領になったのは戦後の1953年で、日本は運が悪かった。

愛機のバターン号(ダグラスC-46 Dakota:双発輸送機)で厚木飛行場に降りた、マッカーサーは元帥は、ハーリー・S・トルーマン大統領から日本統治の重責を一任され、日本を統治しやすくする為に、ジェントルマンに徹し、在任中に日本軍人からの仇討ちを怖れて、武器よさらばの平和憲法を作ったんです。左派の憲法学者や平和主義の日本人は、表面だけ観て、マッカーサーの魂胆を誤解していますわ。

ま、日本では飛鳥時代の欽明天皇時代から有力豪族の蘇我氏 (崇仏派) と物部氏 (廃仏派) の血生臭い争いに始まり、平安時代は平氏と源氏の覇権争い、そして、群雄割拠の戦国時代を経て関ヶ原の合戦...武家勢力の徳川家康が日本統治の政権を掌握。江戸時代は幕府が政権を握って凡そ250年ほど天下泰平の時代が続きましたが、幕末は倒幕派と佐幕派と争い、血の気が多い日本人に武器を持たすな!ということなんでしょう。

だから、マッカーサー元帥は、GHQの最高司令官に就任すると、直ぐに、日本人が好む仇討ちを煽る歌舞伎の「忠臣蔵」や映画の「赤穂浪士」は上演禁止にし、主要な新聞を検閲して、マッカーサーや米軍に批判的な記事や写真は黒塗りにさせました。マッカーサーは偉大で、アメリカは正義の国だ。世界の警察官だというイメージを守るために。太平洋戦争の全責任を日本の軍人に擦り付けたんです。終戦直後に、マッカーサーは、フィリピンで恥をかかされた本間中将と持久戦で苦しめられた山下大将を軍人が軍人を裁く軍事裁判に掛け、フィリピン内で本間中将を軍服着用で銃殺刑に、マレーの虎・山下大将を囚人服着用で絞首刑に...。

しかし、マッカーサー元帥が日本を統治していた東西冷戦の最中 (さなか)、1950年6月25日に「朝鮮戦争 ( 朝鮮動乱 )」が起こり、朝鮮半島の赤化阻止 (共産主義化阻止 ) の戦争と、日本の平和統治という二足のわらじを履くようになったんです。
マッカーサー元帥は、自ら主導した日本の平和憲法が逆に足枷 (あしかせ) になり、「日本も米軍に協力せよ」と発言するようになりました。
当時は自衛隊が未だ創立していなかったので、海上保安庁が日本特別掃海隊を結成して、北朝鮮軍が仕掛けた機雷の掃海の任務で朝鮮動乱に参戦しました。

すると、韓国で反日大統領の開祖になる李承晩 ( イ・スンマン) は、連合国軍に加盟もしてない負け国の日本が、何で参戦してくるのかと、いちゃもんをつけ、もし、特別掃海隊が韓国の海岸に近づいたら、北朝鮮に向けた大砲を特別掃海隊に向けて、韓国軍は砲撃すると発言。60年経った今でも、韓国人の過半数は、戦争になったら、同胞の北朝鮮とは戦わず、先に日本と戦うという人が多いです。60年間も続けた子供への反日教育が徹底していますからね。昨今は、観光目的の韓国人や中国人の訪日が増え、今の日本を観てどんな風に思っているのか...ぼくには判りません。

マッカーサー元帥は、北朝鮮軍が強いのは、ソ連製の史上初の後退翼ジェット戦闘機ミグ15の戦闘能力に、アメリカ製のテーパー翼ジェット戦闘機ロッキードF-80が追い着いていないことや、日本が散々苦しめられたボーイングB29爆撃機は、ミグ15の餌食に...。ミグ15には、ノースアメリカン製の後退翼ジェット戦闘機F-86セーバーで対応できたのですが、北の背後に毛沢東の率いる中国人民志願軍(義勇軍) が支援しているとして、朝鮮戦争の早期終結には、中国の満州 ( 日本軍撤退後は中国共産党人民志願軍の軍事基地になる) への核攻撃もやむなしと、トルーマン大統領に核攻撃を進言されたんです。

「もし、そんなことをしたら、( 参戦を我慢しているスターリンが怒って ) 第三次世界大戦が起きるじゃないか!そんなこと、分からんのか?アメリカに大統領は二人も要らない。もう君は必要ない」と、日本の広島・長崎に原爆投下を米陸軍航空軍のカーチス・ルメイ最高司令官に命じて、日本国民から悪者にされているトルーマン大統領は激怒し、1951年4月11日、マッカーサーを全ての軍の地位から解任したのです。
でも、トルーマンも、解任したマッカーサーには内緒で、いざと言うときの為に、密かに核弾頭を戦略空軍の爆撃機で、前線基地近くに運ばせていたそうです。あー、おそろしい。

日本の平和憲法を作った人が、大統領に核攻撃を進言できますか?
ま、いずれにしても、国家に戦争する権利が無かったら、国家は国民を守れませんね。世界の平和な秩序を乱す、支離滅裂な国が日本の近くに出来るかもしれない。平和な国の象徴である永世中立国のスイスでも軍隊があり、徴兵制もありますよ。

ま、かなり本題から外れてしまいました。
さて、この戦争後に、中内氏は「人の幸せとは、先ず、物質的な豊かさを満たすことです」とご発言。 それは、戦争で惨めな飢餓を体験したことによるものでしょう。

1945年11月にフィリピンの捕虜収容所から解放されて帰国して復員 (兵士の任務を解除 ) した中内さんは、1948年には実弟と協力して神戸三宮の闇市で商売を始め、1957年4月に「大栄薬品工業(株)」を神戸市長田区に設立。さらに、同年9月には「主婦の店大栄 ( ダイエー ) 薬局店」を大阪市旭区千林町に出店しました。その1年後には、「主婦の店ダイエー」を神戸に出店しチェーン店展開を目指します、 販売する商品を増やし、1960年には薬品、衣料品、精肉、青果、鮮魚を扱う総合スーパー(GMS)に発展しました。

ようやく、「すき焼きを腹一杯、食ったろう」の夢が叶いますが、当時は和牛の仕入れ値段が高くて、家族揃ってすき焼きを囲むのは、終戦の傷跡や物不足の後遺症が残る庶民にとっては、まだまだ高値の花でした。
中内さんのモットー ( 目標 ) は、「安くて旨いもんをドンドン売ろう」です。
相反する論理を実行するには経営努力と流通のアイディアが必要です。 商才に長ける中内氏は、当時の庶民には贅沢品であった牛肉の値段にこだわって、自店で売る牛肉の元値を安くすることを考えられました。

1945年〜1972年までの沖縄は、米国が統治していましたので、外国から沖縄への輸入品は関税が非課税なのを知り、中内さんはオーストラリアから子牛を沢山買い付けて、沖縄で半年かけて育て、沖縄牛として日本に運び、神戸に食肉工場を建てて精肉にして販売されたのです。ぼくも牛肉の加工工場の中を仕事で撮影したことがあります。ダイエーさんの工場ではありませんが。
解体で出る細切 ( こまぎれ ) はミンチに加工すれば、ハンバーグに使えますので、ドムドムというハンバーガーショップや、肉料理をメインにしたファミリーレストランのフォルクスもオープンさせました。
和牛は高いので、安売りがモットーのスーパーでは扱えません。最近はスーパーも和牛を売っていますけど、小さくて高いので、手が出ません。オーストラリア ( 豪州 ) 産肉牛なら元値が安く、1972年までは沖縄経由なら関税無しなので、1ドル=360円の固定為替でも、安く売っても利益が出たワケです。
但し、豪州産牛肉は牧草だけで育てたものは草の匂いが残って風味がイマイチ。肉質が和牛( 飼料穀物で飼育 ) より固いので、カレーやシチューには向くけど、"しゃぶしゃぶ"や"すき焼き"には向かないと思いますよ。
でも、ラベルにオージービーフと貼られたものは、豪州産の肉牛でも「グレインフェッド(和牛と同じく飼料穀物で育てたもの)」は風味が良く、肉も軟らかくなっており、現在の日本の外食産業で使われる牛肉の殆どはオージービーフです。

日本人の殆どが肉を安く食べられるようにした、その流通革命のパイオニア (先駆者) は、ダイエーの中内さんだと思いますね。
ダイエーさんの扱う商品は、薬品、衣料品、日用品、食料品などですが、家電製品の販売を巡って家電大手の松下電器さんと対立するようになりました。

1964年、中内さんが社長の時代に、松下電器の家電製品をメーカー希望小売価格より20%割引して売り出したそうで、松下さん側は、ダイエーの不当な安売りは、ナショナルショップ (松下電器のチェーン店 現在はPanasonic ) などへの適正価格の秩序を乱す行為だとして、家電製品を卸す販社に対し、ダイエーへの商品出荷停止措置をとったので、ダイエー側は「独禁法違反」に抵触しているとして松下側を告訴したのです。

さらに、中内社長は、「合法的に仕入れたものをいくらで売ろうともダイエーの自由で、製造メーカーに文句を言わせない」と反発して、1970年にダイエーのプライベートブランドとして13インチのカラーテレビ・ブブを5万円台ギリギリで売り出して松下さんに対抗し、しかもダイエーが様々な仕入れルートを開拓して松下電器の製品を仕入れて安く売っていたので両社の対立は30年も続いたのです。 俗に云う「ダイエー・松下戦争」です。

しかし、松下電器産業の創業者である松下幸之助相談役が逝去された後の1994年に、ダイエーは松下電器と取引のあった忠実屋を合併したことで両社は和解し、ダイエーグループ店舗への松下電器製品の販売が再開されるようになったそうです。

両社が争っている最中に、松下電器の松下幸之助社長は、中内さんを招いて、松下さんの座右の銘である「共存共栄」...商品を製造する者と商品を販売する者とが「製販一体」になって儲けましょ...それが商売の王道。ところが、中内はんは覇道をめざしていらっしゃる...ここらで一考されてはどうかと話されたそうですが、 中内さんは「松下 ( 幸之助 ) さんを経営者として非常に尊敬しているが、価格決定権に対する考え方や、お客さんの利益についての考え方は、根本的に違っている」と語られたそうです。

ダイエーさんは、アメリカのセルフサービス式のスーパーマーケットを創業して間もない1960年〜1990年の30年間にかけて、主に鉄道駅前の不動産を( 銀行から借金して ) 買い漁り、イケイケドンドンの出店ラッシュで、1972年には、小売業で売り上げNo.1の三越百貨店を追い抜き、さらにバブル期に急成長し、長らくスーパーマーケットの覇者と呼ばれていたのです。

ダイエーという企業は、ワンマン社長・中内さんの人並外れた旺盛な事業欲で、本業と矛盾した高級品を扱う百貨店やシティホテルのような不慣れな事業にも果敢に参入し、ダイエーの経営が次第に本業とは関係のない事業に多角化して、グループ会社に出向させる役員の分散と新たな事業への投資が "本業の足を引っ張る" ことになってしまいます。

ダイエーさんの本業の躓 ( つまず ) きは、バブル景気の崩壊と消費 (需要) の落ち込みで、業績不振が表面化したことです。 でも、このような事は、ダイエーさんだけに限った話しではなく、他の流通小売業も同じような辛酸を嘗めている筈です。

バブル景気 とは、 日本の社会が1980年代半ば〜1990年8月頃まで好景気で経営者から労働者まで可処分所得 ( 手取り収入 ) の増加で潤っていた時期を指します。
とくに大阪は活気に溢れていました。 というのは、1985年の大阪は、日本シリーズで吉田義男監督が率いる阪神タイガースが広岡達朗監督率いる西武ライオンズを破って日本一に輝いた年だったからなんです。タイガースの活躍で、サンスポ、スポニチ、日刊、デイリーなどのスポーツ紙は飛ぶように売れました。

余談になりますが、タイガースがリーグ制覇する予感は、昭和60年4月17日、甲子園球場で神巨戦 (ナイターゲーム) が行われ、1対3の巨人リードの7回裏にジャイアンツの槇原寛己投手から、3番ランディー・バース選手 ( 3ランで逆転 ) 、4番 掛布雅之選手、5番 岡田彰布選手のクリーンアップトリオが甲子園のバックスクリーンにホームランを3連発!したんです。

1対3のスコアを6対3にひっくり返し、ネアカが多い大阪人が歓喜するのは当然でしょ。 ジャイアンツの王監督は打者に奮起を促し、9回表にクロマティー、原辰徳選手がタイガースの福間投手から連続ホームランを打って6対5に迫ったのですが、代わったクローザーの中西投手が後続打者を抑えてゲームセット。

ダイエー社長・中内さんの人並外れた旺盛な事業欲は、「野球っておもろいな。阪神強いと、ぎょーさん観客来るし...(うちの各店にも、ぎょーさん入ったらなぁ)」。阪神タイガースの人気と甲子園球場の観客の多さで、球団のオーナーになってみたくて行動を起こし、1988年に難波に本社がある南海電気鉄道から南海ホークスの株式を買収し、球団の譲渡と興行権を取得。福岡に開閉式のドーム球場やホテルを建てて、福岡ダイエーホークスを設立します。

プロ野球球団を設立するには、コミッショナーの審査があり、加盟料の納付、球団オーナー会議で全員の賛同を得なければなりません。流通小売業のダイエーさんがまともな企業だと認められた証しですね、

この時、中内社長は野球やホークスのことをよく知らないので、ダイエー社員にホークスについて詳しい奴おらんか?と訊いたそうです。すると、漫画家の、水島新司さんが詳しいということで、中内社長は「あぶさん」の作者・水島新司氏を招いて、メモを取りながら2人だけで食事して対談しています。 中内親子が球団オーナーになってホークスを強くし、パリーグの人気球団に押し上げた功績に、監督、コーチ、選手、裏方さん、球団関係者、博多のホークスファンは、オーナーがソフトバンクの孫正義社長に変わっても、中内さんには感謝していると思います。

この頃のダイエーさんには勢いがありましたね。 1988年4月は神戸市西区学園西町に流通科学大学を開学し、実学を重視して、校内にコンビニ (ローソン) の実習店舗を設置してあるそうです。中内さんは、松下電器社長の松下幸之助氏に招かれて数回会っているところから、滋賀県草津市にある実学重視の「松下電器商学院」をヒントにされたのでしょう。 さらに、同年に新幹線の新神戸駅前に「新神戸オリエンタルシティ」という、ホテル・専門店街・多目的劇場を一体化した商業施設をダイエーの資本で開業しました。 オリエンタルシティの中核になる「新神戸オリエンタルホテル」は、数年後のダイエーの債務整理で外資に売却され、現在は「ANAクラウンプラザホテル神戸」に改名されました。

バブル景気に潤った1980年代は、定期預金の利息が年利で7% ( 何年ものかは不明 ) もあって、銀行または郵貯に100万円を定期口座に入れておれば、1年後に解約すると70,000円が受け取れ、利息だけで泊り掛けの旅行ができたのですが、今は定期預金の利息が0金利に等しいので、銀行に定期預金している人は激減していると思います。

日本国内で生産される自動車や家電の輸出が円安のお陰で好調で、国内は好景気になり、当時は正社員のリストラが殆ど無かったので、収入が増えたサラリーマンは生活に余裕ができ、新車を買ったり、旅行したり、オシャレな服を買ったり個人の消費支出が増えたのです。

1989年10月、金余りの三菱地所がアメリカのニューヨーク市マンハッタン5番街〜7番街のロックフェラーセンターにある19棟の商業ビルの内、14棟のビルを2,200億円で買った事例もあり、これには日本海軍の真珠湾攻撃 (ハワイ時間で日曜日の朝・ミサの時間に攻撃) を恨んでいる米国民からのジャパンバッシングがきつかったですね。
( 零戦を造った ) ミツビシは、ハワイ攻撃の次は、ニューヨークで札束攻勢かい?・・・アメリカ様のご機嫌を損ない、結局14棟の内、12棟が売却され、現在は2棟が三菱地所の所有になっています。
現在は金余りの中国資本が、北海道の未開発地などを買い漁っており、敏感な日本人は不安に思っているでしょうね。中国人が航空自衛隊基地周辺の土地を取得...魂胆がまる分かり。

バブル期は、ゆとりのある会社経営や国民の中流意識のお陰で、企業や個人投資家は、株を売買したり、不動産売買で差益を得ようとする財テク・フィーバー ( キャピタルゲイン ) が流行って、中でも「地上げ屋」の跋扈などで好立地な物件の地価がうなぎ上りに高騰しました。これを不動産バブルとも呼んでいました。

しかし、含み益を信じて買った土地は必ず値上がりするという過去の「土地神話」は、いずれ崩れることになります。

日本のバブル景気崩壊は、中東産油国の小競り合いから始まります。
1990年8月2日、イラクのサダム・フセイン大統領が隣国のクェートと接する”油田の所有権”を巡って、イラク軍戦車部隊をクウェートに侵攻させて首都を占領します。
国連安保理はイラクに対して速やかに撤退を求めました。 しかし、サダム・フセインが拒否したので、撤退要求期限の二日後の1991年1月17日、ペルシャ湾に展開する米・英の空母艦隊を中心にした多国籍軍がクウェートに侵攻したイラク軍を空爆。これが湾岸戦争の始まりです。

小事が大事にエスカレート (油田の所有権の争いよりも イラクに核兵器開発の疑惑が浮上 ) し、やがて、"ならず者"のサダム・フセイン体制を倒すイラク戦争に拡大します。

これが、日本にどんな影響を及ぼしたのか?
日本国内では1989年12月29日の大納会で日経平均株価が38,915円 (終値) の過去最高になったのですが、1990年8月のイラクのクウェート侵攻で、日本が頼りとする中東の原油が高騰する不安が広まって、前年大納会の最高値から9カ月目の1990年10月1日に、一時2万円割れに大暴落したのです。2016年5月現在は1万6千円台・・・湾岸戦争で暴落した時よりも低い!アカン、アカン。
企業や個人投資家が財テク目的で買った株や土地の価格が軒並みに下落し、株の空売りや買い戻しなどの諸産業経済の実態が伴わない浮ついた景気の後退を後にバブル景気崩壊と呼んでいます。

さらに、1995年1月17日午前5時46分に起きた阪神淡路大震災では、震度7で阪神間にあったダイエー7店舗の内、4店が全壊し、通勤前の社員30名を失われたそうです。
当時はダイエーの子会社であった、コンビニのローソンを含むダイエー系列店も多数被災し、その時の中内さんは、東京都の田園調布の自宅におられたそうですが、3日後には神戸のダイエーに行って開店させ、自ら陣頭指揮を取って、食料品、飲料水、生活用品を手配し、ダイエーの流通ネットワーククの他に、フェリーやヘリも使って、被災場所への必要な物資の供給を迅速に行ったそうです。

2001年、中内社長はダイエーを退任。
業績が悪化し、巨額 ( 凡そ3兆円? ) の赤字を出して、2004年には、産業再生機構 (IRCJ=Industrial Revitalization Corpration of Japan:現在は機構解散 ) 入りになったそうです。
当然、赤字決算で無配になりますと、株主総会の時に株主から社長や役員の経営責任が問われ、結果的にダイエーから創業者で社長の中内さん、長男の副社長、ダイエーホークス元会長の次男が次々にダイエーやグループ会社から追放され、社長の自宅であった芦屋の別邸や田園調布の自宅は没収。

ダイエーは株式会社なので、会社に負債があっても経営者の私有財産 (自宅を抵当に入れてない場合) は、差押えを免除される筈ですが、莫大な借金が残っていたら、ダイエーさんに融資した各銀行は黙っておられないでしょう。支払能力があれば差押えになります。

結局、ダイエーさんは、取引銀行やIRCJ側の指導に従い、好立地に建っているダイエーの店舗・土地を売却して、それで借金を三分の一近く減らし、その後は売却した旗艦店の土地・店舗を借りて営業を続けるリースバック式で営業していたそうです。シャープさんの本社みたいに...。

ま、高い家賃を払って低単価の商品ばかり売っていたら、少々忙しくても、従業員さんらは骨折り損の草臥れ儲けになって、中々黒字にはなりませんわな。
スーパー覇者の体力が弱ると、後追いのライバルスーパーに追い付かれ、スーッと呑み込まれて、パーっと消えてしまいます。

ダイエーさんの最盛期には、連結売上高3兆円を超え、グループ会社を含め6万人 ( 軍隊で言えば6個師団 ) の従業員 (将兵) を抱えた、売上日本一のスーパー集団に育てられた。ある意味では、マッカーサー元帥を上回る輝かしい武勲です。(政府から勲一等瑞宝章授章)

語録の中に、「この資源のない国で、世界一豊かな暮らしを提供するためには、もっと使命感に燃えた人が必要だ」。
超人的なその偉大な創業者が2005年にお亡くなりになり、もう11年が経ちました。 ダイエーさんが、ライバルのスーパーに買収統合されるというウワサは、小耳に挟んでいたのですが、それが、店舗入口に張り紙で知らされると、「やっぱり、そうやったのか」と...TOB=株式の公開買い付けでの企業買収が当たり前のご時世であっても、大阪人にとっては、親しみのあるスーパーの屋号や看板が外されたのはショックでしたね。

5月に入って、食品売場の様子 ( 商品展示の方法やプライスカード ) は "イオン風に" 変わりましたが、レジが混むと、レジ要員の応援を呼ぶBGMの童謡 "おもちゃのチャチャチャ" が鳴りだします。
地下の食品売場では、新顔店員さんの方が多くなりました。イオンさんのWEBサイトでは、ダイエーの事業を承継と書かれていますが、雇用まで継続とは書いてありません。

お出かけ日和のゴールデンウィークの最中、最近気になった出来事をあれこれ思い出して長目のブログになってしまいました。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理 (ことわり=筋道) をあらはす... 驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛 (つよ) き人もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ

ところで、ダイエーを完全子会社にしたイオン リテールストア... リテールストアとは、一般消費者への小売業を意味し、イオンという社名「AEON」は、ギリシャ語では、"永遠"という意味らしいです。
イオンさんが今後、出戸店をどのように発展させていかれるのか、サービス向上を期待したいです。

2016年5月5日 初稿 5月28日 更新 尾林 正利

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