はじめに、「ぼくの愛機」のページは、以前に掲載していた「Nikon Fについて」のアクセスが非常に多く、100ページを超えるコラムのページは2005年頃に廃止にしましたが、人気のあったページは編集し直して作例写真も数枚増やしました。これからも「わが愛機」のコーナーをよろしくご愛読のほどお願い致します。
さて、ぼくが、写真のカメラマンになりたいと思ったキッカケは、写専(しゃせん:日本写真専門学校※現在は日本写真映像専門学校)の在学中ではなく、写専を卒業した後でした。
初就職が京都市下京区の河原町四条の近くにあったテレビCMの制作会社だったので、仕事が定時に終わるような日は、夜の7時〜8時頃にかけて河原町通りでウインドウショッピングを楽しみました。
京都は大阪よりも欧米の観光客が多く、そんな中で、京都へ取材に来ていた外人の報道カメラマンのカッコ良さに憧れたからですが、その時、彼が持っていたカメラがNikon
F(アイレベルファインダーモデルのブラックボディ)だったのです。
カメラマンって、格好いい人もいてるんやなぁ、ぼくもあんな風になりたいと思いました。
でも、その人がライカM3やNikon SPを胸元にぶら下げていたら、カメラマンになりたいとは思わなかったでしょう。ぼくは、一眼レフしか好きになれなかったからです。
なぜなら、ぼくにとっては、二重像合致式のピント合わせやパララックス(視差)のある距離計連動式のレンジファインダー機が扱いにくく、透視ファインダーのガラス面は、手の指紋などで汚れやすいこともあって、一眼レフの方が好きだったからです。
とくに一眼レフカメラは、装着レンズのボケ具合やピントの山が確かめられるでしょ。また、レンズにキャップ付けたままで撮影するポカも、一眼レフでは起こらない。
だから、「カメラを買うなら一眼レフ」。
この考え方は、デジタルカメラの時代になってきた昨今でも変わっていません。
但し、4×5インチ判のサイズで撮影する場合は、距離計内蔵のスーパーテヒニカを使う場合もありましたが。
一眼レフと言えば、二眼レフカメラもあるわけで、写真学校時代に、写真とは関係のないアルバイトをして二眼レフのマミヤC3も購入して使ったことがありますが、近距離撮影ではパラパックスを配慮しなければならず、やはり、ぼくのような広告写真を撮るようなカメラマンは、一眼レフの方が仕事がしやすいですね。
東京オリンピックは昭和39年に開催され、東海道新幹線も開通しました。
開業当初は、超特急の「ひかり(0系)」でも、東京〜大阪間は4時間も掛かっていました。ぼくがちょうど二十歳の時でした。
日本が欧米先進国と肩を並べて歩みだした昭和40年代の始め頃、つまり、ぼくが駆け出しの頃は、広角レンズを使って撮影する時は、Nikon
SPで、望遠レンズを使って撮影する時はNikon Fで、というような組み合わせが、裕福なカメラマンでは基本になっていたようです。
しかし、その後、バックフォーカスを長くできるレトロフォーカス型の超広角レンズの設計技術が進むにつれ、ミラーアップなしでもNikon
Fに取り付けられる超広角レンズ・Nikkor Auto 20mm f3.5も昭和45年頃に発売されたので、35mm判のレンジファインダー機は、1970年代になって、急激に衰退していきました。
35mm判の距離計連動式レンジファインダー機は、距離計の基線長の制約から135mmまでしか望遠レンズが使えず、Nikon
S用のNikkor 250mmや350mmを使う時は、専用のミラーボックスが必要でした。残念ながら、ぼくはNikon
S用の250mmや350mmの望遠レンズとミラーボックスの実物は見たことはありませんが、ライカ用のビゾフレックスなら見たことがあります。望遠レンズを頻繁に使う方なら、最初から一眼レフを買った方が、安くついて合理的ですね。
今なお、シャッター音の静かな距離計連動式レンジファインダー機をこよなく愛用されている方々の中には、ぼくのように広告写真を撮影する立場から考えたカメラ選びには、異論や反論もあるでしょう。
カメラは、ある程度の汎用性を視野に入れながら、カメラマンの撮影意図に合ったものを選べばいいわけです。最初は人の真似でカメラを買っても、後になって自分の撮りたいものに適したカメラに買い替えても、カメラに対する知識が深まって、無駄にはなりません。
ぼくなんかは、小型カメラに関しては、Nikon FやF2を多数所有しながら、飽き性も手伝って、Canon A-1,
Canon new F-1や高価な Canon HS F-1にも手を出し、随分カメラやレンズの無駄買い?をしましたが、後悔は全くしておりません。
第二次大戦後のパリで、奥深いスナップ写真(人生の機微を捉えたもの)を撮るので有名な、アンリ・カルチェ・ブレッソン氏が、距離計連動式レンジファインダー機のライカを愛用していたから、フォトジャーナリストならライカを使えとか、ニューヨークで活躍していた、広告写真界の才人、リチャード・アベドン氏が二眼レフのローライフレックスを愛用していたから、コマーシャルフォトのプロなら、ローライを使えとか
言うような考え方は非常に短絡的ですが、自分の目指す写真の分野で、お手本になる写真家がどんなカメラを使って仕事をしているのかは、一応、知っておいた方がカメラ選びの参考にはなるでしょう。
35mm判一眼レフの中で、Nikon
Fを選んだ理由は?
ぼくが二十歳の頃に、Nikon Fを買う動機を与えてくれた外人のカメラマンは、どのような方なのか存じませんが、Nikon
Fを買いたい時に、Nikon Fのシステムが既に完成されていたことには、大変感謝しております。
カメラマンという職業に就くには、いい時代に生まれてきて良かったなぁとつくづく思います。
現在では、仕事で使うカメラの選択肢がだんだん狭くなってきて、プロ用小型カメラのジャンルでは、Canon派とNikon派になってしまいましたね。
これは、プロ用デジタル一眼レフでも同様のことが言えます。
ぼくが昭和40年の春、20歳の時でしたが、Nikon Fを買う前に、実はCanon Pellix(キヤノン ペリックス)にも大変興味があって、京都市の中心・河原町四条にあるカメラ店の「三条サクラヤ(四条店)」のウインドウに鼻を擦りつけて、どちらにしょうかと迷っていたのです。ぼくは写専に入る前までは、日本光学(正式には日本光学工業。現在の名は、ニコン)という名は全く知らず、世界最高のカメラはキャノネットEEと信じていた「超ド素人」だったのです。
写専に入る前までは、自宅にあったカメラと言えば、兄が使っていたマミヤ・メトラ35しか触ったことがなかったのですが、キャノンさんは全段の新聞広告でド派手なキャノネットの広告(カメラより、猫の写真が印象的。猫の瞳は、周囲の明るさに応じて丸く膨らんだり、楕円形に細くなったりするのをカメラのEE技術に応用したもの)を頻繁に広告していたので、「一流新聞に全段(15段)の広告を出す」→「一流企業」→「一流の製品」という三段論法と、キャノンさんの広告コピーを担当していたコピーライターの魔術にぼくは洗脳されて、いつの間にか、キャノネットEEというか、キヤノンカメラは世界の一流品と言う風に、ぼくの頭の中に刷り込まれていったのです。
キヤノン製のカメラを一度も使ったこともないのに、一流新聞に掲載される新聞広告を見ただけで、一流品だと思い込んでしまう単純さには、恥ずかしく思ってしまいます。
因みに、ぼくは今までNikon Fの新聞広告は一度も見たことがありません。
ただ、ぼくが青春時代に愛読していたリーダーズ・ダイジェスト(日本語版)には、日本光学は積極的に宣伝していました。
アメリカでは、"ニコン(Nikon)"を"ナイコン"と発音するカメラマニアやカメラマンが多かったらしく、「ナイコンと呼ばずに、ニコンと呼んで下さい」という広告を何度も見たことがあります。スポーツ用品の製造で有名なアメリカの「NIKE」ブランドは、ニケとは言わず、「ナイキ」って発音しますからね。
ところが、2007年のNikon D80のテレビCMを見ていると、スマップの木村拓哉君がバーのようなところで席に座って、D-80に頬摺りしていると、外人のバーテンダーが「Is
that Nikon?(イズ ザット ナイコン?:それ、ナイコンなんだろ)」。ニコンと呼ばずに敢えてナイコンと発音させています。
木村君が「Yes It's my treasure(うん、ぼくの宝物なんだ)」と答えているではありませんか...。Nikonさんは、再び、昔の佳き時代を復活させようと、ナイコンと呼んで欲しいのかな。
リーダーズ・ダイジェスト(日本語版)に掲載されて印象に残る日本光学の広告と言えば、
「飛行機事故の墜落現場の焼け跡から、火炎の痕が付いたNikon Fが発見され、シャッターを切ってみたところ、正常に作動しました。それで、カメラに入っていたフィルムを慎重に取り出して現像してみたところ、画像が現れ・・・」というような主旨の
雑誌広告を思い出します。昔のことなので、文脈の前後まではハッキリと記憶していませんが、当時のぼくは、この広告を"ニコン神話"の作り話やと思っていました。
ところが、2004年頃のテレビ番組で、紛争地帯で亡くなられたフリーのフォトジャーナリストのドキュメントが放送され、失礼ながらビールを飲みながらボーっとして観ていたのですが、彼の遺品、Nikon
F正面のシャッターボタン側に銃弾が貫通しており、その映像を見て、酔いで霞んでいた目がパッと覚め、ぼくは絶句してしまいました。それと同時に、今時、Nikon
Fを使って仕事をしているような方がいらっしゃるというのも、驚きましたが。
その方の写真展で、銃撃されたカメラも展示するので、ご遺族の方が壊れたカメラの中にフイルムがまだ入っているので、彼が亡くなる直前に何を写していたのかを調べて欲しいということになり、富士写真フィルムの特別チームが、慎重にネガ現像とプリントをすることになりました。
彼が亡くなってから、かなりの時間が経過し、カメラボディに大きな穴が開いているので、巻き取り軸に巻き取られたままのネガは、ムキだしの状態です。しかも、Nikon
Fは露光済みフィルムの乳剤面を外巻きするので、撮影済みの生フィルムは完全にカブッている筈ですが、巻き取り軸に差し込んだ方の最初の1コマに、ぼんやりと猫が写っていたのです。猫好きな彼は、異国の戦地で猫を写していたのです。
戦地取材のフォトジャーナリストと作品云々については、このページでは触れませんが。
墜落現場で発見したNikon Fの広告は、神話ではなかったのです。
Nikon Fは、昭和34年(1959年)から発売され、昭和38年に入学した写真学校の生徒の中でも、十数人ぐらいは、Nikon
Fを持っていたように思います。
当時の35mm判一眼レフとして、プロが待望する殆どのニーズを実現させた画期的なカメラでした。カメラボディのベースモデルは、Nikon
S3やSPなのですが、SPにミラーボックスを組み込んだだけのカメラではなく、日本光学の社運をかけた新技術が投入されていました。
主な仕様
1、ミラーアップも可能なクイック・リターン・ミラーの搭載
2、露出計連動爪を採用した完全自動絞りの交換レンズ(深度確認用の絞り込みボタン付き)
3、35mm一眼レフカメラに初めてのズームレンズを発売
4、露出計と連動するフォトミック・ファインダーと交換可能(後にTTL測光が可能)
5、目を6cm離しても全視野が見られるアクションファインダーと交換可能。
6、ファインダー・スクリーンの交換可能
7、スピードライト(ストロボ)同調に対応(60分の1秒以下)
8、別売りのモータードライブと脱着可能(250枚撮り長尺フィルムマガジン仕様もあった)
9、耐久性のあるチタン製のシャッター幕採用。
10、フィルム巻き戻しによる多重露光が可能(シャッターボタンが回転し、赤マークを刻印)
11、アイレベルファインダー付きの標準モデルは、電池不要で稼働。
12、視野率100%の光学ファインダー。
13、現像済みフィルムをカットする時、パーフォレーションがカットされない。
等々と、最初から完成度が高いカメラでした。シャッターダイアルの目盛りの色分けや、レンズ絞りと被写界深度の色分けもグッドアイディアだと思いますね。
Nikon Fの外観をデザインしたのが、「東京オリンピック公式ポスター」を手掛けた、日本の代表的グラフィックデザイナーの亀倉雄策氏(1915-1997)だそうで、Nikon
Fのカメラデザインも東京オリンピックのポスター(写真は、早崎 治氏)デザインも、ぼくの気に入ったデザインです。
カメラの設計は、日本光学第一設計部の更田正彦(ふけた まさひこ)氏だと言われています。
Nikon Fのライバル、Canon Pellixは、もっと凄かったのです。
「瞬きしない一眼レフ、だから、シャッターチャンスは見逃さない」
通常の一眼レフは、シャッターボタンを押した瞬間にミラーが跳ね上がって、ファインダーが一瞬、遮光されて真っ暗になり、フィルムに写っている瞬間像がファインダーでは確認ができません。これは、長年の勘に頼るしか仕方がありません。
キャノンさんは、半透明のペリクルミラーを他社に先駆けて自社開発し、それをCanon
Pellixに搭載して、フィルムに写された瞬間像をファインダーで確認できるようにしました。凄いアイディアでした。
もちろん、いつものように「新聞広告」で、ド派手な全段広告ですわ。「瞬きしない一眼レフ」のキャッチコピーには、ぼくはグラッときましたね。
しかし、長所の裏には短所ありで、いいことづくめでないのが世の常です。
一眼レフカメラに半透明のミラー(ハーフミラー)を固定することによって、シャッターを切った瞬間の被写体の様子が確認でき、ミラーショックも無くなり、カメラブレが少なくなる長所があるものの、ハーフミラーによって、ファインダー像はやや暗くなり、フィルム面に達するレンズの光量は、ミラーで一部が吸収されて、3分の2段ほど光量が落ちます。つまり、開放F値の暗いレンズは使い辛いことになります。また、ミラーに大きな傷やホコリが付着すると、画質に影響します。
シャッターチャンスを優先するか、使いやすさを優先させるかを比べると、ぼくにとっては、Nikon Fの方が役に立つだろうと判断して、買うことを決めたのです。
ところで、当時、初就職した京都市内の映像プロダクションで映画キャメラマンの助手をしていたぼくが、Nikon
Fを買ったことを、勤務先の社内でうっかり口を滑らせてしまったので、
ぼくの師匠が、
「おまえなぁ、助手の分際で、Nikon Fを買うなんて、何ちゅうこっちゃ。会社のペトリ(ペトリV型)でも、まともな写真撮れんのに...、ちょっと、オレに貸せや」。
「えーっ、貸すんですか?...まだ、ぼく、使ってませんのに」。
「厭か?...あっ、そ〜ぉ」。
師匠の目には、
「厭やったら、ARRI(35mm映画キャメラのアリフレックス)の使い方、教えたれへんで」。
と、言っているようなので、立場の弱いぼくは、買ったばかりで一枚の写真も撮らない内に、師匠にNikon Fを貸してしまいました。バカですねぇ、ぼくは。
これが間違いの元でした。飲んべえの師匠は、スナックのツケが溜まっていて、ぼくの想像では質屋へぼくのNikon
Fを質草に持って行ったようで、一月半経っても返してくれません。
段々不安になってきて、返却を申し出ると、給料日の数日後に戻ってきました。
よく、考えれば、質屋に保管されている方が「未使用の状態」で、その方が良かったかも知れませんね。
二回目は、知り合いが故郷に帰るので、カメラを貸して欲しいと言われてNikon
Fを貸したところ、カメラが ボコボコになって返ってきました。50mm f2の前玉が割れて、ボディも大きく凹んでいて修理不能の「全損」状態でした。一体、どんな落とし方をしたんだろ。きっと、展望台なんかに登っていて、カメラが肩から滑り落ちて、数十メートル下に落としたんでしょうね。
このように、一番最初に買った一眼レフ、Nikon Fのブラックは、ぼくが殆ど使わない内に、半年で廃棄処分になってしまいました。
あ〜ぁ。/(@_@)\
カメラは、他人に貸すものでないということが、身に滲みて分かりました。とくにプロ用カメラは...。
ぼくは、気を取り直して、すぐ、Nikon F(白:実際はシルバー)一台と35mm
f2.8、50mm f2、135mm f3.5を買いました。
そして、当時知り合った、ぼくより二周りほど年上のアマチュアカメラマンのF氏と一緒に、阪神パークへ「スナップ写真」を撮りに行きました。大先輩は、ぼくの持ってきたNikonを見るなり、
「君のレンズの揃え方は、おかしいで。Nikon Fを買ったら、最初は、28mm、50mm、105mm.200mmと揃えるのが常識や。最初から、35mm、50mm、135mmと揃えるのは、中途半端やで」。
と言われてしまいました。
ぼくは、ちょっとムカッとしましたが、言われてみればその通りで、ぼくは後で、35mmと135mmを下取りして貰って、28mm
f3.5と105mm f2.5に買い替えました。これが精一杯で、F氏のように200mm f4まで買い揃える資力はなかったです。
28mm f3.5レンズは、シャープさが足りませんでしたが、105mm f2.5レンズはシャープで、大口径でありながら逆光にも強く、素晴らしいレンズでしたね。Fさん、教えてくれて有難う。それと、35mm判の105mmという焦点距離は、フレーミングしやすい画角です。とくに後から発売された、
Micro Nikkor 105mm f2.8レンズの描写は大変素晴らしく、MF用レンズ、AF用レンズ共にぼくの大好きなレンズの一つになりました。
昭和41年に京都へ通勤していたテレビコマーシャルの制作会社が倒産して、その後半年ほどのアルバイトを経て、ぼくは大阪の広告制作会社に勤めることになりました。新聞の求人広告では、カメラマン募集のことだけしか書いてなかったのですが、面接に行くと、採用条件は、Nikon
F一台と交換レンズを3本以上所有してることが必須だったので、二十数人の応募者を抑えて、ぼくが運良く合格しました。
もし、ぼくがNikon Fじゃなく、Canon Pellixにしていたら、例え腕が良くても不合格でしたね。
Nikon Fを壊された後、気を取り直して、すぐにNikon Fを買った。そして、レンズも3本も買った。
その心意気と決断が、ぼくを救ってくれたのです。人生って、諦めてはいけませんねぇ。