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フィルムカメラでの仕事

グラフィックデザインの仕事も一部掲載

写真展用に撮ったものです。撮影年は1973年(29歳)頃で、このようなインスタレーション (自分が創作したオブジェを適当な場所に配置し、効果的なライティングして人に見せる芸術活動) のスタジオ撮影を得意にしていました。
木箱は、ホルンに釣り合う大きさに、撮影小道具などを制作するW氏に依頼しました。スタジオに設置した調光機の電圧を70Vにしてスポットライトなどの色温度を下げ、色調を意図的にセピア調にしました。カメラはリンホフ スーパーテヒニカV4×5です。レンズはシュナイダー製ジンマーW240mmを使用。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome typeB (ISO50のタングステンライト用) です。

写真展用に撮ったものです。撮影年は1968年(24歳)頃で、このようなイメージの撮影を自宅でも撮ってました。キーライトは窓から差し込むカーテン越しの太陽光ですが、その光だけでは、円いテーブルの下が暗くなるので、カメラ下の三脚に銀レフを立て掛けて、ブルーコーティングされた500Wフラッドランプでレフ板を照らしました。カメラは、アサヒペンタッククス67です。SMCタクマー105mmレンズ使用。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome (ISO64のデーライト用)を使用。

JPS展用に撮ったものです。撮影年は1987年(43歳)で、初めて応募して「奨励賞」を受賞しました。
大阪市北区のマキシムスタジオで撮りました。キーライトは右からサイドライトで2KWのソーラースポットライトです。カメラは、リンホフスーパーテヒニカV4×5です。FUJINON W210mmを使用。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPY (ISO50のタングステンライト用)です。

写真展用に撮ったものです。1973年(29歳)頃で、友人をモデルにして、ドーランを塗ってもらい、燃える男を表現してみました。背景は電気掃除機に吸わせたタバコの煙です。ドライアイスではこんな煙はでませんよ。背景のライトには舞台照明用の赤フィルター (プラステート) を装着し、左サイドから生のスポットを当てています。当時はチャレンジ精神が旺盛でした。カメラは、アサヒペンタッククス67です。SMCタクマー105mmレンズ使用。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome typeB (ISO50のタングステン用)です。

1987年の「尾林正利 フォトイラストレーション展」用に撮ったものです。43歳の頃でぼくがピークの歳でしたねぇ。カメラは、アサヒペンタッククス67です。SMCタクマー105mmレンズ使用。ライティングは、1200W/sのバルカー社製ゼネレータを3台使ったストロボライトです。数灯のライトヘッドに舞台照明用カラーフィルターを装着しています。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPR (ISO64のデーライト用)です。

個展用に撮ったものです。タイトルは、ずばり、「Textbook (教科書) は、書き換えられる」
これはインスタレーション作品です。金槌や釘、本を自作して視線を導入する効果的なライティングをしていますので。掲載したのは、4枚組写真の内の1枚です。撮影年は1986年(42歳)です。

当時は、近隣国から日本の教科書にイチャモン付けられることは無かったのですが、今なら、金槌が中国で、曲がった釘が某国で、教科書が日本と考えれば...。
こういう作品はノーマルで撮ってはインパクトが足りないので、撮影時に印刷会社が使う砂目スクリーンを効果的に利用しました。
ぼくも風刺を込めた写真を20代〜40代には時々撮っていましたよ。東京・大阪の富士フォトサロンで個展を開いた時、来訪者から一番最初に製作意図を訊かれた作品です。
カメラは、リンホフスーパーテヒニカV4×5です。FUJINON W150mmを使用。

製版フィルムも必要なので、使ったフィルムは2枚です。コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPY (ISO50のタングステンライト用)に、漫画家が使う「スクリーントーン」のサンプルから最適な砂目スクリーンを選び、ベルギーのアグファ-ゲバルト社製のリスフィルムで複写して、富士フイルムさんの印画紙現像液コレクトールで現像済みのリスフィルム(ネガ版とポジ版)を制作してポジ版を生のエクタの上に重ねてシートフィルムホルダーに入れて撮れば、カラーでも、モノクロのトライXで撮ったような粒子の荒れが表現できるんです。ぼくはアルバイトで"ラボマン(暗室作業者)"を経験していますから、そういう経験も活かしたワケです。

個展用に撮ったものです。撮影年は1986年(42歳)です。ホオジロザメとノコギリザメは、凄い武器を持っています。人間 (国家) というのは、強い武器 (兵器) を持てば、どっちが強いか喧嘩 (戦争) したくなります。
1968年に日本で公開された、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」...、
類人猿が"モノリス”から骨を武器にする知恵を授かり、水場争いの喧嘩に勝ったボスのヒトザルが喜び勇んで骨を空中に放り投げると、それがスペースシャトル「ディスカバリー号」に入れ替わる演出は、日本神話を信じる農耕民族の日本人には発想できませんね。
カメラは、リンホフスーパーテヒニカV4×5です。FUJINON W150mmを使用。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPY (ISO50のタングステンライト用) です。

1980〜1982年の正月休みに能登半島へ3回ドキュメンタリーを撮りに行きました。ロケハン中に珠洲市の海岸空き地でシュールな光景を偶然発見して撮ったものです。ガラクタなどをアートにすることをダダイスムと言いますが、それが目的ではなかったのですが、既成芸術の価値観を変えてしまおうとする、JAZZやロックミュージックなどのレコジャケ用として、画像処理に工夫しました。カメラは、Canon new F-1でレンズは、new FD24-35mm f3.5Lです。今回はAdobe Photoshop CSを使って荒々しさを強調しています。(砂目スクリーンは使っていません)
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのHigh-Speed Ektachrome (ISO160の高感度デーライトタイプで2段の増感現像) です。

昨今はビールのコマーシャルで、背景をモノクロ映像にして、ビールの部分だけカラーにしたテレビCMを見掛けますが、現在は動画のCGが発達して合成がカンタンになりました。ぼくは商品の置く背景をカラースプレーでシルバーに塗装して、商品をそのまま配置しました。当時はPhotoshopが未だ無く、1988年に撮った合成無しの一発写真です。
「こんな汚いところに我が社の製品を置くな!」と叱れそうですが、仕事終わりのビールは、どんな場所で飲んでも旨い...そんな、身勝手なコンセプト (見解) で写真にしました。カメラは、リンホフ スーパーテヒニカV4×5です。レンズは、FUJINON W150mmです。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPY (ISO50のタングステンライト用) です。

ぼくはオランダ版画家、マウリッツ・エッシャーのメタモルフォーゼ (変容) の循環をテーマにした、"だまし絵"が大好きで、それをヒントにフォトイラストレーションにしました。
一本の絵の具のチューブには、一色しか入っていませんが、全色入ってたら面白いだろうなと思いつき、チューブだけ美術さんに作って貰って、チューブと背景のエアーブラシはぼくが塗装しました。
絵の具は、黒を入れなくても全色混ぜると黒に近づくのですが、そんな理窟はどうでもいいんです。アイディアと見た目が面白ければいいのです。

カメラは、リンホフ スーパーテヒニカV4×5です。レンズは、FUJINON W150mmです。
この作品には、ベルギーのアグファ社製リスフィルムに複写した砂目スクリーンを撮影時に使っています。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPY (ISO50のタングステンライト用)です。

昨今は、夜間に大阪城や東京駅の外壁に大型のプロジェクターで映像を映写するパブリックビューイングが流行っています。映写スクリーンは平面でなければならない...だれがそんなことを決めたのでしょうか?
ぼくは、マルチイメージに使うKODAK社のカローセルS-AVプロジェクターを2台使って、実験的な作品を1986年に制作しました。

映写機には、ぼくがエアーブラシを駆使してカラーパターンを制作し、それを35mmのスライドにして凹凸のある被写体に映写しました。つまり、映写機がキーライトなんです。これも、見た目がきれいでアイディアが面白ければいいのです。これも、パターン映像がぼくの自作なので、インスタレーション作品です。
カメラは、リンホフ スーパーテヒニカV4×5です。レンズは、FUJINON W150mmです。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPY (ISO50のタングステンライト用)です。

最近は全然行ってませんが、大阪市から北にある吹田市江坂に東急ハンズが出来たとき、ぼくはよく通って発泡スチロールなどの素材を買っていました。そこで、東急ハンズで買った既製品だけで作品を制作することにしました。ちょっと、イージーですが...。上の写真は4重露光の作品です。

先ず1回目は、窓の向う側は黒のベルベットの布で隠し手前だけライトを当てて撮影します。人物像の目の光はピンスポットライト2台に黄色のフィルターを付けてライティングします。
2回目は、手前のライトを消して、窓の向う側の人物像だけ、精密なライティングして撮影。
3回目は、白のバック紙を降ろして背景だけをカラーライティング (グラデーション付き) して、月の写真(Canon FD 800mm f5.6で撮ったもの)をスライド映写機でバック紙に映写して撮影しました。そして最後に自作の手描きパターンを複写して、現像所にフィルムを渡します。
カメラは、多重露光の操作がしやすいトヨビュー45Gを使用。レンズは、FUJINON W150mmです。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPY (ISO50のタングステンライト用)。

上の作品のバリエーションです。上と同じく自作の手描きパターンと二重露光して絵画調に仕上げました。
カメラはトヨビュー45Gです。レンズは、FUJINON W150mmです。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPY (ISO50のタングステンライト用)です。

上の作品のバリエーションですが、これは、オブジェを作って白く塗り、オブジェを考えて配置し、効果的なライティングをしていますので、インスタレーション作品です。レコジャケ用に撮影しました。

撮影方法を解説しますと、レンズをf32に絞り、シャッタースピードはタイム(T)にします。最初は被写体に当てているライトを全部点灯し、シャッターを切ってから、調光機の電源スイッチを黄色のピンスポは3秒でOFF、下から照らしている赤のスポットは5秒でOFF、ブルーのライトは30秒でOFF、カメラのシャッターを閉じます。つまり、カメラで露出を制御するのではなく、ライトのON/OFFで露出制御するワケです。
カメラは、トヨビュー45Gです。レンズは、シュナイダー製 ジンマー240mmです。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPY (ISO50のタングステンライト用)です。

個展用に撮ったものです。撮影年は1987年(43歳)です。ベルギーのシュルレアリスム画家、ルネ・マグリットの作品をヒントに時間経過の記憶を一つに表現したものです。記憶の扉を開けると...。ご自由に想像なさって下さい。
カメラは、リンホフスーパーテヒニカV4×5です。FUJINON W150mmを使用。プロジェクターにカローセルS-AV使用。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome EPY (ISO50のタングステンライト用) です。

JPS展用に撮った「自筆鳥獣戯画」という4枚の組写真の作品です。撮影年は1989年(45歳)です。努力が認められて「奨励賞」を受賞しました。
スケッチはロケ前にトビウオだけをスタジオで描き、実際にトビウオ漁が行われる鳥取県の山陰海岸で、海を見ながら海と空の背景を描きました。
カメラは、撮った写真をスタジオで自作の手描きパターンと現像前に合成するため、重いトヨビュー45Gと、重いジッツオ三脚を海岸に運んで撮りました。FUJINON SWD 90mmを使用。風が強くて、ぼくが描いた絵が何回も落下し、助手無しの撮影には意外と苦労しました。撮影日は快晴の土曜だったので、目の前のビーチには水泳客がおられたのですが、本番撮影中は5分間だけ、協力して頂きました。
フィルムは、富士写真フィルム製カラーリバーサルフィルムのFujichrome RDP(ISO100のデーライト用)。

フォトイラストレーション (本来はエアーブラシで描いた超精密画) は、写真と絵画の融合です。
写真家という固定観念に属さず、絵も描けて写真も撮れるアーチストがスタジオでスケッチを描いて、ロケ撮影するときに未完成のスケッチブックを持参して現場の風景に合わせて未完成の背景を描き足し作品にするものです。
ロケ前にトビウオやリス、兎と貂 (てん) 、カワセミやフクロウを描き上げ、海の生物や山野に鳥獣が棲んでいそうな場所を探しました。
現場で絵(イマジネーション:想像描写)と写真(リアリズム:現実描写)をボーダーレスして一体化する"トッポ流 (トッポはぼくの渾名)”の芸術で、世界中で、こんな面倒な撮影をしていたのはぼくだけでしょうね。もちろん、インスタレーション作品です

JPS展用に六つ撮ったものですが、この作品は出品せず非公開です。撮影年は1989年(45歳)です。ロケ前に兎と貂 (てん) を描き上げ、兎がいそうな場所を探してスケッチブックを置き、兵庫県山奥の撮影場所で色鉛筆を使って背景を仕上げました。
カメラは、トヨビュー45Gで、FUJINON SWD90mmを使用しました。
フィルムは、富士写真フィルム製カラーリバーサルフィルムのFujichrome RDP (ISO100のデーライト用)。

作品展用に撮ったものです。撮ったのは1973年(29歳)です。当時のぼくはスタジオ撮影を得意にしていて、自分で背景を考え。必要な小道具を買ってきて、絵コンテに描いて撮影しました。ブラインドの影を作るのは、お日さまでなく、5KWのソーラースポットライトです。影になるブラインドも自製です。カメラは、4×5インチ判カメラで、リンホフ スーパーテヒニカVにシュナイダー製のジンマー240mmを使っています。
フィルムは、コダック製カラーリバーサルフィルムのEktachrome typeB (ISO50のタングステンライト用)。

プロカメラマンになるまで...

ぼくが初めてのアルバイトでお金を貰ったのは、昭和36年(1961年)高校2年生の夏にした、電電公社(日本電信電話公社:1985年に民営化・現在のNTT)の仕事でした。
仕事の内容は、公社のオフィス内ではなく、公社が行う電報配達のサービスエリアに入る賃貸の集合住宅などに訪問して、大家さんや管理人さんから同居人の名前をお尋ねして、調査することでした。

現在なら、住民調査の仕事などは、市役所の管轄だと思うのですが、世の中には、何らかの事情があって、住民登録しない人や出来ない人もおり、当時は、速達よりも緊急を要する電報配達のために、どうしても最新の住民情報が必要だということで、10日ぐらい炎天下に汗だくになりながら自転車を漕いで調査しました。
今で言うと、時給900円ぐらいの仕事でしょ。
現在も電報配達なんて、やっているのかな?

このアルバイトで、いくら貰ったのかは全く憶えていませんが、ちょっぴり稼いだお金の使途は、おそらく近鉄電車に乗って、阿部野橋駅近くのアポロ座で好きな洋画を観たように思います。

そして大学受験...。どういう大学か、よく調べもしないのに、漠然と京都美大に憧れて、デッサンの勉強も全然せずに、美大の図案科に受験したのですが、デザインの試験を受ける前に、先ず、一般教養の学科試験が今出川通りにあった同志社大学で行われ、20人の応募に400名が受験し、学科試験の問題は易しかったので、通ったと思ったら、そこで落とされてしまいました。

長い間、鉛筆や毛筆で絵の描き方を学ぶのに、物理とか数学なんて美大の実技に必須なのかな?と、30年間ほど疑問に思っていたのですが...53歳から、Apple社のパソコン、PowerMac9600を使って分かったことですが、Adobe Illustratorで絵を描いたり、パッケージの展開図をデザインをする時には、数学の知識も必要だということがわかりました。

グラフィックデザインに近い仕事で、手に職を持たなあかんということで、新聞広告や雑誌広告には必ず写真が使われるから、手っ取り早く写真の知識を身につけるために写真学校に入りました。18歳の時は、写真には全く興味はなかったのですが、兄の薦めで受験することにし、ここも簡単な筆記試験がありましたが、スーッと入れました。

専売公社(今のJT)が、1952年(昭和27年)から販売することになった、ピースのパッケージデザイン料に、アメリカのデザイナー、レイモンド・ローウィー(実際はフランス人のレイモン・レヴィ:Raymond Loewy) に100万円も払った(実際は150万円)という話を高校生の時に知ったぼくは、デザイン料に100万円が貰えるようなグラフィックデザイナーに憧れていました。昭和27年当時の日本の総理大臣の月給が11万〜12万円の時代ですから、とんでもない金額です。

写真学校に入ったものの、18歳になるまで写真を撮った経験が全くなく、カメラの名前はキャノネットEEしか知らず、超ド素人だったので、学校では写真の予備知識がなくて、

級友:「シャッターボタンを押してみて」
ぼく:「シャッターって何?」
級友:「えっ!?」

写真学校にはカメラ好き、写真好きの人、写真館の跡継ぎをするような青年たちがプロの写真家になりたくて、授業を受けにやって来ます。だから、カメラや写真に対してのベーシックな予備知識が備わっているワケです。
だから、「シャッターって何?」と聞くのは愚問で、写専入学時のぼくは、全く知らなさ過ぎて、後で考えると、赤っ恥のかき通しでした。

しかし、それが却って幸いしたのです。ぼくの頭の中は新品のパソコンと同じだったのです。パソコンは、OSやアプリがないと、プログラミングの知らない素人では動かせません。写真学校で学ぶ、写真に関する専門的な学科知識と、撮影実技や現像処理実技の習得プログラムが、ぼくの脳味噌の空きスペースにインストールされたわけです。ぼくの描いた絵は我流ですが、写真は、2年間も日本写真専門学校に行って学んだものがベースになっています。

しかし、それなりの、決して安くはない授業料払って写真のイロハを習うからには、学んだ費用と時間を早く取り戻すため、写真で稼がなあかんということで、母の許しを得て、自室を暗室に改造して、簡易なテーブルトップの撮影と、半切のバット三個と富士B型引伸機を置けるテーブルをこしらえて、モノクロ写真のDPEを自宅で出来るようにしました。

そうしたら、まだ一人前になってないのに、知り合いのおじさんから、いきなり貝細工の商品サンプルの撮影とプリントを頼まれ、撮影費(プリント料込み)で3000円(当時の大卒公務員の初任給が大卒で2万円前後)貰いましたが、現金でなく三和銀行(現在は三菱東京UFJ銀行)の小切手で、自転車に乗って30分もかかる藤井寺駅前の三和銀行で換金してもらいました。これは、時給計算ではなく、撮影料という「報酬」なのです。

19歳で、仕事の対価として小切手を貰うなんて、成人式前に大人の商人として認められた気分で、とても嬉しかったですね。ぼくと同様の経験をされた方は少ないと思いますね。ぼくの誇りです。写真って、意外とおいしい仕事だったのです。
このようにして、写真を趣味ではなく、ビジネスとして考えるようになりました。

Panasonic様の販促撮影:1972年頃です。この頃は大阪に7社ぐらい、テレビCMや新聞広告・雑誌広告用のモデルクラブがあったんですが...。掲載したモデルさんは、売れっ子だった藤原真由美さんです。当時は、スタイリスト、ヘヤーとメイクがおらず、モデルさんが大きな鞄を担いでスタジオに入り、着付け・ヘヤー・メイクを一人でやっていました。ところが、欧米白人の外タレの場合は、衣裳を持ってこないし、ヘヤーメイクは自分でやらないので、いつのまにか、ヘヤー係とメイク係の人が来て、さらにスタイリストも来て...それで、今のような状況になりました。
カメラはNikon Fにマイクロ ニッコール オートP 55mm f3.5です。

当時の写真スタジオは龍電社製のタングステンライトが主流でした。エクタクロームEPY (1977年から発売) が出る前の1972年当時のBタイプのカラーリバーサルのエクタクローム発色がイマイチだったので、エクタのデーライトを使って、ニッコールレンズ前にゼラチンフィルターホルダーを取り付け、ラッテンフィルターの"80A"を装着して、3200K→5500Kに色温度の変換をしなければならず、フィルムの感度が2段も下がりますので、3・2・1のタイミングで、シャッターを切るとき、モデルさんは、1秒間ほど静止しなければなりませんでした。1SO1600ぐらいの感度で撮れる昨今のデジタルカメラとは大違いです。

だから、上の写真は、絞りf8、シャッター速度15分の1秒ぐらいです。
デジタルカメラだったら、 屋内蛍光灯下、屋外太陽光下での撮影は、マニュアル式ではスイッチ切替で済み、オートホワイトバランスに設定しておけば、白が白に写りますから、撮影がラクな時代になったものです。

Minolta様の販促撮影:これはテストで、本番では600mmの向きを微調整しています。こういう撮影を「オンパレ」と呼んで、全商品がスタジオに揃うのはメーカーさんが営業していない時間帯になりますので、オンパレがあると、よく徹夜撮影しましたね。
ロッコールのアポタイプ300mm (右奥)には注目して、テスト撮影してみましたが、ぼくが所有していたnewFD300mm f2.8Lを上回る素晴らしい描写(被写体の滑り感、細かな質感と発色)でした。商品の下に敷いているデコラは静電気を帯びやすくホコリが付きやすいので、撮影が大変です。
使用カメラは、トヨビュー 45Gで、FUJINON W210mmレンズで、フィルムはKODAK Ektachrome EPY (タングステンライト用) です。

大阪北新地の割烹店・神田川さんの料理写真です。ある会社の広報誌の輸出向けに「日本食」を紹介する見開きページがあって、ぼくが10回 (2年半) ぐらい開店前に出張撮影しました。「おいしそー」と感じていただければ...。
ぼくは、意外と和食と洋食の料理写真を頼まれることがあって、料理も奥が深いですね。照明はフォトナ製2400W/sゼネレータ2台にバルカーヘッド2灯を使っています。
使用カメラは、リンホフスーパーテヒニカV4×5判で、レンズはFUJINON SWD 90mmを使用。フィルムはKODK Ektachrome EPR (デーライトタイプ) です。

個展用に撮ったものです。撮影年は1987年(43歳)です。大阪市の百貨店で「チェコスロバキア展」が開かれ、チェコはガラス細工が有名なので行ってみました。すると、クリスタル製の透明度の高い、美しいフォルムのブランデーグラスに一目惚れ...。1万円ほどしましたが、早速買ってきて写真を撮ってみることにしました。
水に浮かべたマーガレットからブランデーグラスの凡その大きさが判ると思います。プリントにして、よく売れた写真です
カメラは、リンホフスーパーテヒニカV4×5です。FUJINON W150mmを使用。フィルムはKODAK Ektachrome EPY (タングステンタイプ)です。

1966年、22歳の秋に、広告制作会社に就職し、そこの得意先であった、松下電器テレビ事業部(茨木市)さん、Panasonicブランドのルーツであるラジオ事業部(門真市)さん、録音機事業部(門真市)さん、ステレオ事業部(守口市)さん、ビデオ事業部(守口市)さんの商品や販促物のスタジオ撮影を担当するようになり、ぼくが1975年に独立してからも、引き続きお仕事させて戴きました。

松下電器さんの工場と松下グループ会社さんの工場は、大阪府内だけでなく、山形県の天童工場(ビデオ事業部さん)、愛媛県の西条工場(松下寿電子さん)、長崎県の諫早工場(九州松下さん)、福岡県博多区の福岡事業場(九州松下さん)、岡山県の東岡山工場(ビデオ事業部さん)、奈良県の大和郡山工場(松下住宅設備機器さん)や滋賀県の草津工場(松下冷機さん)、京都府長岡京市の松下電子工業さん、神奈川県都筑区の松下通信工業さんにも工場施設の撮影に行きました。
松下電器さんの社員さんよりも、松下さんに詳しくなりましたが、昨今は事業の整理統合が進んで、1990年代とは激変していると思います。

松下電器さん以外では、これも広告制作会社さんを通じて、空調機器のダイキンさん(主に空調工事施工例の撮影)、農機のクボタさん(広報誌の撮影)、自動車のダイハツさんにも乗用車の撮影でお世話になりました。
でも、大企業さんの広告写真の仕事をさせて頂いていたのは2003年頃までで、大阪市北区天満のスタジオを閉鎖した2001年3月からは、デジタル一眼レフカメラを使った写真取材やWebページ制作の仕事、デザインの仕事が中心になっています。
お堅い仕事ばかりではなく、吉本興業さんの人気タレントが出演するポスターや雑誌広告の仕事もさせていただきました。

その中から2点だけ掲載させて戴きます。


昨今ではグラフィックデザインの仕事もしております。上は日本郵便株式会社さんのフレーム切手のデザイン(2008年)で、下は社団法人 大阪府トラック協会さんのイラストポスター(サイズはA3でAdobe Illustratorだけで制作)です。「トラック広報」誌に見開きで掲載。


2015年4月6日更新 尾林 正利

 
 
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