プロカメラマンになるまで...
ぼくが初めてのアルバイトでお金を貰ったのは、昭和36年(1961年)高校2年生の夏にした、電電公社(日本電信電話公社:1985年に民営化・現在のNTT)の仕事でした。
仕事の内容は、公社のオフィス内ではなく、公社が行う電報配達のサービスエリアに入る賃貸の集合住宅などに訪問して、大家さんや管理人さんから同居人の名前をお尋ねして、調査することでした。
現在なら、住民調査の仕事などは、市役所の管轄だと思うのですが、世の中には、何らかの事情があって、住民登録しない人や出来ない人もおり、当時は、速達よりも緊急を要する電報配達のために、どうしても最新の住民情報が必要だということで、10日ぐらい炎天下に汗だくになりながら自転車を漕いで調査しました。
今で言うと、時給900円ぐらいの仕事でしょ。
現在も電報配達なんて、やっているのかな?
このアルバイトで、いくら貰ったのかは全く憶えていませんが、ちょっぴり稼いだお金の使途は、おそらく近鉄電車に乗って、阿部野橋駅近くのアポロ座で好きな洋画を観たように思います。
そして大学受験...。どういう大学か、よく調べもしないのに、漠然と京都美大に憧れて、デッサンの勉強も全然せずに、美大の図案科に受験したのですが、デザインの試験を受ける前に、先ず、一般教養の学科試験が今出川通りにあった同志社大学で行われ、20人の応募に400名が受験し、学科試験の問題は易しかったので、通ったと思ったら、そこで落とされてしまいました。
長い間、鉛筆や毛筆で絵の描き方を学ぶのに、物理とか数学なんて美大の実技に必須なのかな?と、30年間ほど疑問に思っていたのですが...53歳から、Apple社のパソコン、PowerMac9600を使って分かったことですが、Adobe
Illustratorで絵を描いたり、パッケージの展開図をデザインをする時には、数学の知識も必要だということがわかりました。
グラフィックデザインに近い仕事で、手に職を持たなあかんということで、新聞広告や雑誌広告には必ず写真が使われるから、手っ取り早く写真の知識を身につけるために写真学校に入りました。18歳の時は、写真には全く興味はなかったのですが、兄の薦めで受験することにし、ここも簡単な筆記試験がありましたが、スーッと入れました。
専売公社(今のJT)が、1952年(昭和27年)から販売することになった、ピースのパッケージデザイン料に、アメリカのデザイナー、レイモンド・ローウィー(実際はフランス人のレイモン・レヴィ:Raymond
Loewy) に100万円も払った(実際は150万円)という話を高校生の時に知ったぼくは、デザイン料に100万円が貰えるようなグラフィックデザイナーに憧れていました。昭和27年当時の日本の総理大臣の月給が11万〜12万円の時代ですから、とんでもない金額です。
写真学校に入ったものの、18歳になるまで写真を撮った経験が全くなく、カメラの名前はキャノネットEEしか知らず、超ド素人だったので、学校では写真の予備知識がなくて、
級友:「シャッターボタンを押してみて」
ぼく:「シャッターって何?」
級友:「えっ!?」
写真学校にはカメラ好き、写真好きの人、写真館の跡継ぎをするような青年たちがプロの写真家になりたくて、授業を受けにやって来ます。だから、カメラや写真に対してのベーシックな予備知識が備わっているワケです。
だから、「シャッターって何?」と聞くのは愚問で、写専入学時のぼくは、全く知らなさ過ぎて、後で考えると、赤っ恥のかき通しでした。
しかし、それが却って幸いしたのです。ぼくの頭の中は新品のパソコンと同じだったのです。パソコンは、OSやアプリがないと、プログラミングの知らない素人では動かせません。写真学校で学ぶ、写真に関する専門的な学科知識と、撮影実技や現像処理実技の習得プログラムが、ぼくの脳味噌の空きスペースにインストールされたわけです。ぼくの描いた絵は我流ですが、写真は、2年間も日本写真専門学校に行って学んだものがベースになっています。
しかし、それなりの、決して安くはない授業料払って写真のイロハを習うからには、学んだ費用と時間を早く取り戻すため、写真で稼がなあかんということで、母の許しを得て、自室を暗室に改造して、簡易なテーブルトップの撮影と、半切のバット三個と富士B型引伸機を置けるテーブルをこしらえて、モノクロ写真のDPEを自宅で出来るようにしました。
そうしたら、まだ一人前になってないのに、知り合いのおじさんから、いきなり貝細工の商品サンプルの撮影とプリントを頼まれ、撮影費(プリント料込み)で3000円(当時の大卒公務員の初任給が大卒で2万円前後)貰いましたが、現金でなく三和銀行(現在は三菱東京UFJ銀行)の小切手で、自転車に乗って30分もかかる藤井寺駅前の三和銀行で換金してもらいました。これは、時給計算ではなく、撮影料という「報酬」なのです。
19歳で、仕事の対価として小切手を貰うなんて、成人式前に大人の商人として認められた気分で、とても嬉しかったですね。ぼくと同様の経験をされた方は少ないと思いますね。ぼくの誇りです。写真って、意外とおいしい仕事だったのです。
このようにして、写真を趣味ではなく、ビジネスとして考えるようになりました。