先ず、平野の名の発祥についてだが、これには諸説がある。ぼくが読んだ数冊の史書を参考にして要約すると、平野の誕生は、今から約1200年前の平安京遷都の頃に遡る。
桓武天皇(かんむ てんのう)は、延暦13年(794年)の平安京建都の造営や移転事業の他にも大きな仕事があった。
それは奈良時代の終わりになっても、天皇の支配力が本州の東北地方に及んでいなかったので、桓武帝は強固な中央集権国家を築くため、約4000人の討伐隊を京から奥州の蝦夷地(えぞち)へ派兵して、主導者を捕らえ、蝦夷(えみし)たちを服従させることであった。
しかし、帝の思し召し通りには行かず、中でも奥州胆沢(いさわ:岩手県奥州市水沢)に住む蝦夷(えみし)の族長「アテルイ」は、数百の寡兵ながら戦略に長け、数千の官軍を破り、官軍に多くの犠牲者が出た。
桓武天皇は、二度目の蝦夷討伐隊に、優れた武官であった坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ:正三位大納言・征夷大将軍)に命じて、精鋭部隊を編成し奥州へ派兵した。
坂上田村麻呂の官軍は、困難を極めた戦の末に主導者のアテルイを拘束し降伏させ、アテルイとモレの主導者二名は京へ連行した。
アテルイとモレは、桓武帝に臣従の誓いをしたので、仲間を説得させる為、田村麻呂の温情で捕らえた二名は奥州へ放免される筈であったが、平安宮に諸侯が集まって詮議の結果、河内国で二人は処刑された。
坂上田村麻呂の祖先は、古代中国王朝の王家の血統に遡る家柄のようで、田村麻呂は桓武帝を含む四代の天皇に亘って武官として要職に就いた。
桓武天皇の崩御後は皇太子の安殿親王(あてのみこ)が平城天皇(へいぜいてんのう)になったが、平城天皇は幼少より病弱であったので、桓武天皇の遺言により、皇位を弟の神野親王に譲って上皇になり、上皇の弟は嵯峨天皇になった。
ところが、嵯峨天皇は先帝の平城天皇が決めた「観察使」の制度を廃止にしたので、兄弟の確執が起きるようになった。上皇側の反発によって、平城京遷都の詔が下された。
上皇へ平城京遷都の詔を促したのは、上皇の后「藤原帯子」の母である尚侍(ないしのかみ しょうじ:最高位の女官)の「藤原薬子(ふじわらの
くすこ)」であった。
薬子は上皇を天皇に復権させるため、内裏を平城京に移して上皇の権力強化を謀ろうとした。これが「薬子(くすこ)の変」である。
嵯峨天皇も一時は上皇の詔に従おうとしたが、上皇側に挙兵の動きがあったので、坂上田村麻呂に命じて、上皇の挙兵の動きを阻止させた。田村麻呂の軍勢に対し、勝機が無いと察した上皇は剃髪して出家し、首謀者の薬子は権力への執着が断たれて自殺した。
坂上田村麻呂は二男の広野麿(従四位下・右兵衛督:うひょうえのかみ・天皇の護衛長官)と共に出陣した。この手柄によって、広野麿は、摂津国住吉郡杭全庄(くまたしょう)の未開地を墾田開発して、広野麿の荘園とするように下賜されたのであった。
奈良時代から平安時代になるまでは、日本の国土は殆ど天皇の土地で公領にされていたが、9世紀頃の平安時代になると、上級官職の貴族や仏教勢力が特権を持つようになり、貴族耕作地の私有化、寺院耕作地の寺領化、神社耕作地の社領化が認められるようになった。これが荘園である。
荘園というのは、平安時代の天皇が褒美として有力貴族や有力社寺に田畑になりそうな未開地を下賜し、公領の口分田(くぶんでん)以外の墾田開発を積極的に促して、田租による国税収入を増やす目的で私有化を認めた場所なのである。
荘園のいわれは、領主が田畑と農民を管理する屋敷や農作物を保管する倉庫を建てたので「荘園」という名が付いたそうだ。荘園にも税制上、輸租田(田租課税、農民には賦課や賦役有り)と不輸租田(田租免除)があったが、墾田の殆どは輸租田扱いで、国衙(こくが:地方の役所)の役人が調査にきて田租や賦役などが課せられたが、荘園で働く農民は公領の口分田で働くよりは、労働や賦役の負担は軽かったようだ。
公領の田畑「口分田:くぶんでん)」を耕作していた農民たちは、徴税役人の国司から、班田収授法による「租(そ:年貢米の納付)」、「庸(よう:年に60日の無償労役と10日間の平安宮警備の義務)」、「調(ちょう:絹の反物や特産品の上納義務)」の搾取と労役で苦しめられていたので、逃亡する人が多く、畿内をさまよう流民になっていった。流民には奴隷のような人々も沢山いたようだ。このような公領からの脱出者などを雇って開墾する荘園を「開墾地系荘園」という。
坂上広野麿は、本宅を京に残して、平安京を下り、摂津国住吉郡杭全庄に新居を構え、大勢の農民や使用人を住まわせて村をつくり、荒れ地を開墾して米や農作物が収穫できるようにした。
広野麿が開拓した「広野荘」は、恒久的な「不輸(田租非課税)・不入り(検田使の立入免除)」の官省符荘(太政官と民部省が不輸不入を認定する)にするため、天皇家と姻戚関係にある藤原氏へ寄進され、永承年代(えいしょう:1046〜1052年の間)に、摂関家の藤原頼通によって、宇治平等院に寄進された。既に開墾された荘園を寄進するのを「寄進地系荘園」という。
広野荘は後に「平野荘」ともいわれるようになり、平野荘が平等院の寺領になっていたのは、天文の頃(てんぶん:1532〜1555年の間)までらしい。
現在でも、東住吉区中野に「平等橋」の名が残っているようだ。現在は消滅している平等堤というのは、平野郷の南東にあった辰巳池(現在の平野南公園か?)から今川(鳴戸川)へ注ぐ堤のある水路で、平野郷町と喜連村の境界に設けられたもので、堤防は辰巳池や大和川支流の氾濫から平野郷町を守るためであったらしい。
開墾地系荘園を寄進地系荘園に名義変更するのは、特権階級だけに認められた税の優遇措置を利用するためであった。
開墾地系荘園の領主(貴族)が、荘官や庄屋になって実質的には荘園の自治を掌握し、土地の名義を摂関家の藤原氏の領地や有名な寺社領にすれば、「不輸(ふゆ:非課税)・不入(役人の干渉禁止)の権」という特権が認められていて、徴税役人の国司が荘園内に入って耕作地の測量や雇い人の戸籍調査などが出来ない聖域になったからである。
勿論、名義だけを借りた新領主には、お礼として年貢を納めなければならない。名義を貸す方は、手を拱いていても年貢や特産物が手に入るので、名義貸しを断るところはなく、平安時代の中期には寄進地系荘園が増大した。
やがて、武家社会になり、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、義経討伐を名目に全国に守護・地頭を置いて、主に東日本にある荘園の検地を強制的に行って、領主や荘官の特権を剥奪していったが、畿内(きない:山城・大和・摂津、河内・和泉の諸国)には、その影響は殆どなかったようだ。
荘園内の中心部に集落を形成して荘民の結束を固め、集落の周囲を田畑で囲むような自治体を「惣」または「惣村(そうそん)」という。
惣村の中の有力者が代表(乙名:おとな:経験を積んだ複数の長老たちで、惣年寄ともいう)に就き、乙名の中には荘民から年貢米の地下請(じげうけ)などをやって、領主へ年貢を納めていたようだ。
地下請は、豊作・不作に拘わらず、毎年一定量の年貢米や特産品を領主に納めればよく、不作の時のリスクはあるが、地下請を行う惣年寄には惣民から手数料が得られ、領主からも信用もされ、子孫が継続することによって惣年寄たちは資産家になっていった。
惣村では、氏神神社の祭礼は惣村の結束力を高めるために重要な行事であった。神輿の渡御などは氏神神社の氏子構成員が中心になって祭祀(さいし)を行うが、氏子たちが会所に集まって、役割分担などを決めるのを宮座(みやざ)と言う。
宮座の代表には、乙名(おとな:惣年寄)が就任していたので、宮座の代表者が惣村の代表者と考えられるようになった。
平野荘の氏神神社は杭全神社であるが、杭全神社の創建者は、坂上広野麿の子孫だと伝えられている。
平野荘では、惣の代表になれるのは、坂上広野麿の嫡子の家系であるが、その宗家を「平野殿」と呼ばれるようになったらしい。しかし、平野荘は坂上宗家のワンマン統治ではなく、坂上家の分家も参加して、堺の会合衆(えごうしゅう)のような、坂上七名家(七苗家:しちみょうけ:野堂、則光、成安、利則、利國、安國、安宗)による七番頭の合議制を採った。※後に、野堂家は末吉、則光家は井上、利則家は三上、利國家は土橋、安國家は辻葩(辻花)、安宗家は西村と改称した。(坂上七名家の記事は、平野郷町誌を参考)
平野の地名は、荘園を開墾した広野麿の広野(ひろの)を地名に採用し、最初は広野だったが、やがて広野が平野(ひらの)に訛(なま)ったものとされている。
個人的には、平野という地名は、約500年間も宇治平等院の寺領(寄進地系荘園)でもあったことから、平等院の「平」と広野麿の「野」を合成して平野になったのではないかと思う。
その根拠の一例として、岸和田が「岸」という地名と「和田高家」という領主の名を合成して生まれた地名だから。