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平野郷を歩く(前篇)

大阪市平野区の旧本郷七町と周辺の町

(今回は、文字を少し大きく、字間も広げて読みやすくしましたので、2ページです)

2007年2月11日、2009年2月3日、3月11日、
2012年10月2日、2014年1月31日更新
写真と記事:尾林 正利

平野郷の北隣、加美正覚寺にある旭神社の節分祭(火焚き串祭:ごまたき)







大阪市平野区加美正覚寺(かみしょうがくじ:正覚寺の旧六坊は室町時代の合戦で兵火に遭って全焼し、旧五坊までが廃寺になり、旭神社の境内に正覚寺の東之坊だけが現存)は、旧・平野本郷七町外の北隣にある町です、この町も歴史が古く、町内には古い街並みが所々に残っています。旭神社は加美正覚寺の氏神神社で、夏祭りには「だんじり」が宮入します。

旭神社の「節分祭」は、毎年2月3日に行われ、朝9時から氏子さん達が集まって「餅つき」をします。御祭神に御供えする「鏡餅」と、「厄除け餅」がつかれ、たこ焼きサイズの「厄除け餅」は数個づつ袋詰めにされて、有料で参拝者に授与されるようになっています。

神事の開始は午後1時からです。奈良県の大峯山で修行を積んだ「修験者(しゅげんじゃ)」がホラ貝を吹きながら隊列を整えて本殿に参内(さんだい)し、宮司さんから修祓(しゅばつ)を受けてから、「火焚き串祭り・通称ごまたき)を行います。

修祓によって神事資格を得た修験者が、神社の境内は浄域ですが、さらに四方に「結界(けっかい)」を張り巡らして厳密な浄域を設け、結界内から邪鬼を弓矢で追い払い、呪文を唱えながら参拝者の名を書いた護摩木(ごまき)を浄らかな火で焚きあげる神事を行います。修験者は旭神社の氏子さん達で、毎月、吉野山や大峯山で修行を励んでおられる方もいました。

護摩焚きの神事は厳かに粛々と行われ、2時間ほど掛かりました。ごまたきが終わると、小さなビニール袋の中に入った福豆が大勢の住民達に撒かれて神事が無事に終わりました。

カメラ:Canon EOS5D
レンズ:EF24-70mm f/2.8L USM使用
スピードライト:Canon 580EX使用
撮影日:2007/2/3・尾林


江戸時代の摂津国・平野郷の古地図

平野郷(ひらのごう)は、9世紀初めの嵯峨天皇の御代から16世紀の織田信長の時代までは「荘園(しょうえん)」でした。
平安貴族の坂上広野麿(さかのうえの ひろのまろ)が、嵯峨天皇より「薬子(くすこ)の変」で、父の坂上田村麻呂と共に平城上皇の平城京再遷都を阻む手柄をたてて、上絵図の土地を賜り、荒れ地を開墾したのが平野郷の始まりとされています。
絵図の中央上にある杭全神社(くまたじんじゃ)も、坂上広野麿の子孫「坂上当道」が創建したようです。詳しくは杭全神社さんのホームページで...。

やがて、広野麿の荘園は、摂関家の藤原氏を通じて宇治平等院へ寄進され、約500年間は宇治平等院の寺領であったため、寺領の特権である「不輸(ふゆ:田租非課税)・不入り(検田使の立ち入り免除)の権」がある官省符荘に認定され、平安時代は徴税役人の国司が、鎌倉・室町時代には、守護・地頭が「平野荘」の領内に立ち入ることはできず、平野荘は坂上家の宗家が代々に亘って惣年寄(そうとしより)の任務を務め、地下請(じげうけ)などをしながら、平等院へ年貢を納めて自治を行っていたと伝えられています。(資料:平野郷町誌)

平野郷が最も栄えるのは、豊臣から徳川時代の前期で、平野郷から富商が輩出し、朱印船貿易や銀座(銀貨鋳造)の頭取として活躍する商人も現れました。
「摂州平野大絵図」は、徳川家康が、平野商人の末吉孫左衛門吉安に命じて、元和元年(1615年)の大坂の役(夏の陣)で兵火に遇った町を整備させ、町割が整った後の宝暦13年(1763年)に描かれたものです。
絵図には、「古名ノ杭全荘、広野荘、平野荘ヲ今ハ平野郷町ト云フ」と書かれています。平野郷には、三つの街道が交差していました。

奈良街道(平野郷から西は大坂道で、東は大和道)、八尾街道(平野郷から西は住吉街道で、東は河内信貴道)、中高野街道(平野郷から北は玉造天満街道で、南は高野道)です。

江戸時代の平野郷町は七町 (七丁)から成立し、田畑を除く郷の市街部を環壕で囲み、三街道と通じる13カ所に木戸口(平野郷十三口)を設け、門の傍に門番屋敷も置いて、街道に出入りする通行人の荷物検査などを行っていたようです。
市町の北から流町へ縦貫する街道が中高野街道、泥堂から野堂へ横切る街道が奈良街道、背戸口から野堂の東を横切る街道が八尾街道(野堂側出入口は奈良街道と共用)です。


大正時代の平野郷町の古地図

大正13年頃(1924年頃)の平野郷町の地図(赤い線で囲ったところ)です。平野郷町誌に綴じ込まれた地図の上に町名を大きく書きました。

平野郷の範囲は、広義の解釈では、平野郷町(本郷という)+現在東住吉区の新在家(現在名は杭全:くまた)、今在家(現在名は今川)、中野、今林、の四散郷が含まれます。
喜連村との境界は、平野郷内の辰巳池から多目的の水路が西側の今川まで掘削され、掘削した土砂で「平等堤」が築かれて領地の境界線になってました。
この堤が喜連村(西喜連村・中喜連村・東喜連村)にも掛かっているところから、水路の領有権を巡って南隣の喜連村と争ったことがあります。

明治22年に全国の自治体に市町村制が実施され、明治元年からの野堂の表示は大阪府住吉郡平野野堂町という住所表示でしたが、明治22年からは、大阪府住吉郡平野郷町大字野堂になりました。
明治29年に住吉郡が東成郡に編入された時の野堂の住所表示は、大阪府東成郡平野郷町大字野堂でした。
大正14年に平野郷町と喜連村は大阪市に編入されて平野郷町の名は消え、大阪市住吉区平野○○や平野○○町になりました。
その時の野堂の表示は、大阪市住吉区平野京町や平野新町、平野三十歩町、平野梅ヶ枝町、平野政所町などという名前になっています。

旧平野郷地区の2012年の現在名は、大阪市平野区平野本町、平野区平野元町、平野区平野上町、平野区平野宮町、平野区平野市町、平野区平野東、平野区平野南、平野区流町、平野区背戸口、平野区西脇、平野区平野馬場、平野北になります。判りやすく言うと、毎年7月11日〜14日までこの町内で開催される、平野郷夏まつり(杭全神社例祭)で、9町のだんじりが曳行される区域が平野郷になります。

平野区喜連や平野区瓜破では、市街地の中に田畑がちょこちょこ見掛けられますが、2012年10月現在では、喜連や瓜破でも田畑は激減して、マンション街や商業ビル街に変貌しています。

地図には国鉄関西本線(今のJR大和路線)や奈良街道(今の国道25号線)、チンチン電車の阪堺電気軌道(大正4年:1915年に南海鉄道と対等合併で社名を南海鉄道に変更)平野線が田圃の中を通っています。
この地図を拡大しますと、平野郷を守る環壕は昭和の初めにはまだ残っていたようですね。杭全神社の西には大日本紡績平野工場(元は明治20年に創業した平野紡績)や平野撚糸工場、辰巳池の傍には富川?織布工場があって、平野は紡績の町であったことが、地図で判ります。


平野郷と、その周辺

(平成19年:2007年の大阪市平野区平野本町の界隈:写真は随時更新)

平成19年(2007年)1月23日の「平野郷町」の展望です。
平野区平野本町(旧・野堂町:のどうちょう)に建っているビルの最上階から、北側の旧・泥堂町(でいどうちょう:現在の平野上町や平野宮町、平野元町)方面を眺めた光景で、今ではこの界隈に田圃は殆どありません。
写真中央の奥に杭全神社の大楠(おおぐす)がチラッと見えます。左端の上には大念仏寺の屋根も見えます。
マンションも所々に建っていますが、平野の中心部は、今でも二階建ての古い町家が多いですが、毎月どこかで、古い町家が壊されて更地にされ、今風の洋風住宅に建て替えられています。


江戸時代〜明治初期は、舟運が盛んだった平野川

平野郷の歴史と共に流れてきた「平野川」です。右側が杭全神社の鎮守の森です。
平野川は古代からあった、大阪府南部にある大きな狭山池を水源とする東除川を上流とする河川ですが、江戸時代の元禄17年(1704年)〜宝永元年(1704年)に行われた大和川の川違えによって、東除川は新大和川に合流したので、平野には狭山池の水が来なくなり、その代替策として、新大和川の柏原付近に設けられた樋門を水源として柏原村から小型の舟が往来できる水路が開削され、弓削を通って八尾の亀井で平野川と合流する工事が同時に行われました。

当時の柏原村は、付近の新田開発によって,米よりも高く売れる綿の栽培が盛んで、原綿を「柏原船(かしわらせん)」に積んで下流の平野に運び、平野郷町にあった十数軒の「木綿繰屋(もめんくりや)」で原綿の加工(綿くり、綿打ち、糸くり)するビジネスが生まれました。

柏原船は20石船(米に換算すると、約3トン積み)で、全長13.5m、最大幅2m余りの細長い舟だったそうです。
かっては平野川の両岸に柳が植えられていたそうですが、昭和27年の大雨で平野川が増水し、樋尻橋付近の堤防が決壊したため野堂町が浸水し、今日のような姿に堤防が改修されました。

平野川は平野郷からの下流は、今川(鳴戸川)と、駒川に合流し、川幅が広がって北上し、寝屋川や大川(淀川水系)と合流しています。
柏原からの平野川を利用した舟運は、明治中期の鉄道の発達(国鉄関西本線の開通)によって、明治の終わりには姿を消しました。写真の平野川は左に曲がっていますが、真っ直ぐ進んだ今の杭全神社境内に「柏原船」の舟着き場である「お茶池」があったようです。現在は埋め立てられて公園になっています。


織田信長軍の攻撃を防ぐ、自衛の為の環壕(かんごう)跡


杭全神社(くまたじんじゃ)の本殿東側にある環壕(かんごう)の跡で、現在は300mぐらいしか壕(ほり)が残っていません。しばらく眺めていると、壕に放流されている鯉が近寄ってきました。

ここの環壕が造られた目的は、戦国時代に織田信長が平野郷の惣年寄に法外な「矢銭(やせん:軍資金・戦費)を要求し、値切ったので脅され、平野郷を織田軍から守るために環壕や土塁が設けられたそうです。
しかし、守ってくれるものと頼りにしていた地元大名の三好家の力が弱まったので、信長の強引な要求に従わざるを得ませんでした。


平野郷の氏神様、杭全神社(くまたじんじゃ)

上の二枚の写真は杭全神社(くまたじんじゃ)の拝殿(上)と本殿(下)です。平安時代初期に、杭全荘の元領主であった坂上広野麿の子孫によって創建されました。地元の産土神(広野麿の父・坂上田村麻呂)を祀り、地元の氏神神社でもあります。明治時代に内務省神社局から「府社」に列せられ、神社建築や境内の佇まいに格調の高さが見受けられます。
毎年7月11〜14日は平野郷の夏祭りが、杭全神社の例祭として盛大に行われ、13日の夜には旧・平野郷町から9台のだんじりが宮入します。
拝殿の後ろに、和歌山県新宮市の「熊野速玉大社」と似た華麗な三本殿があり、熊野三所権現もお祀りしているそうです。
第一本殿には、御祭神のスサノオノミコトをお祀りしてあり、スサノオは祇園宮の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)と習合したと伝えられ、杭全神社でも参拝者に「牛王神符(ごおうしんぷ)」を授与されているようです。


平野郷に多い石の道標(みちしるべ)

杭全神社の大鳥居の近くにある道標(みちしるべ)です。奈良街道と中高野街道の交差点近くにあります。
大きさが分かり難いので、下校途中の小学生に協力して貰いました。ありがとう。何年生か訊くのをうっかり忘れてしまいました。多分5年生ぐらいかな。2007年に撮ったので、5年後の今は女子高校生ですね。

寛政12年(1800年)に建てられた道標の右の下に「かうや山(高野山)・大峯山上・ふぢゐ寺(藤井寺)」が刻まれ、杭全神社は「熊野権現と祇園宮」を祀っていた神社であることがよく解ります。
平野郷を歩いていると、道標が非常に多く、大峯山やこうやと書いたものが多いことから、平野には大峯山に登って修験道に励む人や高野山にお詣りする人が多かったのでしょう。


平野郷の13カ所にあった木戸口の傍の地蔵堂


平野郷と諸街道を結ぶ出入口には十三カ所に木戸口があって、惣門(そうもん:代官を置かず、年寄という町内の有力者が自治を行う集落を惣という)の傍には、門番屋敷と遠見櫓、地蔵堂が設置されていました。
写真の地蔵堂は小さいですが、昔は堂内に十数名が入れる大きさだったそうです。地蔵堂の役目は、平野郷の人々が惣門を出る前に、旅の道中の安全を祈るために設けられました。

写真上は「流口地蔵(ながれくちじぞう)」で、写真下は「樋ノ尻口(ひのしりぐち、ひのじりぐち)地蔵」です。
樋ノ尻口地蔵堂は、大坂の役(夏の陣)の時、真田幸村が徳川家康の平野入りを予測して地蔵堂に地雷を仕掛けて退散しました。そこへ予測通りに家康がやってきて樋ノ尻口の地蔵堂で一服しましたが、その時は爆発せず、家康が天王寺の茶臼山へ向かった時に爆発したという伝説が残っています。

平野郷の中心は、野堂の全興寺(せんこうじ)さん

原の中に薬師ができて、人が集まって住みついた。



お寺の境内に「駄菓子屋博物館」


平野郷町の中心にある「薬師堂全興寺」です。全興寺(せんこうじ)には、ミナミの法善寺横町にあるような水掛け不動さんがあって、参拝者がひっきりなしに訪れる人気のあるお寺でした。全興寺は杭全神社の夏祭りで神輿渡御の御旅所にもなっています。
本堂の西に水溜まりがあって、冬なのにメダカが群をなして泳いでいました。平野郷内をくまなく散歩していて疲れ、ここの境内で一休みしていたら、心が落ち着きました。

また、ここの境内には「駄菓子屋さん博物館」があって、土・日・祝日には無料でオープンしています。博物館では駄菓子の販売はしていません。脱水が手回しの洗濯機や氷柱で冷やす冷蔵庫、真空管式のラジオも展示しています。

お寺の境内で、紙芝居


全興寺の境内で、5年前から毎月第四日曜に行われている「紙芝居」です。「平野の町づくりを考える会」を主宰する全興寺のご住職が地域のイベントをプロデュースされています。紙芝居をする日は、紙芝居を語るボランティアの方も参加しています。

IT時代になっても、紙芝居を観る子供たちの表情は楽しそうです。ぼくが子供の頃に紙芝居を観たときは、駄菓子付きで5円だったと思いますが、今は100円でした。紙芝居の道具を運搬する自転車のコダワリがいいですね。


平野から消えた南海(阪堺電軌)のチンチン電車。

商店街に人通りの少ないのがチョット気になる。



昭和55年(1980年)、平野中央通商店街の西にあった南海平野駅から、天王寺や恵美須町まで66年間も走り続けてきたチンチン電車が、地下鉄谷町線の八尾南までの開業に伴って廃止にされました。

阪堺電気軌道(当時は南海)は、八角形の平野駅と構内線路と、さよなら運転のヘッドマークを付けたチンチン電車(221号)を現地に永久保存する予定だったそうですが、駅舎と保存車両の管理維持の費用捻出の問題もあって保存計画は中止され、跡地は殺風景な公園になってしまいました。タイルで線路や枕木を描いても、絵に描いた餅です。もう一回、往時の光景を復元した方が商店街の活性化に役立つと思うのですが...。

今なら、阪堺には廃車待ちの古いチンチン電車もあります。ただし、チンチン電車や駅舎をただ展示しておくだけでは意味がありません。電車を待ち合わせ場所のおしゃれな店舗として、ショーイベントの簡易ステージとして、駅舎の中を展示場にしたり、人集めにジャンジャン活用する工夫が必要になるでしょう。

阪堺のチンチン電車は今も健在で、写真のような昭和3年製(モ161型は、今年79歳)の電車が、2007年も現役バリバリで大阪市内や堺市内を走っています。そろそろ大阪市は上の写真の電車に「重要文化財」を差し上げてもいいのとちがいますか。2007年5月26日に懐かしい「阪堺標準色」の車両(モ163)を発見したので追加撮影しました。下降式ウィンドウと木製のブラインドが懐かしいですね。二度と広告塗装にして欲しくない貴重なチンチン電車です。


平野郷の老舗(しにせ)


散歩中に見つけた酒屋さんで、平野酒のことをお訊きするために立ち寄ってみました。店内に入ると、陳列台ががっしりした一枚板の棚で、圧倒されてしまいました。

お店の方のお話では、現在の平野区内には造り酒屋がなく、平野区の地酒としての「平野酒」は生産されていないとのことでした。
昔は、メーカーさんも販売店さんも、売る商品に自信と誇りを持って商売していた様子がひしひしと伝わってきます。現在もそうあって欲しいのですが...。



平野郷には、和菓子屋さんが多いです。平野郷にはお寺が非常に多く、法事などで親戚縁者が集まって和菓子を食べる機会が多いのでしょう。上から二番目の福本商店は、創業300年の老舗で、300年前から「亀乃饅頭」を製造・販売しています。
「亀乃饅頭」は、300年前に作られた型枠の中に菓子材料を流し込んで焼き上げたもので、皮は香ばしく白あんと合って、美味しい饅頭です。亀の形が面白いので、数個買ってきて事務所で写真を撮ってみました。五個買って600円でお釣りがきました。濃い目のお茶と一緒に食べてね。


写真のタバコ屋さんが老舗かどうかはお訊きしなかったが、ぼくが子供の頃に祖母のおつかいで行ったのが、写真のような感じの「タバコ屋」さんでした。タバコの空ケースを集めて「べったん」を作り、路地でよく遊んだものです。自販機がなければ、もっとレトロチックなのですが...。
「まつや」さんは、悉皆屋(しっかいや:太物と言って、綿織物や麻織物の反物を扱うお店)さんでした。因みに呉服店というと、主に絹の反物を扱います。ここのご主人は、豊臣・徳川時代の平野の歴史にとても詳しいです。


平野郷の古い町家

ここはホンマに大阪市内?道が砂利なら、時代劇の背景にピッタリ




現在の平野区平野本町や平野東の町内には、戦前からの古い町家が沢山残っています。
2009年2月2日、そんな古い町家の3軒の玄関に、太平洋戦争前の町名が書かれたプレート(平野郷公益會発行)を見つけました。

大正14年(1925年)〜昭和18年(1943年)までは、大阪市住吉区の中に平野があったわけです。

平野本町や平野東の中に、北の方から順番に平野京町、平野新町、平野三十歩町(ひらのさんじゅうぶちょう)があり、その南側の通りは平野梅ヶ枝町、さらにその南は、平野政所町(ひらのまんどころちょう)になっていました。さすがに、大正14年以前の大阪府東成郡平野郷町大字野堂の住所札を掲げているような町家はありませんでした。


平野郷の南に隣接した喜連郷の中喜連村(現在は平野区喜連4丁目)の古い町家

(喜連小学校前の平野独特のレンガ道)




平野郷の北東に隣接した加美鞍作(かみ くらつくり)の豪農邸宅

国指定の重要文化財建造物の「奥田邸」です。門の中の屋敷や蔵は江戸時代初期の建物が現存していて、後継者の方が実際に生活しておられます。
重文の写真撮影のOKが出れば、掲載します。


加美鞍作の「がんこ平野郷屋敷」




今は「がんこ平野郷屋敷」になっていますが、元は鞍作村の庄屋さんの屋敷を店舗用にリニューアルしたものです。庭園も立派です。
昼食時には、お琴の先生が来店して、先生の(写真の女性はお店の方)の演奏を聴きながら食事が出来るなんていいですね。

ここの展示館には、何と、「伊万里赤絵」や「楽焼」の茶碗、由緒のありそうな掛け軸などが展示してありました。
屋敷内には、都島区の太閤園の庭園を小ぶりにしたような美しい日本庭園もあって見物もできます。駐車場は店の北側にあって、親しい人同士の食事や宴会などには、なかなか良い所ですよ。ここは、お座敷だから穴の開いた靴下には気をつけてね。


古き佳き時代の平野郷に近代化の波


平野郷や喜連の楯原神社周辺の古い街並みの中を歩いていると、大阪市内という感じが全くしません。
しかし、虫籠窓(むしこまど:中二階の壁に設けられた長細い小窓)が特徴の古い町家や民家が軒を連ねる平野郷の中心に、昨今では高層マンションが建ちはじめ、これから先、大阪市は重要伝統的建造物群として平野郷の景観保存ために建築規制をするのか、民間開発の成り行きに任せて街作りを進めるのかを検討しなければならない時が迫ってきているようです。


なにわ七幸巡りの名所・大念仏寺


平野の名所・大念仏寺(だいねんぶつじ:創建は12世紀ごろ)です。
大念仏寺は、大相撲の大阪場所で東関部屋(あずまぜきべや)の宿舎になるので、横綱・曙の全盛時代に、相撲の稽古の写真を撮りに伺った思い出があります。

毎年5月1〜5日の万部法要「万部(まんぶ)おねり(大阪市指定無形民俗文化財)」は、広い境内が大勢の参拝者で混雑するそうですが、まだ見ていません。
また大念仏寺では、除夜の鐘を打つのを希望者に開放しているそうですよ。煩悩の多いぼくは、一度鳴らしてみたいですね。


平野郷の人々は、お祭り好き



平野と言えば、杭全神社に宮入する、平野郷九町(平野郷で一番大きな野堂町が、野堂北組、野堂東組、野堂町南組の3町に独立)のだんじり曳行が有名です。
旧平野郷の野堂町南組(平野南)や流町の町内には、現在でも田圃が所々に残っています。2007年でも大阪市内に田圃が所々にあるのは、平野区や東住吉区ぐらいでしょう。平野郷夏まつりは、毎年7月中旬に4日間行われています。写真は野堂町南組のだんじりです。男子中学生も参加できます。女性が参加できるのは、9町の内で2町だけのようですね。

一番上の写真は、平野本通商店街のアーケードの中にある木田商店で、だんじりを曳く平野郷の男なら誰でも知っています。祭礼に必要な衣裳やアイテムがここの店で調達できます。法被とキマタは、各町の地車委員会に入会(審査に合格)すれば、購入できます。


三十年先の平野郷を支える人々


平野郷には、写真のような路地が多いです。この路地は園児の通園道になっているようです。
選挙権のない園児たちの目の高さに政治家の講演会ポスターが貼ってあって、思わず苦笑してしまいました。恐れ入りました。平野の未来はこの子たちにかかっているのです。

平野郷の撮影データ
カメラ:Canon EOS5D、EOS5D Mark2
レンズ:EF24-70mm f2.8L USM、EF24-105mm f4L IS USM
スピードライト580EX使用
撮影月日:2007年1月22,23,28日、2009年2月2日

平野区の花はコットン(綿花)

(平野区瓜破東に区民わた畑があって、9月に喜連地区や瓜破地区の小学校の生徒がわた摘みをする)


2012年の10月になって、大阪府羽曳野市から大阪市平野区内に住居と事務所を移してから6年半が経った。
昨今、目まぐるしく様々な出来事が次々に発生し、世の中の情勢が日々変わっていく6年半っていう時の長さは、本当に短かく感じる。

とくに平野区に引っ越してきた2006年2月から一年ほどは、泊まり掛けで青森、岐阜、和歌山、佐賀県などへ「祭」をテーマにした写真取材に出掛けたり、通常の仕事の方もやや右肩上がりになって忙しくなり、1年があれよあれよという間に過ぎていった。

羽曳野市に住んでいた頃は、体調維持のため、雨天の日や用事のある日を除いて、四季に関係なく、ほぼ毎夕に自宅から往復で約4kmほどの道を45分かけて散歩していて、65kg±1kgの体重を何とかキープしていたのだが、大阪市内へ引っ越して散歩を中断した途端に、70kgを軽くオーバーしてしまった。

二十代や三十代の時は、いくら食べても飲んでも太らない体質であったが、中年になってから肥えやすい体質になってしまった。世間でよく云われているメタボリック・シンドローム(内臓脂肪型肥満症)に罹ってしまったのである。

これは熟年になってから、ぼくの仕事の性質が「動」から「静」に変わってきたからであろう。
五十代になるまでは、ロケ撮影やスタジオ撮影が多くて、ハードな立ち仕事が殆どであったが、五十代になってから、パソコン(Mac)の前に長時間座り続けてデザインや画像処理などのデスクワークが多くなって、運動不足がちになった。
15年ほど前(1997年頃)のApple社のユーザーガイドには、PowerMacでの作業は2時間毎に30分間ほど休憩して、休憩中に軽い体操をするように書かれてあったが、それをマニュアル通りに一々守るのは面倒くさいものである。

だから、2006年は撮影取材の仕事に重点を置いたので、第一線カメラマンであった頃のシャッターを切る感覚と体のキレが少し戻ってきたが、体重は一向に落ちなかった。
重いカメラバッグと脚立を担いで各地を歩き回っていたら、痩せるどころか、逆に上体に筋肉がついて太ってしまったのだ。

そこで、2007年1月から再び趣味の散歩を再開することにした。今年の計画は、1年間で5kg落とす目標を立てた。仕事や雨天の日もあるので、週に2〜3日ぐらいの散歩なら気長く続けられそうだが、結果はメタボのままであった。

ところで、散歩といっても、どんな場所でやってもいいということではない。
ぼくの場合はコダワリがあって、散歩のコースが変化に富んでいて歩いて楽しくなるようなロケーションでなければ長続きしないのだ。

幸いにして、引っ越してきた大阪市平野区喜連(きれ)の繁華街から7〜8分も北に向かって歩けば、豊臣時代から江戸時代初期までの間、朱印船貿易で栄えた堺と同じような、環壕集落の自治都市であった「平野郷(ひらのごう)」の区域に入る。

この区域をこれからの散歩のコースに選ぶことにしたが、平野郷の名前は知っていても、2007年の1月まで、平野郷ってどんなところかは全く知らなかった。平野区役所の広報の方に訊いても、広報担当者が平野出身者ではないので、ちゃんと答えられるような方がおられない。

郷土のことを調べるのは、平野図書館へ行って郷土史を読むのが手っ取り早い。
平野図書館の場所は、旧郷町の中を2日間くまなく散歩している時に偶然に見つけた。早速、会員登録して、数冊の本(平野郷町誌と大阪市東住吉区史)などを二週間もお借りして、じっくり読むことにした。
平野区は戦後に生まれた区なので、2007年時点では「大阪市平野区史」という本は編纂されておらず、大阪市東住吉区史で、平野のことを調べなければならない。

それから、平野郷町の氏神神社である杭全神社(くまたじんじゃ)にも行って、夏祭りの情報についてお訊きしたところ、親切な神職さんから「杭全神社 平野郷夏まつり」という、A4判・40ページ・オール4色刷りの豪華なしおりまで頂いた。本当にありがとうございました。

その豪華なしおりを開いてみると、
「杭全神社 平野郷夏まつり」が、岸和田祭礼(岸和田だんじり祭」に劣らない盛大なお祭りであることがよく分かった。
また、平野東に長くお住まいの方で、「平野歴史民俗研究会」のK氏をお訪ねして、コーヒーを飲みながら平野の歴史を語って頂いた。さらに、平野本町に「まつや」という悉皆屋(しっかいや:太物といって、綿織物や麻織物の反物を扱う衣料品店)を営む松村長二郎氏にお会いして、17世紀頃の平野の歴史を1時間ほど語って頂いた。

平野郷の始まりは平安貴族の荘園

開墾地系荘園から寄進地系荘園の時代

先ず、平野の名の発祥についてだが、これには諸説がある。ぼくが読んだ数冊の史書を参考にして要約すると、平野の誕生は、今から約1200年前の平安京遷都の頃に遡る。

桓武天皇(かんむ てんのう)は、延暦13年(794年)の平安京建都の造営や移転事業の他にも大きな仕事があった。
それは奈良時代の終わりになっても、天皇の支配力が本州の東北地方に及んでいなかったので、桓武帝は強固な中央集権国家を築くため、約4000人の討伐隊を京から奥州の蝦夷地(えぞち)へ派兵して、主導者を捕らえ、蝦夷(えみし)たちを服従させることであった。
しかし、帝の思し召し通りには行かず、中でも奥州胆沢(いさわ:岩手県奥州市水沢)に住む蝦夷(えみし)の族長「アテルイ」は、数百の寡兵ながら戦略に長け、数千の官軍を破り、官軍に多くの犠牲者が出た。

桓武天皇は、二度目の蝦夷討伐隊に、優れた武官であった坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ:正三位大納言・征夷大将軍)に命じて、精鋭部隊を編成し奥州へ派兵した。
坂上田村麻呂の官軍は、困難を極めた戦の末に主導者のアテルイを拘束し降伏させ、アテルイとモレの主導者二名は京へ連行した。

アテルイとモレは、桓武帝に臣従の誓いをしたので、仲間を説得させる為、田村麻呂の温情で捕らえた二名は奥州へ放免される筈であったが、平安宮に諸侯が集まって詮議の結果、河内国で二人は処刑された。

坂上田村麻呂の祖先は、古代中国王朝の王家の血統に遡る家柄のようで、田村麻呂は桓武帝を含む四代の天皇に亘って武官として要職に就いた。

桓武天皇の崩御後は皇太子の安殿親王(あてのみこ)が平城天皇(へいぜいてんのう)になったが、平城天皇は幼少より病弱であったので、桓武天皇の遺言により、皇位を弟の神野親王に譲って上皇になり、上皇の弟は嵯峨天皇になった。
ところが、嵯峨天皇は先帝の平城天皇が決めた「観察使」の制度を廃止にしたので、兄弟の確執が起きるようになった。上皇側の反発によって、平城京遷都の詔が下された。

上皇へ平城京遷都の詔を促したのは、上皇の后「藤原帯子」の母である尚侍(ないしのかみ しょうじ:最高位の女官)の「藤原薬子(ふじわらの くすこ)」であった。
薬子は上皇を天皇に復権させるため、内裏を平城京に移して上皇の権力強化を謀ろうとした。これが「薬子(くすこ)の変」である。

嵯峨天皇も一時は上皇の詔に従おうとしたが、上皇側に挙兵の動きがあったので、坂上田村麻呂に命じて、上皇の挙兵の動きを阻止させた。田村麻呂の軍勢に対し、勝機が無いと察した上皇は剃髪して出家し、首謀者の薬子は権力への執着が断たれて自殺した。
坂上田村麻呂は二男の広野麿(従四位下・右兵衛督:うひょうえのかみ・天皇の護衛長官)と共に出陣した。この手柄によって、広野麿は、摂津国住吉郡杭全庄(くまたしょう)の未開地を墾田開発して、広野麿の荘園とするように下賜されたのであった。

奈良時代から平安時代になるまでは、日本の国土は殆ど天皇の土地で公領にされていたが、9世紀頃の平安時代になると、上級官職の貴族や仏教勢力が特権を持つようになり、貴族耕作地の私有化、寺院耕作地の寺領化、神社耕作地の社領化が認められるようになった。これが荘園である。

荘園というのは、平安時代の天皇が褒美として有力貴族や有力社寺に田畑になりそうな未開地を下賜し、公領の口分田(くぶんでん)以外の墾田開発を積極的に促して、田租による国税収入を増やす目的で私有化を認めた場所なのである。

荘園のいわれは、領主が田畑と農民を管理する屋敷や農作物を保管する倉庫を建てたので「荘園」という名が付いたそうだ。荘園にも税制上、輸租田(田租課税、農民には賦課や賦役有り)と不輸租田(田租免除)があったが、墾田の殆どは輸租田扱いで、国衙(こくが:地方の役所)の役人が調査にきて田租や賦役などが課せられたが、荘園で働く農民は公領の口分田で働くよりは、労働や賦役の負担は軽かったようだ。

公領の田畑「口分田:くぶんでん)」を耕作していた農民たちは、徴税役人の国司から、班田収授法による「租(そ:年貢米の納付)」、「庸(よう:年に60日の無償労役と10日間の平安宮警備の義務)」、「調(ちょう:絹の反物や特産品の上納義務)」の搾取と労役で苦しめられていたので、逃亡する人が多く、畿内をさまよう流民になっていった。流民には奴隷のような人々も沢山いたようだ。このような公領からの脱出者などを雇って開墾する荘園を「開墾地系荘園」という。

坂上広野麿は、本宅を京に残して、平安京を下り、摂津国住吉郡杭全庄に新居を構え、大勢の農民や使用人を住まわせて村をつくり、荒れ地を開墾して米や農作物が収穫できるようにした。
広野麿が開拓した「広野荘」は、恒久的な「不輸(田租非課税)・不入り(検田使の立入免除)」の官省符荘(太政官と民部省が不輸不入を認定する)にするため、天皇家と姻戚関係にある藤原氏へ寄進され、永承年代(えいしょう:1046〜1052年の間)に、摂関家の藤原頼通によって、宇治平等院に寄進された。既に開墾された荘園を寄進するのを「寄進地系荘園」という。

広野荘は後に「平野荘」ともいわれるようになり、平野荘が平等院の寺領になっていたのは、天文の頃(てんぶん:1532〜1555年の間)までらしい。
現在でも、東住吉区中野に「平等橋」の名が残っているようだ。現在は消滅している平等堤というのは、平野郷の南東にあった辰巳池(現在の平野南公園か?)から今川(鳴戸川)へ注ぐ堤のある水路で、平野郷町と喜連村の境界に設けられたもので、堤防は辰巳池や大和川支流の氾濫から平野郷町を守るためであったらしい。

開墾地系荘園を寄進地系荘園に名義変更するのは、特権階級だけに認められた税の優遇措置を利用するためであった。
開墾地系荘園の領主(貴族)が、荘官や庄屋になって実質的には荘園の自治を掌握し、土地の名義を摂関家の藤原氏の領地や有名な寺社領にすれば、「不輸(ふゆ:非課税)・不入(役人の干渉禁止)の権」という特権が認められていて、徴税役人の国司が荘園内に入って耕作地の測量や雇い人の戸籍調査などが出来ない聖域になったからである。

勿論、名義だけを借りた新領主には、お礼として年貢を納めなければならない。名義を貸す方は、手を拱いていても年貢や特産物が手に入るので、名義貸しを断るところはなく、平安時代の中期には寄進地系荘園が増大した。

やがて、武家社会になり、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、義経討伐を名目に全国に守護・地頭を置いて、主に東日本にある荘園の検地を強制的に行って、領主や荘官の特権を剥奪していったが、畿内(きない:山城・大和・摂津、河内・和泉の諸国)には、その影響は殆どなかったようだ。

荘園内の中心部に集落を形成して荘民の結束を固め、集落の周囲を田畑で囲むような自治体を「惣」または「惣村(そうそん)」という。
惣村の中の有力者が代表(乙名:おとな:経験を積んだ複数の長老たちで、惣年寄ともいう)に就き、乙名の中には荘民から年貢米の地下請(じげうけ)などをやって、領主へ年貢を納めていたようだ。

地下請は、豊作・不作に拘わらず、毎年一定量の年貢米や特産品を領主に納めればよく、不作の時のリスクはあるが、地下請を行う惣年寄には惣民から手数料が得られ、領主からも信用もされ、子孫が継続することによって惣年寄たちは資産家になっていった。

惣村では、氏神神社の祭礼は惣村の結束力を高めるために重要な行事であった。神輿の渡御などは氏神神社の氏子構成員が中心になって祭祀(さいし)を行うが、氏子たちが会所に集まって、役割分担などを決めるのを宮座(みやざ)と言う。
宮座の代表には、乙名(おとな:惣年寄)が就任していたので、宮座の代表者が惣村の代表者と考えられるようになった。
平野荘の氏神神社は杭全神社であるが、杭全神社の創建者は、坂上広野麿の子孫だと伝えられている。

平野荘では、惣の代表になれるのは、坂上広野麿の嫡子の家系であるが、その宗家を「平野殿」と呼ばれるようになったらしい。しかし、平野荘は坂上宗家のワンマン統治ではなく、坂上家の分家も参加して、堺の会合衆(えごうしゅう)のような、坂上七名家(七苗家:しちみょうけ:野堂、則光、成安、利則、利國、安國、安宗)による七番頭の合議制を採った。※後に、野堂家は末吉、則光家は井上、利則家は三上、利國家は土橋、安國家は辻葩(辻花)、安宗家は西村と改称した。(坂上七名家の記事は、平野郷町誌を参考)

平野の地名は、荘園を開墾した広野麿の広野(ひろの)を地名に採用し、最初は広野だったが、やがて広野が平野(ひらの)に訛(なま)ったものとされている。

個人的には、平野という地名は、約500年間も宇治平等院の寺領(寄進地系荘園)でもあったことから、平等院の「平」と広野麿の「野」を合成して平野になったのではないかと思う。
その根拠の一例として、岸和田が「岸」という地名と「和田高家」という領主の名を合成して生まれた地名だから。


写真上は、平安時代初期に建てられた平野本町3丁目4-23 にある長寶寺で、坂上家の氏寺である。
征夷大将軍であった坂上田村麻呂が娘(坂上春子:桓武天皇の妃)が、桓武帝崩御の後に出家し、慈心大姉と号したので、兄・広野麿の荘園の中に本山を開基して、尼僧になった春子が法灯を守って住んでいたと伝えられている。正門には「後醍醐天皇行在所跡」の碑が誇らしげに建てられている。

写真下は、平野本町3丁目にある、平安時代に建てられていた坂上広野麿の屋敷跡の記念碑。碑の近くには坂上家宗家の血筋に当たる末吉家の邸宅が現存している。(2009/4/15・docomoのらくらくホンで撮影)


豊臣・徳川時代の初期

平野商人(政商)の誕生と光と影

坂上七名家で野堂家の血筋から、「末吉(すえよし)」の姓を名乗る者が現れ、やがて末吉家は、末吉藤右衛門行増の代に5名の男子がいて、長男は「末吉藤左衛門増久」を名乗って東家に、次男は、「末吉勘兵衛利方」と名乗って西家の家系に分かれた。

末吉の東西両家は、ともに時の権力者と巧みに結びついた政商となって、平野郷の歴史に大きな影響を与えた。
しかし、大坂の役(おおさかのえき)で、豊臣方についた東家と、徳川方についた西家では、江戸時代になってから明暗がハッキリと分かれてしまったようだ。
この続きは、平野郷を歩くPART 2は、こちらです。

 
 
 
 
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