さて、日本人はいつ頃から綿布で作った衣服を着るようになったのか?ぼくは、このエッセイを書くまで、殆ど知らなかった。
弥生時代の遺跡発掘などの出土品から、当時の日本人はすでに麻布の衣類を着ていたと考えられているが、綿で織った衣類は中世の頃まで無かったらしい。
綿の種子が日本に渡来したことが文献で明らかになったのは平安時代の初期で、三河国幡豆郡(はずぐん)天竹村(てんじくむら)に漂着した崑崙人(こんろんじん:インド人)だとされている。
この人物の名前は言葉が通じず不明だったが、この崑崙人は綿の種子を入れた壷を持っており、三河の国司は崑崙人が三河に渡来した報告と、崑崙人が持参していた種を蒔いて良いかどうかを使いを通じて桓武天皇に上奏した。桓武帝は大変お慶びになり、崑崙人が持っていた種子は各国の国司に分配され、畿内五国や三河で綿の種が蒔かれたが、日本の風土に合わず、うまく育たなかったらしい。
15世紀の室町時代にも綿の種子が渡来人によって持ち込まれ、綿の栽培が実験的に行われていたが、良質の実に育てるのが難しくて、綿布は中国や朝鮮からの輸入品に頼っていた。
綿が本格的に栽培されるようになったのは、16世紀の初めで、綿布の需要が急増した戦国時代の頃になる。この頃になって、ようやく綿の栽培が上手くいくようになり、摂津国・河内国・和泉国で綿花の栽培が急増し、三河国や伊勢国にも栽培が広がっていった。
16世紀中期には、実綿問屋(綿の実の集荷を専業とする)、繰綿問屋(実綿から不純物を除去した加工品と綿糸を扱う)、綿織物(綿布を扱う)の問屋ができて、分業システムが成立した。
江戸時代になると江戸に近い三河木綿は、江戸や関東方面へ送られ、三河の名は木綿の産地として全国的に有名になった。
明治16年、愛知県幡豆郡天竹村(現在は愛知県西尾市)に「天竹神社(てんじくじんじゃ:天竺神社とわれる)」が創建され、平安時代初期に渡来した崑崙人を日本に綿を伝えた始祖として祀られているらしい。
摂津国の平野郷も、江戸時代には繰綿業が盛んになり、宝暦13年(1763年)に刊行された摂州平野大絵図には、平野産物として、平野繰綿(ひらのくりめん)と平野錘(ひらのつむ)が書かれており、
平野繰綿には、「摂・河・泉ノ綿ヲ繰出シ、諸国ニ商フ」、平野錘には「女工(ジョコウ)車ニ懸(カケ)テ、糸ヲ牽クノ具(道具)也」と注釈が添えられている。
因みに平野区の花は「綿の花」になっているが、戦後生まれの殆どの方は綿の実をご覧になったことはないと思う。
ぼくは中学生の頃に、祖母が自宅の庭で綿の木(植物学的には草)を数本育てていた思い出がある。
大正時代の初期、祖母も結婚するまでは、和歌山の紡績工場で働いていたと話していた。だから、ぼくの母は、大正5年に和歌山県の海南市で生まれ、祖父は紡績会社の技師として働いていた。
大阪市内で、綿の花や綿の実を見たい方は、平野区瓜破東6丁目(うりわりひがし:瓜破霊園の南端)に、小学生の教材用に一反(300坪;990平米)ほどの「区民わた畑」があって、外から見えるし、平野区役所に頼めばカギを開けて、開花や実ができる頃に見学ができる。
平野区の喜連や瓜破の小学校では綿摘みの実習や綿糸作りの実習が行われている。綿は、アオイ科ワタ属の多年草の植物で7〜8月に開花し、8月下旬には綿の実が出来て、やがて実がはじけて綿が飛び出し、それを摘むことが出来る。
宝永2年(1705年)の平野郷町は戸数2,625軒、人口10,686人に対し、職人が1,212人もいた。
平野郷町の代官所の調べでは、この内、綿実買32人、木綿繰屋166人で、繰綿買問屋9人、繰綿売問屋8人、問屋の場合は兼業もあるので、綿に携わる職人が207人もいた。
これは、宝永元年(1704年)大和川の川違(たが)えによって、大和川の流路が柏原から西進して堺港の北に流れ、長年に亘って水害に苦しめられていた中河内郡の農民は、水害の被害が解消したので、新田開発に奮闘することになった。
平野川の水源は、新大和川が出来るまでは、南河内郡の狭山池を水源としていたが、川違えによって、東除川との接続が途切れ、平野川の上流は、柏原付近の樋門から大和川の水を引くことになり、人工の水路が開削され、舟が往来出来るようにされた。
中河内の土壌は、過去の水害の影響で石の混じった土砂が多く、稲作よりも綿の栽培に適し、また綿が米よりも高く取引されるようになっていたので、新田では綿を栽培する農家が急増したのである。
柏原(かしわら)村で集荷される原綿は、柏原の古町から原綿20石(こく:米20石なら3トン)積みの「柏原船」に積み、弓削(現在は八尾飛行場で分断)を通って、八尾の亀井で平野川に入って杭全神社の隣にあった港に荷揚げされていたらしい。
原綿は、平野郷町にある木綿繰屋(もめんくりや)で繰綿や綿糸に加工していた。
綿繰りは女性の仕事で、行程は「綿くり」、「綿打ち」、「糸くり」の順で行い、1日のノルマは50匁(もんめ)であった。5匁の糸を10袋分作って1日の作業が終了。それ以上の分は職人の「へそくり」になっていたようだ。へそくりの語源は糸くりにあったのか!
※へそくりは、お腹にある臍には関係なく、綜麻(へそ)という紡いだ麻を巻き付けた糸巻きを意味する。
明治になると、明治政府は産業の近代化に力を入れ、手作業から機械化を奨励し、綿布を大量に生産するために綿糸の需要が急増した。
河内綿は繊維が太く短かったので、蒸気機関を応用した動力織機による綿糸や綿布の大量生産には向かず、明治政府は関税を撤廃して価格の安い外国綿の使用を認めたので、河内綿の生産農家は、輸入原綿との価格競争に太刀打ち出来ず、次々と廃業に追い込まれたようだ。
大阪では大阪市ができる1年前(明治21年)に、財閥の鴻池善右衛門氏の他に19名の有志が発起人となって、大阪電灯(関西電力の前身)が創立された。明治15年に東洋一の大阪紡績(後に東洋紡)が出来たので、明治22年から、大阪紡績に電灯用電気を供給して、12時間勤務の昼夜二交代制で、綿糸や綿布の製造が行われるようになった。その当時の大阪人の殆どは、江戸時代と変わらない、菜種油のランプの明かりで晩御飯を食べていた。だから、夜は真っ暗。提灯を持って外出した。
明治22年(1889年)に、大阪市4区(北区・東区・南区・西区)が発足。
大阪市のキタの顔である梅田は、まだ大阪市域には入らず、大阪府西成郡曽根崎村梅田のままで、堂島は大阪市北区に編入。明治7年に大阪〜神戸間が開通した官営鉄道(工部省鉄道寮)の大阪停車場があった。大阪市のミナミの顔である難波(なんば)も、大阪府西成郡難波村のままであったが、明治18年に開業した民営鉄道の阪堺鉄道(南海)の難波停車場があった。駅の周りはネギ畑であった。しかし、島之内は大阪市南区に編入された。天王寺も、大阪府西成郡天王寺村であって、田圃に囲まれた民営の大阪鉄道(後に関西鉄道〜国鉄へ)の天王寺停車場があった。
なぜ、主要な駅が大阪市外になったのかというと、利権が絡んでいる。明治22年当時の大阪の鉄道は、馬車鉄道を除いて、政府の官営鉄道も民鉄も汽車鉄道だったので、当時の汽車は、煙突から火の粉が飛び散ると役人が信じていて、当時の大阪市内は殆ど木造建築だったので、大阪市の防火対策として、大阪市内の住宅密集地に鉄道の線路を敷いたり駅を造ってはダメという決まりがあったのだ。
明治36年には大阪市電が走るようになったが、大阪市側は、市内の道路は大阪市の経営による市電(昭和になって地下鉄も)を走らすため、市内に大阪市営以外の鉄道敷設の免許を与えなかった。
また、2万人が就業する人力車組合が、市街地に鉄道が走ると、客が汽車に取られて営業妨害だと反対した。今では信じられない理由である。
「平野駅」が出来る大阪鉄道(初代の大阪鉄道、後に関西鉄道と合併)が開業することを年頭に置いて、平野郷の坂上七名家で宗家筋に当たる末吉家が有力商人を集めて発起人とし、明治20年(1887年)に平野紡績を大阪府住吉郡平野郷町大字泥堂(現在は大阪市平野区平野元町)に創立した。資本金は50万円(発行株数は20,000株)であった。
因みに明治22年(1889年)の50万円を現在の貨幣価値に換算すると、当時の尋常小学校の教員の初任給が5円なので、現在が20万円だとすると、40,000倍だから、120億円ぐらいになるようだ。
末吉家が中心になって経営する平野紡績は、英語の堪能な工学博士・菊池恭三氏を大阪造幣局から引き抜いて工務長として採用し、渡航滞在費や研修費に4000円(今なら1億6千万円)という大金を渡して英国へ派遣させて、当時は紡績技術面において世界最先端であったマンチェスターで紡績技術を学ばせるなどして、平野紡績は平野郷を代表する会社になっていた。
しかし、帰国数年後に工務長の菊池氏はライバルの尼崎紡績に引き抜かれ、末吉家は会社経営から退き、その後の平野紡績は筆頭株主の金沢仁兵衛氏が社長になった。金沢氏は北浜銀行の経営にも参加するほどの人物であったが、本業の業績が次第に悪化して明治35年に平野紡績は摂津紡績に吸収されたのであった。平野紡績は、菊池氏に払った4000円の研修費を尼崎紡績が負担すべしと、研修費の返還を求めたが、聞き入れられなかった。
やがて、摂津紡績は尼崎紡績と合併して大正7年(1918年)に大日本紡績になった。社長には、元平野紡績の工務長であった菊池恭三氏が就任した。ということは、これでチャラになったのかなぁ。
ところで、綿紡産業というのは、ぼくには理解しがたいが、販売収益が内外の景気に左右されやすく、そのため、まだ、産業ロボットを駆使したオートメーションの時代ではないので、手作業の製造コストを下げるのが事業経営の要になっていた。
その皺寄せは、労働者を低賃金で長時間働かすことを意味する。1910年に大日本帝国政府は大韓帝国を合併吸収し、そのメリットを活かすため、日本国内の諸産業は、朝鮮半島から人件費の安い労働者を大量に雇用することになった。
大正11年(1922年)に、尼崎汽船が大阪港と済州島(チェジュド)を結ぶ定期航路が開業して「第一 ・君が代丸(1922〜1945)」と「臨時便の第二・
君が代丸」の貨客船が定期就航して、乗客の大半は、済州島で募集した大勢の朝鮮人出稼ぎ労働者だった。(これが太平洋戦争前まで続いたので、従軍慰安婦の強制連行だと捏造されている)
出稼ぎの多くは、貧しい家庭の未成年で、10才〜19才の女子が70%ぐらい。当時は労働基準法という法律がなかったのか?昼夜二交代制の12時間勤務で25日も働いて、日給が1円(月給で25円)。因みに1922年当時の大卒公務員の初任給が1日8時間の20日勤務で80円だったらしいので、日給が4円だ。参考に当時のカレーライスが、25銭であった。
出稼ぎ労働者には、仕事着や寮費と食事代は紡績会社負担なので、親元は、口減らしのために、賃金が安くても出稼ぎに出したものと思われる。当時の大阪には、大阪紡績、摂津紡績、尼崎紡績、平野紡績など、十数社の紡績会社があって、朝鮮からの出稼ぎ女性を女工として雇った。男子の織工は女子の5分の1の比率だった。彼女らは大阪に住み着き、伴侶を見つけて大阪で所帯を持ち、やがて、住みやすい大阪に同化して、生野区鶴橋のようなコリアンタウンを形成した。
当時の済州島には、乗客定員350名、700トンの船が入港できるような港はなく、「君が代丸」は済州島を一周して十数カ所の沖合に投錨し、艀(はしけ)を使って乗客や貨物を運んだ。大阪への出稼ぎ希望者が多く、定員の2倍の乗客を運んでいたらしい。出稼ぎの目的は、大阪の紡績会社で働くことだが、中には給料が安くてキツイ女工の仕事ではなく、女衒(ぜげん)の甘言に乗り、風俗で働いて金を貯め、故郷の父母をラクにさせたい夢を見て、辛酸を嘗めた子も少なくないと思われる。
平野紡績が前身の大日本紡績は、戦後になってニチボーと社名が変わり、1964年の東京オリンピックでニチボー貝塚をコアとした女子バレーチームが、強敵のソ連チームを破って「金メダル」を獲得。ニチボーの名を日本全国に広めたが、ニチボーとニチレ(日本レイヨン)が合併した「ユニチカ」は、価格の安い新興国で生産される繊維製品の輸出攻勢で、国内の紡績産業は次第に低迷し、平野工場を売却し、その跡地には、スーパーの「イズミヤ」やマンションが建っている。
ところで、平野には清酒の「平野酒」があると聞いて街中を探したが、見つからなかった。現在の平野には造り酒屋はないようだ。
織田信長の時代には、そのような地酒があったそうだが・・・。OEM生産の平野酒は平野の一部の酒屋で販売されているが、ぼくは、日本酒にこだわりがあって、特定メーカーさんの「純米吟醸酒」しか飲まないので、パスしている。
平野に長くお住まいの方々にお訊きすると、杭全神社の夏祭り(平野郷の夏祭り)は、だんじり宮入の時は国道25号線を自動車通行止めにして、大鳥居前でだんじりを激しく揺らす「舞え舞え」のパフォーマンスが行われ、岸和田祭礼のカンカン場に劣らない盛り上がりがあるそうだ。宵宮や本宮には、露店も沢山出店する。
(※1:野堂町だけは、北組・東組・南組が独立して、それぞれにだんじりを保有している)
また、平野郷の北北東にある、加美正覚寺(かみしょうかくじ)の町内にも、最近になって泉州型の下だんじりが新調されて旭神社に宮入する。ここのだんじりは「やりまわし」を行うらしい。
2007年7月には「平野郷の夏祭り」を密着取材したが、お祭りがある町って活気があっていい。
主な参考文献「大阪市東住吉区史(大阪市発行)」
「大阪府東成郡平野郷町誌(同町発行)」
「江戸事情(NHKデータ情報部 第2巻・第3巻)
「甦る平安京(京都市発行)」
2014年1月31日に更新
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