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平野郷を歩く(後篇)

大阪市平野区の旧本郷七町と周辺の町

(今回は、テキストの文字を大きくし、字間も広げて読みやすくしましたので、2ページです)

2007年2月11日、2009年2月3日、3月11日、
2012年10月2日、2014年1月31日 更新
写真と記事:尾林 正利

平野区の花は、コットン(綿花)


(平野区瓜破東に区民わた畑があって、9月に喜連地区や瓜破地区の小学校の生徒がわた摘みをする)


豊臣・徳川時代の初期

平野商人(政商)の誕生と光と影

坂上七名家で野堂家の血筋から、「末吉(すえよし)」の姓を名乗る者が現れ、やがて末吉家は、末吉藤右衛門行増の代に5名の男子がいて、長男は「末吉藤左衛門増久」を名乗って東家に、次男は、「末吉勘兵衛利方」と名乗って西家の家系に分かれた。

末吉の東西両家は、ともに時の権力者と巧みに結びついた政商となって、平野郷の歴史に大きな影響を与えた。
しかし、大坂の役(おおさかのえき)で、豊臣方についた東家と、徳川方についた西家では、江戸時代になってから明暗がハッキリと分かれてしまったようだ。

先ず、西家の末吉勘兵衛利方は、堺の北の庄と南の庄で、天正11年(1583年)に馬座の権利を取得し、馬の売買と馬を使って運送をする独占権を得て、行商に乗り出した。
東家の末吉藤左衛門増久の次男・増重は天正11年(1583年)に秀吉から越前にあった北袋銀山の採掘権を所得し、文禄2年(1593年)に秀吉から朱印状を受けて鉱山採掘を行った。

豊臣・徳川時代は現代と違って、他国(外国ではなくて、今で言うと他の都道府県のこと)へ旅行するのは制限されていた。また、他国で商売するには、藩主発行の商用ビザが必要だったのだ。

現代では大阪から東京まで商用で出張するには、乗車券と座席指定の特急券を買って東海道新幹線に乗れば、東京までパーッと行けるが、豊臣・徳川時代の日本は、通行手形という身分証明証(摂津国の代官が発行:今なら平野区役所発行の住民票に相当)と、出張先の国の藩主の朱印状または黒印状(江戸城主の発行:今なら東京都知事の営業許可証に相当)が必要だったわけである。

だから、非常に面倒くさい。徳川時代の東海道には箱根に関所があって、ここで通行手形の検札があった。
今でも江戸幕府が続き、そのような規則や制度があれば、上下の「のぞみ」は「三島駅」で30分停車して、沼津奉行(今なら沼津署)の署員が車内に乗り込んできて、乗客の通行手形を検札するとなると、日本の経済に大きな支障が出る。
やはり、日本は封建主義時代には戻らない方がいいね。

平野郷は摂津国にあり、豊臣・徳川時代の平野商人は畿内(きない:山城国、大和国、摂津国、河内国、和泉国の五国)の往還は自由であったが、畿外に出て商いを行うには、諸国往還の許可証と商売保護の保証の二通が必要であった。

東家の末吉藤左衛門増久の次男・増重は、天正16年(1588年)に、秀吉から諸国往還の朱印状を受け、最上藩(もがみはん:山形県)から藩内の通関往来の黒印状を得た。
西家の末吉勘兵衛利方は、天正16年(1588年)に、岡崎城主であった家康から免船六隻分の国内港湾の出入りを許され、後に家康が関八州を領有したことで、大坂〜岡崎〜関東間の廻船業に弾みがつくようになった。

豊臣時代の平野荘は、秀吉の正室「おね、又は、ねね。高台院)」の領地になり、勘兵衛利方は、家康とも親しかった高台院を通じて、家康に便宜を図って貰ったものと思われる。

慶長3年(1598年)に秀吉は伏見城にて病死した。秀吉が命じた朝鮮出兵は依然として継続しており、豊臣家臣の中で出兵継続派と撤退派の抗争が起って、豊臣政権は盤石(ばんじゃく:強固)なものでは無くなっていた。
弟の秀長の死により、豊臣政権の行方に不安を感じていた晩年の秀吉は、亡くなる前に「五大老・五奉行」の制度を設けて、筆頭大老の家康に実子「秀頼(ひでより:側室・淀との子」の後見人に任命して臣従を誓わせていた。

しかし、秀吉の死後間もなく豊臣政権は脆くも崩れ出し、慶長5年9月(1600年10月)に家康と石田三成がそれぞれの派閥大名を巻き込んで争う、天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」が起こった。
結局、家康が関ヶ原の合戦に勝利し、家康は慶長8年(1603年)に伏見城で「征夷大将軍」を宣言し、同年より江戸城で徳川家による「江戸幕府」を開いた。恩賞のあった外様大名は石高が加増されたが、家康に背いたので江戸より遠い西の国へ移封となった。
外様の扱いに家康らしい慎重さがみられるが、豊臣家の処遇が難題になった。

秀吉の実子・秀頼を改易(かいえき:財産と地位を没収して平民にする)してしまうと、秀頼の後見人であった家康は諸大名から信用を失い兼ねないので、家康は秀吉との約束を守って、三男秀忠(ひでただ)の娘「千姫(せんひめ:側室の西郷局との子)」を秀頼に嫁がせた。
そして、慶長10年(1605年)に征夷大将軍の地位を秀忠に譲って、秀頼を徳川秀忠に臣従させるように高台院に申し入れたが、秀頼の母・淀君(よどぎみ)が認めなかったので、徳川家と豊臣家の関係がギクシャクし出したのであった。

慶長19年(1614年)、そんな折りに豊臣家が五年もかけて、秀吉の供養のために建てていた方広寺で「鐘銘事件」がおこり、梵鐘に彫られた「国家安康君臣豊楽」の銘文が問題になった。
この銘文は、大坂奉行の片桐且元が南禅寺の僧に選定させて鐘に彫らせたものだが、この銘文を家康が側近の僧や学者に解読させたところ、国家安康は、家と康を分断(徳川家を分断)し、君臣豊楽は、臣と豊が逆にくっついて豊臣家の再起繁栄を願っているとして、徳川家にとっては不吉な銘文であるとして家康を立腹させた。
家康は方広寺での秀吉の供養を延期させ、梵鐘を撞くのを禁止させたのである。

豊臣家は、奉行の片桐且元ほか数名を家康の居城・駿府城に遣わせたが、話がまとまらず、上げた拳を下ろすには、家康が納得するような豊臣側の譲歩が必要であった。
片桐且元は、家康のほとぼりが冷めるまで秀頼を大坂城から退去させれば解決できるとしたが、関ヶ原合戦の仕返しを果たしたいと思っていた強硬派の家臣は、方広寺の一件は家康の挑発だとして弱腰の奉行を追放し、合戦準備に入ったのである。家康の方も融和に応じない淀君の態度を察して合戦準備を密かに進めていた。
これが大坂の役(おおさかのえき)の原因である。

関ヶ原の戦いでは、平野郷は兵火に遭わなかったが、大坂の役では、再三に渡って兵火を受けた。
慶長19年(1614年)、家康と秀忠は、二条城に末吉孫左衛門吉安(西家)を召して、平野郷の安堵の朱印状を与えた。
同じくして、豊臣方からも末吉家の東家に、豊臣方に忠誠であるなら平野郷安堵の褒美を与えるという秀頼の黒印状が届けられたそうだ。

平野郷では、どっちにつくか、東西の末吉家が中心となって七名家で話し合いが長引いたが、結果として徳川側に味方することになった。
再び末吉孫左衛門吉安(以下吉安と記述)は、京の二条城で指揮を執る家康に召され、「平野郷は大坂城兵の出陣が予測され、先に徳川方の兵を平野郷の警備につけるので、河内に向かっている三将の軍の道案内をせよ」との命令が下った。
吉安は京から下って、枚方(ひらかた)で陣を張っていた三将に会って平野まで道案内して、加美の鞍作(くらつくり)村まで来たところ、豊臣方の城兵が先に平野郷へ入って年寄(としより:平野郷町の責任者)5名を捕らえて、町内に放火した直後であった。

吉安も急いで帰郷して消火にあたり、徳川軍は、大坂城兵が襲ってこないように頑丈な門を設置して平野郷に守備兵を残して大坂城方面に向かった。
家康・秀忠も平野郷を通って、家康は茶臼山(現在は天王寺公園内)に、秀忠は岡山(現在の生野区勝山)に陣を張って大坂城本丸への攻撃態勢に入った。

家康と秀忠が率いる徳川軍は、朝鮮の役より4万人多い20万人の軍勢で大坂城を囲み、じりじりと近寄って、大砲300門で大坂城天守閣に向かって集中砲撃し、何発かは天守に着弾したので、籠城して家臣を指揮していた淀君は、和議に応じることになった。

しかし、翌年の慶長20年(元和元年:1615年)に再び合戦が起こった。
壕が埋められて丸腰になった大坂城での戦いが不利とみた豊臣方は、城外に出撃する作戦を立て、真田左衛門尉幸村と後藤又兵衛基次の軍勢は、大坂城から道明寺へ、長曽我部盛親の軍勢は八尾へ、木村重成の軍勢は、若江へ進軍した。

これに対し、徳川軍の主力は道明寺から平野を経由して大坂城へ進軍し、八尾街道が通る平野は、両軍の往来が激しかったので、平野郷の近くで壮絶な白兵戦が多く、両軍に死傷者が続出した。二度の役で平野郷でも大念仏寺の本堂や伽藍が焼かれ、かなりの町家(商家)や民家が兵火に見舞われたようだ。

大坂の役が終わって翌年の元和2年(1616年)に、幕府は吉安に平野郷の町制を行うように命じ、碁盤の目のような町割になるように道路を整備させた。これは、大坂の役の時に実際に家康と秀忠という二人の徳川家の将軍が平野郷を訪れており、兵火によって半ば焦土と化した平野郷の再生には、この際、町割をスッキリさせた方が町の美観と保安上において都合が良いと判断したからだろう。

さらに家康は吉安を二条城に召し、平野郷及び畿内五郡の代官に任ずるという恩賞を与え、吉安は志紀郡と河内郡の代官になった。
一方、東家の末吉藤左衛門増重は秀吉の正室・高台院の台所(だいどころ:金庫番・会計係)に命じられており、豊臣色が強かったので徳川家からは疎遠にされたようだ。

平野商人による銀座の設立と朱印船貿易

さて、末吉の西家が隆盛を極めたのは、銀座(銀行)の設立と朱印船事業(貿易事業)であった。
先述したように、吉安の父・利方の代から、家康の領地に免船6隻分の港湾出入りが許されて、太平洋沿岸航路の廻船業が始まっていた。

秀吉と家康の共通しているところは、外国文化に対する旺盛な興味であった。
秀吉は日本独特の封建主義体制に合わない天主教(てんしゅきょう:キリスト教)を禁じ、伴天連(バテレン:宣教師・ポルトガル語のPadreに由来)を国外に追放したが、南蛮貿易に関しては国益になるとして、航海の安全を期すために西国諸藩に和冦(わこう:日本の海賊)退治を行わせ、文禄元年(1592年)に、長崎・堺・京の商人に朱印状を与え、8商人から9隻の朱印船が長崎から出航した。

秀吉の狙いは、唐船(東南アジアと通商)・蘭船(西欧と通商)による、外国人の貿易独占を日本の商人たちにも門戸を広げたかったからである。
平野の末吉家(西家)が朱印船貿易に加わるのは徳川の時代で、慶長9年(1604年)〜慶長15年まで呂宋(ルソン:フィリピンのルソン島)に航海したことが記録されており、京の清水寺に奉納された末吉家の絵馬には、寛永9年〜11年の朱印船の絵馬がある。(※平野区役所の1階ロビーにも複製を展示)

末吉家(西家)の朱印船貿易は父の利方、子の吉安、孫の長方、曾孫の長明の4代まで続き、寛永13年(1636年)の鎖国実施(邦人の海外渡航禁止令)の時まで貿易事業が続けられていたようだ。

一方、銀座の方だが、銀座というのは今でいうと日本銀行や造幣局みたいなものである。品質の一定した品位の高い貨幣を鋳造して、貨幣経済の利便性を高めるため、国内市場に流通させる必要がある。
家康は、関ヶ原合戦後に、豊臣家から佐渡金山などを手に入れたことにより、金・銀・銭(せん・銅銭)の三種の貨幣制度を設け、中でも純度84%の金貨・慶長大判は有名で、小判や一分金も鋳造された。

しかし、銀貨に関しては「秤量貨幣(ひょうりょうかへい)といって、形の不揃いな丁銀・豆板銀が発行され、銀貨の重さで金貨と換金された。このため両替商なる商売が生まれた。
銭に関しては、室町時代の頃に、明のから大量に輸入した「永楽通宝(永楽帝時代の通貨)」という銅貨が国内で一文銭(いちもんせん)として流通していた。一文銭は、今の1円玉よりは値打ちがあったと思う。銅貨やからね。それに、今の1円では何も買えない。あんパン買うのに1円玉が80枚〜100枚も要る。

慶長6年(1601年)末吉勘兵衛利方は伏見城にいた家康に召された。この時、「願いあらば申せ、聞こう」との有難い仰せに、利方は、国内通貨を一定にして商いの利便を図り、とくに銀貨の品位を高め、極印(ごくいん:保証印)を打って通貨としての信用を維持したいことを述べた。
家康は快諾し、利方と後藤庄三郎の両名を頭取として伏見に銀座を設置した。

銀貨の鋳造は、既に伏見鋳造所が3年前に出来ていて、堺の銀吹き商人・湯浅作兵衛常是(大黒常是:だいこくじょうぜ)によって、大黒印を打った銀貨が製造されていたが、家康公認の銀座の設置によって、常是の鋳造所は伏見銀座の銀吹所となった。

大黒常是の方は、幕府に命じられて江戸にも銀座を開いた。銀座は東京が発祥と誤解している方が大変多いが、実は京都の伏見が始まりでなのである。
銅貨に関しては、寛永3年(1626年)に水戸の豪商が「寛永通宝」が鋳造し、出来が良かったことから、幕府は公用通貨として輸入銅貨の永楽通宝を廃し、寛永13年から幕府の鋳造所で寛永通宝の製造が本格化した。寛永通宝は、明治維新頃まで流通したそうだ。

このように末吉家(西家)は隆盛を極め、大坂の横堀川に私財を投じて橋を架けた。その名は「末吉橋(昔は孫左衛門橋)」である。※末吉橋は大阪市営地下鉄の鶴見緑地線の松屋町駅出口の傍にある。
末吉橋は明治43年まで木橋であったそうだが、やがて大阪市電の鉄橋になり、現在は鉄筋コンクリート製の橋である。何度も架け替えられているため、往時のイメージは全くない。

平野郷の町割の完成

元和2年(1616年)に、江戸幕府は代官で平野商人の末吉孫左衛門吉安に命じて、大坂の役で兵火に遇った平野郷の修復工事を命じた。
その後約150年経った宝暦13年(1763年)に製作された絵地図「摂州平野大絵図」を見ると、昔は平野郷町の市街地の外に二重の環壕(かんごう)が掘ってあったようだ。
奈良街道(今の国道25号線)は、江戸時代から平野郷を横切っており、その他の街道の出入口にも、合計十三カ所に木戸口(扉のある惣門)があって、木戸口の傍に遠見櫓(とおみやぐら)や門番屋敷・地蔵堂があって、門番が街道に出入りする通行人から荷物の点検などを行っていたらしい。

平野郷の環壕は、昭和初期の地図を見ると、阪堺電気軌道が大正3年4月(1914年)に今池〜平野間が開通し、それから10年経った頃でも環壕は未だかなり残っていた。但し、平野郷十三口の惣門は、明治15年(1883年)のコレラ流行の2年後に撤去されたようだ。

阪堺電気軌道の平野線は、地下鉄谷町線と路線が競合することから、昭和55年11月(1980年)に廃線になり、66年間も平野郷町の人々に親しまれた八角形の平野駅の駅舎とチンチン電車が平野区から消えた。また、環壕も殆ど埋め立てられて、古(いにしえ)の面影はない。

平野郷は、江戸時代初期にできた碁盤の目のような町割に、今でも築150年ぐらいの町家(商家)や土蔵、民家が所々に残っているところである。平野郷だけでなく、その周辺の喜連4丁目周辺にも、レトロチックな街並みが残っている。これは、太平洋戦争末期の頃、平野区(戦時中は東住吉区)がB-29による大空襲の攻撃目標から外され、平野付近が殆ど被弾しなかったことによる。

現在でも見られる平野郷の環壕跡は、平野郷の氏神神社である「杭全神社(くまたじんじゃ)」の東側に残っている。神社の東側は「柏原船(かしわらせん)」などの船着き場(お茶池)を埋め立てた、桜の名所・杭全公園があって、公園の北側に鯉を放流した環壕の名残が見られる。

明治時代以降の平野郷

明治維新後の廃藩置県で、摂津・河内・和泉の三国は合併して大阪府(一時、大阪府の名が消えて堺県大坂三郷になったこともある)になり、明治22年(1889年)になって大阪市が誕生した。
この時の大阪市は、大坂三郷(北組・天満組・南組)を4区制にし、東区・西区・南区・北区でスタートした。大阪府知事と大阪市市長が兼任し、庁舎も兼用であった。

明治22年(1889年)の平野郷町と喜連村は、大阪府住吉郡に編入。瓜破村と長吉村は丹北郡へ、加美村は渋川郡へ編入された。
明治29年(1896年)に住吉郡と東成郡が合併して東成郡へ、丹北郡と渋川郡が合併して、中河内郡になる。
大正14年(1925年)に東成郡の平野郷町と喜連村は大阪市住吉区に編入。
昭和18年(1943年)に住吉区から、住吉区・阿倍野区・東住吉区が分区し、大阪市は22区になる。旧平野郷各町と喜連は大阪市東住吉区に編入。
昭和30年(1955年)に中河内郡の瓜破村・長吉村・加美村が東住吉区に編入。
昭和49年(1974年)に東住吉区から平野区が分区。平野(旧郷町)・喜連・瓜破・長吉・加美は平野区へ編入。

平野郷と綿業

喜連小学校の生徒が、2011/9/12に平野区瓜破東の区民わた畑で「わた摘み」の実習。
生徒たちが採取した棉は、11月に講師を招いて教室で糸繰りの実習体験をするらしい。


さて、日本人はいつ頃から綿布で作った衣服を着るようになったのか?ぼくは、このエッセイを書くまで、殆ど知らなかった。
弥生時代の遺跡発掘などの出土品から、当時の日本人はすでに麻布の衣類を着ていたと考えられているが、綿で織った衣類は中世の頃まで無かったらしい。

綿の種子が日本に渡来したことが文献で明らかになったのは平安時代の初期で、三河国幡豆郡(はずぐん)天竹村(てんじくむら)に漂着した崑崙人(こんろんじん:インド人)だとされている。
この人物の名前は言葉が通じず不明だったが、この崑崙人は綿の種子を入れた壷を持っており、三河の国司は崑崙人が三河に渡来した報告と、崑崙人が持参していた種を蒔いて良いかどうかを使いを通じて桓武天皇に上奏した。桓武帝は大変お慶びになり、崑崙人が持っていた種子は各国の国司に分配され、畿内五国や三河で綿の種が蒔かれたが、日本の風土に合わず、うまく育たなかったらしい。

15世紀の室町時代にも綿の種子が渡来人によって持ち込まれ、綿の栽培が実験的に行われていたが、良質の実に育てるのが難しくて、綿布は中国や朝鮮からの輸入品に頼っていた。

綿が本格的に栽培されるようになったのは、16世紀の初めで、綿布の需要が急増した戦国時代の頃になる。この頃になって、ようやく綿の栽培が上手くいくようになり、摂津国・河内国・和泉国で綿花の栽培が急増し、三河国や伊勢国にも栽培が広がっていった。
16世紀中期には、実綿問屋(綿の実の集荷を専業とする)、繰綿問屋(実綿から不純物を除去した加工品と綿糸を扱う)、綿織物(綿布を扱う)の問屋ができて、分業システムが成立した。

江戸時代になると江戸に近い三河木綿は、江戸や関東方面へ送られ、三河の名は木綿の産地として全国的に有名になった。
明治16年、愛知県幡豆郡天竹村(現在は愛知県西尾市)に「天竹神社(てんじくじんじゃ:天竺神社とわれる)」が創建され、平安時代初期に渡来した崑崙人を日本に綿を伝えた始祖として祀られているらしい。

摂津国の平野郷も、江戸時代には繰綿業が盛んになり、宝暦13年(1763年)に刊行された摂州平野大絵図には、平野産物として、平野繰綿(ひらのくりめん)と平野錘(ひらのつむ)が書かれており、
平野繰綿には、「摂・河・泉ノ綿ヲ繰出シ、諸国ニ商フ」、平野錘には「女工(ジョコウ)車ニ懸(カケ)テ、糸ヲ牽クノ具(道具)也」と注釈が添えられている。

因みに平野区の花は「綿の花」になっているが、戦後生まれの殆どの方は綿の実をご覧になったことはないと思う。
ぼくは中学生の頃に、祖母が自宅の庭で綿の木(植物学的には草)を数本育てていた思い出がある。
大正時代の初期、祖母も結婚するまでは、和歌山の紡績工場で働いていたと話していた。だから、ぼくの母は、大正5年に和歌山県の海南市で生まれ、祖父は紡績会社の技師として働いていた。

大阪市内で、綿の花や綿の実を見たい方は、平野区瓜破東6丁目(うりわりひがし:瓜破霊園の南端)に、小学生の教材用に一反(300坪;990平米)ほどの「区民わた畑」があって、外から見えるし、平野区役所に頼めばカギを開けて、開花や実ができる頃に見学ができる。
平野区の喜連や瓜破の小学校では綿摘みの実習や綿糸作りの実習が行われている。綿は、アオイ科ワタ属の多年草の植物で7〜8月に開花し、8月下旬には綿の実が出来て、やがて実がはじけて綿が飛び出し、それを摘むことが出来る。

宝永2年(1705年)の平野郷町は戸数2,625軒、人口10,686人に対し、職人が1,212人もいた。
平野郷町の代官所の調べでは、この内、綿実買32人、木綿繰屋166人で、繰綿買問屋9人、繰綿売問屋8人、問屋の場合は兼業もあるので、綿に携わる職人が207人もいた。

これは、宝永元年(1704年)大和川の川違(たが)えによって、大和川の流路が柏原から西進して堺港の北に流れ、長年に亘って水害に苦しめられていた中河内郡の農民は、水害の被害が解消したので、新田開発に奮闘することになった。

平野川の水源は、新大和川が出来るまでは、南河内郡の狭山池を水源としていたが、川違えによって、東除川との接続が途切れ、平野川の上流は、柏原付近の樋門から大和川の水を引くことになり、人工の水路が開削され、舟が往来出来るようにされた。 

中河内の土壌は、過去の水害の影響で石の混じった土砂が多く、稲作よりも綿の栽培に適し、また綿が米よりも高く取引されるようになっていたので、新田では綿を栽培する農家が急増したのである。
柏原(かしわら)村で集荷される原綿は、柏原の古町から原綿20石(こく:米20石なら3トン)積みの「柏原船」に積み、弓削(現在は八尾飛行場で分断)を通って、八尾の亀井で平野川に入って杭全神社の隣にあった港に荷揚げされていたらしい。

原綿は、平野郷町にある木綿繰屋(もめんくりや)で繰綿や綿糸に加工していた。
綿繰りは女性の仕事で、行程は「綿くり」、「綿打ち」、「糸くり」の順で行い、1日のノルマは50匁(もんめ)であった。5匁の糸を10袋分作って1日の作業が終了。それ以上の分は職人の「へそくり」になっていたようだ。へそくりの語源は糸くりにあったのか!
※へそくりは、お腹にある臍には関係なく、綜麻(へそ)という紡いだ麻を巻き付けた糸巻きを意味する。

明治になると、明治政府は産業の近代化に力を入れ、手作業から機械化を奨励し、綿布を大量に生産するために綿糸の需要が急増した。
河内綿は繊維が太く短かったので、蒸気機関を応用した動力織機による綿糸や綿布の大量生産には向かず、明治政府は関税を撤廃して価格の安い外国綿の使用を認めたので、河内綿の生産農家は、輸入原綿との価格競争に太刀打ち出来ず、次々と廃業に追い込まれたようだ。

大阪では大阪市ができる1年前(明治21年)に、財閥の鴻池善右衛門氏の他に19名の有志が発起人となって、大阪電灯(関西電力の前身)が創立された。明治15年に東洋一の大阪紡績(後に東洋紡)が出来たので、明治22年から、大阪紡績に電灯用電気を供給して、12時間勤務の昼夜二交代制で、綿糸や綿布の製造が行われるようになった。その当時の大阪人の殆どは、江戸時代と変わらない、菜種油のランプの明かりで晩御飯を食べていた。だから、夜は真っ暗。提灯を持って外出した。

明治22年(1889年)に、大阪市4区(北区・東区・南区・西区)が発足。
大阪市のキタの顔である梅田は、まだ大阪市域には入らず、大阪府西成郡曽根崎村梅田のままで、堂島は大阪市北区に編入。明治7年に大阪〜神戸間が開通した官営鉄道(工部省鉄道寮)の大阪停車場があった。大阪市のミナミの顔である難波(なんば)も、大阪府西成郡難波村のままであったが、明治18年に開業した民営鉄道の阪堺鉄道(南海)の難波停車場があった。駅の周りはネギ畑であった。しかし、島之内は大阪市南区に編入された。天王寺も、大阪府西成郡天王寺村であって、田圃に囲まれた民営の大阪鉄道(後に関西鉄道〜国鉄へ)の天王寺停車場があった。

なぜ、主要な駅が大阪市外になったのかというと、利権が絡んでいる。明治22年当時の大阪の鉄道は、馬車鉄道を除いて、政府の官営鉄道も民鉄も汽車鉄道だったので、当時の汽車は、煙突から火の粉が飛び散ると役人が信じていて、当時の大阪市内は殆ど木造建築だったので、大阪市の防火対策として、大阪市内の住宅密集地に鉄道の線路を敷いたり駅を造ってはダメという決まりがあったのだ。

明治36年には大阪市電が走るようになったが、大阪市側は、市内の道路は大阪市の経営による市電(昭和になって地下鉄も)を走らすため、市内に大阪市営以外の鉄道敷設の免許を与えなかった。

また、2万人が就業する人力車組合が、市街地に鉄道が走ると、客が汽車に取られて営業妨害だと反対した。今では信じられない理由である。

「平野駅」が出来る大阪鉄道(初代の大阪鉄道、後に関西鉄道と合併)が開業することを年頭に置いて、平野郷の坂上七名家で宗家筋に当たる末吉家が有力商人を集めて発起人とし、明治20年(1887年)に平野紡績を大阪府住吉郡平野郷町大字泥堂(現在は大阪市平野区平野元町)に創立した。資本金は50万円(発行株数は20,000株)であった。

因みに明治22年(1889年)の50万円を現在の貨幣価値に換算すると、当時の尋常小学校の教員の初任給が5円なので、現在が20万円だとすると、40,000倍だから、120億円ぐらいになるようだ。

末吉家が中心になって経営する平野紡績は、英語の堪能な工学博士・菊池恭三氏を大阪造幣局から引き抜いて工務長として採用し、渡航滞在費や研修費に4000円(今なら1億6千万円)という大金を渡して英国へ派遣させて、当時は紡績技術面において世界最先端であったマンチェスターで紡績技術を学ばせるなどして、平野紡績は平野郷を代表する会社になっていた。

しかし、帰国数年後に工務長の菊池氏はライバルの尼崎紡績に引き抜かれ、末吉家は会社経営から退き、その後の平野紡績は筆頭株主の金沢仁兵衛氏が社長になった。金沢氏は北浜銀行の経営にも参加するほどの人物であったが、本業の業績が次第に悪化して明治35年に平野紡績は摂津紡績に吸収されたのであった。平野紡績は、菊池氏に払った4000円の研修費を尼崎紡績が負担すべしと、研修費の返還を求めたが、聞き入れられなかった。

やがて、摂津紡績は尼崎紡績と合併して大正7年(1918年)に大日本紡績になった。社長には、元平野紡績の工務長であった菊池恭三氏が就任した。ということは、これでチャラになったのかなぁ。
ところで、綿紡産業というのは、ぼくには理解しがたいが、販売収益が内外の景気に左右されやすく、そのため、まだ、産業ロボットを駆使したオートメーションの時代ではないので、手作業の製造コストを下げるのが事業経営の要になっていた。

その皺寄せは、労働者を低賃金で長時間働かすことを意味する。1910年に大日本帝国政府は大韓帝国を合併吸収し、そのメリットを活かすため、日本国内の諸産業は、朝鮮半島から人件費の安い労働者を大量に雇用することになった。

大正11年(1922年)に、尼崎汽船が大阪港と済州島(チェジュド)を結ぶ定期航路が開業して「第一 ・君が代丸(1922〜1945)」と「臨時便の第二・ 君が代丸」の貨客船が定期就航して、乗客の大半は、済州島で募集した大勢の朝鮮人出稼ぎ労働者だった。(これが太平洋戦争前まで続いたので、従軍慰安婦の強制連行だと捏造されている)

出稼ぎの多くは、貧しい家庭の未成年で、10才〜19才の女子が70%ぐらい。当時は労働基準法という法律がなかったのか?昼夜二交代制の12時間勤務で25日も働いて、日給が1円(月給で25円)。因みに1922年当時の大卒公務員の初任給が1日8時間の20日勤務で80円だったらしいので、日給が4円だ。参考に当時のカレーライスが、25銭であった。

出稼ぎ労働者には、仕事着や寮費と食事代は紡績会社負担なので、親元は、口減らしのために、賃金が安くても出稼ぎに出したものと思われる。当時の大阪には、大阪紡績、摂津紡績、尼崎紡績、平野紡績など、十数社の紡績会社があって、朝鮮からの出稼ぎ女性を女工として雇った。男子の織工は女子の5分の1の比率だった。彼女らは大阪に住み着き、伴侶を見つけて大阪で所帯を持ち、やがて、住みやすい大阪に同化して、生野区鶴橋のようなコリアンタウンを形成した。

当時の済州島には、乗客定員350名、700トンの船が入港できるような港はなく、「君が代丸」は済州島を一周して十数カ所の沖合に投錨し、艀(はしけ)を使って乗客や貨物を運んだ。大阪への出稼ぎ希望者が多く、定員の2倍の乗客を運んでいたらしい。出稼ぎの目的は、大阪の紡績会社で働くことだが、中には給料が安くてキツイ女工の仕事ではなく、女衒(ぜげん)の甘言に乗り、風俗で働いて金を貯め、故郷の父母をラクにさせたい夢を見て、辛酸を嘗めた子も少なくないと思われる。

平野紡績が前身の大日本紡績は、戦後になってニチボーと社名が変わり、1964年の東京オリンピックでニチボー貝塚をコアとした女子バレーチームが、強敵のソ連チームを破って「金メダル」を獲得。ニチボーの名を日本全国に広めたが、ニチボーとニチレ(日本レイヨン)が合併した「ユニチカ」は、価格の安い新興国で生産される繊維製品の輸出攻勢で、国内の紡績産業は次第に低迷し、平野工場を売却し、その跡地には、スーパーの「イズミヤ」やマンションが建っている。

ところで、平野には清酒の「平野酒」があると聞いて街中を探したが、見つからなかった。現在の平野には造り酒屋はないようだ。
織田信長の時代には、そのような地酒があったそうだが・・・。OEM生産の平野酒は平野の一部の酒屋で販売されているが、ぼくは、日本酒にこだわりがあって、特定メーカーさんの「純米吟醸酒」しか飲まないので、パスしている。

平野に長くお住まいの方々にお訊きすると、杭全神社の夏祭り(平野郷の夏祭り)は、だんじり宮入の時は国道25号線を自動車通行止めにして、大鳥居前でだんじりを激しく揺らす「舞え舞え」のパフォーマンスが行われ、岸和田祭礼のカンカン場に劣らない盛り上がりがあるそうだ。宵宮や本宮には、露店も沢山出店する。
(※1:野堂町だけは、北組・東組・南組が独立して、それぞれにだんじりを保有している)

また、平野郷の北北東にある、加美正覚寺(かみしょうかくじ)の町内にも、最近になって泉州型の下だんじりが新調されて旭神社に宮入する。ここのだんじりは「やりまわし」を行うらしい。

2007年7月には「平野郷の夏祭り」を密着取材したが、お祭りがある町って活気があっていい。

主な参考文献「大阪市東住吉区史(大阪市発行)」
「大阪府東成郡平野郷町誌(同町発行)」
「江戸事情(NHKデータ情報部 第2巻・第3巻)
「甦る平安京(京都市発行)」

2014年1月31日に更新

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