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おおさかスケッチ

秋色に染まる大阪城天守閣

おおさかスケッチ (愛犬カムのスケッチ含む) の原画をスキャンして、四つ切サイズのプリントを額装して販売しています。ご購入されたい方は「管理室」のアイコンをクリックして、作品販売のページをご覧下さい。

絵の制作:1992年11月22日、尾林正利

このスケッチは、平成4年(1992年)の11月に写真取材して、すぐに描き始めました。
平成の大改修が行われる前の天守閣を西の丸庭園の方から描いてみました。夕日に映える天守閣って美しいですね。サクラの葉も紅葉していて、いい時期にスケッチできたと思います。大改修後の天守閣の外観は、若干変わりましたね。
プラモデルのパッケージイラストのような精密な画ではないので、改修された個所が判りにくいかも知れません。

スケッチ(色鉛筆で制作):尾林 正利
絵のサイズ:48×54.5cm
作画完成日:1992年11月22日

上のスケッチ原画 (48×54.5センチ) を1200dpiの高解像度でスキャンし、業務用の顔料系インクジェットプリンターで「四つ切サイズ:25.4×30.5センチ」に出力した額装作品を販売しています。ご購入されたい方は、先ず、管理人室ページ (作品販売のページ) をお読みなってから、「この作品を買う」ボタンをクッリックして下さい。クリックで料金は発生しません。


フォームに記入する作品名:秋色に染まる大阪城


大阪城

左の地図は、明治35年頃の大阪城周辺の様子です。右側には鉄道省(省線)の城東線が既に開通しています。京橋付近は、まだ田圃ですね。地図を見ると、明治時代の中頃までは、まだ大坂城の名称のままですね。今の大阪府庁舎、大阪府警、NHK大阪放送局の辺りは陸軍省の第四師団の兵舎と練兵場になっていて、大阪城の東に「砲兵工廠」があって、一般人は立入厳禁でした。明治22年に大阪市が誕生して、府庁舎と市庁舎は西区の「江之子島 (地下鉄の阿波座駅の北部)」にありました。

写真二枚は、上のスケッチを描いてから5年後の平成9年の5月に、平成大改修後の大阪城天守閣をN H K大阪放送局(旧館)さんの玄関側屋上から15分間の撮影許可を得て撮影したものです。
現在は、 N H K 旧館が取り壊されたので、このアングルからの写真は撮れません。このカメラアングルは、関西ローカルのN H Kニュースのタイトルバックによく使われていましたよ。

大阪城内や天守閣は、今でこそ一般人が自由に出入り出来ますが、それは戦後の昭和24年7月になってからのことです。
というのは、大阪城は明治時代になって大阪鎮台(おおさかちんだい)の本部が置かれ、陸軍省の管理下に置かれ、敷地は今でも国の所有物で、昭和12年に大阪城の北東部に兵器工場の大阪工廠が出来て、天守閣からの見物や写真撮影は厳禁されるようになりました。
そして、終戦直後は、米進駐軍が大阪城内に駐屯し、米軍が大阪府から撤退して、ようやく大阪城が一般市民に開放されるようになったわけです。

因みに旧 N H K 大阪放送局が建つ前は、兵舎が建っていて、陸軍省の歩兵第八連隊が馬場町に駐屯していました。
今の大阪城内は樹木が生い茂ってきれいですが、昭和6年の大阪市の地図を見ますと、石垣の向こうは陸軍の第四師団司令部になっていたんですよ。
このような写真が撮れるというのは、大阪市は平和な都市になったという証ですが、半世紀以上経っても、日本各地には未だに米軍が駐屯していて、複雑な心境に駆られます。

カメラ:トヨビュー45G(4×5インチ判カメラ)
レンズ:FUJINON W210mm (広報紙の表紙では、上の写真をトリミングしています)
フィルム:フジクローム・ベルビア
撮影日:1997年5月17日・PM3:30


大阪城の思い出

絵画・写真・記事:尾林 正利


読者のみなさんがご存知のように、現在の大阪城天守閣は三代目のお城です。
昭和3年(1928年)に、当時の大阪市長・関一(せき・はじめ)氏らの発案で、昭和天皇の即位を記念し、 「大大阪(だいおおさか)のシンボルとして、天守閣の無い大阪城に、立派な天守閣を造ろうやないか」
ということになって、大阪市民や一部の在阪企業から寄付金を募り、150万円を集めて天守閣の再建工事に着手し、昭和6年に鉄筋コンクリート製・エレベーター付きの天守閣が建てられました。
従って、今の大阪城天守閣は、安土桃山時代に豊臣秀吉の命令によって建てられたお城ではなく、地元の建設会社、大林組が設計した芸術作品なのです。

大大阪と言ったのは、関東大震災で東京都が壊滅的な被害を受け、東京から大阪に住む人が増え、大阪市が市域を拡大したこともあって日本一の人口を抱える大都市になったからです。
その当時の大阪市議会や大林組では、豊臣秀吉の建てた天守閣を再現したかったようですが、秀吉が天正11年(1583年)に築城を命じた時の天守閣の図面が見つからず、大坂の陣を描いた「黒田屏風」などを参考にして設計されたといわれています。
だから、今の鉄筋コンクリート製の大阪城が歴史的に重要な文化財として、将来的に国宝や世界遺産になることは、おそらく無いと思いますが、大阪人にとっては大切な宝物になるでしょう。現在の大阪城天守閣は、国指定の登録有形文化財にはなっているようです。

ところで、最初の大坂城はいつ頃、何のために建てられたのか?ということを今の大阪人は、知っていた方がいいでしょう。
今から約500年ほど前の大坂(おおさか、おおざか:読みは「おおさか」ですが、当時は大阪とは書かず、大坂と書かれていた)は、摂津国の一部の地域を指した地名(摂津国 生玉庄 大坂)で、戦国時代の最中(さなか)にありました。戦国時代というのは、日本各地に群雄割拠していた戦国武将たちが天下統一(日本統一)の主導者争いをしていた時代でしたが、天下統一のリーダーシップを狙っていたのは武家勢力だけではなく、武装した寺家勢力(一向宗:浄土真宗)も天下統一の覇権争いに加わっていたのです。力のある寺家勢力は各地に寺内町を形成し、浪人や僧兵を戦闘隊員として軍事訓練し、武術も学ばせた門徒たちの民兵ゲリラ戦法も決して侮れる存在ではなく、織田信長軍といえども僧兵との戦いには苦戦しました。

大阪市の上町台地の北端は、500年前は淀川(現在は大川)と大和川(現在は寝屋川)が合流して大阪湾に注ぐ軍事的な交通の要衝であり、この地に山科本願寺の門主(法主)・蓮如が明応5年(1496年)に別院として大坂御坊を建てて寺内町を造り始めました。

この蓮如が拓いた寺内町は坂の多い場所に造られたので、やがて大坂と名付けられ、蓮如法主が記した文献にも「摂津国生玉庄大坂?」などと残されているようです。
やがて、戦国時代の戦火は、「天下布武(てんかふぶ:武家による天下統一)」を唱える信長に反発した一向宗寺院にも及び、天文元年(1532年)に、本山の山科本願寺が焼き討ちに遭い、山科から大坂へ逃れた証如法主は、大坂御坊を石山本願寺として、寺院や寺内町の周りを壕や土塁を築いて塀で囲み、とくに織田信長の攻撃に備えました。

しかし、信長は元亀元年(1570年)から11年かけて要塞のような石山本願寺を執拗に攻めて、天正8年(1580年)に陥落させ、石山本願寺の顕如法主と和睦しました。ところが長男の教如が法主に従わなかったので、教如らは捕らえられて流刑にされ、堂塔や伽藍が焼き討ちにされました。

信長の死後、天正11年(1583年)から、天下統一を果たした豊臣秀吉は廃墟となった石山本願寺の跡地に大坂城天守閣と本丸の築城工事に着手しました。
秀吉は内裏(だいり:天皇のお住い)のある京都に聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築き、政務の中心は京都で行っていました。
しかし、全国の諸大名に豊臣家の富と権力の象徴を見せつける必要があって、屋根瓦などに黄金をふんだんに使った絢爛豪華で難攻不落の初代大坂城が建てられることになったのです。大坂城の築城工事は15年も掛けて行われ、秀吉の存命中にほぼ完成しました。

慶長3年(1598年)に伏見城で病床に臥していた秀吉は、実子秀頼の後見人を五大老筆頭の徳川家康に託して死去します。
秀吉が亡くなった時期は、秀吉が西国(九州)の諸大名に命じて朝鮮出兵をしていた最中であったので、このまま慶長の役を継続して派兵し続けるのか、中止して朝鮮から撤兵にするのかので意見が二つに分かれ、早くも秀吉死後の豊臣政権を担う家臣の間で亀裂が生じました。
秀吉が設けた五大老・五奉行による合議制も家康の独断が目立ち始め、それに歯止めを掛けていた調停役の前田利家の死により、豊臣家臣の中で徳川派と石田・毛利派ができて、これが天下分け目の「関ヶ原の戦い」の遠因になってしまいます。

秀吉の死後2年後の慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起きて、筆頭大老だった徳川家康が勝利しました。
豊臣家は身内の戦いだと静観していたのですが、慶長8年(1603年)に家康は江戸に幕府を置いて幕政を始めました。
これに激怒したのは、秀頼の母「淀君」でした。秀吉との実子・秀頼の処遇を巡って、淀君と家康が対立。
方広寺の鐘銘事件がキッカケで、慶長19年(1614年)に徳川軍は20万人の大軍を率いて大坂へ挙兵し、本丸から遠い外堀に大砲300門を並べ、大坂城天守閣に向けて集中砲撃しました。
砲弾の一部は天守閣に命中したので、大砲の威力に脅威を感じた豊臣方は和議に応じて外壕を埋めることを条件に一旦、徳川方と講和しました。

家康は、高台院(秀吉の正室・ねね、おね)を通じて秀頼に徳川秀忠へ臣従するように説得して欲しいと迫りましたが、豊臣家再興の夢を棄てられない淀君が頑なに拒否し、さらに豊臣方は、埋めた外堀を掘り起こして元に戻す工事を始めたので、再び激しい戦いになりました。
これが大坂夏の陣(慶長20年:1615年)ですが、大坂城天守閣で指揮を執っていた淀君と秀頼は、兵火に遇って炎の中に消え、本丸も炎上しました。(実際は城内で隠れていたところを徳川方に見つかって自刃したという説もあります)

その後、天下を統一した徳川幕府によって、豊臣家のイメージが残る大坂城は、家康の命令によって一旦壊され、元和6年(1620年)に二代目の将軍・徳川秀忠の政策で、太閤秀吉が建てた大坂城よりも更にスケールの大きい大坂城本丸と天守閣の再建が行われることになったのです。

秀忠は、二代目大坂城の普請総奉行に城郭造りの得意な「別格譜代大名」の藤堂高虎(伊予の今治藩主や伊勢の津藩主を歴任)を起用し、主に西日本各藩の諸大名(主に外様大名)を総動員して大坂城再建のための割普請(※わりふしん:諸大名が石高(こくだか)に応じて、分担して工事を受け持つ)を命じ、西日本各藩の負担で大坂城再建の工事が行われたのです。

とくに瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)で採れる花崗岩は城塞の石垣に適したようで、小豆島から大坂まで多数の巨石を舟に積んで運んだようです。陸路では、太い丸太で作った修羅(※しゅら:巨石の下に丸太を敷いて転がしながら石を移動させる)というような運搬道具を使っていたようです。

今なら頑丈な運搬船に、建設重機や新幹線車両も運べるような超大型トレーラーもあるので、それほど苦労はしなくても巨石が運べて、石組み工事もできると思いますが、今から約400年前の土木技術のレベルを考えると、人力に頼るしかなく、この普請は諸大名にとっては大変な物入りの難工事だったと思いますね。
さらに、大坂城のシンボルである二代目天守閣は、秀吉が作った天守より、更に大きく立派な天守閣が完成(1626年)したらしいのですが、天守閣が完成してから39年後に、天守閣のシンボルである鯱の部分に落雷して天守閣が炎上し、殆ど焼失(寛文5年・1665年)したそうです。

徳川幕府(江戸幕府)は、三代将軍・徳川家光になった頃に幕政が安定し、幕府の力が全国津々浦々に及んだことで、西日本の諸大名に睨みを利かす大坂城の存在は次第に薄れ、落雷で焼失した天守閣の再建は、その後の江戸時代では行われませんでした。

大坂城には天守閣が無くても、本丸には立派な御殿があって、大坂城に城主が訪れたのは三代将軍・徳川家光と十四代将軍・徳川家茂(いえもち)、十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)だけだったようです。江戸時代の殆どは大坂城には城主がおらず、城代(駿府城と大坂城を留守番する大名)がお城を守っていたわけです。長期間城代を任命すると、中には虎の威を借りて、私腹を肥やす大名も少なからず、城代の交代を頻繁にしていたようです。

明治時代になると「大坂」は、江戸幕府という武家政権を倒した明治政府に気兼ねして「大阪」と改められました。理由は、坂という漢字は「土」へんや「士」へんに「反」とも書いて、士族(武士)が反抗するという意味にも取られます。明治時代の初期は、版籍奉還で明治政府に恨みを抱いている武士も多かったので、「大坂」の意味が明治政府に誤解を招くおそれがあったので、無難な「大阪」に変えたそうです。

大阪城は大阪鎮台(※ちんだい:明治政府が旧藩時代の城塞施設を利用して、陸軍省の集めた地方兵を駐屯させて、射撃などの軍事訓練を行った場所のこと)の本部が置かれ、陸軍省の管理下になり、民間人は入れなかったのですが、昭和6年〜12年まで大阪城に天守閣が出来たことによって、大阪城内の入場が一般市民にも一部が開放されたわけです。

昭和12年から大阪城内の見学中止となったのは、「砲兵工廠」の増強でした。大阪城の東部から北東方向にかけて大規模な陸軍省の兵器工場「大阪工廠」が出来て、機密保持のためでした。
昭和39年〜42年の頃、ぼくは国鉄城東線(JR大阪環状線の東半分の路線)の電車に乗って通勤していて、電車の車窓から森ノ宮・京橋間で、米機の空襲で被弾して廃墟になった兵器工場の跡をよく見ましたね。今は、大阪城公園や大阪ビジネスパークになっていて、空襲に遭った終戦当時の面影は残っていません。

7代目・関一(せき・はじめ)大阪市長と大阪市議会が大阪城天守閣再建に寄付金を募ったのは、当時、御堂筋の建設と市営地下鉄御堂筋線の工事が並行して行われ、大阪市内のインフラ整備に莫大な予算が掛かったからですが、市民の寄付で大阪城天守閣が建ったら、陸軍省も大阪市民が大阪城へ入場するのを頑なに拒否はできないでしょ。関一市長さんって、頭のきれる方ですね。
因みに2004年の大阪市長さんは17代目で、大阪市大医学部出身・医師の関淳一さんですが、7代目関市長とは遠縁にあたるお方らしいです。

戦後、米進駐軍が大阪にやってきて、大阪城内にも駐屯してきました。
城内には、和歌山城から移築した紀州御殿という立派な建物があったそうですが、進駐軍の不始末で火事になり、焼失したそうです。昭和23年に進駐軍は大阪城から撤退し、昭和24年7月から、ようやく大阪市民がお城に入れることになったわけです。

大阪生まれのぼくが、初めて大阪城の中に入ったのは19歳の時 (1963年)で、
初めて天守閣に上ったのは、53歳(1997年)

歴史の話はこれくらいにして、ぼくが大阪城の中に初めて入った時の話をします。
それは、昭和38年 (1963年) の春で、写專(日本写真専門学校)に入学して間もない桜が満開の時でしたね。
初めての校外実習で、商業美術写真科担当の佐藤先生と助手の御内さんが大勢の生徒(50名ぐらいだったと思う)を引率して大阪城の門をくぐりました。一年生といっても、ぼくのような高校卒業してすぐに進学した学生服の者もおれば、三十前の背広とネクタイ姿の社会人もいて、生徒には十歳ぐらいの年齢差がありました。

先生が天守閣の南側で撮影場所を決めて、三脚を拡げてカメラをセットしました。
カメラは、先生が愛用していたトプコン・ホースマンプレス(6×9センチ判)で、構図も先生が決められました。ぼくは、生まれて初めて冠布(写真用語で、かぶり:ピントガラスを覗くフードになる黒い布で、フィルムに漏光が、かぶるという意味ではない)を被り、倒立左右逆像の暗いピントグラスを覗きました。邪魔くさい覗き方をせなあかんカメラやなぁと思いましたね。

今の人はレンズを通した被写体は、正立正像だと誤解していますが、凸レンズを通した被写体は、焦点面では倒立左右逆像なんですよ。一眼レフ式カメラは、光学ファインダーでも正立正像で見えるようにミラーとペンタプリズムによって工夫されたカメラなんですよ。人間の眼も凸レンズなので網膜では、倒立左右逆像に写っている筈なのですが、それがどうして脳内で正立正像に見えるようなっているのか?誰も研究してないようですね。

先生の決められた構図は、天守閣の前景に桜の枝を少しナメた(入れた)ものでした。...これは、観光絵はがき写真用の撮影実習ではなく、その時の撮影目的は、大阪城で撮ったネガフィルムをタンク現像するのと、乾燥させたモノクロネガから印画紙へプリントする時の皿現像の実習に使う教材づくりだったのです。

暗室実習では、何度もフィルム現像の経験した生徒がタンク現像を行い、ぼくは現像済みネガから一コマ貰う事にしました。印画紙への焼き付けは、自分でしなくてはならないからです。
写專の暗室で橙色のセーフティ・ライトを点け、現像液に浸した印画紙から大阪城の画像が、ジワジワ浮かんでくる光景はマジック(魔法)のように見えましたね。

美大に落ちて写專に入学した当初は、ぼくは写真やカメラの予備知識が全くなく、取扱いが難しそうなホースマン・プレスを見てビビってしまいました。先生が構図を決めて、ロールフィルムホルダーにフィルムを装填し、生徒がアイウエオ順にシャッターを切っていくわけです。
トプコン・ホースマンプレスは、レンズシャッター付きのレンズをレンズボードごと交換するカメラで、レンズシャッター部分に設けられたレリーズソケットから長いワイヤー・レリーズが出ていました。

ぼくは、写真用品のワイヤー・レリーズって見たのが生まれて初めてだったので、ぼくの順番が来たとき、
「先生このヒモのようなものは、何ですか?」
先生は少し困惑されて、
「君は、レリーズを知らないのか...」。
ぼくは正直に、
「は、はい」
先生は親切に、
「右手でこういう風に持って、ポッチのところを親指の腹で軽く押すと、シャッターが切れる...やってごらん」

写真学校に来るような生徒は、写真やカメラが好きで、予めカメラに対する予備知識があって入学するのものです。ぼくの質問はど素人丸出しでしたね。周りの生徒から、「お前、大丈夫か?」と言ってるような、冷ややかな視線を感じました。

約30年の年月は瞬く間に流れ、平成4年の11月、ぼくは大阪城の西の丸庭園から天守閣を眺め、スケッチの元になる写真を撮っていました。サクラの葉がすっかり紅葉して、空には秋空特有のウロコ雲(高積雲)が広がっていました。
このコラムに掲載したスケッチは、平成の大改修前の天守閣です。

そして、平成の大改修が終了した平成9年の5月、新緑に映える大阪城天守閣をKUBOTA様の広報誌表紙用に4×5インチ判のビューカメラで撮ることになりました。場所探しに苦労しましたが、旧 N H Kさんの屋上が良いと判断して、N H K 大阪放送局さんにお願いして、撮影許可を貰いました。因みに、NHKさんの建物の中にカメラを持ち込んで取材したのは二回目でした。
撮影許可時間はたったの15分間で、ガードマンの監視の中で撮影しました。

この撮影には4×5インチ判のフジクローム・ベルビア、プロビア、アスティアを使ったのですが、表紙に使ったのはベルビアです。ベルビアは画像を拡大してもよく伸びますねぇ。すばらしいフィルムです。
ぼくが撮影した後、旧 N H K 大阪放送局の建物は取り壊されてしまいましたので、今では、貴重な写真になってしまいました。大阪城天守閣に初めて上ったのは、この写真を撮った日でした。大阪城天守閣の最上階に立つと、ぼくの写專時代が思い出され、感慨深いものを感じました。

2004/11/10 尾林

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