大阪最大のお祭り・天神祭の思い出
記事:尾林 正利
ぼくは、大阪万博のあった1970年(当時26歳の時)から、大阪市北区岩井町(現在は大阪市北区天満二丁目)にあった広告制作会社に3年間ほど勤務したあと、1974年にフリーカメラマンになって独立して、1975年には大阪市北区此花町(後に河内町へ移転。現在は、どちらも天満四丁目)に写真事務所や広告写真専用の撮影スタジオを開設しました。
そして、2001年2月まで、延べ31年間も地下鉄谷町線の天満橋駅で下車して天満宮近くの勤務先へ通勤しました。
ところが、天満のスタジオを畳んでから、7年も経った2008年9月時点でも、借りていたビルに「マキシム フォトグラフィー」の看板が掛けられていて驚きました。
31年も大阪市北区天満で働いていたと言うことは、31回も天神祭を見ていたということになりますが、毎年毎年、天神祭を見ていると、氏子ではないので、祭に対する感激がそれほどなく、心に残るような記憶があまりありません。
天神祭の写真取材は大阪市のPRの為に依頼された仕事で、大阪天満宮の撮影許可を取って1998年頃にやったことがありますが、その時は、左ヒザに水が溜まっていた時期で、膝に針を刺したような酷い痛みで、体が思うように動かず、納得のいく迫力のある写真が撮れなかったので、ディレクターの方に迷惑を掛けてしまって、歯痒い思いをしました。
一番最初に天神祭を撮ったのは、1992年頃で、ハッセルブラッド500ELXにディスタゴン50mmやゾナー150mmを付けて天満橋の橋の上から手持ちで撮りました。この時の写真をプリントにして上の絵を描きました。この頃は天神祭の船渡御の時でも天満橋の中央から自由に手持ちで写真を撮れたのですが、現在は見物人の数が物凄く、天満橋の上は立ち止まりが禁止されており、撮影も禁止になっています
大阪の天神祭は、毎年7月24日(宵宮)と25日(本宮)に、大阪市北区の大阪天満宮に於いて盛大に行われ、昨今では「ギャル神輿」という神輿が作られて、法被姿の凛々しい若い女性たちに担がれ、大変な人気になって、マスコミにもよく取材されています。「ギャル神輿」は、若い女性なら誰でも担げるというのではなく、今宮戎の福娘の時ような審査があるそうです。
豆知識:天神信仰・・・菅原道真は、なぜ神様として祀られたのか?
時代は平安時代に遡ります。
寛平9年(かんぴょう:897年)、皇族から一旦臣籍降下した源定省(みなもとの さだみ) が、再び立太子されて践祚した宇多天皇は、30歳の時に、長男の淳仁親王(12歳)に天皇の地位を譲って上皇になられ、京の御室
(おむろ) に建てた仁和寺(にんなじ:世界文化遺産に指定)に入って法皇になり、院政を行って政治的影響力を持ち続けました。僅か12歳で元服し、同年に即位した淳仁親王は醍醐天皇(延喜帝)になられました。
政治に経験の浅い天皇を補佐するために、父の宇多上皇の強い薦めで、右大臣には、文章博士(もんじょうはかせ)の菅原道真(すがわらのみちざね)が抜擢されて就任し、左大臣には、関白・藤原基経の長男・藤原時平(ふじわらのときひら)が父のポストを引き継いで就任しました。
醍醐天皇には、3番目の皇位継承者として、弟の斉世親王(ときよしんのう)がおられました。
菅原道真は、長女・衍子(えんし、ひろこ)を宇多天皇の女御 (にょうご:中宮=正室に次ぐ高位の女官)として入内させ、宇多天皇第三皇子の斉世親王に三女「寧子」を嫁がせて皇室の外戚になりました。
道真は宇多上皇の信頼が大変厚いところから、上皇と菅家の強い絆を不快に思った藤原北家(ふじわら
ほっけ:摂関家の血筋)の藤原時平 (ふじわら の ときひら) が、内裏(宮中)から、道真と菅家追放の陰謀を企て、醍醐天皇に讒訴(ざんそ:事実でないことを語って、人を陥れる)したらしく...
「右大臣は上皇と結託して、斉世親王を皇位に付けようとしているのでは...」を聞かされた醍醐天皇は怖れ驚き、道真は醍醐天皇から信用を失って、謀反の罪を着せられてしまったのです。
昌泰4年(901年)の人事異動「昌泰の変」で、管公は従二位右大臣職を解任されて、閑職の太宰権帥(だざい
の ごんのそち:地方の副官)を命じられたのです。
管公の家族や弟子たちも、連帯責任を負って流罪(るざい)になり、公卿の地位から下級貴族に降格させられて、平安京から遠く離れた地方官の任務に就きました。
それだけでなく、醍醐天皇の実弟・斉世親王も御所から追放されて出家され、道真贔屓の上皇も一時は内裏への出入りを禁止されたのでした。
菅公は、謀反の嫌疑をかけられたまま、太宰府で薨去(こうきょ)されました。菅公追放の後で、平安京では賀茂川氾濫による疫病が発生し、内裏でも様々な不幸が次々と起こりました。
先ず、道真の政敵であった左大臣・藤原時平は、道真の死後7年に、39歳の若さで病死したので、これは、道真の祟りだと怖れた醍醐天皇は、道真追放の詔を破棄し、正二位右大臣に復位されました。しかし、醍醐天皇の第二皇太子で、藤原時平が後見人になった、保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで夭折し、保明親王の王子・慶頼王(やすよりおう)も5歳で夭折し、その極めつけは、醍醐天皇が諸卿を集めて御所・清涼殿で「雨乞いの儀式」を行ったところ、いきなり御所の上空に雷鳴が轟き、時平の陰謀に加担した大納言の藤原清貫(ふじわら
の きよつら) が雷に打たれて焼死し、それを間近でご覧になった醍醐天皇はショックで病床に臥され、回復されることなく崩御されました。
これら出来事は、時平の陰謀によって左遷された管公の怨霊(おんりょう)が「雷神
= 天神」になって祟ったと宮中で信じられ、平安宮の高官たちから道真の祟りが怖れられました。
平安京の右京七条に住む霊能を持った「丹治比文子(たじひ あやこ)」という少女らに託宣(たくせん:神のお告げ)があって、その託宣に基づいて、道真の怨霊を鎮めるために、村上天皇が北野の現在地に道真の霊を鎮める社殿を造営されたそうです。雨乞いを願う天神信仰は、菅公以前にあったのですが、北野天神社の境内に、菅公が祀られるようになって、自然神の天神さん=人格神の菅原道真とごっちゃにされて尊崇されるようになったわけです。
だから、菅原道真公の怨霊を鎮めるというのが道真信仰の始まりなのですが、現在では本来の信仰の在り方から離れて、管公が優れた文書博士
( もんじょうはかせ:漢詩や漢文の学者)でもあったので、習字上達や学業成績向上の神様として尊崇されるようになっています。
どこの天満宮でも梅の木が多いのは、御祭神の天神様(菅原道真公)が、梅の花をこよなく愛でていたことにに由来します。
拾違和歌集に、「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」と詠まれています。
菅原道真は、幼い頃から文章博士(もんじょうはかせ:漢詩や漢文の博士)だった父の影響で、幼少の頃から詩を詠み、梅の花をこよなく愛されたそうです。だから、天満宮のシンボルマークは、道真がこよなく愛でた梅の花になっていますが、梅花のデザインは各天満宮よって少し異なります。
平安京郊外の北野天神社の境内に自然神の天神さんと人格神の管公が祀ってあったので、いつしか、平安京の民衆たちから「天神さん=菅原道真」だと思われるようになっていきました。後に一条天皇が北野天神社に「北野天満宮天神」の神号を贈られたので、「北野天満宮」と呼ばれるようになりました。
なお、大阪で行われる天神祭は、道真の御神霊を鎮めるためのものなのですが、氏子を除いて殆どの大阪人は、そういう由緒は知らないと思いますね。
ライバルになるような人、うっとおしい人を謀略を使って不幸に追い落としてはいけませんよ。
現在の天満宮は学問の神様として一般の人によく知られています。管公は漢詩の権威であったので、お正月には子供たちの習字の書き初め大会が天満宮で行われ、日頃の練習の成果が壁に張り出されます。
2006年9月15日、大阪天満宮の北門の間近に、落語専門の常設小屋「天満天神繁昌亭」が出来て、天満宮周辺に人出が増えて、商店街にも活気が出てきました。大阪天満宮の境内の西側に、管公の生涯をジオラマにした展示場があって、無料で見学できます。また、境内には屋根付きの無料休憩場もあって、ぼくは、ここで「たこやき」を頬張りながら、よく休憩したものです。
2008/9/16 尾林 正利
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