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大阪天満宮の天神祭・船渡御

絵画と記事:尾林 正利 (平成4年:1992年制作)


大阪の夏祭の象徴といえば、やはり、天神祭だと言えるでしょう。
天神祭の歴史は古く、平安時代中期の天暦3年(949年)に村上天皇の勅命によって摂津に天満宮(後に大阪天満宮)が鎮座され、その2年後には、すでに大川で鉾流神事(ほこながししんじ)や船渡御(ふなとぎょ)が行われていたそうです。

昔は下の絵図で、大川(淀川)の下流の方に御旅所があったそうですが、現在では上流の方に御旅所があって、大川を遡って桜宮方面にあるお旅所へ渡御します。
船渡御の最中に大川の右岸河畔から、スターマインなどの奉納花火も豪快に打ち上げられ、浪速の夏の夜空を彩ります。幕末の混乱期、第一次、第二次世界大戦の時や台風上陸の時には、天神祭が中止されています。

昭和50年(1975年)から26年間、ぼくの写真スタジオが大阪天満宮に近い大阪市北区天満4丁目(旧・河内町)にあって、毎年行われる天神祭は、宵宮の7月24日の夕方前や本宮の25日の午後3時頃には、仕事を早終いしてビールを飲み、ほろ酔い気分でよく祭見物をしたものです。天満宮周辺には、たこ焼き、イカ焼き、焼きそば、焼き鳥、金魚すくい、射的などの露店が多数出店し、大川沿いの南天満公園内には、「お化け屋敷」の小屋も建ち、大勢の見物客で賑わいます。

ぼくは、21世紀協会などの大阪の文化をPRする仕事で、天神祭を写真取材したこともありますよ。
上の絵は、京阪天満橋駅の上に松坂屋があった八軒家浜の川岸(左岸)から、大阪天満宮の御祭神「菅原道真(すがわらのみちざね)」のご神霊を乗せた「御鳳輦船(ごほうれんせん)」を描いたものです。

後ろの橋は天神橋です。写真撮影では、御鳳輦船が御旅所へ渡御するときに、画面左手前の人形船や右手前のドンドコ船が思うような位置に来なかったので、別々に撮った写真を参考にして、一枚の絵にしました。

画・尾林 正利(1992年)

上の天神祭船渡御スケッチ原画を1200dpiの高解像度でスキャンし、業務用インクジェットプリンターで出力した額装作品を販売しています。お買上げの方は、先ず、左上にある管理人室ページをお読みなってから、購入ボタンをクッリックして下さい。



フォームに記入する作品名:天神祭船渡御


天神祭の陸渡御



天神祭の地車囃子 (だんじり ばやし) の一つ、「龍踊り」(じゃおどり)」


明治35年の大阪市北区天満界隈の地図


明治35年(1902年)に作成された絵地図です。現在の地図のような測量に正確さはありませんが、明治35年の大阪市北区天満の様子が凡そ分かります。
中央の淀川(大川)と堀川を囲んだ島部分が、明治22年に大阪市が誕生するまで、大坂三郷といわれていた「天満組」の凡その範囲です。
大阪市は明治22年に北区、東区、南区、西区の4区で発足しました。

赤く塗った部分は大阪天満宮の境内で、緑色に塗った部分は「天満青果市場」のあった「市町」です。昭和6年11月に、西区の江之子島(えのこじま:大阪府庁舎と市庁舎があった場所)付近にあった鮮魚市場の「ざこば」、堂島の米市場、天満青果市場の大阪三大市場が大阪市中央卸売市場(福島区)に集約され、現在は天満青果市場はかなり縮小されました。
昨今では天満青果市場の数軒が早朝時のみ営業しています。椎茸や海苔・昆布・漬物を扱う問屋さんは旧・市町周辺で商売されています。

天満青果市場に卸す農作物や乾物は、殆どの品物は舟で運んでいました。
中河内の農村で獲れた作物は、寝屋川や猫間川を通って天満青果市場まで舟で運び、帰る時は空舟で帰らず、市内を巡回して商店や家庭から農作物の肥料になる屎尿を集めて帰っていたそうです。
今の人にそんな話をしたら、野菜を食べられなくなってしまいますね。

ぼくも小学生の頃(昭和30年頃)は、お百姓さんが牛で荷車を牽いて汲み取りにきていましたので、ウソではありません。
今は、寄生虫感染の問題と食品衛生面で、野菜の肥料には下肥を使ってないと思いますよ。
そういう時代だったので、小学生5年生の頃は、喉に這い上がってきた回虫を二匹、つまみ出した経験があります。

ところで、鉄道省の城東線が市街地から離れているのは、明治時代の鉄道は殆ど蒸気機関車の運転だったので、汽車が走行中に火の粉が飛んで街が火事にならないように、汽車鉄道は民家から離れた場所に敷設されたため、市街地から離れた場所に停車場が設けられていたのです。

市電が通っていなかった、明治36年以前の大阪市内の交通は、人力車と大阪市内に掘削された運河を利用した船運が中心でした。この絵図では、堺筋、松屋町筋、谷町筋が「太閤道路」のままで道幅が狭いですね。
太閤道路というのは、敵の武将の攻撃から大坂城を守るために、秀吉の命令で、わざと市街地の道幅を狭くしたもので、牛車がすれ違えるほどの幅でした。

現在では大阪市内の舟運が廃れ、この絵図に描かれている堀川は埋め立てられて、現在は阪神高速守口線の橋脚敷地になっています。
左側には堂島川の北を通る「蜆川(しじみがわ)」も見えます。大阪城の右下を流れる川は、猫間川で、現在は埋め立てられています。京阪電気鉄道は、まだ建設されていません。都島方面は田圃ばかりですね。

ぼくが昭和50年(1975年)に、天満に写真事務所を開設したのは、緑色に塗った「市町(昭和50年には消滅)」の右隣にあった「此花町」でした。後にスタジオを開設したのが「河内町」でした。
その頃の天満界隈は、江戸時代からの町名が残っていたのですが、数年経ってから古い町名は廃止され、此花町と河内町は天満四丁目になってしまいました。古い町名を残して欲しかったですね、天満に住んでいる人は、みんな、そう思ってはるのと違いますか。



大阪最大のお祭り・天神祭の思い出

記事:尾林 正利


ぼくは、大阪万博のあった1970年(当時26歳の時)から、大阪市北区岩井町(現在は大阪市北区天満二丁目)にあった広告制作会社に3年間ほど勤務したあと、1974年にフリーカメラマンになって独立して、1975年には大阪市北区此花町(後に河内町へ移転。現在は、どちらも天満四丁目)に写真事務所や広告写真専用の撮影スタジオを開設しました。
そして、2001年2月まで、延べ31年間も地下鉄谷町線の天満橋駅で下車して天満宮近くの勤務先へ通勤しました。

ところが、天満のスタジオを畳んでから、7年も経った2008年9月時点でも、借りていたビルに「マキシム フォトグラフィー」の看板が掛けられていて驚きました。
31年も大阪市北区天満で働いていたと言うことは、31回も天神祭を見ていたということになりますが、毎年毎年、天神祭を見ていると、氏子ではないので、祭に対する感激がそれほどなく、心に残るような記憶があまりありません。

天神祭の写真取材は大阪市のPRの為に依頼された仕事で、大阪天満宮の撮影許可を取って1998年頃にやったことがありますが、その時は、左ヒザに水が溜まっていた時期で、膝に針を刺したような酷い痛みで、体が思うように動かず、納得のいく迫力のある写真が撮れなかったので、ディレクターの方に迷惑を掛けてしまって、歯痒い思いをしました。

一番最初に天神祭を撮ったのは、1992年頃で、ハッセルブラッド500ELXにディスタゴン50mmやゾナー150mmを付けて天満橋の橋の上から手持ちで撮りました。この時の写真をプリントにして上の絵を描きました。この頃は天神祭の船渡御の時でも天満橋の中央から自由に手持ちで写真を撮れたのですが、現在は見物人の数が物凄く、天満橋の上は立ち止まりが禁止されており、撮影も禁止になっています

大阪の天神祭は、毎年7月24日(宵宮)と25日(本宮)に、大阪市北区の大阪天満宮に於いて盛大に行われ、昨今では「ギャル神輿」という神輿が作られて、法被姿の凛々しい若い女性たちに担がれ、大変な人気になって、マスコミにもよく取材されています。「ギャル神輿」は、若い女性なら誰でも担げるというのではなく、今宮戎の福娘の時ような審査があるそうです。

豆知識:天神信仰・・・菅原道真は、なぜ神様として祀られたのか?

時代は平安時代に遡ります。
寛平9年(かんぴょう:897年)、皇族から一旦臣籍降下した源定省(みなもとの さだみ) が、再び立太子されて践祚した宇多天皇は、30歳の時に、長男の淳仁親王(12歳)に天皇の地位を譲って上皇になられ、京の御室 (おむろ) に建てた仁和寺(にんなじ:世界文化遺産に指定)に入って法皇になり、院政を行って政治的影響力を持ち続けました。僅か12歳で元服し、同年に即位した淳仁親王は醍醐天皇(延喜帝)になられました。

政治に経験の浅い天皇を補佐するために、父の宇多上皇の強い薦めで、右大臣には、文章博士(もんじょうはかせ)の菅原道真(すがわらのみちざね)が抜擢されて就任し、左大臣には、関白・藤原基経の長男・藤原時平(ふじわらのときひら)が父のポストを引き継いで就任しました。

醍醐天皇には、3番目の皇位継承者として、弟の斉世親王(ときよしんのう)がおられました。
菅原道真は、長女・衍子(えんし、ひろこ)を宇多天皇の女御 (にょうご:中宮=正室に次ぐ高位の女官)として入内させ、宇多天皇第三皇子の斉世親王に三女「寧子」を嫁がせて皇室の外戚になりました。

道真は宇多上皇の信頼が大変厚いところから、上皇と菅家の強い絆を不快に思った藤原北家(ふじわら ほっけ:摂関家の血筋)の藤原時平 (ふじわら の ときひら) が、内裏(宮中)から、道真と菅家追放の陰謀を企て、醍醐天皇に讒訴(ざんそ:事実でないことを語って、人を陥れる)したらしく...
「右大臣は上皇と結託して、斉世親王を皇位に付けようとしているのでは...」を聞かされた醍醐天皇は怖れ驚き、道真は醍醐天皇から信用を失って、謀反の罪を着せられてしまったのです。

昌泰4年(901年)の人事異動「昌泰の変」で、管公は従二位右大臣職を解任されて、閑職の太宰権帥(だざい の ごんのそち:地方の副官)を命じられたのです。
管公の家族や弟子たちも、連帯責任を負って流罪(るざい)になり、公卿の地位から下級貴族に降格させられて、平安京から遠く離れた地方官の任務に就きました。
それだけでなく、醍醐天皇の実弟・斉世親王も御所から追放されて出家され、道真贔屓の上皇も一時は内裏への出入りを禁止されたのでした。

菅公は、謀反の嫌疑をかけられたまま、太宰府で薨去(こうきょ)されました。菅公追放の後で、平安京では賀茂川氾濫による疫病が発生し、内裏でも様々な不幸が次々と起こりました。

先ず、道真の政敵であった左大臣・藤原時平は、道真の死後7年に、39歳の若さで病死したので、これは、道真の祟りだと怖れた醍醐天皇は、道真追放の詔を破棄し、正二位右大臣に復位されました。しかし、醍醐天皇の第二皇太子で、藤原時平が後見人になった、保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで夭折し、保明親王の王子・慶頼王(やすよりおう)も5歳で夭折し、その極めつけは、醍醐天皇が諸卿を集めて御所・清涼殿で「雨乞いの儀式」を行ったところ、いきなり御所の上空に雷鳴が轟き、時平の陰謀に加担した大納言の藤原清貫(ふじわら の きよつら) が雷に打たれて焼死し、それを間近でご覧になった醍醐天皇はショックで病床に臥され、回復されることなく崩御されました。

これら出来事は、時平の陰謀によって左遷された管公の怨霊(おんりょう)が「雷神 = 天神」になって祟ったと宮中で信じられ、平安宮の高官たちから道真の祟りが怖れられました。
平安京の右京七条に住む霊能を持った「丹治比文子(たじひ あやこ)」という少女らに託宣(たくせん:神のお告げ)があって、その託宣に基づいて、道真の怨霊を鎮めるために、村上天皇が北野の現在地に道真の霊を鎮める社殿を造営されたそうです。雨乞いを願う天神信仰は、菅公以前にあったのですが、北野天神社の境内に、菅公が祀られるようになって、自然神の天神さん=人格神の菅原道真とごっちゃにされて尊崇されるようになったわけです。

だから、菅原道真公の怨霊を鎮めるというのが道真信仰の始まりなのですが、現在では本来の信仰の在り方から離れて、管公が優れた文書博士 ( もんじょうはかせ:漢詩や漢文の学者)でもあったので、習字上達や学業成績向上の神様として尊崇されるようになっています。

どこの天満宮でも梅の木が多いのは、御祭神の天神様(菅原道真公)が、梅の花をこよなく愛でていたことにに由来します。
拾違和歌集に、「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」と詠まれています。
菅原道真は、幼い頃から文章博士(もんじょうはかせ:漢詩や漢文の博士)だった父の影響で、幼少の頃から詩を詠み、梅の花をこよなく愛されたそうです。だから、天満宮のシンボルマークは、道真がこよなく愛でた梅の花になっていますが、梅花のデザインは各天満宮よって少し異なります。

平安京郊外の北野天神社の境内に自然神の天神さんと人格神の管公が祀ってあったので、いつしか、平安京の民衆たちから「天神さん=菅原道真」だと思われるようになっていきました。後に一条天皇が北野天神社に「北野天満宮天神」の神号を贈られたので、「北野天満宮」と呼ばれるようになりました。
なお、大阪で行われる天神祭は、道真の御神霊を鎮めるためのものなのですが、氏子を除いて殆どの大阪人は、そういう由緒は知らないと思いますね。
ライバルになるような人、うっとおしい人を謀略を使って不幸に追い落としてはいけませんよ。

現在の天満宮は学問の神様として一般の人によく知られています。管公は漢詩の権威であったので、お正月には子供たちの習字の書き初め大会が天満宮で行われ、日頃の練習の成果が壁に張り出されます。
2006年9月15日、大阪天満宮の北門の間近に、落語専門の常設小屋「天満天神繁昌亭」が出来て、天満宮周辺に人出が増えて、商店街にも活気が出てきました。大阪天満宮の境内の西側に、管公の生涯をジオラマにした展示場があって、無料で見学できます。また、境内には屋根付きの無料休憩場もあって、ぼくは、ここで「たこやき」を頬張りながら、よく休憩したものです。

2008/9/16 尾林 正利

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