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おおさか スケッチ

走る重要文化財・阪堺のチンチン電車

絵画の制作:尾林 正利 平成5年 (1993年) 1月20日完成


このスケッチは、阪堺電気軌道株式会社(通称:阪堺電軌、阪堺電車)さんの阪堺線(恵美須町〜浜寺駅前)のほぼ中間にある我孫子道駅(あびこみち えき:この駅を越えて連続乗車すると、料金が2区運賃に変わる)の東南に隣接した大和川検車場で写真取材して、それを参考にして、写真スタジオでの仕事の合間にぼつぼつと描き始めました。

数年前までは、この絵に描いた303型(昭和24年製造)や、モ161型電車(昭和2年〜昭和6年製)も現役でしたが、最近は701型の冷暖完備のモダンで快適なチンチン電車が走っています。
2013年8月25日から、窓の大きな低床式の新車「堺トラム1001型(3両連接固定編成で、内装は一人掛けクロスシート車:電車運転の制御装置はVVVFインバータ制御を採用。アルナ車両製)」も運転されています。2014年に1001型2編成が営業運転していますが、1001型の「堺トラム」には、まだ、乗ったことはありません。

試しに恵美須町から浜寺駅前まで全区を乗車してみました。14.1キロを凡そ45分掛けて走ります。オリンピックに出場する男子マラソン選手並みのスピードです。通常は一両運転ですが、故障などで回送するときは2連運転もあります。始発駅と終着駅を含めると停車場が30駅もあって、ワンマンカーなので運転士さんが乗車券の改札業務があって、30秒ぐらいは停車します。線路の上を一般自動車も走る路面電車区間は、信号待ちが長いです。ぼくは、子供の頃から電車も好きですが、線路が大好き。とくに両開き分岐や両渡り交差の部分をみると、その造形にぞくぞくします。なお、線路のゲージは、標準軌(1435mm)で、シンプルカテナリー式の架線電圧は直流600Vです。

スケッチ(色鉛筆で制作):尾林 正利
絵のサイズ:48×54.5cm
作画完成日:1993年1月20日 記事の更新は2014年12月6日

上のスケッチ原画を1200dpiの高解像度でスキャンし、業務用インクジェットプリンターで出力した額装作品を販売しています。お買上げの方は、先ず、左上にある管理人室ページをお読みなってから、購入ボタンをクッリックして下さい。



フォームに記入する作品名:阪堺のチンチン電車


阪堺上町線のチンチン電車のルーツは馬車鉄道

下の地図は、阪堺上町線のルーツ、明治30年に天王寺西門前から上住吉まで開通した「大阪馬車鉄道」の地図です。地図に天王寺停車場と書いた部分に、2013年には地上300mの「アベノハルカス」が建っています。
明治36年(1903年)に、大阪府東成郡天王寺村と堺市大浜公園で第五回内国勧業博覧会が開催される前年にこの絵地図が製作されました。
鉄道省の関西鉄道(後に国鉄関西本線・今はJR大和路線)と南海鉄道(今は南海電鉄)の天王寺支線、省線の城東線(今はJR大阪環状線)は開通しています。明治30年頃は、まだ鉄道の電化が進んでおらず、殆どが汽車でした。
天王寺停車場の南側(阿倍野)には、明治7年(1874年)にできた阿倍野墓地しかありません。田圃ばっかりですね。馬車鉄道は住吉さんへのお詣りと、墓参りのために出来た鉄道だと思います。下の地図を見ていると馬車鉄道で棺を運んでいた可能性もありますね。

今回は、ぼくの描いた大阪スケッチの中から「阪堺(はんかい)のチンチン電車」を掲載しました。上の検車場の絵は、平成5年(1993年1月)に描いたものです。
下の写真は、平成20年(2008年)に撮影した阪堺161型の路面電車(チンチン電車)です。163号車は昭和3年製で、上の絵に描いた青色の303号車と同じ川崎車両の製造です。阪堺上町線(うえまちせん)の阿倍野駅で撮りました。因みに上の絵は、あびこ道駅の東南に併設された大和川検車区の様子です。

阪堺のチンチン電車は、全路線区間が一般道路との併用軌道ではなく、半分以上の区間は、上の画のような「バラスト道床軌道」の上を走ります。だから、阪堺のチンチンには、昭和44年(1969年)3月31日に廃止された大阪市電のような、路面電車のイメージは、あまり感じられませんね。ゲージは、標準軌の1435mmで、山陽・東海道新幹線と同じレール間隔ですが、高速鉄道の新幹線の線路とは、レールの品質規格や枕木の規格・レールと枕木の締結方法、線路曲線の規格が全然違います。

写真の163号のチンチン電車に平成4年に初めて乗った時は、「きぬがさクリニック」の広告塗装だったと記憶しておりますが、現在は阪堺の伝統色である緑色と茶色のツートーンカラーに戻されて、きっと、阪堺ファンは喜んでいると思いますね。

この塗装を見ると、約30年前に南海平野線(当時の名称)のチンチン電車が近鉄南大阪線の今川〜針中野間の盛り土の高架下を走っていた姿を思い出します。
近鉄百貨店アベノ店(アベノ・ハルカス)の西側の阪堺「天王寺駅前」駅を起点とする阪堺上町線(天王寺駅前〜住吉公園 4.6km:11停車場)は歴史が古く、明治33年に国鉄天王寺駅方面から住吉神社(住吉大社)の参詣道に線路が敷かれ、大阪馬車鉄道(天王寺西門〜上住吉)が開業しました。

明治40年(1907年)になって、浪速電車軌道という会社が設立されて、明治41年から馬車鉄道の営業を中止して電化工事が行われ、明治43年には南海鉄道(現在の南海電鉄)が浪速電車軌道を併合して、天王寺西門前〜下住吉(上町線の住吉駅)までの電化工事を完成させて、レール馬車に代わってチンチン電車が運行されるようになりました。

明治36年(1903年)に大阪市(当時の大阪市は、北区、東区、南区、西区の4区しかなかった)郊外の天王寺村(現在の天王寺区や浪速区)と堺市の大浜公園で第5回内国勧業博覧会が開催され、米・英・仏・独など13カ国も参加し、海外から18,000人が来阪し、期間中に530万人の観客があって大好評でした。

このイベントの大成功に目をつけ、堺市の大浜水族館や浜寺海水浴場の人気も高いことから、勧業博の跡地を大観光地にしょうと計画していた関西財界の重鎮、片岡直輝氏(日銀大阪支店長や大阪ガス社長を歴任)や大林芳五郎氏(大林組の創業者)が発起人となって、明治40年に南海鉄道と並行する鉄道線「阪堺電気軌道」の鉄道敷設免許の申請書が提出されました。
申請理由は、風光明媚な浜寺方面は大阪市にも近くて、活発な住宅開発が進み、将来の浜寺方面の急激な人口増加には、既存の鉄道だけでは対応しきれない...という、尤もらしいものでした。

南海側は南海本線と並行する鉄道線の新たな敷設は営業妨害だとして、片岡氏らの申請書を却下するように大阪府知事に陳情書を出しましたが、明治42年には、すんなりと政府と大阪府知事の鉄道敷設免許が下りて、明治45年の通天閣とルナパーク開業に合わせて2年間の鉄道敷設の突貫工事が行われ、予定通り、明治44年12月には、通天閣に近い恵美須町駅を起点として堺市内の大小路までが開通して、営業運転を始めました。阪堺電軌側は、住吉さんの鳥居前(太鼓橋の手前)に駅を造ったので、多くの初詣客は阪堺を利用するようになりました。

そして、明治45年4月には、恵美須町〜浜寺間(14.1km) と大浜支線(宿院〜大浜公園)が全通しました。大浜公園には東洋一の堺水族館があって、阪堺は堺市から大浜公園を借りて、「大浜潮場」というリゾート施設を建設し、専属の少女歌劇団が公演する公会堂や象を飼育する動物園、レストランやホテルなどを建てました。阪堺の浜寺駅は南海の浜寺駅よりも海側にあり、海水浴客にとっては、駅と海水浴場が近い方が便利なので、海水浴客の多くが阪堺に流れました。阪堺側の出した鉄道建設の理由の建前と、本音は全然違いますね。

主に株主用に発行された南海電気鉄道百年史を読んでみますと、とくに海水浴シーズンの浜寺や初詣での住吉神社(今の住吉大社)前では、南海と阪堺の駅員が人通りの多い街頭に出て、強引な客引きを行い、激しい乗客の奪い合いが起きていたそうです。
阪堺は、大正2年に平野線の鉄道敷設免許を持っていた浪速電車軌道(大阪馬車鉄道)を吸収合併し、大正3年(1914)に、平野線(今池〜平野間)が開通しました。

大正元年(明治45年7月30日に改元:1912年)の南海本線と阪堺本線の売上げを比べると、総売上げでは営業路線の長い南海の方が勝っていましたが、1km当たりの売上げ高は阪堺の方が勝っていたのです。つまり、南海は、かなりの乗客を阪堺に奪われていたということになります。

大正4年、南海鉄道の経営陣は会社存続のための苦渋の決断を迫られ、阪堺電気軌道に清算金を払って対等合併し、阪堺社長の片岡氏が南海の社長に就任し、南海の大塚社長は専務に退いて、阪堺との露骨な乗客獲得競争にケリを付けて、南海鉄道の経営危機を守ったのでした。それ以後は、阪堺電気軌道の社名は一旦消滅し、阪堺本線は南海阪堺線、阪堺平野線は南海平野線に改名されます。

太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に、陸上交通事業調整法(国家総動員法に基づく陸運交通の国家管理と戦時統合化)という国策によって、大阪電気軌道(大軌:近鉄奈良線)を母体とする関西急行鉄道と南海鉄道が強制合併させられ、両社は一旦解散して新会社を設立しました。それが「近畿日本鉄道(近鉄)」です。

終戦後の昭和22年、南海鉄道と高野山電気鉄道、南海の軌道線は近鉄から独立して、南海電気鉄道に改名し、今日に至っていますが、昭和55年(1980年)、大阪市営地下鉄谷町線の八尾南への延伸開業に合わせて南海平野線が廃止され、この年に南海の軌道線が南海電鉄100%出資の子会社として独立し、再び、阪堺電気軌道の社名が復活したのです。
このような経緯をみますと、明治44年に開業した阪堺電気軌道と、昭和55年に設立された阪堺電気軌道とは、社名の呼び方は同じですが、全然違う会社であることがお解り頂けるかと思います。なお、阪堺上町線のルーツは、元南海鉄道の軌道線であって、生い立ちは阪堺ではありません。

阪堺のチンチン電車は、昭和20年の大阪大空襲や昭和36年の第二室戸台風の被災、同じく同年から平成2年にかけて四度も発生した西成暴動などで暴徒によるチンチン電車への投石や放火被害などの数々の修羅場を乗り越えて、マイペースで悠然と大阪市内や堺市内を走る姿には感心してしまいます。この電車を80年も面倒みてきた大和川検車区の整備士さん達には、頭が下がります。

161型や301型の昭和一桁生まれのチンチン電車は、車体の構造上、クーラーの室外機が屋根に取り付けられません。したがって、夏になると写真のように窓を開けて涼しい風を車内に送ります。日よけのブラインドは懐かしい木製です。 163号車をオリジナル塗装で動態保存して、大阪府指定の文化財に登録して頂きたいですね。



阪堺のチンチン電車は全てが古い電車なのではなく、昭和62年頃から、ほぼ毎年のように701型(東急車輌製)の新造車を製造しており、古いチンチン電車と入れ替えて配備しています。701型は、窓が大きくて車窓からの眺めが良く、エアコン付きで夏は快適です。乗り心地もいいですね。
706号(平成3年製)の写真を撮った場所は、上町線の神の木駅の高架近くから急曲線を走り抜ける電車を軌道敷外から200mmの望遠で撮って、さらにトリミングして写真を拡大したので、線路の中に入って撮ったように見えますが、そんな危ないことはしませんよ。運転中の写真は、上町線の住吉駅近くで撮りました。左側の民家は昭和の初期に建てられたものでしょう。チンチン電車の沿線には、懐かしい風景が所々に残っています。

ぼくと同じ大阪人であっても、大阪市の梅田より北に住んでおられるような方々は、大阪市内の南部や堺市内に明治に出来た線路の上を昭和一桁生まれの路面電車(チンチン電車)が現在でもガタン ゴトン ガタン、ガタン ゴトン ガタンと走っているなんて、多分ご存知無いと思いますね。

因みに絵に描いた303号車は、昭和3年(1928年)に川崎車両で製造された車両です。車重は18.8トンで、一般的な長距離電車の電動車の半分以下の重量になっています。

阪堺のチンチン電車は、近鉄の伊勢志摩ライナーのように、三重県青山高原の33パーミルの上り勾配でも時速130kmで走れるような、電動車一両に200kw×4台(総出力が1,088PS)の大出力のモーターが必要ないので、定員90名を乗せた状態でも、出力が30kw×4台(総出力が163PS)のモーターで済み、電動車の車体を軽量化できて、省エネに貢献しています。
先を急がず、ゆっくり走ればエネルギーをさほど使わず、台車に取り付けたモーターや車軸のギヤの摩耗が少なく、電車の寿命が長持ちするのでしょうね。

ところで、ぼくが阪堺のチンチン電車に初めて乗ったのは、この絵を描いた平成4年(1992年)でした。その時は、起点駅の「恵美須町」から終点駅の「浜寺駅前」まで約45分間も乗りました。始発駅から終着駅まで乗ったのは、やはり、ぼく一人だけでした。(運転士は、あびこ道で交代します)

14.1kmの距離に45分掛かるということは、北京オリンピックで金メダルを取った男子マラソンランナーのサムエル・ワンジル選手とほぼ同じペースですね、(※阪堺電車の場合は、途中で28の停留所や交差点の赤信号で停車します。駅間の最高速度は時速40kmぐらいだと思いますので、ノンストップならチンチン電車の方が遥かに速いです)

路面電車と言えば、大阪在住のご年配の方なら、大阪市電が走っていた昭和44年3月31日までの大阪市内の光景を思い起こす人が多いと思います。
昭和38年(1963年)、ぼくが阿倍野区にあった日本写真専門学校に通っていた19歳の頃に、大阪市電に乗って大阪府立中之島図書館によく通ったことを記憶しております。
中之島図書館へ行くには、天王寺公園の正門近くにあった「阿倍野橋」停留所から堺筋経由の大阪駅前行き(または阪急東口行き)の市電をよく利用したものです。中之島図書館は大阪市庁舎の東隣にあります。淀屋橋から大阪駅までの御堂筋には、市電が走っていたんですよ。

市電の電車賃は、全区一律料金で15円でした。阿倍野停橋留所では、割烹着を着たおばちゃんが切符(回数券)を売っていましたね。地下鉄もその当時は距離に関係なく一律で20円でしたが、急がない時は大阪市内の街並みを車窓から眺められる市電の方を利用していました。
図書館に着くと、いつも館内の地下にあった食堂で、一杯15円の「きつねうどん」を食べるのが、ささやかな楽しみでした。因みに、当時は大卒サラリーマンの初任給が月給17,000〜18,000円ほどでしたので、当時の大卒初任給と物価を45年後の現在と比較すると、今の方が月収に対して、公共料金や生活必需品の諸物価が高いことが解ります。

このように、ぼくも青春時代に利用した大阪市電が、昭和44年(1969年)3月末に全廃されてから約45年(2014年12月時点)も経ちます。

その市電が廃止になった最大の理由は、モータリゼーション(自動車の普及による車社会)の影響でした。
日本での本格的なモータリゼーションの到来は、昭和39年(1964年)の東京オリンピックの前年にやってきました。関西方面に於いては、日本初の高速道路である名神高速道路が、昭和38年7月に尼崎〜栗東間で一部開通し、東京オリンピック後は、阪神高速道路などの主要な高速道路も相次いで開業しました。さらに、大阪中央環状線も完成しました。

好景気のお陰で、自家用や商用の自動車の急増は、路面電車が走る道路では車道が狭くなるために、朝夕ラッシュ時の交差点ではしばしば大渋滞を引き起こし、自動車停車中のアイドリングやノロノロ運転は、渋滞場所に不完全燃焼による排ガスが滞留しやすく、「光化学スモッグ」の発生などの大気汚染の問題が深刻になりました。大阪市内では車がどんどん増えるので、有鉛ガソリンの禁止や排ガス規制をしても、自動車の渋滞個所が増え、渋滞時間が長引けば、大気の浄化が追いつきません。

ドライバーの立場からすれは、路面電車は動くので、さほど邪魔にはならないのですが、路面電車の停留所が車道にはみ出していて、停留所付近の車道が急に狭くなって走り難いのです。
しかも、大阪市内は駐車違反の自動車が多くて、停留所のある狭い所でも平気で車を停めるので、市内の所々で渋滞がしばしば発生します。

大阪市内では、集金日と請求〆日に当たる、五十日(ごとび:5日、10日、20日、月末)に交通渋滞がよく発生します。現在は、集金は銀行振込、請求書は郵送という方法が定着していますが、やはり、営業課の社員が得意先を訪問するというのが、商いの基本でしょうな。
大阪市電も交通渋滞の多発・慢性化によって、目的地までの所要時間が大幅に掛かるところから、市電は「のろい」というイメージが付いて、年々利用者数が減少して赤字が膨らみ、市電に代わる市営地下鉄の路線網が充実したことから、遂に大阪市電の全面廃止が決まりました。

ところで、大阪市内の道路は紀州街道などを除いて、大坂三郷という大阪市中心部の道路は「太閤道路」と呼ばれ、豊臣秀吉の命令で、大坂城を防衛するために敵軍の馬が数頭並んで攻めて来られないように、市街地(城下町)の道幅を大八車や牛車がすれ違える程度の幅に規制されていたのです。
大阪市は、大坂城下町一帯の市街地を4区にして明治22年(1889年)に発足しましたが、明治中期になっても、町割は江戸時代のままで、道路は狭かったそうです。

明治三十年代に入って、大阪市近郊の天王寺村と堺市の大浜公園で第5回内国勧業博覧会の開催(明治36年)が決まって、米・英・仏・独など先進13カ国の出展参加があって、海外からの来阪者のために、近代的な都市景観と宿泊施設、舗装された道幅の広い道路整備が必要になり、さらに、外国船が入港する築港と市街地を結ぶ市電(路面電車)のインフラ整備も急ぐことになりました。堺市も東洋一の「堺水族館」を大浜公園に建設します。大阪市電は勧業博の年に無事に開通し、二階建ての路面電車も製造され、市民から大変喜ばれたそうです。

大阪市営の公共交通機関である路面電車の経営は明治36年の開業時〜昭和33年頃までは順調で、最盛期は、営業距離114kmで555両の路面電車を稼働させていました。大阪市はその収益を新たな市電路線拡充や地下鉄路線拡充の財源に充てることになりました。こうして大阪市は、道幅の狭い太閤道路の沿道に建っていた長屋住宅などを次々に買収して、道路幅を6間〜18間(約11〜33m)に拡張していったのです。

しかし、先述したように、昭和30年代の中頃に始まったモータリゼーションの到来で、市電のノロノロ運転に、せっかちな大阪人は利用しなくなり、大阪市の市電事業は"赤字に転落"・・・大阪市から市電を追い出したドライバー諸氏は、大阪市内を快適に走れるようになったのは、市電道路を造った先人の知恵のお陰であることを忘れてはなりませんね。

昨今は、原油価格の高止まりや地球温暖化防止のために、自動車を市街中心部から締め出して、公共交通機関の路面電車を活用する動きがヨーロッパ諸国で見られます。とくに、氷河が後退して地球温暖化に危機感を持つスイス政府の熱心な取り組みが注目されます。
深刻な気候変動の問題が、国際会議で討論される昨今に於いて、現在も大阪市や堺市で走り続けている阪堺のチンチン電車は、地球温暖化防止や省エネの観点から捉えると、これからの近代都市の公共交通機関として再認識され、先進的な役割を果たしているといえますね。今の世の中、ちょっと、先を急ぎすぎているような気がしませんか?

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