阪堺のチンチン電車は全てが古い電車なのではなく、昭和62年頃から、ほぼ毎年のように701型(東急車輌製)の新造車を製造しており、古いチンチン電車と入れ替えて配備しています。701型は、窓が大きくて車窓からの眺めが良く、エアコン付きで夏は快適です。乗り心地もいいですね。
706号(平成3年製)の写真を撮った場所は、上町線の神の木駅の高架近くから急曲線を走り抜ける電車を軌道敷外から200mmの望遠で撮って、さらにトリミングして写真を拡大したので、線路の中に入って撮ったように見えますが、そんな危ないことはしませんよ。運転中の写真は、上町線の住吉駅近くで撮りました。左側の民家は昭和の初期に建てられたものでしょう。チンチン電車の沿線には、懐かしい風景が所々に残っています。
ぼくと同じ大阪人であっても、大阪市の梅田より北に住んでおられるような方々は、大阪市内の南部や堺市内に明治に出来た線路の上を昭和一桁生まれの路面電車(チンチン電車)が現在でもガタン
ゴトン ガタン、ガタン ゴトン ガタンと走っているなんて、多分ご存知無いと思いますね。
因みに絵に描いた303号車は、昭和3年(1928年)に川崎車両で製造された車両です。車重は18.8トンで、一般的な長距離電車の電動車の半分以下の重量になっています。
阪堺のチンチン電車は、近鉄の伊勢志摩ライナーのように、三重県青山高原の33パーミルの上り勾配でも時速130kmで走れるような、電動車一両に200kw×4台(総出力が1,088PS)の大出力のモーターが必要ないので、定員90名を乗せた状態でも、出力が30kw×4台(総出力が163PS)のモーターで済み、電動車の車体を軽量化できて、省エネに貢献しています。
先を急がず、ゆっくり走ればエネルギーをさほど使わず、台車に取り付けたモーターや車軸のギヤの摩耗が少なく、電車の寿命が長持ちするのでしょうね。
ところで、ぼくが阪堺のチンチン電車に初めて乗ったのは、この絵を描いた平成4年(1992年)でした。その時は、起点駅の「恵美須町」から終点駅の「浜寺駅前」まで約45分間も乗りました。始発駅から終着駅まで乗ったのは、やはり、ぼく一人だけでした。(運転士は、あびこ道で交代します)
14.1kmの距離に45分掛かるということは、北京オリンピックで金メダルを取った男子マラソンランナーのサムエル・ワンジル選手とほぼ同じペースですね、(※阪堺電車の場合は、途中で28の停留所や交差点の赤信号で停車します。駅間の最高速度は時速40kmぐらいだと思いますので、ノンストップならチンチン電車の方が遥かに速いです)
路面電車と言えば、大阪在住のご年配の方なら、大阪市電が走っていた昭和44年3月31日までの大阪市内の光景を思い起こす人が多いと思います。
昭和38年(1963年)、ぼくが阿倍野区にあった日本写真専門学校に通っていた19歳の頃に、大阪市電に乗って大阪府立中之島図書館によく通ったことを記憶しております。
中之島図書館へ行くには、天王寺公園の正門近くにあった「阿倍野橋」停留所から堺筋経由の大阪駅前行き(または阪急東口行き)の市電をよく利用したものです。中之島図書館は大阪市庁舎の東隣にあります。淀屋橋から大阪駅までの御堂筋には、市電が走っていたんですよ。
市電の電車賃は、全区一律料金で15円でした。阿倍野停橋留所では、割烹着を着たおばちゃんが切符(回数券)を売っていましたね。地下鉄もその当時は距離に関係なく一律で20円でしたが、急がない時は大阪市内の街並みを車窓から眺められる市電の方を利用していました。
図書館に着くと、いつも館内の地下にあった食堂で、一杯15円の「きつねうどん」を食べるのが、ささやかな楽しみでした。因みに、当時は大卒サラリーマンの初任給が月給17,000〜18,000円ほどでしたので、当時の大卒初任給と物価を45年後の現在と比較すると、今の方が月収に対して、公共料金や生活必需品の諸物価が高いことが解ります。
このように、ぼくも青春時代に利用した大阪市電が、昭和44年(1969年)3月末に全廃されてから約45年(2014年12月時点)も経ちます。
その市電が廃止になった最大の理由は、モータリゼーション(自動車の普及による車社会)の影響でした。
日本での本格的なモータリゼーションの到来は、昭和39年(1964年)の東京オリンピックの前年にやってきました。関西方面に於いては、日本初の高速道路である名神高速道路が、昭和38年7月に尼崎〜栗東間で一部開通し、東京オリンピック後は、阪神高速道路などの主要な高速道路も相次いで開業しました。さらに、大阪中央環状線も完成しました。
好景気のお陰で、自家用や商用の自動車の急増は、路面電車が走る道路では車道が狭くなるために、朝夕ラッシュ時の交差点ではしばしば大渋滞を引き起こし、自動車停車中のアイドリングやノロノロ運転は、渋滞場所に不完全燃焼による排ガスが滞留しやすく、「光化学スモッグ」の発生などの大気汚染の問題が深刻になりました。大阪市内では車がどんどん増えるので、有鉛ガソリンの禁止や排ガス規制をしても、自動車の渋滞個所が増え、渋滞時間が長引けば、大気の浄化が追いつきません。
ドライバーの立場からすれは、路面電車は動くので、さほど邪魔にはならないのですが、路面電車の停留所が車道にはみ出していて、停留所付近の車道が急に狭くなって走り難いのです。
しかも、大阪市内は駐車違反の自動車が多くて、停留所のある狭い所でも平気で車を停めるので、市内の所々で渋滞がしばしば発生します。
大阪市内では、集金日と請求〆日に当たる、五十日(ごとび:5日、10日、20日、月末)に交通渋滞がよく発生します。現在は、集金は銀行振込、請求書は郵送という方法が定着していますが、やはり、営業課の社員が得意先を訪問するというのが、商いの基本でしょうな。
大阪市電も交通渋滞の多発・慢性化によって、目的地までの所要時間が大幅に掛かるところから、市電は「のろい」というイメージが付いて、年々利用者数が減少して赤字が膨らみ、市電に代わる市営地下鉄の路線網が充実したことから、遂に大阪市電の全面廃止が決まりました。
ところで、大阪市内の道路は紀州街道などを除いて、大坂三郷という大阪市中心部の道路は「太閤道路」と呼ばれ、豊臣秀吉の命令で、大坂城を防衛するために敵軍の馬が数頭並んで攻めて来られないように、市街地(城下町)の道幅を大八車や牛車がすれ違える程度の幅に規制されていたのです。
大阪市は、大坂城下町一帯の市街地を4区にして明治22年(1889年)に発足しましたが、明治中期になっても、町割は江戸時代のままで、道路は狭かったそうです。
明治三十年代に入って、大阪市近郊の天王寺村と堺市の大浜公園で第5回内国勧業博覧会の開催(明治36年)が決まって、米・英・仏・独など先進13カ国の出展参加があって、海外からの来阪者のために、近代的な都市景観と宿泊施設、舗装された道幅の広い道路整備が必要になり、さらに、外国船が入港する築港と市街地を結ぶ市電(路面電車)のインフラ整備も急ぐことになりました。堺市も東洋一の「堺水族館」を大浜公園に建設します。大阪市電は勧業博の年に無事に開通し、二階建ての路面電車も製造され、市民から大変喜ばれたそうです。
大阪市営の公共交通機関である路面電車の経営は明治36年の開業時〜昭和33年頃までは順調で、最盛期は、営業距離114kmで555両の路面電車を稼働させていました。大阪市はその収益を新たな市電路線拡充や地下鉄路線拡充の財源に充てることになりました。こうして大阪市は、道幅の狭い太閤道路の沿道に建っていた長屋住宅などを次々に買収して、道路幅を6間〜18間(約11〜33m)に拡張していったのです。
しかし、先述したように、昭和30年代の中頃に始まったモータリゼーションの到来で、市電のノロノロ運転に、せっかちな大阪人は利用しなくなり、大阪市の市電事業は"赤字に転落"・・・大阪市から市電を追い出したドライバー諸氏は、大阪市内を快適に走れるようになったのは、市電道路を造った先人の知恵のお陰であることを忘れてはなりませんね。
昨今は、原油価格の高止まりや地球温暖化防止のために、自動車を市街中心部から締め出して、公共交通機関の路面電車を活用する動きがヨーロッパ諸国で見られます。とくに、氷河が後退して地球温暖化に危機感を持つスイス政府の熱心な取り組みが注目されます。
深刻な気候変動の問題が、国際会議で討論される昨今に於いて、現在も大阪市や堺市で走り続けている阪堺のチンチン電車は、地球温暖化防止や省エネの観点から捉えると、これからの近代都市の公共交通機関として再認識され、先進的な役割を果たしているといえますね。今の世の中、ちょっと、先を急ぎすぎているような気がしませんか?
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