神農祭について
「神農祭(しんのうさい)」というと、神農祭の神事に馴染みの無い方は、漢字から想像して農作物の豊作を祈願する祭りだと思われる方がいるかも知れませんが、その思い込みは、ちょっと違うようですね。
分かりやすく言えば、大阪で行われる神農祭というのは、毎年11月22日と23日にかけて、大阪市中央区の道修町(どしょうまち)にある少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)で「古代中国の薬祖神である神農氏の遺徳を一年に二日、盛大にお祀りする」という神事なのです。
もちろん、現在は中国産の自然生薬(漢方薬)だけが医薬の全てではありませんので、解釈を拡大して、現代の製薬会社で開発された医薬品も含んでいると思います。
では、少彦名神社の御祭神として祀られている神農氏とはどんな方だったのでしょうか?
神農氏のことをちょっと調べてみますと、神農氏の開祖は、古代中国を統治した漢民族の伝説上の帝らしく、「炎帝」ともいわれています。
炎帝と呼ばれたのは、植物から油を抽出し、その油に火を付けてランプ代わりにしたり、粘土で作った皿や壷を炎で焼いて陶器ができるのを民衆に教えられたからです。火を使って、人民の生活に役立つことをされたわけです。
さらに、神農氏は自ら農具を作って人民に農耕を教え、病に苦しむ人民あれば、自ら様々な草木を毒味して薬を作り、病から人民を救った偉人のことなのです。
また、神農氏は中国で初めて市を設けて物々交換を行ったことから、商業を奨励するという意味合いもあるようです。ぼくが神農祭の絵を描く時は、神農氏の知識は全くなかったのですが、かなり後になってから、神農氏が少彦名神社の御祭神にお祀りされているわけを知りました。
現在、中国の湖北省には「神農架」という、孫悟空のモデルになっているキンシコウ(顔が少し青く、全身が金色の美しい体毛で被われた猿)が生息する野生動植物の自然保護区があって、漢方薬の材料になる薬草が何と2000種も自生しているそうです。神農架の架は足場を意味するそうで、神農氏は植物が傷まないように細い木道を作って様々な薬草を採取し、毒味されたそうです。
神農という名が、中国の自然保護区の地名になっているのは、現代の中国でも、神農氏は薬草の神様として尊敬されている証拠でしょう。因みに漢方薬は薬草だけでなく、動物の骨や角、鉱物も含まれますが、ま、古代中国では薬と言えば、やはり、薬草が中心だったのでしょう。
人間生きておれば、誰でも怪我をしたり、病気になったりします。効く薬が無かった時代は、祈祷師などに頼んで魔除けのお祓いをして治していたわけですが、そのような治療法だけは、患者親族の気休めになっても、意識がもうろうとして寝込んでいるような患者の病状はすぐには回復しませんわなぁ。
飼っている愛犬が弱った時、散歩の時に愛犬が日頃は食べないような雑草を探してムシャムシャ食べているのを見ると、犬でも、自分の病気を治す薬草を先天的に知っているんやなぁと感心してしまいます。
現在の日本では、離島や山間部の過疎地を除いて、薬の入手は簡単にできます。
ぼくの住んでいるところは病院が多く、歩いて5分以内に薬局が4軒もあります。しかし、ぼくが子供の頃は化粧品の販売を兼ねた薬局が一軒しかなく、自称「富山の薬売り」の行商人が年に二回ほど自宅にやって来て、置き薬を置いていきました。パッケージの封を切った薬だけ精算する方式です。ぼくのおばあちゃんが贔屓にしていましたね。
それで、薬屋のおっちゃんが帰ってから置き薬を見ると、薬の製造メーカーが奈良県と和歌山県のものが殆どで、どこが富山の薬売りなんやねんと思いましたね。
そら、富山から重たい薬箱背負って大阪まで歩いてきたら、どんな体力のある人でも、福井あたりでバテテしまいますわな。しんどいから電車賃払っていたら、経費の方が高くついて、儲けにならんのとちがいますか。「アリナミン」と「グロンサン」を足して2で割ったような「アリナグロン」という滋養強壮剤もあったような記憶があります。
ここで、薬種商についても、ちょっと調べてみました。
豊臣秀吉は、天正11年(1583年)から大坂城本丸の工事に着手しましたが、同時に大坂城下町の整備も行いました。
秀吉の命令により、今の中央区伏見町と平野町付近に舶来品(はくらいひん:輸入品のこと)を扱う商人を集め、伏見町では反物、生糸や絹織物、平野町には薬種を扱う商人を定住させたといわれています。
薬種を扱う商人達がその後、平野町から道修町へ移住した経緯は分かりませんが、おそらく元和元年(1615年)の大坂夏の陣で市街の一部も被災し、徳川幕府によって大坂城が再建する頃に、市街の整備も行われて薬種商が道修町の方に移ったのでしょう。
秀吉の時代は、諸外国との貿易が盛んで、中国から輸入された薬種を唐薬(とうやく)と呼んでいました。唐薬の唐とは遣唐使の頃の唐ではなく、広く解釈すれば外国のことですが、絞って言えば、中国や東南アジアのことらしいです。因みに、茶道に使う碗で、中国から輸入された物は唐物(からもの)と呼んでいましたね。
また、南蛮(なんばん)と言えば、主にポルトガルやスペインのことを指します。
輸入品の唐薬に対し、日本国内で生産された薬種を和薬といいます。
唐薬と和薬の違いについて、理解なさっておいて下さい。
日本国内において、神農氏を薬祖神としてお祀りするようになった正確な時代は存じませんが、江戸時代の初めには唐薬を扱う薬種中買仲間(分かりやすく言えば薬問屋の組合)で、中国の薬祖神である神農氏の像や掛け軸を寄合所や個々の店内にお祀りする風習があったようです。
ところで、徳川幕府は、キリシタン(キリスト教)禁教のため、鎖国政策を実施していましたが、完全な鎖国政策をしていたわけではありませんでした。
幕府は、国内では満足に賄えない必需品の輸入のために、幕府が定めた信牌(しんぱい)という商取引台帳を所持した唐船(主に中国)と蘭船(オランダの東インド会社)による貿易と、対馬藩と朝鮮、琉球王朝と中国の貿易だけを認め、江戸から遠い長崎の出島に唐人(外国人)居留区を設け、今の税関に相当する長崎会所を元禄11年(1698年)開き、運上金を徴収していました。
なお、輸入品を扱えるのは、幕府から特許を得た商人だけでした。
唐薬の輸入は、江戸時代の中期頃から増加し、豊臣秀吉の時代から薬種取扱い公許の既得権を持つ大坂の薬種中買仲間が唐薬市場をほぼ独占していたようです。
長崎会所に持ち込まれた薬種は落札商人が競り落とし、大きな荷物は大坂廻船を使ったり、小さな荷物は飛脚を駅伝のように各宿場でリレーして大坂や京の問屋に運ばれました。
それを道修町の唐薬改会所で品質を検査して調合し、薬種中買仲間が価格を決めて、大坂から全国へ販売するネットワークのようなものが出来ていたようです。
そのため、大坂・道修町界隈では薬種を扱う店が増え、享保7年(1722年)には、他の商売との兼業も含め、約700軒の薬種商の店舗があったそうです。
幕府は、唐船や蘭船貿易の輸入によって支払われる金・銀・銅の海外流失を最小限に抑えるため、輸入品の年間取引高を厳しく統制していたようです。もちろん、日本側は輸入するだけではなく、国産品の小麦、米、海産物、銅、鉄、陶磁器などの輸出もしており、国内で不足した金や銀を輸入していたようです。
このような幕府の厳しい目が届きにくい遠隔地での官営貿易には、管理面の盲点があったらしく、不正な抜け荷密売の横行など、闇ルートも多かったようですね。闇ルートは、船宿や旅籠(はたご:旅人が宿泊する)で薬種の密売取引が行われていたようです。いつの時代にも、不正をする人間はいるものですね。
さて、唐薬のことはこれぐらいにして、和薬の話をします。
日本古来の薬祖神も伝説上の偉人で、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」といいます。
少彦名命は、日本の神話・伝説を記録した古事記(712年)に記載されているそうですから、奈良時代(710〜784年)の頃には、大国主命(おおくにぬしのみこと:大黒さん)と共に、お祀りする社が存在していたと考えられます。大国主命は、因幡の白兎の伝説が有名ですね。
日本でも古くから和薬が作られていたようですが、品質や流通がバラバラだったので、幕府は全国数カ所に和薬改会所を設けて、和薬の品質向上と流通の改革に乗り出しました。道修町の薬種中買仲間が公許で大坂に設けられていた和薬改会所の株を買い取って、唐薬の他に和薬も扱うことになったのです。これが、道修町に少彦名神社が創建されるキッカケになっているようです。
大坂・道修町の薬種中買仲間の組織する伊勢講が、日本の薬祖神である「少彦名命(すくなひこなのみこと)」の分霊を安永9年(1780年)に京都の五條天神社からお迎えして、神農氏と一緒に御祭神として祀られることになったのです。
明治10年から毎年11月22〜23日に、大阪市中央区道修町の少彦名神社で現在のような神農祭が行われるようになりました。東京の湯島聖堂でも、大阪と同じ日に神農祭が行われているようです。
なお、神農祭には「神虎(張り子の虎)」が有名ですが、江戸時代の文政5年(1822年)、大坂でコレラが流行りました。
当時はコレラを虎狼痢と書いて、「三日でコロリ」と言ったそうです。つまり、コレラに罹って発病すると、三日で死ぬということで、虎と狼が一緒に襲ってくるような怖い病気と怖れられていたのです。
そこで、道修町の薬種中買仲間の有志が虎の頭蓋骨の粉末を主原料にした丸薬を作って、少彦名神社の神前でご祈祷してから、笹に付けた神虎と一緒に無料授与したそうです。
そうしたら、丸薬の効き目があった?らしく、それ以来、神虎は少彦名神社の「無病息災のお守り」になっているようです。
神虎の授与は、戦前は時間を決めて無料授与されていたようですが、戦後は、希望者があまりにも多いので有料授与になったそうです。
「良薬は口に苦し」・・・昔は苦い薬は良く効くといって、ぼくは子供の頃、明治生まれのおばあちゃんから、頭痛でも、腹痛でも同じ薬「和歌浦?」をよく飲まされましたね。もの凄く苦かったです。ぼくは、根性無しなので、オブラートに包んで飲んでいましたね。
それにしても、だいたい漢方薬のパッケージに書かれている薬の効能って、温泉の効能と一緒で、効能の幅が広すぎますわ。最近の漢方薬は、厚生省の指導もあって、臨床研究に基づいた効能を表記していると思いますが。
現在の日本では、水道水や飲料水、そして食品の安全性が高いので、コレラに罹るようなことは殆どありませんが、サハラ砂漠以南のアフリカ、インドや東南アジア、南米のコレラ多発地へ行かれる方は、現状のワクチンの効き目が完全ではないので、胃腸の弱い方や子供・高齢者は、現地での予防対策として、不衛生な食品とか、露店などで生カキ、アイスクリーム、フルーツなどの生ものを食べないこと、そして不衛生なトイレには入らないことですね。
少彦名神社で授与される「神虎」は、大阪府の郷土玩具としても有名で、大阪府内にお住まいの方が製作されているそうです。テレビや新聞報道などで、ご存知の方もおられるでしょう。ぼくも、テレビの番組で観た記憶があります。
病弱な方は、少彦名神社にお祈りするだけでは、病気を治癒することはできませんから、適切な医療機関へ行って、医師から適切な治療を受けなければならないのは言うまでもありませんが・・・。
ところで、ぼくは広告写真の仕事で、いろんな業種の製品を撮影してきましたが、残念ながら、製薬会社の仕事は殆ど無かったですね。医療機器製造会社の製品撮影やイメージ撮影をしたことは、数回ありましたけど。
恥をかいた、19歳の時のアルバイトカメラマンのプロデビュー
そんな中で、昭和38年(1963年)の写專(しゃせん:日本写真専門学校)時代に、ぼくが19歳の時に、道修町の大手製薬会社・F社の撮影アルバイトをしたことがあります。それは、写專に入って初めての夏休みの時でした。
道修町に本社を置く大手製薬会社のF社が、大阪府内の各有力薬局に新製品のビタミン剤を拡販するため、テレビCMや新聞広告に有名俳優を使って大々的なキャンペーンを行い、新製品の店頭陳列が良くて売上げ優秀な店舗を取材して、後で表彰するというものでした。
この仕事は、学校から選りすぐりの生徒(すでにNikon Fを使っている生徒)がアルバイトカメラマンとして派遣されたのですが、その内の一人が、さらに美味しい撮影アルバイトを他に見つけて?代役をぼくに振ってきたのです。
ぼくは一流会社の仕事が出来て嬉しかったのですが、当時のぼくは貧乏学生で、自前のカメラを持っておらず、また当時はカメラ機材のレンタルをしているような店も無かったので、仕方なく兄のスナップカメラ(マミヤメトラ35)とフラッシュを借りて、集合場所であるF社の玄関前へ行きました。
ぼくは堺方面の店舗取材を担当することになって、エリア担当の営業社員の方(二人)と一緒にF社の社名が入ったライトバンに乗り込んで、取材に出掛けました。フィルムは、F社からカラーネガを数本受け取り、フラッシュ用の閃光電球はぼくが負担しました。
撮った撮影ネガ・カラーは、未現像のまま営業の方に渡すことになっており、現像結果が分かりません。だから、撮影結果が不安でしたね。多分、写專から行ったアルバイトカメラマンの中では、ぼくの撮った写真が一番下手だったように思いますね。
そして、案の定、ぼくは初っ端から恥をかいてしまいました。
最初のお店で、店主さんとF社の社員さんとの商談が済み、緊張が解けて和(なご)んだところで、店主さんのお顔の写真と、新製品のパッケージが店頭のホットコーナーにマス展示され、F社の販促物でデコレーションされたところを撮ることになりました。
ぼくはレンズキャップを付けたままシャッターを切ろうとしたら、
「き、きみ、ふた、外さな!レンズの蓋」・・・言葉の後に、「大丈夫かいな?」と言われなかったのが、せめてもの救いでしたね。
その一瞬、ぼくは我に返り、レンズの蓋をズボンのポケットに入れ、レンズにはキャップをしない習慣を身に付けることにしました。やっぱり、仕事に使うカメラは、一眼レフやなぁとつくづく痛感しました。35mmの距離計カメラを使うことに恐怖心が募ったのです。レンズキャップを付けた状態でシャッターが切れるなんて、カメラ会社の設計ミスやなぁと思いましたね。
たった4日間のアルバイトでしたが、最終日の4日目には重役さんがご一緒するというのに、いつも通りの恰好でF社へ行ったら、玄関前に何と黒塗りの高級外車が止まっていました。薄汚れた服装をしていた貧乏学生のぼくはビビってしまいました。
取材カメラマンは汚れやすい仕事なので、服装などに無頓着な方もおられますが、やはり、TPOをわきまえないとダメですね。
重役さんが取材にご一緒なら、やはりスタッフもスーツとネクタイは着用して、身なりを整えるのがエチケット(礼儀)でしたが、当時19歳のぼくはスーツなどは持っていませんでした。
世間知らずで怖さも分からないぼくは、たった4日間のアルバイトでしたが、毎日のように何らかの恥をかいていましたね。
製薬会社の重役さんとご一緒に取材に行った時、ぼくは生まれて初めて高級外車(フォード製・1ドル360円の当時は、アメ車でも高級車だった)の広い後席に乗り、端の方に縮こまって浜寺方面の取材先に向かいました。
当時の国道26号線沿いの浜寺には大きなドライブインがあって、昼食で立ち寄りました。
この取材の時、生まれて初めて、まともな洋食(ビーフステーキのランチ)を食べました。うまかったなぁ。ぼくが頼んだわけではありませんよ。
そのビフテキを食べた印象が今でも強く残っていて、食事の後、どんな写真を撮ったのかは全く憶えていませんねぇ。
そんなわけで、第二回目のアルバイトには、ぼくはF社から呼んで貰えませんでしたから、写真カメラマンとしては失格だったのでしょう。
写專時代のぼくは、ぼくが車を運転したり、車を所有する事ことなどは雲の上の世界(実現不可能)のことで、ましてや外車なんて一生買えないクルマだと固く信じていたのですが、40年後の2004年には、愛車のフォード・エクスプローラ(左ハンドル車)に乗って、旧国道26号線沿いにある「ドライブイン・浜寺」付近を走っていると、写專時代にやったアルバイトのことが懐かしく思い出されます。因みに2006年以後の愛車は国産車です。
2004/11/19 記事:尾林 正利(2014年12月8日に一部更新)
江戸時代の薬種業に関する記事は、N H Kデータ情報部の出版物「江戸事情・産業編」「江戸事情・政治社会編」などを参考にさせて頂きました。
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