住吉大社の御田植神事の思い出
記事:尾林 正利
住吉大社は、大阪では殆どの人が知っている有名な神社で、正月にお詣りする老若男女が大変多い。しかし、住吉さんに祀られている四柱
(よんはしら) の御祭神のことについて知らない人もかなりいると思う。
神社へお詣りする時の常識として、お詣りする主祭神のこと知っておかれた方が、知らないよりは、御利益があるかも知れない。
奈良時代の養老4年(720年)に舎人親王(とねりしんのう:天武天皇の皇子)らが編纂した「日本書紀(神代から持統天皇までの皇室や豪族の系譜や出来事を漢文で記録)」によると、
3世紀の初め、仲哀天皇の皇后「神功皇后(じんぐうこうごう)」が、帝に先立たれて、住吉大神(すみよしおおみかみ)のご神託を受け、皇子を宿した身重の体で、帝に代わって兵を率いて海を渡り、朝鮮半島の新羅(しらぎ)へ進軍し、新羅と戦わずして降伏させて、三韓(新羅・百済・高句麗)に朝貢を約束させたと伝えられている。(中国の魏志倭人伝の東夷伝によると、同時期に倭の国の女王が朝貢に来たとの記述があるらしい)
遠征からの帰国後、神功皇后(長足姫尊:おきながたらしひめのみこと・日本書紀での名前で、または、息長帯比売命:おきながたらしひめのみこと・古事記)は、長旅の疲れがあった筈なのに、皇子(応神天皇)をご出産されたことから、神功皇后は「安産の守り神」として、さらに朝鮮で武功があったことから、戦時には「戦の神」、平和時には「武道の神」として尊崇されている。
住吉大社は、神功皇后と住吉三神(表筒男命:うわつつおのみこと・または、上津綿津見神:うわつ わたつみのかみ、中筒男命:なかつつおのみこと・または、中津綿津見神 : なかつ わたつみのかみ、底筒男命:そこつつおのみこと・または、底津綿津見神:そこつ わたつみのかみ)を御祭神に祀る神社で、神功皇后は、安産と武道の神、住吉三神は、綿津見神(わたつみのかみ)なので、つまり海の守り神として、造船、漁業、海運、貿易、海上保安関係者に奉賛者が多い。
住吉大社の歴史は大変古く、今から千年前の平安中期に紫式部が書いた源氏物語にも登場する。
主人公の光源氏が、義兄である朱雀帝の妃 (側室)であった朧月夜(おぼろつきよ)にちょっかいを出して、不倫の関係になった。
朧月夜は、光源氏の政敵であった、中宮の弘徽殿女御(こきでんにょご)の妹だったので、中宮はそれを知って激怒し、光は京にいづらくなり、自ら平安京から須磨へ謹慎蟄居をした時に、光源氏の一行が墨江(すみのえ)の住吉明神(現在の住吉大社)へお詣りした事が記述されている。
源氏物語は歴史上に実在しない架空の人物を多数登場させたフィクション小説であるが、光源氏は、「六条河原院」と呼ばれた「源融(みなもとのとおる)」をモデルにしているとされ、実際にあったようなことが仮名で婉曲的に書かれており、平安時代の貴族社会を知る上で貴重な古典文学作品になっている。
現在でも、風俗で働く女性名には、実名を隠して「源氏名」が利用されている。平安時代の官能小説家・紫式部は千年経った現在にも、日本文化に大きな影響を与えている。
住吉三神は「海の守護神」であったところから、西海(九州)方面へ赴任する受領(ずりょう・国司)たちも、京から西へ下る時には、必ずお詣りしたのに違いない。紫式部の父「藤原為時(ふじわらのためとき)」は、一条天皇の御代では、地方長官の受領(ずりょう・国司)に任ぜられ、淡路守(あわじのかみ)として赴任したことや、紫式部の夫も宇佐使い(大分県の宇佐神宮への勅使)だったことから、今から千年前に、紫式部が住吉大社にお詣りした可能性が極めて高い。
2014年で、大阪に生まれ育って70年、ぼくが初めて住吉さんの大鳥居をくぐって太鼓橋を渡ったのは48歳(1992年)の時で、初めて御田植神事の取材へ出掛けた時であった。大阪に48年も住みながら住吉さんに一度もお詣りしたことがないような男に、住吉さんの御利益がある筈がない。正月には伏見稲荷に参拝することが多い。
1992年、この時はパジェロに乗って住吉大社へ出掛けたが、いくら探しても住吉大社の付近には駐車場がなく、神事開始の時間が迫っていたので仕方なく住吉公園の近くの路上に愛車を停めた。神事が終わって住吉公園に帰ったら、パジェロのフェンダーミラーに黄色いワッカがぶら下がっていた。ちょうど免許更新の年で、念願のゴールド免許が貰える筈が、パーに。
住吉大社の御田植神事と言えば、ぼくにとっては、駐車違反の切符を切られた苦い体験が思い出され、それ以後は、阪堺電軌のチンチン電車を利用するように心掛けています。片道200円のチンチン電車に乗って、のんびりと住吉大社へ行くのが正しいようです。
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