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おおさか スケッチ

大正ロマンが彷彿、大阪市中央公会堂


絵画の制作:尾林 正利 (平成5年:1994年制作)
スケッチは改修前の中央公会堂で、自動車が入口扉に横付け可能でした。


上のスケッチ原画を1200dpiの高解像度でスキャンし、業務用インクジェットプリンターで出力した額装作品を販売しています。お買上げの方は、先ず、左上にある管理人室ページをお読みなってから、購入ボタンをクッリックして下さい。



フォームに記入する作品名:大阪市中央公会堂


下の写真は、2006年5月21日に、Canon EOS-1Ds mark2とTS-E24mm f3.5Lを使って、手持ちでアオリ撮影をしています。
アオリ撮影の詳細はこちらをご覧下さい。

OLさん達のお昼休みのオアシス。中之島公園のバラ園(なにわ橋の東側)です。

2002年12月に国の重要文化財になった、大阪市中央公会堂
中央公会堂とバラ園は、京阪中之島線の「なにわ橋駅」からのアクセスが便利に


大阪市は、太平洋戦争終わりの昭和20年に、アメリカ陸軍航空軍による大空襲が何度もあって、大阪市西部の臨海工業地帯や市内の人口密集地は、真夜中に数時間も200機〜300機に及ぶ大編隊のB-29爆撃機が投下した大量の焼夷弾(しょういだん=ナパーム弾)爆撃によって殆ど焼け野原になり、戦前の貴重な文化財は殆ど残っていませんが、ウォーナーリストに挙げられていた、大阪城天守閣は爆撃を免れました。しかし、大阪城内の櫓は一部が焼失し、四天王寺は一部を除いて殆ど焼失しました。初代通天閣は空襲の前に一階にあった映画館の火災で鉄塔が丸焦げに。

ウォーナーリストとは、米国の東洋美術研究家の、Langdon Warner(ラングドン・ウォーナー)氏が、マリアナ諸島にあるテニアン島の米陸軍航空軍(現在の米空軍)基地に駐留する部隊の司令部に対して、日本本土爆撃の際に、爆撃から外す文化財のリストアップを渡したようなのですが、出撃する爆撃機のパイロット達には、それが伝わっていたのかは謎です。名古屋城天守閣は爆撃されて焼失し、日本各地の多くのお城が爆撃の標的にされましたし、重要文化財の多い京都にも20回の空襲があって、京都御所も空襲に遭ったそうです。

ウォーナー氏は、昭和21年に、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の東洋古美術管理顧問として来日しました。ウォーナーリストは、日本占領後の日本の文化財を守るリストだったようですね。GHQが「重要文化財の建っているところは、爆撃目標から外した」という話には疑問符が付き、GHQが日本統治下で行った情報操作であったことには、ぼくは気が付きませんでした。

中之島に架けられた淀屋橋北詰の御堂筋に面して西側に建てられていた、明治36年(1903年)完成の日銀大阪支店、御堂筋に面して東側に建てられてた大正10年(1921年)完成の大阪市庁舎、大阪市庁の東に明治37年(1904年)完成の府立中之島図書館、大正7年(1918年)完成の中央公会堂などの重要な建物群は、鉄筋コンクリート製の建造物だったので、不幸中の幸いにして焼夷弾による被害は少なく、明治時代や大正時代に建てられた建造物が、戦火を免れました。

昭和61年(1986年)に老朽化した大阪市役所は建て替えられ、大阪人なら誰でも知っている「中央公会堂」は、昭和63年(1988年)に永久保存が決まり、施設の長期保存の為の耐震補強工事とリニューアル工事が施され、平成14年(2002年)11月1日にニューアル・オープンされました。現在ではライトアップも行われています。同年12月26日には、国指定の重要文化財(建2419)に指定されました。

大阪で風景画を描いている殆どの人は、一度は、中之島の中央公会堂を描きますね。
好天の休日になると、十数名の日曜画家がイーゼルを立てて油絵や水彩画を描いている姿をよく見掛けます。

中央公会堂の西隣には、大阪府立中之島図書館があって、1963〜1964年の学生時代はよく通ったものです。
ぼくの知識の源泉は、読みたくなる参考文献が豊富にあって読書環境の良い中之島図書館へ足繁く通ったお陰です。
図書館食堂のきつねうどんが、一杯15円(大阪市電の電車賃は、全区で15円)で、安くておいしかったですね。

ここの図書館で、写真専門学校に通いながら、補習のために、写真フィルムや印画紙の知識と現像処理を学ぶ写真化学、カメラの仕組みとカメラのレンズを学ぶ写真光学、すぐれた写真作品を観て目を肥やし、写真史を勉強しました。ぼくは日本史を明治中期までしか教科書で学ばなかったので、ついでに大阪市史を徹底的に読み漁りました。中高の教科書に書かれていない事実を知る。本代はタダですよ。

中央公会堂が建っている辺りは、中之島公園になっています。橋の両端にライオンの彫刻がある「なにわ橋」の東側にバラ園があって、バラが咲く新緑の季節の昼食時には、淀屋橋や北浜付近に勤務するOLさんたちが、バラ園のベンチで休憩している姿も見掛けます。

今回掲載の大阪スケッチは、1991年11月にフィルムカメラで撮った写真を参考にして、1992年(平成4年) の1月に画を仕上げました。大阪スケッチシリーズで、一番最初に描いた絵なので、画の出来には満足していませんが、厚かましく掲載させて頂きました。

1992年に描いたスケッチと、2006年に撮った写真を比較しますと、リニューアル工事前は、公会堂の正面には樹木の植え込みがあったのですが、リニューアル工事後は樹木が伐られてしまいました。また、玄関前のスロープが変わっていますね。以前は正面玄関の入口に自動車が乗り入れられたのですが、今は階段下までしか乗り入れが出来ません。

ところで、中央公会堂は、どのような経緯(いきさつ)で建てられたのでしょうか?
実は、大阪府立中之島図書館は、住友家の寄付によって建てられ、中央公会堂は、株式仲買人(相場師)の岩本栄之助氏の寄付を原資として、大正2年(1913年)に着工し、同7年(1918年)に完成したそうです。つまり、大阪在住の実業家の寄付によって建てられたわけです。

明治10年(1877年)年、岩本栄之助氏は、実家が船場(せんば)の両替商「銭栄」で、後に株式仲買業に転業した「岩本商店」を経営する岩本栄蔵氏の二男として生まれました。
少年時代は家業を手伝いながら、夜学に通って商業・経済・外国語を学びました。

明治30年(1897年)、栄之助は二男であったため軍人の道を選び、大阪に駐屯する陸軍第四師団に志願して甲種合格し、入隊後は訓練に励み、日露戦争の時には、中国の遼東半島の旅順へ従軍して児玉源太郎陸軍大将の副官を務めて陸軍中尉になられ、凱旋後の明治39年(1906年)には、兄・栄治郎の夭折(ようせつ:若死に)で、父の経営していた岩本商店を引き継がれ、株式仲買人になりました。29歳の時でした。

明治40年(1907年)に大阪株式市場の大暴落が起こり、野村信之助(二代目の野村徳七・野村証券の創立者)ら、親交のあった大阪株式取引所(現在は大阪証券取引所)の仲買人の懇願に応えて、岩本氏が暴落前に大儲けした大金を吐き出して市場を買い支えて苦境にあった仲買人たちを救ったので、大阪財界や大阪の株式仲買人たちから注目されるようになります。

明治42年(1909年)に、財界の重鎮・渋沢栄一氏らが結成した渡米実業団に参加して渡米し、アメリカの公共施設に立派な建物が多いのに驚き、アメリカでは、大富豪が公共事業に私的財産を投じて、公衆の便宜を図り、慈善事業にも遺産の一部を寄付する実例を目の当たりにして感激されたことをメモに書き残されているそうです。

明治時代の大阪では、イベントや会議などで、多くの人が収容できるようなホールが少なく、お寺や神社の参集殿や料亭の大広間を利用していました。これでは、大阪市は近代都市の仲間入りが果たせません。
岩本氏は、渡米中に父の訃報を聞き、父の遺産と自分の私財を大阪市に寄付することを決心し、遺産相続人である母と相談したところ、母は快諾して、

「あんた、立派なことしたからといって、威張ったらあきまへんで。どなた様にも、機嫌よう使(つこ)うてもらうようなものに、しときなはれ」。岩本氏の母堂もご立派!

帰国後の明治44年(1911年)に第4代・植村俊平 大阪市長に会って、100万円を寄付されました。その後、岩本氏の商売の業績も良くなって財を成し、人望が厚いところから、大阪株式取引所仲買人組合の委員長や大阪電灯(関西電力の前身)の常務に兼任されるようになります。

因みに明治44年(1911年)当時の100万円の価値を平成22年(2010年)の貨幣価値にすると、約27億円ぐらいになるでしょうね。50億円と書かれている場合もあります。
27億円とした根拠は、明治44年当時の消費者米価は、 10kg=1円50銭でした。2010年の米価は、 10kg=4000円(大阪の大手スーパーで売っているコシヒカリ米)ほどですので、米価が約2700倍も上昇していることになります。

50億円だとする根拠は、明治44年当時の知事の月給が300円ほどです。2010年の知事の月給が、約150万円としますと、5000倍になりますので、当時の100万円は、今の50億円だと書かれているのではないかと思います。27億と50億の中間をとれば、約40億円ぐらいにはなるでしょう。いずれにしても大金です。

今の大阪商人に、大阪市或いは大阪府へ40億円も寄付するような方はいないと思いますね。
この時は、寄付金の100万円の使途が決まっていませんでしたが、中之島全域に桜並木の植樹計画と、市民がいつでも利用できる公会堂を造ろうという二つの意見が出て、検討の結果、中央公会堂の建設が決まりました。

ところが、岩本栄之助氏は、第一次世界大戦開戦前後の相場変動の時に、一般投資家たちの大量買いの逆手を取って、大量売りに出たところ、相場が動かず大損し、会社存続も危なくなってしまいました。

第6代 池上四郎 大阪市長は、岩本商店の窮状を見かね、岩本氏へ救済の手を差し伸べようとしますが、岩本氏は信念を貫いてそれを断り、大正5年10月22日、従業員全員と家族を宇治へ慰安旅行へ送り出したあと、自宅にいた岩本氏は、日露戦争で入手した銃で自殺されたのです。

「岩本はんを、死なしたらあかん」。
株式仲買人仲間は、天満宮境内に夜通し篝火を焚いて加持祈祷し、医師による懸命の治療の甲斐もなく、病院へ搬送されてから5日後に永眠されたのでした。39歳でした。
中央公会堂は、未だ工事半ばで完成していませんでしたが、大正7年(1918年)11月17日に行われた晴れやかな落成奉告祭では、岩本栄之助氏に代わって、4歳の愛娘・善子さんが出席し、振り袖姿の遺児の手から池上市長へ中央公会堂の鍵箱が渡されたのでした。

中央公会堂は、地上3階、地下1階の建造物で、建築デザインは、ネオ・ルネサンス様式を基調にしたといわれ、外装に赤レンガを使った印象的な建物です。
因みにNeo(ネオ)とは、ギリシャ語で「近代的な、新しい」という意味があり、Renaissance(ルネサンス)は、フランス語で「再生、復興」の意味があります。
ルネサンスは、14〜16世紀にイタリアを中心に西欧で広まった古代の芸術や文化(主にギリシャ文明)の復興運動のことですが、ネオ・ルネサンスとは、ルネサンス期やその前後に流行したゴシック建築(屋根部分が鋭角的に尖っている)やバロック建築(屋根部分に優美な曲線を採用)の伝統的な様式を19世紀〜20世紀の近代建築に取り入れたものです。このような建造物を歴史主義的建築と呼ばれています。因みにぼくは、バロック様式の方が好きです。

日本は、明治時代後期から大正時代にかけて、公共建造物の西欧化が進行していましたので、日本から欧米に留学して西欧建築を学ぶ建築家もいて、イギリスやフランス、アメリカの主要な建造物の影響を受けました。

中央公会堂の建築設計は、日本初の懸賞付き建築設計競技の入札公募になり、大正元年(1912年)13名の設計案の中から、当時29歳の岡田信一郎氏の設計案 (デザイン) が一位になり、辰野金吾氏・片岡安氏が実際の設計図を担当しました。中央公会堂正面の半円アーチや屋根の形状には優美な膨らみがあって、バロック建築の影響がみられます。

上の三枚の中央公会堂の写真と中之島公園の写真では、Canon EOS-1Ds mark2にTS-Eレンズのレンズ シフトのテクニックを使って、通常の広角レンズの描写で目立つ、建造物が上窄みに写る現象を人間の視覚に補正して撮っています。
通常の建築写真なら、今までは、重い4×5インチ判のビューカメラを頑丈な三脚に載せて、レンズボードをライズして、カメラムーブメントを駆使して撮るのが常識でしたが、自動絞りTS-Eレンズの登場で、手持ちでアオリ撮影がカンタンにできるようになりました。レンズの歪曲収差が良く補正されているので、タテ・ヨコの直線が真っ直ぐに写り、安心してプロの仕事に使えます。

中央公会堂の前は、休日や週末にはイベントが多く、いつも人集りができますので、人が全然写っていない中央公会堂を撮るのは難しくて、人が通らない瞬間を撮るのに、大変苦労しました。フォトショップで人物を消していませんよ。

中之島公園を撮った写真では、高層マンションが垂直に撮れていますが、アオリによって、画面左上の周辺光量が若干落ちています。
キヤノンさんの最新のEOS DIGITALでは、EFレンズで、広角の周辺光量不足を補正できるソフトウェアが附属しており、TS-Eレンズであおった時の周辺光量不足を補正するソフトウェアも、ぜひ開発して頂きたいですね。


初掲載:2010年4月11日 尾林
カメラ:Canon EOS-1Ds mark2
レンズ:TS-E 24mm f3.5L
写真取材と記事:尾林 正利
2006年5月21日に写真取材


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