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ブログ

6月1日は、 写真の日

写真の日に因んで、ちょっと懐かしい想い出に振り返ってみました。
掲載写真は、元気だった母が育てた野菜をスタジオで撮った作品です。

カメラ:トヨ・ビュー 45G、レンズは、FUJINON W210 mm、
スタジオライトは、龍電社 2kw ソーラースポットとアイランプ

2014年5月21日 尾林 正利

我が家の「プチ農業」で、陸稲(おかぼ)を育てた想い出

2014年5月11日のブログを再掲しています。2015年4月10日に更新

一足早く衣替えしてから、暑くなったり、肌寒くなったりの季節の変わり目のGW連休前に体調を崩し、自宅で静養していても一向に治らないので、5月12日に自宅近くの総合病院の内科へ行って診察と検査を受け、ドクターからアドバイスをして戴き、当分の薬を処方して貰いました。

近年では毎年のようにこの時期には、いままで罹らなかった花粉症(ドクターは、ハウスダスト・アレルギーの可能性もあると...)のような症状に悩まされていて、五月晴れの清々しい日であっても、目の周りが痒くなるわ鼻水が垂れるわで、体調はイマイチです。

まぁ、内科医のアドバイスを信じ、処方箋に従って目薬を点眼し、鼻薬を鼻腔に噴射して、アレルギーの痒みを抑える薬を服用してなんとか、このブログのページを書いておりますが、頭もボーッとして、キーボードを使ってのタイピングがスラスラと捗りません。

今年の10月には、少年の頃に想像もしなかった「古稀(70歳)」を迎えます。
もう、70 近くにもなると、クリエイティブな仕事へのモチベーションが衰えて、情熱の残り滓...余熱で生きているようなもの。他人様(ひとさま)に偉そうなことを言えないようになって参りました。
還暦が済んで古稀がやって来た10 年間は、一体何をしていたんだろうかと・・・「物忘れ」を治す薬を飲みたいです。

ぼくの愛用のコンピュータには、記憶媒体のハードディスクの検査、パーティションの検査、ディレクトリの検査、ファイルの検査を修復するソフトウェア(新しいMacは起動時に自動修復)があって、定期的にメンテナンスを行えば、パソコンがいつもスラスラ動くんですが、それをオペレートする肝心のぼくの記憶媒体(のうみそ)の方が、理路整然になっていませんので、文章の表現にお見苦しいところもあるかも知れません。こちらも、気がついた時点でデバッグ(上書き・削除)をしておりますが。

今回のブログのテーマは、6月1日の「写真の日」に因んで「写真」にしましたが、ぼくの浅学菲才な、写真観を語る前に、自分だけは老いることを全く想像だにしなかった生意気な中学生時代に、つまり、昭和34年頃(1959年)のアルバムを開いて、往時にタイムスリップしてみました。

今から56年も前というと、思い浮かぶのは、当時の鉄道と自動車です。
大阪駅から東京駅へ行くのに、国鉄のビジネス特急151系「こだま」で、6時間50分(京都・名古屋・横浜に停車)も掛かっていました。これには、一度も乗ったことはありません。

大阪から東京まで(逆に東京から大阪まで)の、大阪7:00発(始発は神戸6:30発)の上り「こだま」に乗れば、東京13:50着で、2時間ほど東京で仕事して、東京16:00発の下り「こだま」に乗れば、大阪22:50着(神戸23:20着)で、東京への日帰り出張が可能になったので、家庭を守る愛妻のために直ぐ戻って来る意味の「こだま」という名が冠せられました。
ま、昭和39年の東海道新幹線の開業で国鉄(現在はJR)在来線の特急「こだま」は廃止されましたが、「こだま」の名前は東海道山陽新幹線に引き継がれました。

新幹線の「こだま」には、かなり乗っています。一度、東京駅から新大阪まで「こだま」に乗って4時間で帰ったことがあり、「ひかり」に抜かれるわ、抜かれるわ、また、抜かれるわで、鈍くささにイライラしましたが、昔のこだまに比べたら凡そ3時間も速く、人間は一旦贅沢を憶えると、それが当たり前になって、元に戻れんワケです。

ぼくが初めて大阪から東京(箱根・鎌倉含む)へ行ったのは、ビジネス特急「こだま」が運転された翌年の昭和34年の中学の修学旅行の時でした。 国鉄155系の修学旅行専用車「きぼう(京阪神地区の中学校が利用)」号の運転開始年に乗車したのです。ピカピカの新車でルンルン気分で、座席は6人掛けと4人掛けのボックス式・対面クロスシート車で、ぼくは小柄でしたが窮屈でしたね。大阪から乗車して熱海で下車して、箱根の温泉旅館に宿泊。翌日は観光バスで鎌倉大仏見学・・・バスで品川駅へ。これって、修学旅行じゃなくて、観光旅行じゃないですか・・・。枕投げ?しました、しました。

因みに現在は、N700系「のぞみ」の新大阪〜東京間の最速列車が2時間26分なので、半世紀の間に世の中は、ガラッと変わりました。
ところで、ぼくが少年時代に住んでいたのは、当時は大阪府南河内郡高鷲村の北西で、現在は羽曳野市になっています。

古びた我が家に、凡そ150坪ぐらいの「田(登記簿では田:プチ農業の家庭菜園として利用)」があって、ぼくが中学生2年生の頃(昭和34年頃)、思い起こせば大変お世話になった祖母が、孫たちが食べ盛りなので、自宅菜園の凡そ半分を稲作に耕して陸稲(りくとう/おかぼ)を植え、ぼくも鎌を握って稲刈りした想い出があります。

今では、日本人は食べ物に贅沢になって、学校給食の質と量が違います。
ぼくが小学4年生頃に、脱脂粉乳のミルクがアルミ製のカップ一杯とコッペパン一つの質素な給食が廃止になって、自宅に食べに帰っていましたね。空腹でも美味しくない脱脂粉乳の味は、まだ、終戦の面影が残っていました。

現在の日本は、外圧の影響からか、減反政策による放置田が社会問題になっていますが、一応、水稲栽培の出来る用水の環境が整っており、水稲よりも品種が少なく連作できない陸稲(おかぼ)を植えるような農家は無いと思います。陸稲は駄菓子屋の煎餅用になる米だったそうですが、そのころは、そんな米とは知らなかったですね。

水稲(すいとう)ではなく、陸稲にした理由は安く付くからです。
水稲を栽培するには、水を張った田圃に田植えしてから、凡そ2カ月半ほどは田圃に水を張った状態にします。田圃に引く水はタダではありませんよ。 溜め池から引いた、農業用水を利用する場合は、町役場の農業委員会に地域管轄の水利組合を教えて貰い、農作物の耕作面積に応じて会費を前納しなければなりません。
農業用水の取水口の樋門取り付け工事は、組合員の立ち会いで、利用者が工事費を負担します。

我が家は専業農家ではないので、祖母は水稲栽培を断念しました。でも、それで米作りを諦めたワケではありません。
お米には、水田で育てる水稲と、畑で育てる陸稲(おかぼ)の二つのタイプがあって、陸稲は水稲よりも味や食感は落ちますが、栽培費用が安くて手入れがし易いのです。
稲には天候不順(小雨や冷夏)による不作や病虫害や鳥による食害もあって、その知識や対策も必要なのです。案山子(かかし)を立てるのはスズメ除けなんです。

祖母は知り合いの専業農家に頼んで、陸稲の種籾を貰い、ぼくと兄は、祖母の言われる通りに、畑の畝に種籾を播いて育てましたが、稲作の面倒(野良仕事)は、一番ヒマな中学生のぼくがやったので、学校から帰って畑の雑草抜きと、我が家は井戸水だったので、井戸から畑までバケツで運ばなければならず、朝夕の水遣りが大変でした。だから、雨の日は、水遣りがサボれてラッキーでしたね。

自宅で稲を植えるなんて、秋の稲刈りが楽しみになって、テンションが上がりました。
自分が世話した新米の炊き立てを頬張るのをイメージすると涎が・・・。
でも、ぼくの中学時代の級友は専業農家の倅が多く、田圃の広さが三反(さんたん;900坪/1反=300坪)以上もあるのは当たり前で、陸稲を50坪ほどの畑で植えているなんて恥ずかしく、黙っていました。

陸稲でも、一応「実るほど頭の下がる稲穂かな」のシーズンを迎え、10月初旬に鎌を握って稲刈りして、稲束を縄で根元を括ってハザ掛け(天日干し)しました。そこから先はぼくの家ではできません。 雨が降らなければ、稲を一週間ほど乾燥させてから、足踏み式の脱穀機を農家から借りてきて脱穀し、籾摺り(籾の皮を剥いて玄米にする)と精米(玄米を削って白米にする)は近所の知り合いの農家にお願いしました。

日本産のお米って、ジャポニカ種と言って、大きく分けて、三種のものが生産されています。

1、粳米(うるちまい:デンプン成分にアミロース20%アミロペクチン80%含有)は、主に御飯用です。羽釜や炊飯器で炊きあげます。

2、糯米(もちごめ:デンプン成分はアミロペクチンのみ含有)は、お餅用です。餅屋さんとか自宅で餅搗きする時に使います。セイロで蒸します。

3、酒造米(しゅぞうまい)清酒などの密造を防止するため、一般への販売を禁止しています。酒米をセイロで蒸し、蒸した酒米を布を敷いた木の餅箱に平らにのばして、ウチワであおいで適温にし、種麹を散布して、一定時間を掛けて発酵させ、その後、大きな酒造タンクに入れて醸造し、時々攪拌します。 やがて、酒造タンクの乳白色のどろどろの液体から泡がポコッ、ポコッと出て、芳醇な醪 (もろみ)になり、もろみを搾って濾過したものが清酒で、そのままのものが、濁酒(どぶろく)です。

もろみの塊を乾燥させたものが酒粕で、明治生まれの祖母は、飲酒に関しては寛容で、男はチンチンに○が生えたら大人やと言って、正月には飲酒を勧め、夏の汗が噴き出す野良仕事の駄賃に、コップ一杯のビールを勧めてくれました。サイダーの方が有難かったんですが、祖母が飲みたかったんでしょうね。キリンラガーのホップの苦さで、大人になった感じがしましたね。 だから、ぼくは中学生の頃から、おやつ代わりに酒粕(粕汁用に買ったもの)を火鉢に炙って、砂糖醤油のタレに浸けて食べていましたね・・・しばらくすると、ホワーッとしたような・・・m(_ _)m

上記のように、お米は御飯やお餅、米粉の加工品(もなかの皮や白玉など)、清酒、みりん、酢にするだけじゃなく、いろいろと役立つものなんです。
籾殻(もみがら)は燃やして灰にすれば肥料になるし、藁は編んで縄になるし、藁を細かく刻めば堆肥や壁土の材料になり、精米で削った糠は漬物用に、米って、棄てるところが殆どない優等食品なんです。

他国は、お米をそんな風に利用してんのかなぁ。
アメリカは「米国」と書きますが、日本がアメリカに米を作ってくれと頼んだことはないのに、アメリカの農家が勝手に米を大量に作って「米買え!米買え!」って、うるさく、しつこく言ってきますが、小麦作ったらエエのに・・・そう思いませんか?

ところで、早速、陸稲の試食を楽しみにしていたら、炊き立ての御飯が何と、いつもと同じ「麦飯」だったのです。ぼくは大ショックでした。

反抗期のぼく:「今夜は久し振りに銀シャリ(白米だけの御飯)が食べられると思っていたのに・・・何でぇ?」

御飯を炊いた、明治28年生まれのおばあちゃんが曰くには、「白米ばかり食べたら脚気 (かっけ)になる。日露戦争では、出征した兵隊さんにも脚気が流行ったんや。脚気が原因で死ぬこともあるんやで。麦御飯には脚気にならん栄養があるんや」。

反抗期のぼく:「へぇーっ、脚気になるって、そんなんウソやん」。

麦御飯と言えば、当時は「白麦米 (はくばくまい)」というブランドの商品が米屋さん(当時の米は配給制)で売られていて、米よりも単価が安く、白麦米の原材料は「大麦」なのです。
御飯粒に縦に黒い筋があるのが特徴です。麦御飯でも、上に熱いとろろ汁を掛けて食べると、実に美味しい。祖母の得意料理でした。とろろにする自然薯(山芋)は買わなくても自宅で採れ、ショベルで掘るのもぼくの役でした。

もちろん木割用の斧で薪割(まきわり、たぎぎわり)もしました。我が家は、水道代とガス代が、長い間、0 円だったのですが、井戸が二カ所にあって、豆炭や炭は、かんてき(七輪)に使い、網を乗せて魚を焼いていました。練炭は火鉢に使いお湯を沸かして部屋を暖めていました。

当時の我が家では、2連の煮炊き用のカマドがあって、燃料に薪や木の廃材を使っていました。
一応煙突があるんですが、カマドの上の天井は煤で真っ黒でした。
家族が5名なので、1升炊きの羽釜で白米と白麦米を混ぜて炊いて食べていました。
この羽釜で御飯を炊くというのは、最近のマイコン付き炊飯器にも応用されているので驚いています。

白米に白麦米をブレンドした麦飯の炊きたては、マァマァな味と食感なんですが、それが冷や御飯になると、御飯の匂いが臭くなるし、ご飯がベタ付いて不味くなるので、麦御飯が残った翌日の朝は、祖母は早起きして羽釜で茶粥を炊き、茶碗に半分よそった冷えた麦飯の上に熱々の「茶粥」を掛けて、お箸で少し掻き回し、口の中で熱い茶粥と冷やこい麦飯が混ざって、得も言われぬ不思議なハーモニー・・・じゃこの佃煮やキュウリやなすびの漬物、梅干しをオカズにした懐かしい朝食をときどき思い出します。今の大阪では、味わえない食文化ですが、大阪北区の天神橋商店街に麦御飯を看板にしているお店もあります。とろろ汁はもちろんですが、茶粥も出せば、グッドジョブ!

このように、ぼくが中学2年生だった昭和34年頃は、大阪府南河内郡一帯の市町村は長閑な田園地帯だったのです。 稲刈りの切り株が朽ちて残った昨年の田圃に、犂(すき)を付けた農耕牛を使って田圃の土を掘り返す光景がよく見られたのですが・・・。
そして、田植えが農家にとって大仕事だった6月初旬の土日曜に、農家の方々が家族親戚が総動員して水を張った田圃に入って稲の苗を手で植えていた光景を思い出しますが、近年の田植えは農家が少子高齢化の影響で、野良仕事が慢性的に人手不足なので、2条式〜6条式の乗用田植機に乗って田植えしています。 今の大阪では、腰をくの字に屈めて田植えしているのは、6月14日に住吉さんで行われる「住吉大社御田植神事」ぐらいでしょうね。

現在はGPSを使ったリモコン操作の無人自動田植機(作業中に背後に積載した育苗箱の交換のため、オペレーターが必要)が開発されているそうです。
そういえば、稲に害虫を寄せ付けない農薬散布に、ラジコン操作のヘリコプターが使われているのを17年前に兵庫県たつの市で取材したことがあります。このヘリ、便利ですよ。

農業用のラジコンヘリコプターは、価格が乗用車並で、サイズが大きくて玩具ではありません。
昔は、農夫が真夏に防護服を着てゴム長を履いて「ポリドール(パラチオン:防虫剤で、人体に有害なので使用制限)」の希釈液が入った大きなタンクを背負って田圃に入り、数時間も長いノズルで薬剤散布していたのですから、有毒な薬剤を散布する仕事は、農家にとって危険で重労働でした。
1959年に製作されたヒチコックの「北北西に進路を取れ」を観ていると、アメリカでは、今から55年前にセスナ機で農薬散布していましたが、アメリから40年ほども遅れた1997年頃から、ラジコンヘリを利用するのは、山の多い日本にはグッドアイディアです。 ラジコンヘリはプロペラや薬剤タンクを機体から外せますので、ハイエースなどに積んでレンタル(農林水産航空協会発行の免許証を持ったオペレータ含む)できるそうです。

1985年〜1990年のバブル景気の頃は地価が上昇して、戸建て住宅やマンションの建設ラッシュ・・・近鉄南大阪線の沿線では、沿線の所々にあった大きな溜め池を埋め立てて、田圃を更地にした宅地開発がどんどん進み、ぼくが中学生頃まで見掛けた南河内郡の長閑な田園風景が一変していまい、田園地帯の田植えの記憶は、祖母や母が遺した古びたアルバムに貼ったセピア色の写真でしか辿れません。

大阪市平野区にある自宅周辺には、マンションが林立する谷間に田圃があって、地下水を電動ポンブで汲み上げて、乗用田植機で田植えします。植えているのは、ヒノヒカリという品種が多いです。田圃を整地するトラクターのエンジン音を聞きながら、半世紀前の6月の光景をふと、思い出してみました。

写真の日に寄せて・・・

さて、今回のブログのテーマを「写真の日」にしました。
写真や映像の急速なデジタル記録化で、残念ながら、ぼくが現役の頃、大変お世話になった「富士写真フィルム」さんは、遂に社名から「写真」を外して「富士フィルム ホールディングス」さんになられました。
写真フィルムの製造で培った写真化学技術のノウハウを生かした、乳剤 (エマルジョン) の開発と生産がお得意なので、化粧品を製造販売されるようになりました。

ところで、6月1日が写真の日にされたというのは、写真大国の日本が、独自に制定した記念日のようです。 なぜ、6月1日になったのか?それは最後に述べたいと思います。
多くの人は、目の前で感動したものを記録しておき、それを家族や友人、不特定多数の人々に読んで貰いたい、観て貰いたい、聞いて貰いたいという欲求があります。今流行っている、スマホ(スマートフォン)が、まさにそれです。 スマホを持てば、全員がカメラマン・・・。つまり、写真の日って、スマホの普及した日本では、毎日が写真の日なんです。

文筆家は感動したことや伝えたいことを文章を書いて記録し、それをまとめて本として出版されたり、画家は感動をデッサンとして記録し、デッサンを下絵にして、アトリエで絵画に仕上げて、画廊で展示即売の個展を開きますが、文章や絵は、作家の表現意図が、必ずしも第三者に正確に伝わるとは限りません。

とくにキリスト教の宗教画などは、個人的には信者ではないので、旧約聖書や新約聖書に書かれた言葉を殆ど知らず、その芸術価値が解らなかったのですが、ぼくは、洋画の「ベン・ハー」を高一の昭和35年(1960年)に、難波の南街劇場で観て、イエス・キリストにではなく、映画に凄さに感動し、バイブルを言葉ではなく、ビジュアルによって少しは理解できたのです。

とくに、70 mm映画「ベン・ハー」の序章のタイトルバックに、ローマのバチカン教皇国にあるシスティーナ礼拝堂の天井壁画に、ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti)が描いた、壮大な「アダムの創造」のフレスコ画が登場します。
フレスコ画というのは、下地の白い漆喰が乾かない内に、水性絵具で直に描き、絵具の混じった漆喰が完全に乾くと透明の皮膜ができて壁画が堅牢になるのです。

「アダムの創造」とは、ユダヤ人によって編纂されたユダヤ教の原典である旧約聖書(紀元前にイエス・キリスト降臨前のことを書いた聖書)の一部を絵画にしたものです。
キリスト教もキリストの使徒たちが、旧約聖書を原典にして「新約聖書」を編纂しました。ユダヤ教と違うところは、神はイエス一人で、三位一体(さんみいったい:父なる神、御子イエス、精霊)を信仰しています。

天地万物の創造主であるヤコブの神(エホバの神)の指と、神によって造られた初めての人間、アダムの指が触れ合う瞬間のクローズアップが映写され、MGM CAMERA65撮影機 (後にSUPER PANAVISION 70に改称) が、緩やかにトラックバック(後方移動)すると、絵画全体が映写される・・・ミクロス・ローザーの音楽(演奏はローマ交響楽団)が効果的でした。
とくに、ハリウッドの映画会社のMGM(Metro-Goldwyn-Mayer)が大金をかけた、ローマのチネチッタに建設された、AD28年頃(※1)の戦車競走用のコロセアムで行われる、ベン・ハーとメッサラの息詰まる死闘が凄かったですね。これはCGと違いますよ。オール実写なんです。

※1、ところで、AD28年頃という根拠は、 イエスキリストの誕生と磔刑(たっけい)が、聖書では紀元前4年頃(4 BC:Before Christ)〜紀元後28年頃(AD 28:Anno Domini 28年)とされています。 キリストがパレスチナのベツレヘムで生まれる少し前から、ベツレヘム周辺にメシア降臨のウワサを聞いたローマ帝国支配下のガリラヤのヘロデ王は、新しいメシア(救世主)によって王座が奪われる不安に駆られて、臣下に命じて心配の芽を摘む幼児虐殺が行われていました。

危機を感じた母マリアはイエスを抱いてイスラエルのナザレに逃れました。 西暦はイエス・キリストの誕生年に紀元前と紀元後に切り替わる筈なんですが、聖書を研究された識者の判断では、紀元後1年ではないことが判ってきたのです。 そして、紀元前と紀元後が切り替わる時の数え方は、紀元前1の翌年が、紀元後1になり、その頃は0が発明されていなかったようです。

なお、磔刑(たっけい)というのは、ローマ帝国が行っていた極刑で、罪人を十字架に磔(はりつけ)にするものです。ローマ帝国の圧政に反抗した奴隷軍の首領スパルタカスも磔刑でした。イエスがなぜ、磔刑になったのか?気になりますね。
ストイックなキリストは、自ら苦難に追い込んで40日間の断食修行し、様々な奇跡を起こし、自らメシア(救世主)として現世に生まれたとして語り、イエスを信じる者から12名の使徒を選んでユダヤの土地で宣教活動を始めたので、ユダヤ教会と信者から猛反発を受け、やがて迫害を受ける身になります。

12使徒の一人・ユダに裏切られて、イエスの居場所が判り、早速、神殿警察(ユダヤ教神殿の番兵)によってイエスは連行されて宗教裁判にかけられ、ユダらの証言などで神への冒涜として重罪になり、死刑が確定します。しかし、ガリラヤ国はローマ帝国の支配下にあり、ガリラヤでは死刑が禁止されていたので、神殿警察の手によって、磔刑が出来るローマ帝国のプラト総督に、キリストを磔刑にして欲しいと引き渡します。

プラト提督は、多神教のローマ帝国の人で、保護国の嘆願を私情をはさまず事務的に処理し、強盗で死刑の決まったバラバらと一緒に、キリストもバラバも十字架を背負って、エルサレムのゴルゴタ丘に連れて行かれます。 総督は、磔刑を観たい群衆に向かって、
「皆の者良く聞け、ここへ連れてきた二人の内、一名をペサハ(過越祭:すぎこしのまつり:ユダヤ教の祭)の恩赦で釈放する。 処刑するのはイエスか、強盗犯のバラバか、どっちだ?
群衆は口々に「イエスを十字架に磔(はりつけ)にしろ」と騒ぎ出し、総督は兵に命じてバラバを釈放し、キリストの磔刑が決まったのです。

ベン・ハーも、自宅の前をローマ軍が行進し、妹が身を乗り出して見物中に土塀の瓦が落ちて軍馬に当たり、ローマ帝国軍に対する反逆罪の濡れ衣を着せられ、ベン・ハーは貴公子からローマ帝国海軍のガレー船の奴隷の漕ぎ手にされます。
ぼくも文部省選定の「ベン・ハー」を高校1年の時に大阪なんばの南街劇場で観ました。東京では、昭和天皇と香淳皇后もテアトル東京で封切り前のチャリティー上映ご高覧になられたらしい。

ローマにあるシスティン礼拝堂の天井画の本物をいつかは観たいです。これは、映画を観たからであって、全く旧約聖書の予備知識がなくて、いきなり、天井画を見せられたら、絵が上手なのは判っても、それほど感動しないと思いますね。
大衆が求めるものは、高尚な芸術ではなく、シンプルでリアリティーなものです。ヴィジュアルを精密に記録して、多くの人に伝えたい欲求が生まれるのは当然です。

14〜16世紀にかけて、イタリアを中心に文芸などの復興・再生を意味するルネサンス(Renaissance:フランス語)運動が起きて、個人的には15世紀末に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci) の「モナリザ」の絵が印象に残ります。彫刻ではミケランジェロの作品が目に浮かびます。

2007年3月24日、東京上野の国立博物館で「レオナルド・ダ・ヴィンチ・・・天才の実像展」を東京へ出張した時に山手線の中吊り広告で知って、翌日には時間があったので、直ぐに見学に行きました。
展覧会の目玉は、イタリアのフィレンツェにある美術館から運ばれた、油彩の「受胎告知」です。
遠近法を科学的に計算して描いた絵に見学者が長蛇の列・・・1時間半ほど入館を待ち、展示場では絵の前で停止できず、歩きながら観ました。回転寿司の逆バージョンみたいで最悪でした。

パリのルーブル美術館なら、彫刻の「ミロのヴィーナス」とか名画の前に、他の人の迷惑にならないように10分ぐらい立っていても、警備員は黙っていますが...。「受胎告知」を観られたのは、歩きながらのたった1分。
この絵で驚いたのは、油彩の彩度が図鑑で観るよりも鮮やかすぎて、絵の具の匂いが強くて、昨日に描き上げたみたいでした。とても1472〜1473年製作の作品に見えなかったことでした。絵画の褪色を防止するために、特殊な手入れしているのでしょう。

アイデアが溢れ出る、ダ・ヴィンチ肉筆のノートは凄すぎますね。
図解の説明(ラテン語で読めませんが)が丁寧・・・STAP細胞で世間を騒がせた小保方さんに見せてあげたい。
15世紀の頃は、写真術(Photography) が未だ発明されていなかったのですが、写生器として使う「カメラ・オブスクラ」のスケッチがダヴィンチ ノートに記述されていたそうですが、ぼくはダ・ヴィンチが設計したヘリコプターの模型の方に興味が湧いて、それを見落としてしまいました。

写真を撮るにはカメラ(写真機)が必要です。
写真機の原型は、「カメラ オブスクラ (Camera Obscura)」で、カメラは”暗い”という意味があり、オブスクーラは”部屋とか箱”を意味しますので、日本では「暗函又は暗箱」と呼ばれるようになりました。木製の組立暗函は今でも販売されています。カメラというより、美術工芸品のようで、かなり高価ですよ。

17世紀(日本で言えば関ヶ原の合戦の後)になって、レンズ付きの木製のカメラ、「カメラ・オブスクラ」が発明されました。 最初のカメラ オブスクラは写真機としてではなく、一眼レフ式の「写生器(トレスコープの原型)」だったのです。
これを手持ちのポータブルカメラにしたのは、ドイツ人僧侶のヨハン・ツァーンという人らしく、ボックスカメラの高さは9インチ(23cm)、長さは2フィート(60cm)、幅は不明ですが、世界初の一眼レフカメラ(ウエストレベルファインダー式)を製作しましたが、ピントガラスにトレペを貼って、被写体の像を手描きで模写するものでした。これって、原始的コピペなんですが、パソコン上の"Copy and Paste"のキー操作ではなく、手描きなんで許しましょう。

15世紀にドイツのヨハネス・グーテンベルクが金属活字を組版に使った活版印刷の技術を発明し、西欧社会に美しい印字とレイアウトの活版印刷が普及しました。聖書の印刷が多かったのですが、やがて、文字だけの出版物では情報不足なので、精密な絵を描ける職人が必要になり、カメラ・オブスクラを買った画家たちは、出版社の依頼で精密画を描くために、写生器を屋外に持ち出して、建物などの静止する被写体にカメラを向け、ウエストレベルファインダーのピントグラス面に被写体を投影して、トレシングペーパーを重ねて鉛筆などで精密に模写しました。

カメラ・オブスクラに使われていたレンズの焦点距離やピント面のイメージサークルの直径(ピントグラス対角線長のよりも大きめ)は不明ですが、レンズは単玉で、ファイダー像の明るさを調節する絞り機構が付いていたようです。 カメラ・オブスクラのトレス面は左右逆像なので、トレスした絵をそのまま凸版に彫れば、正立正像で印刷出来たので、出版物の挿絵に重宝されました。

ポータブルの写生用カメラが誕生して200年ほど経ってから、1826年にフランス人の化学者、ニセフォール・ニエプスが、ヨハン・ツァーン型の写生器カメラを改良して、レンズの焦点面に感光物質を塗布した板を差し込み、ミラーアップして8時間の露光を掛けて人類初の写真撮影を行い、現像と画像の定着に成功しましたが、撮影した画像はぼやけていたそうです。

フランス人の風景画家で興行師でもある、ルイ・ダゲール (Louis Jacques Mandé Daguerre) は、ニエプスの死後、1839年に独自の感光物質と現像方法を開発して、ダゲレオタイプ(銀板写真)と名付け、写真の露光時間を8時間から30分に短縮しました。当時のカメラ・オブスクラ用レンズが、解放でf16の明るさだったので、f2.8のレンズが製造されていたら露光時間は、たった1分で済んでいたと思われます。銀板写真はポジ像で画像が鮮明だったので、パリを中心に銀板写真とダゲールの名はフランス中に知れ渡ったのです。

ダゲールの銀板写真はポジ像(陽画)だったので、当時は銀板写真の複製が困難でした。
しかし、イギリス人の化学者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot)が、写真の原板になる薄手のネガペーパー(沃化銀の感光紙)で撮って現像し、現像処理が終った乾いたネガペーパーと、厚手の未露光のポジペーパー(塩化銀の感光紙)を透明ガラスで挟んで、太陽光に曝して密着プリントする「カロタイプ(日光写真の原理)」写真術を1835年に発明し、カロタイプ写真は引伸しができないけど、同じサイズの複製が何枚でも出来るので、カロタイプ写真はダゲレオタイプのシェアを奪って普及するようになります。

タルボットは、ダゲールよりも先に写真を発明しましたが、ネガ/ポジ方式カロタイプの技術を非公開にし、写真発明者の名誉はダゲールに持って行かれました。 因みに写真用語のNegative,Positive,Photograph(光の画像:日本では写真)という言葉は、カロタイプ写真と共に生まれました。Photoの語源はギリシャ語で「光」という意味です。

やがて写真は、急速に発展し、とくにアメリカの南北戦争(1861〜1865)で、新聞社と契約した北軍担当や南軍担当の職業写真家が、四頭建ての四輪馬車に、撮影前にコロジオン湿板を作り、撮影後に湿板写真の現像も行う暗室を造って、南北戦争の激戦地を大型カメラで湿板写真を撮影し、激戦地で取材した写真を新聞各紙に載せて、写真のリアリティーが高評価されました。

南北戦争当時の写真はネガが湿板写真なので、作り置きができず、写真家が撮影直前に湿板を作らなくても済むように、4×5インチや5×7インチの透明ガラスの片面に、牛皮から抽出したゼラチンに感光物質の臭化銀や沃化銀を混ぜた乳剤(エマルジョン)をガラスの片面に薄く均一に塗布して乾かした「乾板」が出回り、プロ写真家の負担が軽減されました。

生真面目な銀行員だった、ジョージ・イーストマンは、ガラス乾板に目を付け、1880年に銀行員を辞めてガラス乾板の製造会社を設立して、まずまずの売上だったのですが、商売相手が、プロ写真家なので、クレームが出ないように乾板の品質管理や輸送にコストが掛かって、利益が薄く、業績は伸びませんでした。 というのは、従業員のベテラン技術者が独立して、イーストマン社のライバルになり、値下げ合戦・・・イーストマンは、ガラス乾板のビジネスを諦めました。

1888年に、1枚撮りのガラス乾板の代わりに、セルロイドフィルムに感光乳剤を塗布した100枚撮りのネガフィルムを新製品のコダックカメラに装填し、社名もEastman Kodakに改め、"You press the button, we do the rest"(あたたはボタンを押すだけ・・・あとは当社に任せて)という、写真史残る名キャッチフレーズで”New Kodak Camera"を25ドルで販売しました。

コダックカメラを買ったお客さんは、100枚撮ると、ニューヨーク州のロチェスター市 (オンタリオ湖南岸)のイーストマン・コダック社に郵送すれば、初回は同時プリントが無料で、同時プリントとフィルムを詰め替えたコダックカメラが返送されてくるサービスをコンシューマをターゲットに始め、コダック社は、従来のプロ向き製品から、大衆向けにマーケティングをチェンジしたのが功を奏し、イーストマン・コダック社の知名度は全米に広がりました。

コダックカメラは初心者用のホビーカメラであったので、アマチュア写真家向けに、120フィルムを使う6×9cm判のボックス式「No.2ブローニー」を1900年に販売し、続いてNo, 2Aフォールディング オートグラフィック ブローニーを販売して、大衆に写真を広めました。

1932年、イーストマン・コダック社の創業者、篤志家でもあったジョージ・イーストマン氏は病弱になり、"My work is done. Why wait?"(私のやることは終った。なぜ、待つんだ?と言い遺してピストル自殺・・・。 戦後は、NYダウ・ジョーンズの発表するランク30以内に上場する、アメリカを代表する常連企業になったのです。

その後大企業になったコダック社は、撮った写真が直ぐに見られるインスタントカメラ関連製品のコダック・インスタントカメラの生産販売を1970 年頃から始め、この分野で先行する小企業のポラロイド社のSX-70よりも発色が良かったのです。というのは、ポラロイドにコダックのフィルムがパーツとして使われており、両社は仲が良かったのです。

しかし、コダック社が約束を破ってインスタントカメラの製造販売したことにポラロイド社は反発し、ポラロイドカメラを発明したランド博士の特許(特許出願取得の数がエジソンに続いて2位)を侵害しているとしてポラロイド社は、コダック社を訴えて、足掛け10年に及ぶ係争(法廷での争い)で、ランド博士の分厚い特許の壁に敗れ、1979年に、なんと損害賠償金に1248億7500万円(9億2500万ドル:1ドル=135円のレート)+工場閉鎖と人員整理に15億ドル、従業員4,000人の解雇、販売したカメラの回収などに総額30億ドルの損害金や750万ドル(10億円;当時)の弁護士費用を払うハメになってしまい、さらにその後の写真のデジタル化で主力のフィルム部門の業績が悪化し、2012年1月19日に連邦倒産法第11章の適用をニューヨーク州の裁判所に申請しました。 ま、写真界は、デジタル化の波で大きく変わってきたのは事実です。

個人的には1997年1月に、初めて買ったパソコンのMacintosh 8100/100 AVを使い始め、Adobe PhotoshopとAdobe Illustratorを使って、画像処理やグラフィックデザインをするようになり、2002年からデジタル一眼レフで仕事をするようになりました。 だから、写真一筋でない、浅学菲才のぼくが写真について語るのは、気が引けますが乱筆お許しください。

1、写真家とカメラマンはどう違うのか?

ぼくは、プライベートな写真作品を撮る写真家の顔と、広告主や広告制作会社に依頼されて写真を撮るカメラマンの顔を使い分ける両刀遣いなので、どちらにも属します。

ある時は自己主張を全面に出した写真を撮り、ある時は、ディレクターさんやライターさん、グラフィックデザイナーさんの意向に合うように、写真を撮ります。
ぼくは、広告写真の仕事を1966年〜2006年まで40年間しました。その内、1975年1月10日〜2001年2月28日まで26年間、大阪市北区天満で写真スタジオを経営していました。
だから、広告写真以外の仕事を殆どしていないので、写真作法の本を出版する高尚な写真家の仕事は詳しく存じません。

古いカメラ雑誌に書いてあったのですが、写真家の土門拳氏が、梅原龍三郎画伯が短気なことを知っていて、本気で怒った顔を撮って雑誌に載せたくて、写真取材の現場で、撮影を焦らせてワザと怒らせ、カメラ(土門氏)を睨み付けている写真を撮って、業界では話題になりました。

後々になって思うと、映画監督のエリア・カザンも間接的に俳優を本気で怒らし、鬼気迫る映像を撮る作家ですが・・・ぼくは、そこまではしません。ジェイムズ・ディーンが台本通りに言わないので、ベテラン俳優のレイモンド・マッセイが、ジェイムズ・ディーンを睨みつける。「エデンの東」で、父親のアダムが、放蕩息子のキャルを叱るシーンです。

人並はずれた洞察力で、人間の隠された個性や社会の隠蔽された状況を映像にするのが写真作家や映画作家であり、ただ、目の前の現実をありのままを切り撮るのがカメラマンなのです。
あえて、個人的な体験を通じて広告写真に限ってお話すれば、広告写真家の仕事は、写真家の美的感性(センス)とインスピレーション(ひらめき)で写真をメイクする仕事です。とくにスタジオ撮影では、製作費に応じて、凝った演出をすることが多いですね。それは、商品を魅力的に見せて、消費者の購買意欲を高めるためです。
ま、ブツ撮りなどは、ライティングは一定、カメラ位置も一定の流れ作業で、バック紙の上に置き撮りする、切り抜き用の商品撮影もありますけど。長くやっていると、様々な産業のいろんな商品に出会います。販売前の新製品が見られるので楽しいですね。

だから、ぼくの場合は、同じ写真家でも、非演出のドキュメンタリーを追及した写真を重視する、フォトジャーナリストとは正反対の仕事なんです。
第一次世界大戦を背景にした、「アラビアのロレンス」という映画に、ジャクソン・ベントリーというフォトジャーナリスト(報道写真家)が登場します。 実は、ベントリーという記者は、ローウェイ・トーマスという第一次世界大戦の時に実在していたシカゴに本社がある地方紙から派遣されたフォトジャーナリストなんですが、アラビアでファイサル王子の兵を率いて、トルコ軍の要塞・アカバ攻略の奇跡を起こしたイギリスの情報将校・ロレンス中尉の活躍ぶりを密着取材して、ロレンスの神懸かり的な活躍を米紙の一面に書き立てて英雄に仕立てます。

アメリカの新聞読者は、アラブの独立を後押しする英雄の活躍を知りたいワケで、ロレンスの記事を載せると新聞が売れ、米世論や議会も参戦ムードになって、第一次世界大戦の参戦に大統領が決意すれば、ベントリーの仕事もグーンと増えてジャーナリストとして知名度が上がります。
しかし、英雄のロレンスには残忍な面があって、トルコ軍の敗残兵を皆殺しにし、ロレンスは返り血を浴びて放心状態・・・そこへ、ベントリーがやってきて、「なんてこった!その汚れた英雄の顔を1枚撮らせろ。汚れた新聞社のためにな!」。

ジャーナリストの正義感が言わせた言葉なんですが、同時に、偏(かたよ)りがちなジャーナリズム対する皮肉も込められています。スクリーン ライターのロバート・ボルトは、ハッとする台詞を書きますね。おそらく、マスコミが創り上げた英雄に、殺人鬼になった血塗れの写真はボツになるでしょう。

ぼくは旅行も好きなので、商品を生産している工場撮影が好きで、日本全国にある様々な業種の工場をカメラマンとして撮影しに行きました。この仕事は、機転と機敏な動き、体力が要ります。 撮影の目的は、企業の広報活動に使うためです。工場には機密が多いので、部外者立入禁止の場所もあって、係の方の指示に従って撮影します。工場案内のPRなので、ベルトコンベアに乗った商品を美しく並べたり、汚れた所はきれいに拭いて撮影しますので、ドキュメンタリー風に見えますが、広告写真です。

2、プロとアマチュアとどう違うのか?

これは、写真撮影を職業としている人と、写真を趣味にしている人の違いですが、写真の分野は様々です。警察で鑑識写真を撮る人も職業写真家です。芸術性が無くても職業写真家は存在します。 普段は会社員か学生で、休暇を利用して好きな写真を撮ってカメラ雑誌に投稿し、賞金や賞品を稼ぐ、腕が立つアマチュアもおられます。

プロは常に写真に関わって場数を踏んでいますので、技量があるのは当たり前です。
素人がするような失敗は、次の仕事を失うことになりますので、引き受けた撮影は、日にちを少し貰ってテスト撮影して結果を判断し、再撮を繰り返して、見せられる(及第点の)写真だけを納品します。

写真が趣味のアマチュアさんは、同好会などで写真を見せ合います。NGの写真も平気で見せる・・・プロはNGの写真を他人には見せません。そこに、違いがあると思います。

さて、最後に、写真の日が6月1日にされた理由ですが、公益社団法人 日本写真協会が1951年に写真の日制定委員会を開いて決定され、今日に至っている記念日ですが、1964年頃、ぼくが写真専門学校に通っていた時は、気付きませんでした。

日本に写真が伝わったのは、幕末の長崎港です。 1839年にフランスのルイ・ダゲールが銀板写真を発明して西欧で広まり、やがてオランダ船によって、4年後の1843年(天保14年:てんぽう)に長崎のオランダ商館に、銀板写真の撮影・現像機材が運ばれてきたのです。

早速、長崎オランダ商館への入館が認められた、御用商人の蘭学者・上野俊之丞(幕末の写真家・上野彦馬の父)は、カメラ オブスクラ(銀板写真機)のデモ機を初めて見て、スケッチしたようですが、本体は、他国にも見せるため、持ち帰られたようです。

舶来製の写真機のウワサを聞いた、薩摩国の藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)は、当時の世界をリードしていたフランス製の銀板写真に興味を持たれ、1848年(嘉永元年)に銀板写真の撮影機材や銀板や現像道具一式を購入して、斉彬公側近の家臣の市来四郎(いちき しろう)に写真術の研究と習得を命じ、1857年(安政4年)9月17日に市来四郎と宇宿彦右衛門(うしゅく ひこえもん)らが島津斉彬の銀板撮影と現像に成功しました。その写真が残っています。日本人が撮った初めての写真でしたが、1951年の調査では、権威のある文献で、9月17日にするべきところを6月1日と誤って記載され、近年になって誤りが訂正されたのですが、写真家には6月1日が写真の日として定着しており、そのままになっています。

アメリカの東インド艦隊のペリー提督が浦賀に来航したとき、黒船に乗った写真家、エリファレット・ブラウン・ジュニアが船から下りて、侍たちを撮った写真が 6 枚残っています。田中光義を撮った銀板写真には、june 1st 1854と銀板に書かれているらしく、外国人が初めて日本人を撮った日を、日本の写真の日にするのは、異論があったのですが・・・。
その後、写真は日本人に受け入れられ、今や日本製のデジタル一眼レフカメラやイメージセンサーの製造技術は世界をリードしています。
1カットの撮影に、シャッタースピードが30分も掛かった175年前の銀板写真が、今やISO感度51200、8000分の1秒のシャッタースピード、フルサイズ秒速12コマの高速連写・・・とくにデジタルになってから、科学進歩の速さには驚いてしまいます。

2014年5月21日 尾林 正利

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