わが愛機 Vol.7 LINHOF SUPER TECHNIKA
V
ドイツ人の職人気質が造り上げた、堅牢な大型テクニカルカメラ
リンホフ・スーパーテヒニカ5型 4×5インチ判カメラと共に歩んだ、35年間のフォトライフ
初稿2012年5月5日 更新2014年2月21日 尾林 正利
日本には様々な分野のプロ写真家が大勢おられますが、現在でも4×5インチ判(業界用語では、シノゴ)の大型カメラでフィルム撮影をしているような写真家は、21世紀になって急速に進歩した写真のデジタル化によって、かなり減ってきていると思いますね。
主に広告写真畑で仕事してきたぼくも、10年前の2003年から、シノゴのカメラをを全く使わなくなった写真家の一人です。
昨今では、コダックさんも富士フィルムさんも、フィルムの生産規模をかなり縮小し、デジタルカメラの市場席巻によって、フィルムの生産とフィルムカメラ生産の未来予測は、どうやら先が見えてきた感じです。
ところで、4×5インチ判のカメラとは、1インチ=25.4mmだから、メートル法に換算すると、凡そ100
×127mmの画面サイズになります。
因みに小型の35mm判(業界用語で、サンゴ)のカメラは、24×36mmの画面サイズです。
数字で説明しても分からない人は、実際に、コピー用紙などを使って、そのサイズにハサミで切ってサンゴとシノゴの画面の面積を比較すれば、一目瞭然です。
同じ粒状性のカラーフィルムと、同じ集積度のイメージセンサー(撮像板)であれば、物理的にフィルムサイズが大きいほど、イメージセンサーが大きいほど、画像の大伸ばしに耐え、引き伸ばした画像の画質が良くなるわけです。
だから、JRの駅構内に張ってあるような、B全サイズ(1030mm×1456mm)の大判ポスターに観光写真を引き伸ばす時は、フイルムカメラで撮影する時は、35mm判カメラで撮るよりも、4×5インチ判カメラで撮った方が仕上がりがはるかに良く、フィルムの粒子が目立たず滑らかに印刷できるのです。
もちろんデジタルカメラの場合でも、APS-Cサイズのセンサーを搭載したデジタルカメラより、35mm判フルサイズセンサーを搭載したデジタルカメラの方が大伸ばしするときに画質の差がでてきます。でも、撮った写真をA4の大きさしかプリントしない人は、35ミリ判のフィルムカメラで充分ですし、APS-Cサイズのデジタルカメラでも充分でしょう。
ついでに、シノゴよりもっと大きなフォーマットでは、現在市販されているものでは、8×10インチ判(業界用語では、エイト・バイ・テン:実画面は203×254mm)のビューカメラもあります。
ぼくの広告写真スタジオは、26年間(1975/1/10〜2001/2/28)も大阪市北区天満で営業していましたが、エイト・バイ・テンのカメラを使って写真を撮るようなオファーは遂に来ませんでした。
8 ×10インチ判のカメラも高価ですが、8 ×10インチ判の広いイメージサークルをカバーするレンズも高価になります。もちろん、フィルム代や現像代も高くなるのは言うまでもありません。
当然、ラージ フォーマット カメラに使うフィルムは、ロールフィルムの市販品はブロニー判(中判)止まりなので、レントゲン写真のような一枚撮りのシートフィルムをシートフィルムホルダー(※カットフィルムホルダーとも言う。業界用語では、撮り枠)に装填して撮影します。
撮り枠から引き蓋(遮光板)を抜いたとき、引き蓋の差し込み口から漏光(光もれ)しやすく、ホルダーに装填したフィルムがカブリやすいので、カメラバック全体に黒布で覆って撮影しなければなりません。
ところで、暗室内で行う、シートフィルムの「撮り枠」への装填や取り出しは難しそうに思われますが、慣れればカンタンです。暗室のテーブルに置いた、フィルムの箱と撮り枠の位置を記憶しておけば、消灯しても、手の指先が正確に動いてくれます。
広告写真スタジオでは、モノクロのフィルム現像や引き伸ばしプリントをしなくても、シートフィルム交換用の暗室(ダークルーム:暗室用換気扇の取り付けも)が必須でした。
暗室に入ると、暗室のライトを点灯し、テーブルの上に生のシートフィルムの入ったパッケージと、フィルムホルダーの引き蓋を引いて重ね、フィルムが装填しやすいように準備します。このとき、ホルダーや引き蓋に付いたホコリをブロワーで清掃します。そして、暗室のドアをロックしてライトを消します。
因みにシノゴ判のフィルムは、三つ重ねの箱の中に10枚入のフィルムが入った袋を破いて、袋の中のフィルムを一枚取り出し、フィルムに刻まれたノッチがフィルム短辺の右上にくれば、膜面(乳剤面)が手前になります。フィルムの端を親指と人差し指で摘んでフィルムホルダーに装填しますので、手の指が脂性の方は、フィルム交換の前に石鹸で手をよく洗い、手を充分乾燥させてからフィルム交換しなければなりません。また、セーターや埃っぽい服を着て暗室に入るのはダメです。
スタジオを持たないフリー・カメラマンの方は、自宅の押し入れを暗室に代用する人もおられるようですが、ホコリの多い押し入れとか、ダークバッグなどでシノゴのフィルム交換をやると、フィルムにホコリが付きやすいので避けた方が賢明だと思います。プロラボや貸しスタジオでは、フィルム交換用の暗室を併設していますので、そこの利用者は無料で利用できますが、そんなサービスが受けられるのは大都市に限られます。富士フィルムさんから、クイックロードというパックフィルムが販売されてようですが、クイックロード専用のホルダーが必要です。
ぼくの知り合いは、2012年になっても、たった一社のスポンサーさんから、フィルムで納品して欲しいと言われるところがあるそうです。
ははーん、印刷会社は、製版料でも儲けたいから、デジタルカメラで撮られると、印刷会社のスキャナーが不要。商売が上がったりに・・・?
実は、それが主な原因ではないようです。
フィルム撮影のメリットは、細かい格子模様の建物や家電商品、衣類を撮影しても、印刷で「モアレパターン」が発生しにくいことです。デジタル撮影のデメリットは、細かい格子模様の建物や商品、衣服を撮影すると、印刷でモアレパターンがしばしば発生することがあります。
これは、カラーフィルムの感光乳剤(エマルジョン)に混ぜられた三層三種のハロゲン化銀(結晶は多角形)の感光物質が不規則な配列になっており、被写体の格子パターンと干渉しないワケです。
デジタルカメラのイメージセンサー上に集積されたフォトダイオードは、規則正しい格子状か、又はハニカム状に配列され、パソコンモニターのRGB画素配列のパターンや製版の網点のパターンと干渉しますから、個人的にはモアレの発生が大変気になります。
ぼくの経験では、愛用のデジタルカメラで、あるメーカさんのエアコン室外機を撮ると、デジタルカメラの格子パターンと、エアコン室外機の格子パターンのデザインが干渉して、モアレが出た印刷物を見て目を覆いました。
ぼくは気にしましたが、クレームをいう人はいなかった。撮った写真を観て、エアコン室外機の設置工事さえ正しければ、メーカーさんは些細なことは気にされないようでした。
広告写真界では、商品写真や建築写真のジャンルで、デジタルカメラのモアレが解消されないしばらくの間は、デジタルカメラとフィルムカメラとの併用が続くでしょう。
その他にも、大型カメラを使うメリットがあります。
蛇腹式のビューカメラには、前枠(レンズボード)と後枠(カメラバック)にアオリ機能(カメラ ムーブメント機能)があって、ティルトのアオリ
テクニックを使えば、奥行きのある被写体を小絞りにしなくても、近景から遠景までピントが合う「パンフォーカス写真」がカンタンに撮れますし、シフトのアオリ
テクニックを使えば、ハイアングルやローアングルで撮った時に発生する被写体の極端な歪み、上窄(うわすぼ)み・下窄(したすぼ)みを人間の視覚に合わせて、被写体の形状を自然な感じに写るように、カメラのアオリ操作で修整できるのです。
昨今では、パソコン画像ソフトのAdobe Photoshop CSで、パソコン上でシフトアオリの修整が非常にカンタンになりましたが、ティルトアオリの修整は、近景にピント合わして1枚、中景にピントを合わせて1枚、遠景にピントを合わせて1枚撮り、その3枚の写真をAdobe
Photoshopで一枚写真に合成するのは、かなりのスキルを要します。
もちろん、35mm判(サンゴ)のニコンFマウントやキャノンEFマウントにも、アオリレンズのPCニッコールやキャノンTS-Eレンズが販売されていますが、現状ではカメラボディ焦点面でのアオリ補正が出来ないので、アオリ補正が充分だとはいえないでしょう。
大型カメラには、凡そ下記のように分類されます。
1、ビューカメラ(モノレール式の蛇腹カメラ。ジナーは、フィルムバックをデジタルバックに交換可能)
外国製では、スイス製のジナーやドイツ製のリンホフ カルダン系など。国産では、トヨビューなどがあります。蛇腹は、広角レンズ用に袋蛇腹、標準レンズ用に標準蛇腹、長焦点レンズ用に延長蛇腹と交換・追加できます。ビューカメラ本体は、フィルムカメラ用の設計になっていますが、オプションでデジタルバックを装着すれば、古風なビューカメラが近代的なデジタルカメラに変身します。昨今の広告写真スタジオには必要なカメラです。
2、テクニカルカメラ(ダブルレールの蛇腹引き出し式、カメラを畳むとコンパクトで、ロケ撮影に最適)
外国製品ではリンホフ テヒニカ系、国産では駒村商会の ホースマン45H系など。カメラを畳むと弁当箱のような大きさになるカメラですが、テヒニカ系は蛇腹の交換が出来ないので、凹ボードに取り付けた超広角65mm、75mmが非常に使いにくい。望遠はテレタイプのフジノンT400mmまでで、使用できるレンズに制限があります。
3、プレスカメラ(現在ではシートフィルムを使う大型のプレスカメラは生産終了)
大型の距離計連動式カメラで、距離計の付いたビューファインダーを搭載。ピント合わせは蛇腹式とレンズにヘリコイドが内蔵した2種類があります。外国製品では、蛇腹式のスピグラは、見掛けなくなりましたが、特殊な大型パノラマカメラとして、リンホフ
テクノラマ617系(6cm×17cm) などに分類されています。
1964年の東京オリンピックの時は、大手新聞社でも系列のグラフ誌にカラー写真を掲載するときは、フラッシュガン付きのスピグラを使っていたようですが、きれいな画質より、決定的瞬間を重視する報道の現場は、35mm判一眼レフカメラの機動力を優先するようになり、スピグラの出番は急速に激減していきました。
大型カメラ用レンズは、カメラから独立していて、現在、メジャーなブランドでは、シュナイダー製、ツアイス製、富士光機製のフジノン(現在は生産終了で市場在庫のみ)、ニコン製ニッコールの大型カメラ用レンズが販売されていますが、大型カメラ用レンズの選び方は、同じ焦点距離のレンズでも、焦点面のイメージサークルの直径が違うので、シノゴでアオリを利用する場合は、ゴーナナ(5×7インチ判)の画面を余裕でカバーするイメージサークルの広いレンズを買わなければなりません。
なお、広告写真がメインの場合は、交換レンズを買うときは同じメーカーの製品に統一することが重要です。営業写真館の場合は、画面の隅々までシャープに写る集合写真用、ソフトな描写をするお見合い写真用に、描写の異なるレンズを使うので、同じメーカーにする必要はありません。
さらに、外国製レンズは、ぼくの経験では国産のレンズより、光学ガラスの「ヤケ」が意外に早くレンズが曇り易い。黄ばみが早くて「ヌケ」が落ちるようです。白いドレスや雪景色を写すとCCフィルターで05Y〜10Yほど黄ばむのです。コダックのエクタクロームは黄色の彩度が高いので、白い被写体を撮った時にレンズの劣化を正直に描写します。
デジタルなら色被り修整は超カンタンなのですが、フィルムでは難しい。というのは、印刷所の現場責任者は、シノゴ原板のポジフィルムの色調を見本にして印刷しますから、オリジナルフィルム自体が色被りしていたら、そのまま印刷されてしまうので、仮刷のCMYKの色校を見せられて、Oh
My God!と、のけぞってしまいます。
今なら、褪色したカラーフィルムをスキャナーを使ってデジタルに変換すれば、真っ赤に褪色した救いようのないポジフィルムでも、Adobe
Photoshopでレタッチのスキルがあれば、撮影時の色調に近づけることができるのです。
スーパーテヒニカを買った時は、外国製のレンズを買いましたが、レンズのヤケに気付いて、3本同時にFUJINONレンズに入れ替えました。広告写真では、ピントが合った部分のシャープさ、スカッとした発色の美しさが求められます。
営業写真館や結婚式場の写真部では、カリッと写るコマーシャルフォト用のレンズは好まれず、ソフトフォーカスのレンズ(ローデンストック製のイマゴンやFUJINON
SFなど)の描写が若い女性客に好まれます。昨今では、デジタル画像処理で、カリッと写った画像をソフトにすることは可能ですが、Soft
Focusレンズのような味のあるボケにはなりません。
大型カメラ用のレンズには、レンズシャッターと手動絞りが内蔵されていますが、ピント合わせのヘリコイドは省略されています。
大型カメラ用レンズを買うときは、ジナー用を除いて、通常はコンパクトなリンホフボードに、大型カメラ用レンズを取り付けて販売されています。レンズを交換する時はレンズボードごと交換します。
さて、ぼくがなぜ、リンホフ スーパーテヒニカを欲しくなったか・・・その経緯をお話してみましょう。
ぼくは22歳(1966年)の時に、新聞の求人広告で広告制作会社に就職し、3カ月間の見習い研修のあとで、プロカメラマンとして、演出もするライターさんとペアを組んで仕事することになりました。
一本立ちした初めての仕事の担当が、いきなり、大企業の松下電器さんでした。
その当時は、経営の神様・松下幸之助相談役がご健在の頃でした。しかも、当時は松下さんの顔(基幹事業部)でもあった、茨木市(いばらきし)にあるテレビ事業部さんが行う販促関係の商品写真撮影や販売店撮影を担当することになったのです。
勤務先の会社がプロカメラマンとしての撮影料をスポンサーに請求するので撮影の失敗は許されません。
その日は、白いYシャツにネクタイを締め、スーツを着て 、ライターさんに連れられて、茨木工場へ二人で打ち合わせに行きました。その当時は「嵯峨」という白黒19インチの家具調テレビが大ヒットしていました。その嵯峨が、テレビ事業部さんの玄関ロビーのホットコーナに置いてあるのです。
商談室で、商務課の主任さんや課長さんと販売店取材の打ち合わせをした時は緊張し、話がぼくに振られそうになると、先輩のライターさんは機転を利かしてフォローし、ぼくに殆ど喋る機会は無かったです。
それまでは、ぼくの上司であった係長がテレビ事業部さんの撮影を担当していたので、帰社すると、スポンサーさんから営業課長に新米カメラマンの起用にご不満の電話があったらしく、最初の写真取材は、上司のベテランカメラマンの付き添いで、滋賀県の販売店へインタビュー取材に行くことになりました。
今のぼくなら、写真取材などは、一人でも出来る簡単な仕事なのですが、松下さんの仕事でプロ初デビューの時は、演出もできるライターさん、店主の話を録音する音声さん、22歳で新米カメラマンのぼく、撮影助手もやってくれるロケ車の運転手さん、ぼくの上司(ベテランのカメラマン)、スポンサーさんから二人がご一緒に行かれることになって、
まるで、テレビークルーのような大袈裟な取材でしたね。
当時は35mm判の小型カメラなのに、三脚を使うことが常識でした。 三脚が必須なのは、当時のデーライトタイプのカラーリヴァーサルフィルム(KODAK製のエクタクロームX)の感度がASA64(現在はISO64相当)しかなく、店内撮影では1/30〜1/15秒のシャッタースピードになったからです。当時は手ブレ防止のレンズやカメラなんて商品化されていません。
昭和41年(1966年)当時は、スピードライト(ストロボ)がプロにも普及しておらず、店内ではフラッシュ(6BのFP級閃光電球)を焚いて撮影していました。
FP級とは、フォーカルプレーンシャッター専用の閃光電球で、6BのBは、ブルーコーティングの略で、デーライトカラーフィルム用のことです。
Nikon Fの場合は、シャッター速度切替回転ダイアルの外側リングを引き上げてシンクロセレクターをFP接点に切り換えれば、フラッシュバルブが同調します。
店主さんの顔写真を撮影する時、一発目が発光しなかったので、現場が凍り付きました。
係長が耳元で「落ち着いて、慌てよ!?」と、変な日本語をいったので、おかしかったですね。
きっと、フラッシュの発光ミスがあっても、落ち着いてプロらしい動きをせよ・・・と、仰りたかったのでしょう。 二発目からは発光したので、ホッとしました。
ぼくのプロデビューは、ちょっと泥臭く、ぎくしゃくしてしまいました。誰でも最初はぎこちないもので、場数を踏んでいくうちにプロらしい無駄のない動きになっていくわけです。
22歳からのぼくは、「アサヒカメラ(アサカメ)」と「コマーシャル・フォト(コマフォト)」を25年間ほど定期購読していて、写専卒業後も写真表現のトレンドやスティルカメラの新製品情報を貪欲に仕入れていました。
広告写真界やファッション写真界の人々を読者ターゲットにした、コマーシャルフォト・シリーズVOL.2(昭和41年:1966年6月1日発行)に、
「国際線のジェットパイロットをプロ操縦士中のプロだとすれば、軽飛行機しか操縦できないパイロットはCクラスのプロだと言うことになる。
小型カメラで向こうが作ってくれるイベントしか写せない写真のプロは、自由に最新の大型カメラのメカニズムを駆使したうえ、光やモデルを演出して写せるプロに比べて、Cクラスだ、ということになりはしないだろうか」と書いた人がいて、そういう軽率な喩え方をした筆者に読者のぼくは腹が立ったのです。
この時は、出版社の玄光社さんにも腹が立ったけど、23年後になって、トヨビュー45Gを使って制作したぼくの写真作品を「フォトテクニック(1989年7・8月号)」という写真誌に見開きで紹介して頂き、原稿料まで頂いたので感謝しております。
当時のぼくは、Nikon Fだけで仕事していたので、Cクラスカメラマンと見下され、悔しくなって、大型カメラに興味を持つことになったのですが、写専時代は、黒い冠布(かぶり)でピントグラスを覆って、ルーペで確認しながら、蛇腹の伸縮でピント合わせするジジ臭いビューカメラに全く興味がなく、広告写真のカメラマンになるつもりはなく、シノゴの実技をサボっていたので、写専に2年通って卒業しても、大型カメラの知識と技能は「ゼロ」に近かったのです。
大阪市北区梅田のOSミュージック(現在は廃業)の入口近くに、輸入カメラ専門の「ツカモトカメラ(現在の店は大阪駅前第4ビルで、国産カメラも販売)」があって、ショーウインドウのホットコーナーには、リンホフ、ハッセル、ライカが展示してありました。
当時は、「リンホフ、ハッセル、ライカを持って仕事しておれば、一流カメラマンや」。といわれていた風潮がありましたので、
国産品愛好でニコン党だったぼくは、最初は食わず嫌いで、一流になれる「三種の神器」をチラ見していたのですが、ドイツ製の大型カメラ・リンホフ
スーパーテヒニカV(Vは5型)にオーラを感じ、やがて、スーパーテヒニカで撮影している自分の姿が夢にまで登場するようになったのです。
1968年当時の店頭価格は、299,000円! ぼくの月給は38,000円・・・。
その当時のぼくは、実家から通勤しており、今までのアルバイト収入や給料を殆ど貯金していましたので、50万円ほど貯め込んでいたのです。
「よっしゃ、買おう」。
スーパーテヒニカは、当時の仕事ですぐに必要なカメラではなかったのですが、将来のことを考えて、思い切って交換レンズ3本とフィルムホルダーのスーパー・ローレックス6×7判用も購入しました。
カメラを買って6年経った、昭和49年(1974年)のぼくの所有機材リストに記帳されたデーターによると、リンホフ・スーパーテヒニカV2の価格が353,000円に値上がりしています。
広角レンズは、シュナイダー製のスーパー・アンギュロン90mm f8 コンパー・シャッター付。レンズ代が95,000円とリンホフ純正の広角用凹みボード代が9,600円。
標準レンズは、シュナイダー製の連動カム付きテヒニカ・ジンマー150mm f5.6 コンパー・シャッター付。レンズ代が72,000円にリンホフ純正ボード代が7,700円。
長焦点レンズは、シュナイダー製のテヒニカ・ジンマー240mm f5.6 コンパー・シャッター付。レンズ代が143,000円とリンホフ純正ボード代が4100円。
さらに、昭和47年(1972年)には望遠レンズに富士光機製(現在は富士フイルム)のフジノンT400mm F8 コパル・シャッター付きも買いました。レンズ代が89,000円と国産レンズボード代が2,000円でした。
標準レンズのジンマー150mm f5.6のLINHOFマーク付きには、ブーメランのような形状の連動カムが付属していいました。
この連動カムは、テヒニカの蛇腹レールの奥にカムソケットがあって、連動カムをカチッと差し込むと、標準レンズを取り付けた蛇腹の伸縮に合わせてカムも動き、カメラ内蔵の距離計が連動して距離計ファインダーで二重像合致式のピント合わせができますが、スーパーテヒニカで手持ち撮影したのは、長崎県五島列島で試した一回だけで、福江島の大瀬崎灯台を海上の渡船から撮った時でした。
なお、廉価版のテヒニカには距離計ファンダーは省かれています。
スーパーテヒニカは、とても堅牢で、1968〜2003年まで35年間も使っていました。蛇腹の摩耗で新品と交換が必要になり、その他のオーバーホールも高く付くので、売却することにしました。モデル入れ込みの広告写真の撮影になると、ディレクターさんやスポンサーさんも撮影に立ち会われますので、古くてボロボロのカメラで仕事するのは、対外的にマイナスです。時代の先端を行く旬のカメラを使わなければ・・・。
なお、スーパーテヒニカV(5型)の後継機は、リンホフ マスターテヒニカになります。
外観上の変更は、従来のベージュのボディーカラーがブラックに変更され、75mmや90mmの広角レンズを使った時のフロントライズのアオリをスムーズにするため、軍艦部(カメラボディ上面)に、開閉式のフラップが
設けられました。
リンホフ社のカメラを買うと、シュリロ貿易を通じて、ドイツから「英文」のお礼の手紙が送られてきます。 これには、ちょっと感激しましたね。
シノゴを買うと、頑丈で重い三脚が必須です。それで、フランス製のジッツオ三脚を買いました。機関銃の銃座も造っているメーカーさんらしいです。
シノゴの撮影には、ジッツオ三脚に、スーパーテヒニカと交換レンズ、フィルムホルダー20枚やポラホルダー、テヒニカ専用の6×7判のロールホルダーを持って行くので、荷物が嵩張り、電車での移動がシンドイです。
そこで、シノゴのロケ撮影のために、クルマが必要になって、1968年の冬から会社勤務の合間に自動車学校に通って、自動車運転免許(普通)を取ることにしました。
当時は、学科教習(自動車運転の交通規則と自動車のメカニズムの教習)と、技能教習(MT車のみ。校内路上教習と仮免後の公道教習を合わせて22時間)で、2万9千円ぐらいでしたが、補習を受けたので3万8千円も掛かってしまいました。今と比較すると、大変安いです。
因みに、ぼくが1969年に通っていた近鉄自動車学校(天美校)では、2012年4月からは、入学から卒業まで、296,275円(MT車の普通免許)もするようです。43年間に10倍!これは、学科検定や技能検定がスムーズに進んだ場合であって、技能教習の補習を受けますと、一回の技能教習料が5040円。昨今の若者の車離れは、運転免許を取得する費用の問題もかなり影響しているのかも知れませんね。
何しろ、24歳頃のぼくは仕事で忙しく、飛び飛びに技能教習を受けましたので、次のステップに進む「見極め検定」で落とされ、振り出しに逆戻り。だから、運転が全然上達しませんでした。一回1200円の技能教習の補習を7回ほど受けました。
免許証をやっとこさで貰ったのは、1969年(昭和44年)の8月でした。
クルマを買ったのは、昭和45年(1970年)の春で、新聞広告にデカデカと発表された、BIG
NEW SPRINTER!
が気に入って、 トヨタ・スプリンター1200SL(ツードア クーペ、1200cc ツインキャブ OHVエンジン搭載車で77馬力)のブルーをゲットしました。
会社から徒歩3分の場所に、トヨタオート北大阪の天満橋営業所が開店し、クルマを買うのにも便利だったからです。
スプリンターの新車価格は60万円台だったと思いますが、その頃はまだ日誌を付けていなかったので、詳細はハッキリと憶えておりません。他に強制賠償保険料と任意の自動車保険料、自動車取得税、自動車税、車庫証明と登録諸費用などで、プラス15万ぐらい払ったように思います。当時は、消費税や重量税が無かったです。レギュラーガソリンが、1リッター:52〜54円の時代で、クルマの値打ちがありましたね。
自動車を買うことを決めた時は、実家から会社勤務のサラリーマンで、毎月給与所得が見込まれるということで与信審査にパスし、マル専の割賦販売(5年:60回均等分割)でクルマを購入できたのです。
このスプリンターは、ぼくの足になって、非常に活躍してくれました。クルマを買って2ヶ月も経つと、運転が見違えるほど上達しました。
大阪万博の当時は、ガソリン代がレギュラー1リッター当たり53円で、3年後の昭和48年(1973年)でも67円だったので、メチャ安かったですね。
当時のクルマは、排ガス浄化装置を取り付ける義務がないので、クルマの燃費が良くて、名神高速吹田インター手前のGSで45リッターの満タンにすると、名神・東名高速を通って、首都高速3号線の渋谷出口までの片道525kmを余裕で無給油で行けたのです。
クルマを買ったことで、ぼくの行動範囲は拡大しました。
勤務先の会社では、愛用のNikon Fを使うことが殆どでしたが、ぼくのスーパーテヒニカが、会社の仕事に必須になる時がやってきたのです。
それは、1970年(昭和45年)に行われた大阪万博でした。
大阪万博の各パビリオンでは、数台の映写機を使った「マルチスライド(マルチイメージ)」の映像ショーが大流行(おおはやり)。
とくに、コダック社の35mm判のスライド映写機「カローセルSA-V2000シリーズ」を数台〜十数台使った3面〜9面のマルチスライドショーは、関西の大手企業さんが大勢の招待者を一同に集めて行う、セールスプロモーションのイベントには最適だと注目され、勤務先の会社の取引先であった松下電器さんの相談役も注目されて、全国の支社から幹部社員を本社講堂に集めて行う「新年度方針発表会」や各事業部さんが内外の販社要人を招待して開催する「新製品セミナー」などに「マルチスライド(マルチイメージ)」が採用されることになったのです。
その後、家電業界だけでなく、自動車業界、アパレル業界、旅行業界などの大企業も、次々にマルチ映像の販促イベントを積極的に活用されるようになって、ぼくは忙しくなっていきました。
マルチスライド(マルチイメージ)需要のお陰で、とくに大阪では、4×5インチで撮った写真の需要が急増しました。4×5インチで撮ると、1カットの撮影料金が35mm判撮影料の2〜3倍にアップして、ぼくの年収もそれに比例する筈だったのですが、ぼくは会社勤務のカメラマンだったので、月収は同じでした。
ぼくの買ったスーパーテヒニカは、先行投資が実って意外なニーズで大活躍することになったので、1973年9月に会社勤務のカメラマンを辞めてフリーになり、写真スタジオ開店へ準備に取り掛かりました。29歳の時でした。日記を付け始めたのもこの頃からです。
ぼくが独立したのを知って、新しい取引先からも、海外取材のオファーを受け、1974年2月に、フランス領ポリネシアのソシエテ諸島(中心はタヒチ島)の近くあるモーレア島のバカンス村に、日本人観光客を誘致するための6面マルチ映像を制作することになって、2週間ほどタヒチに行って取材することになりました。1ドル=240円の時代でした。スーパーテヒニカを南太平洋に持って行きました。
シノゴのカメラは、35mm判のマルチスライド制作の為に作られていないので、特製のトリミングマスクを作って、それをシノゴのピントグラスに貼り付けで、構図を決めて撮影しました。
関西経済が活発な時は、カメラマンのぼくはマルチイメージの企画も担当して、スポンサーにプレゼンする絵コンテも描いて、撮影会議に参加していたので、大変忙しかったですね。
ところが、1990年10月に起きた東証の株価大暴落で、土地神話に湧いたバブル景気が崩壊。数年後には大手証券会社が倒産しました。1995年には、阪神淡路大震災と1ドル80円の円高のダブルパンチで、商品の製造は東南アジアの人件費の安い国々に生産拠点の移設...。関西では震災復興と輸出が頼みの関西経済は苦境に立ちました。ぼくの写真スタジオも商品撮影が激減して、ロケ撮影のみの仕事になってしまったのです。スタジオ商品撮影の需要回復の兆しがなかったので、2001年2月にスタジオを閉鎖することにしました。スタジオをオープンした1975年1月の時は「スタジオ開き」をやって、祝い酒を酌み交わしたのですが、26年後に閉めた時は、「お別れ会」もなく、あっけなかったですね。
文章を書いたり、Macでイラストを描いたり、WEBページの制作などは、力仕事や立ち仕事ではないので、一生続けられると思います。
使わなくなって2003年に売却した、リンホフ スーパーテヒニカとトヨ・ビュー45G・・・。今頃、誰が使っているのかな?
シノゴで撮った数百枚のカラーリヴァーサルを時々ビュワーを点けて眺めると、わが愛機、リンホフ・スーパーテヒニカと一緒に愛車で旅した遠ざかった青春時代の記憶が懐かしく、若かりし頃の、自信に溢れた姿が脳裏に甦ってきます。
初稿:2012年5月5日 更新2014年2月21日 尾林 正利