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上の写真は、奈良県五條市大津町 (おおづちょう) にある真言宗の念仏寺 (正式には念佛寺) で、毎年1月14日に行われる修正会 (しゅしょうえ) の結願法要 (けちがんほうよう)である「鬼走り(おにはしり)」の行事です。この行事では、阿弥陀如来に仕える3人の鬼が主役になりますが、これは節分の行事では無いので、豆撒きをしません。

大阪では、祖父母と一緒に暮らすような家庭では、2月3日の節分の日には、家族全員が揃っているときに玄関の扉を開けて、家長の父親が豆撒き(後で撒いた豆を年齢の数だけ拾って食べるので煎り大豆を使用:千葉では名産の落花生で代用?)をするのが昔からの習わしなんですが、今でも子供たちが「鬼は外!福は内!」と叫んで、家の中に潜んでいる見えない鬼を自宅から追い出す行事をしているところもあるでしょうね。でも、部屋に撒き散らした豆を拾って食べるようなことはしてないと思いますよ。歳の数だけ食べる豆は枡に残しておいて、子供たちが撒いた豆はお母さんが電気掃除機で吸い取っている筈です。

今 (2015年) から57年も前、ぼくがまだ中学生だった頃に、祖母が煎った豆を一升枡 (いっしょう ます) に入れて、実家で豆撒きをやった記憶があります。そのころのぼくには衛生観念がなく、床に落ちた豆を小皿に回収して13粒〜15粒ぐらいでOKなのに、歳の3倍ぐらいは食べていました。
なお、大阪などで節分の日には、生のイワシを一人当たり一匹ずつ家族分を買ってきて、塩を塗して「かんてき(七輪)」の上に金網を乗せて丸焼きにするか、大鍋に丸ごと煮魚に調理して食べる風習は、ぼくの子供時代からありましたが、巻き寿司の「恵方巻」を丸かぶりで食べる風習は、平成10年(1998年) に大手コンビニのセブン・イレブンさんが節分の日に「恵方巻」を食べようという、巻き寿司拡販キャンペーンが大成功し、翌年の節分の日から在阪の百貨店やスーパーもそれに追従して、大量の恵方巻を売場に並べ、商魂逞しい販促の行事が大阪に定着したものです。今の大阪では節分の日に「恵方巻」を食べる家庭の方が、豆撒きをしたり、イワシを食べる家庭よりも多いようです。昔の行事や風習は、平成時代というか、21世紀になってどんどん廃れているような気がします。

邪鬼を追い払うという行事は、宮中で始まった追儺 (ついな=厄払い) の行事が民間に広まったもので、「大儺(だいな、おにやらい)」とも呼ばれ、近年では平安神宮で、平安時代の大儺に忠実な行事が再現されているそうです。

飛鳥時代に中国王朝から「周礼(しゅうれい:古代中国王朝の法律)」が伝来し、平安時代の醍醐天皇の御代に制定された「延喜式」では、追儺の行事は大晦日に宮中で行われることが決まり、舎人 (とねり:下級役人) の中から悪鬼が選ばれ、鬼退治する方相氏 (ほうそうし) も舎人の中から選ばれていたそうです。昔は鬼役が悪鬼の面をかぶり、鬼を追っ払う方相氏役は"四ツ目”のお面を被り、手に矛と盾を持ちます。悪鬼を追うのは方相氏だけでなく、群臣や侲子 (しんし:こどもたち) も後に続き、弓矢を放ちますが、追儺の行事は、象徴的な儀式なので、矢を空に向かって放ちます。
ところが、念仏寺の鬼は悪鬼ではなく、阿弥陀如来に仕え、鬼は松明の浄火で災厄を払い、新年に福をもたらし、仏の加護を得て家族の無病息災を祈願するものです。

この取材は、炎が勢いよく燃える松明の間近で撮影しましたので、火の粉と水飛沫がカメラに飛んできて、我慢の撮影でした。
鬼走りを地元では「鬼はしり」と書き、念仏寺を「念佛寺」と表記します。平成7年(1995年)に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
このページの鬼はしりの取材は2008年1月14日に行い、2009年1月17日に当サイトのフォトエッセイに掲載したものをXHTML版に再編集しました。


このページの写真と記事の無断転載や無断複製を禁止します。


奈良県五條市新町の写真です。五條新町は文化庁の「重要伝統的建造物群保存地区」に2010年12月に制定され、伝統的な商家が軒を連ねる区域が保存されています。五條市の特徴は、柿(甘柿+渋柿) の生産量が日本一らしく、とくに「富有柿」が有名で、市内に「柿博物館」があるほどです。
市内を流れる清流の吉野川では「梁漁」などで、アユが豊富に獲れるので「柿の葉寿司」も名産品です。平成8年になっても江戸時代や明治時代の建造物が残る奈良県の五條市新町、橿原市今井町、宇陀市松山(まだ行ってません)は、一度は見ておきたい場所ですね。


JR和歌山線の五条駅 (五條駅ではない) 近くの本町の街並みです。大阪市平野区の旧平野郷や旧喜連郷区域でも、虫籠窓(むしこまど) の商家が数十軒みられますが、伝統的建造物の軒数では、五條市新町や橿原市今井町にはとても及びません。ぼくは車を駐車場に停めて、1時間ほど町の中を歩きました。五條市新町界隈は、派手に観光地化されていないので好感が持て、のんびりと散歩が楽しめました。


五條市大津町(おおづちょう) 念佛寺陀々堂 (だだどう:清流の吉野川の東南岸にある)


五條市大津町にある念佛寺というお寺は、本尊を安置する本堂が珍しい茅葺きです。浄土真宗と真言宗のお寺です。現在は住職が住んでおらず、鬼はしり保存会の方々が、念佛寺の管理と、「柴燈護摩供(さいとう ごまく)」や「鬼はしり」の伝統行事を守っています。柴燈護摩供や鬼はしりには、火を使いますので、1月14日の夕方には五條市の消防車がやってきて、茅葺き屋根に30分間ほど放水して、屋根を濡らしてから護摩焚きを行いました。日が暮れると屋根が凍って真っ白に...。カメラを持つ手が悴むほど寒かったですね。

元旦から続く修正会の結願法要のため、近隣のお寺から念佛寺に来られたお坊さんです。念佛寺堂内の天井や壁は、鬼はしりの松明の煙で煤だらけでした。煤によって防虫効果があるんでしょうね。個人的には、わずか260余文字の般若心経を未だに暗誦できません。左の段ボール箱には「護摩木」が1000枚入っていました。それを開封して、読経しておられました。


念佛寺の伝統行事を引き継ぐ、旧・阪合部村(さかあいべむら:阪合部とは領主の名前で、1889年に12村を合併した村名にされましたが、1957年に五條町と合併して五條市になる) の子供たちです。大太鼓や法螺貝の練習をして、鬼はしりの行事に参加します。忍者のようなユニフォームが良いですね。上と下の写真は、鬼はしりの行事に参加する子供たちが、500年も続く町の伝統を練習している様子をモンタージュしました。


鬼はしりで重要なサウンドは、「棒打(ぼうだ)」と呼ぶ、板を激しく叩く音なんです。カタカタカタカタカタ・・・バンバンバンバンバン・・・棒打のリズムで、三人の鬼は、60kgの燃え盛る松明を左手に抱えて、陀々堂の堂内を三周しますので、気合いを入れて激しく鳴らす必要があって、子供たちは、大人の棒打の振付を見て、真剣に練習していました。


上のお面は、左から、子鬼面 (茶鬼)、母鬼面 (青鬼)、父鬼面 (赤鬼)で、木製のお面です。子鬼は右手に木槌を持ち、母鬼は右手に如意棒を持ち、父鬼は右手に斧を持ちます。それだけなら、健康な成人男性なら誰でも出来そうですが、三名の鬼役になる方は、左手に重さ60kgの火の点いた大松明を持ち上げますので、重量挙げ選手並の怪力の人でないと鬼役が務まりません。鬼面は、五條市の文化財に指定されています。


鬼はしりの行事は、棒打や大太鼓の音に合わせて、3人の鬼が火の点いた大松明を持って堂内を三周しますので、廊下には火の粉が飛び散って、かなり危険な行事なんです。だから、夕方4時頃に、予行演習を念入りに行います。3人の鬼に、それぞれ一人ずつの「佐(すけ)」と水天(カワセ:水を張った手桶と笹の葉を持った人)という、阿吽の呼吸のアシスタントが付き添い、水天 (カワセ) は松明の火の勢い調節を行い、佐 (すけ) は鬼が火の点いた大松明を床に落とさないように、素早く下から持ち上げる役をします。鬼はしり行事の開始を告げる火天 (カッテ) 1名、鬼3名、、佐 (スケ) 3名、水天 (カワセ) 3名になる人は、行事の一週間前から水垢離(みずごり:滝行など)して身を浄め、大役の精神集中に励みます。


奈良県五條市は奈良県吉野郡吉野町と隣接していて、吉野山にある金峯山寺蔵王堂に近いです。大峯山で修行した修験者が法螺貝を吹きながら、柴燈護摩供の行事に参加します。護摩焚きに使う火は、陀々堂の須弥壇裏で種火を起こした清浄な火を使います。


柴燈護摩供 (さいとう ごまく: 護摩焚き)


念佛寺陀々堂の近くに、伐り採ったばかりの瑞々しい4本の青竹を立てて厳粛な結界を囲み、弓矢を放って厄払いし、刈り取って直ぐの新鮮な檜葉 (ひば) を積み重ねて清浄な火で檜葉と護摩木を一緒に焚きあげます。火の勢いが強くなると、ご先祖の名前や願い事を書いた護摩木を火の中に投げ込みます。護摩木が燃える火の粉は上空に舞い上がりますので、願い事が天に届くというお呪いなのです。山伏さんは、柴燈から外れた護摩木を丁寧に拾って、柴燈の中に放り込み、皆の願いが天に届くようにします。


護摩焚きが終わると、いよいよ「鬼はしり」の本番です。先ず、保存会一番の怪力男が「火天 (カッテ)」の役になって、「火伏せ(ひぶせ) の行」を披露し、60kgの大松明を頭上に持ち上げて「水」という文字を書きます。この時に火の粉が、堂外にも飛び散ります。写真を見ると、読経するお坊さんも怖がっておられますね。ぼくも怖かったです。目の前に火の粉が・・・。


火天(カッテ) のパワフルなパフォーマンスが済むと、いよいよ、父鬼が登場します。父鬼の後ろの人が「佐(すけ)」で、佐が松明に火を点けて、鬼に松明を渡した直後です。まだ父鬼は、右手に斧を持っていないようですね。法螺貝吹きは、堂の左右に二人づつ並んで演奏します。


鬼はしりのクライマックスです。3人の鬼が陀々堂の中を走る一周目は、床から湯気は立ちませんが、水天 (カワセ) 役が、濡れた笹の葉で炎に水飛沫をかけて、鬼がヤケドしないように火の勢いを調節します。三周目になると、外気温が氷点下になった床に、暖まった水飛沫が床に溜まって、床からもうもうと水蒸気が立ち上り、迫力満点の写真になりました。父鬼に続いて母鬼、子鬼もこの場所に立ちましたが、父鬼出番の時が、フォトジェニックだったので、ファインダーを覗いていて感動しました。

管理人室

鬼走り

(おにはしり:五條市大津町の念佛寺で年頭に行う修正会の儀式)


初稿は2009年1月17日、更新は2014年12月17日:尾林 正利
奈良県五條市念仏寺での行事取材:2008年1月14日
カメラ:Canon EOS 5D
レンズ:EF 24-70mm f2.8L USM、580EX使用

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「鬼はしり」とは、 奈良県五條市大津町念仏寺 (正式には念佛寺だが、本文では念仏寺と表記) 陀々堂で毎年1月14日に行われる修正会の儀式で、奈良県の祭を調べていて興味を持ち、見たくなって取材することにしました。現地では、鬼走りとは書かず、「鬼はしり」と書かれます。
写真取材したのは2008年1月14日ですが、すぐには公開せず、当時は記事にできる資料が少なかったので、取材してから丸一年後の2009年1月17日に1ヶ月ほど当サイトに掲載しました。

2013年の年末に、当サイトのWEBデザインを全面的にリニューアルし、2009年頃までW3Cの推奨記述言語であったHTML4.0を現在標準のXHTML 1.0版用に編集し、今回は写真を見易くして、記事も書き直して再掲載することにしました。

奈良県五條市へは、地理的に大阪市内からだと金剛山の裏側になり、自動車で行く方が何かと便利です。電車で行くと、大阪市内から五條市まで直通列車がないので、2〜3回の乗換えになり、JR和歌山線はローカル線なので、通勤時間帯以外は、奈良県で1時間に1〜2本の運転ダイヤに予定を合わせなければなりません。

大阪市内から電車でJR和歌山線の五条駅や隅田駅へ行く場合は、JR天王寺駅などからJR大和路線の加茂行き快速を利用し、途中の王子駅で乗換えします。
午前中は、JR王子駅からJR和歌山線の「和歌山行き」直通列車が 8時5分発 (天王寺駅発 7時31分発奈良行き快速と連絡)と 9時26分発 (天王寺駅発 9時1分発加茂行き快速と連絡) の2本しかなく、それに乗れない場合は、JR王子駅から高田行きに乗って、高田駅始発の「和歌山行き」普通列車に乗換えになります。和歌山行きではなく「五条行き」に乗った場合は、五条駅で和歌山行きに乗り継ぎします。
念仏寺の鬼はしりの行事だけを見るのであれば、最寄り駅になるJR「隅田駅」で下車します。

五條市大津町念仏寺の場所は、JR和歌山線の大和二見駅と隅田駅の間にあって、隅田駅から念仏寺までの距離は、和歌山線の線路伝いの道で行けば1.7km (徒歩で25〜30分) ほどで、大和二見駅と念仏寺は3km (徒歩で45〜50分) ほど離れています。JRの電車で乗り継いで行きますと、往きの場合は、さほど問題はないのですが、帰りを心配する必要があります。
というのは、夜10時頃まで行われる「鬼はしり」を最後まで見物していると、終電車に乗れなくなるからです。

隅田駅発の王子行きの最終電車は、21時39分発なので、王子駅着が22時44分になり、王子駅発22時49分発の難波行き快速と連絡していますので、逆算しますと、夜の9時前には念仏寺を出なければならず、肝心の鬼はしりを見物できません。

だから、「鬼はしり」の日帰り見物は、自動車で行かなければなりません。電車で行かれる場合は、五條市内か橋本市内のビジネスホテルに素泊まりの宿泊予約が必要になるでしょうね。ま、五條市に営業所があるタクシーを事前に調べて、鬼はしりが終ればケータイで呼んで、大阪市内に帰る方法もありますけど...、一人なら泊まる方が安くつきますね。運転免許証があれば、レンタカーの利用も選択肢の一つですね。昼間に五條市内の重要伝統的建造物保存地区も見られるし...。

自宅のある大阪市平野区喜連 (きれ) から五條市大津町まで、一般道を利用した場合の距離は往復で約100kmぐらいです。ドライビング・ルートは、平野区喜連〜市道〜中央環状線・長吉出戸交差点を横断〜八尾市の太子堂西で国道25号線に合流〜柏原市の国分南の分岐で国道165号線を直進〜奈良県香芝市の穴虫の分岐を右折して奈良県県道30号線 (大和高田バイパス) 〜名柄 (国道309号線との交差を直進) 〜大西橋西詰分岐で左折して国道24号線と合流〜五條市というコースです。
片道51kmだったので、往きは午前10時半頃に平野区喜連を出発したので、八尾や柏原市内で少し渋滞があって五條市新町まで1時間半ほど掛かりましたが、五條市大津町から帰りの出発が夜10時半頃だったので、奈良県内の道はがら空きで1時間ほどで大阪市平野区の自宅へ帰られました。

さて、奈良県五條市大津の念仏寺陀々堂(だだどう)で行われる、毎年恒例の「鬼はしり」の行事とは元旦から1月14日に行われる法要の一つで、修正会結願法要(しゅしょうえ・けちがんほうよう)といって、修正会の締め括りとして、14日に「柴燈護摩供(さいとうごまく)」と「鬼はしり」の行事があります。これと同様な法要は、大阪市の四天王寺では「どやどや」という行事が1月14日に四天王寺境内にある六時堂で行われています。

五條市大津にある念仏寺のご由緒ですが、 正確な創建年代や開基した僧の名は判らないそうで、寺の所蔵品や伝承から平安時代の末期から鎌倉時代の初期に真言宗の寺院として創建されたようです。 江戸時代の中期に寺請制度(檀家制度)が幕府の命令で確立し、安永3年(1774年)の「大津村 村鑑(むらかがみ:村史)明細帳」によると、「念仏寺ト申者阪合部十二ヶ村之氏寺ニテ御座候」と書かれているそうです。因みに阪合部村 (さかあいべ むら)とは、明治22年 (1889年) に元領主の阪合部家の領地12村を一つの村に統合し、村政を施行したもので、昭和32年 (1957年) に隣の五條町と合併して五條市になりました。

大津町 (おおづちょう) 念仏寺の現在は無人の寺で、住職がおられないので、「鬼はしり保存会」の人々が寺の管理と伝統行事を守っているそうです。
この寺の本堂・陀々堂は、お寺にしては珍しい「茅葺き」です。
室町時代の終わり頃から、正月の修正会(しゅしょうえ)に、鬼走りの行事が行われていたようで、この火祭りの祭典は500年の伝統があるそうです。

因みに、修正会結願法要(しゅしょうえ・けちがんほうよう)とは、仏教による五穀豊穣祈願と除厄祈願の年頭行事です。
ここの念仏寺で行われる「鬼はしり」は、過去の罪を悔(く)い、身に積もった汚れを払い、新しい年の幸福を祈る、阿弥陀信仰の法会における特異な行事なのです。
この寺の陀々堂で行われる「鬼はしり」の行事は、平成7年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
節分の鬼は悪役ですが、陀々堂で走り回る鬼は、住民の災厄を払い、幸せをもたらすものとして歓迎されています。

このような祭を祖父・父親・息子へ継承してこれたのは、地域住民(阪合部:さかあいべ 12村)の方々の熱意と誇りでしょうね。
修験道の行者による護摩焚きや火の点いた大松明を使う鬼はしりのクライマックスは夜の7時半から10時頃まで行われます。

町の伝統行事を子供たち(男児)に伝えるため、子供たちも鬼走りの行事に参加して、法螺貝を吹く練習や、大太鼓を打つ訓練も兼ねて、昼の4時からは火を使わない鬼はしりの行事を楽しみます。
ぼくは朝10時半に、平野区の自宅から車を運転して、五條市大津の念仏寺に着いたのが午後1時半頃でした。
3時間も掛かったのは、五條市新町で1時間半ほど、古い町並みを散策しながら写真を撮っていたからです。

ぼくが念仏寺に着いた時は、まだ境内の人影は疎らでしたが、修正会の法要がすでに始まっていて、三名の僧侶が陀々堂で大般若心経(だいはんにゃしんぎょう)を転読中でした。
ここの念仏寺は無人のお寺なので、近隣の町から僧侶を招いて法要を行っているようです。夕暮れ時から境内で行う「柴燈護摩供(さいとうごまく)」は、近隣の吉野山金峯山寺蔵王堂(よしのやま・きんぷせんじ・ざおうどう)や大峯山で修験道に励んだ行者さんを招いて護摩焚きを行いました。

この行事には、地元男子の小・中学生17名も参加し、各々の役割が決められて、昼の4時から行われる行事に日頃練習した成果を見物客に披露します。
鬼はしりには大きく分けて下記の役割があります。

大人の場合は、一番目が、火天(カッテ)・・・1名。
鬼はしりの先導役で、本番では、燃え盛る60kgの大松明を頭上に高々と持ち上げ、水の字を描く「火伏(ひぶせ)の行」をパワフルに行います。

二番目は、鬼・・・3名。父鬼(赤鬼)、母鬼(青鬼)、子鬼(茶鬼)の役で、木の鬼面を被って左手に重さ60kgの火の点いた大松明を持ち上げ、各々の右手に斧(父鬼)、如意棒のようなもの(母鬼)、木槌(子鬼)を持ちます。なお、如意棒や斧などは木製のダミーです。

三番目は、佐(すけ)・・・3名。大松明を点火する役目で、正装し気合いが入った鬼に、燃え盛る松明(たいまつ)を鬼の左手に渡します。そして、松明を落とさないように、時々下から支えて鬼の手助けをします。

四番目は、水天(かわせ)・・・3名。手桶に水を張り、水で濡らした笹の葉を振りかざして、火天や鬼がヤケドをするのを防ぎ、天井や床に付着した火の粉を払います。

五番目は、大太鼓・・・2名で向かい合って打ちます。

六番目は、法螺貝(ほらがい)・・・2〜4名が陀々堂の左右から吹きます。大人は山伏姿になります。修験道の行者も参加します。

七番目は、帽打(ぼうだ)・・・2名。大きな板を二本の角材でバンバン、カタカタと強く叩きます。黒板のような大きな移動式パネルが境内に置かれ、堂内の須弥壇裏にも棒打できる場所があります。

八番目は、鐘・・・1名。行事開始の合図に鐘を鳴らします。

五條市の念仏寺陀々堂は、住職のいない無人の寺なので、電話もありません。
鬼はしりには撮影許可は不要ですが、火を使う危険な祭りなので、誰でも好き勝手放題に撮ってもいいことではなく、撮影や見物する場所は、鬼はしり保存会の指示に従う必要があります。

とくに、昨今はデジタル一眼レフと三脚を持ったアマチュアカメラマンが大勢訪れ、混雑する陀々堂の間近に三脚を立てて撮影するので、肝心の地元の人たちが鬼はしりを見られなくなって、町会で苦情が出たそうです。 従って、2008年から三脚や脚立での撮影は、石灯籠より後方へ制限されました。

ここへ来て、ぼくのようなよそ者のカメラマンが、地元の方々にとって疎ましいと思われていることが、うすうすと感じられたので、名刺代わりに、集まってきた子供たちの写真を撮ってあげ、写真を無料プレゼントすることにしました。
このようにして、お子さんたちの親御さんと少し親しくなったところで、鬼はしり保存会の方々から本日の進行スケジュールをお訊きしたのです。

素性の判らない見知らぬ男が、アポ無しでいきなりやってきて、町のことや行事のことをいろいろ訊くのは、地元の方から胡散臭くみられるものです。 主催者に好感を持たれるような気遣いが必要です。

鬼はしりの昼の部は、午後4時から行われ、大太鼓と棒打の激しい音が境内と堂内で響くと、境内は心地よい緊張に包まれました。
山伏(保存会の会員さん)の装束を着た人が法螺貝を吹き、各々の佐(すけ)を伴った三名の鬼が気合いの雄叫びを発して、陀々堂の三つの扉前に順々に現れました。
佐から松明を受け取ると、鬼は松明を左ヒザで支えて持ち上げ、父鬼 (赤鬼) の場合は右手に斧を振り上げてポーズをとります。観客から見て、鬼は右手から左へ右回りに堂内を3周します。

昼の鬼はしりは松明に火を点けないので迫力がイマイチですが、シャッターチャンスのタイミングが判るので、カメリハになって有難かったです。
子供らも登場して鬼はしりの儀式を行いますが、鬼の面は大人のものよりは小振りで、松明も小さいです。
子供らの鬼走りが終わると、「福餅撒き」が行われました。
それにしても、奈良県は、社寺の祭や行事では「餅まき」の多い県ですね。大阪の祭や行事では「餅まき」の慣習は殆どみられませんが...。大阪市平野区にある旭神社の節分の行事では「豆まき」は無料ですが、「餅まき」はしません。餅は有料でした。

陽が沈むと、7時には消防署の隊員がやって来て、茅葺きの屋根に放水を始めました。
屋外で護摩焚きする時、火の粉が高く舞い上がるので、火事にならないように屋根を水でたっぷり濡らすのです。30分ほど経つと、この日の夜は氷点下になったようで、濡れた屋根はみるみるうちに凍って、雪が積もったように白くなりました。

屋根への放水が終わると、午後7時半に山伏姿の修験道行者一行が境内に入り、結界内で柴燈護摩供(さいとうごまく)の儀式を厳かに行います。
修験道(山岳宗教と仏教が習合)の行者が弓矢を放って邪気や邪鬼を追い払い、青竹に縄を張った結界内を浄めます。

護摩焚きの炉に使う葉の山は、檜葉(ヒバ:生のヒノキの葉)でした。檜葉を花瓶に水を入れて挿しておくと、1カ月ぐらいは葉が青々として萎れないそうです。ヒノキは生命力の強い樹でなので、これを燃やし、その炎の中にご先祖の名を書いた「供養の護摩木」や願い事を書いた「祈願の護摩木」を放って、一緒にお焚き上げします。燃やした護摩木は、火の粉になって宙に高く舞い上がりますので、祈りが天に届くというお呪いなのです。

護摩焚きに使う火や鬼はしりの松明の火は、堂内の須弥壇 (しゅみだん) 裏の囲炉裏(いろり)で燃えている浄い火を使います。
護摩焚きは、最初の5分間は、物凄い煙が出て燻っていましたが、炎が大きくなると、煙が晴れて火柱が立ち、火の粉が上空にパチパチと舞い初めました。
柴燈護摩供のお焚き上げの時は、行者の祈祷が続きます。 護摩焚きは40分ぐらいで終わり、ぼくは陀々堂の正面賽銭箱の前に金属製のカメラケースを置き、そこに座って場所取りし、本番に備えました。

ちょっとでも油断すると、他のカメラマンや見物人に場所を取られれてしまいます。あまりにも鬼の立つ位置に近すぎるので、3名の鬼が、同時に写る引きの写真は35ミリ判フルサイズデジタル用の24mm程度の超広角では到底撮れませんが、ぼくの後ろには、既に鬼はしりを見たい300人ぐらいの人垣ができていて、とても引きの写真を撮れるような雰囲気ではなかったですね。

一応、石灯籠の後ろに保険用として三脚と脚立を設置して、鞍馬の火祭りの時のように特等席から追い出された時の苦い教訓から、第二の撮影場所をキープしておきました。

次に父鬼が境内入口から陀々堂の中央口に到着すると、いよいよクライマックスになります。
午後9時になると、 先ず、棒打と太鼓の激しい音が堂内に響き、鬼はしりの先導役、「火天(かって)」が、燃え盛る60kgの大松明を持ち上げて「火伏(ひぶせ)の行」を行い、陀々堂正面の須弥壇前で大松明をグルグルと回し、「水」という字を書くそうで。なかなか迫力がありました。

夜の祭の撮影でも、ぼくは三脚を使いません。三脚を使うとカメラワークが制限されてしまうからで、手持ちで撮ります。EOS5Dの露光感度はISO800、ストロボ光を1段弱くして、シャッター速度が80分の1秒ぐらいなら、標準ズームの望遠側・70mmの焦点域でも殆ど手ブレしません。

続いて、父鬼 (赤鬼) の登場です。父鬼と母鬼の人は力持ちだったので、鬼の面が松明にけられませんでしたが、子鬼役の人は60kgの重量挙げに力不足で、どのカットも子鬼面が大松明で半分以上もけられてしまったのです。これでは写真になりません。ま、仕方がないですね。
でも、一番いい場所からナイスショットが2枚撮れたので、初めての取材として上出来でした。

後で、石灯籠付近から望遠で撮っている人に訊いたら、陀々堂の正面前列から人が立って見物しているので、300人の観衆の頭で鬼の足元が、見物人の頭で切れて、思ったような写真が撮れなかったそうです。
最前列でカメラケースに座って写真を撮っていたのは、ぼくを含めて2名でした。
ロケ撮影には、布バッグよりも頑丈なドイツ製のロックスのアルミケース (サファリ:現在は販売しているかどうかは不明) が大変役立っています。それは、長辺を上下にして座れば食卓の椅子ぐらいの座高になって、手持ち撮影の場合は、立って撮るよりはカメラブレは防げます。1970年に買ったカメラケースが2014年も現役・・・さすが、ドイツ製(西ドイツ製)ですね。

3名の鬼が順序よく堂内を三周しますと、鬼は陀々堂の横手口から境内に出て、禊ぎの場所「水天(かわせ)井戸」に行って火を消し、札参りして行事を終了させます。
それも撮りたかったのですが、大勢の見物人に囲まれていましたので、身動きができなかったのです。

鬼はしりは10時に終わりました。
駐車場に戻ったら愛車の窓ガラスがカチカチに凍っていました。エンジンを掛けて暫くアイドリングし、暖房が効いてフロントウィンドウの曇りが取れるのを15分ほど待ちました。
大急ぎで自宅へ帰ると、直ぐにPowerMac G5へデータをダウンロードし、300カットほどの画像をチェックしました。迫力のある写真が数枚撮れていてホッとしました。
撮った結果がすぐに判るデジタルフォトの有り難みは、ぼくを変えましたね。

このフォトエッセイ初稿は、2009年1月17日です。
XHTMLへの編集、写真と記事の差し替え更新は、2014年12月17日 尾林 正利

写真と記事の無断転載を禁じます。尾林 正利

 
 
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