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叡山電鉄の展望列車・デオ900系の「きらら」が、紅葉のトンネルを抜けたシーンを70-200mmの望遠ズームで撮影。2006年11月21日に取材


貴船口駅で停車する「キララ」。塗装はメイプルレッドとメイプルオレンジの二編成があり、1998年に鉄道友の会よりローレル賞に選定




上に掲載した「鞍馬の秋」は、2006年11月21日に取材

カメラ:Canon EOS 5D、 レンズ:EF24-70mm f2.8L USM、EF70-200mm f2.8L IS USM



下に掲載した「鞍馬の火祭」は、2006年10月22日に取材


鞍馬の火祭の準備が整ったことを知らせる合図で、大人が担ぐ大松明や子供達が担ぐ中松明を家の前に飾る。
(鞍馬街道沿いの店頭にて)


鞍馬の火祭は、辺りが暗くなった18時にスタートし、先ず幼い子供達が小松明を担いで鞍馬寺表参道前に向かって行進する。


次は中学生たちが中松明を担ぐが、点火は父親が手伝う。


高校生や大人達が担ぐ大松明は迫力満点。


祭がたけなわになると、小学生も中松明を担ぐ。鞍馬街道は熱気に包まれ、カメラに火の粉が掛かる。


女性達は「手松 (てまつ)」を灯して行進する。これが由岐神社例祭の原点らしい。
御所にあった由岐神社の神職や荷を運ぶ人たちの渡御列を住民たちが松明で足下を照らして歓迎したことに由来。


由岐神社の2台の御輿を曳く人たちは、地元の人だけでなく見物人も参加する。御旅所は、くらま温泉に設けられている。
御輿の渡御は22日23時頃で、還御は翌日2時になるので、鞍馬街道傍の空き地に駐めた愛車を運転して大阪市に戻った。

管理人室

洛北・鞍馬の紅葉


トップページ更新 2014年11月10日更新:尾林 正利
鞍馬の火祭の撮影:2006年10月22日、鞍馬の紅葉の撮影:2006年11月21日
カメラ:Canon EOS 5D
レンズ:EF 24-70mm f2.8L USM、EF 70-200mm f2.8L IS USM

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今年も11月に入って、近隣の紅葉の名所から、色付いた紅葉の便りがテレビなどで報じられるようになりました。
ぼくは大阪市内に住んでいますので、近畿地方で紅葉名所の見頃は、11月下旬の勤労感謝の日の前後がピークになるでしょうね。

近畿で紅葉が早いのは大台ヶ原ですが、和歌山県の高野龍神スカイライン(国道371号線:現在は無料開放)で行ける、標高1374mの護摩壇山とその周辺の紅葉も美しいですが、クルマがないと行けない所なので、あまり知られていません。ここは近畿では数少ないブナの紅葉が見られるのが特徴で、10月下旬が見頃だったようです。

鉄道や路線バスを利用して紅葉見物が楽しめるスポットで、近畿で紅葉の名所と言えば、やはり京都市の洛北に集中しているようです。
・・・洛北(らくほく)って、どこ?

洛北(らくほく) の「洛」とは、古代中国国家の首都だった洛陽のことなのです。
6世紀に光武帝(劉秀)によって建国された中国王朝の後漢の首都、洛陽から採ったもので、平安京=洛陽という意味は、先祖代々から京都市に住んでいる京都人(京都市市民)でないと、他の都道府県の方々には理解できないと思います。

平安京とは、桓武天皇が延暦13年 (西暦794年) に山城国に建都した、公卿や律令官吏、工人や商人、一般住民も暮らす市街地の中に皇居と官庁街 (大内裏) を置く区域で、別名で洛中と呼びます。
その具体的な区域は、東西の範囲で、西京極大路 ( にしきょうごくおおじ:現存) から東京極大路 (ひがしきょうごくおおじ:現在では新京極辺り )まで、南北の範囲で、一条大路〜九条大路までの長方形の範囲で、京都御所 (大内裏) を東西 (左京と右京) の中央に、南北では北端に配置した碁盤の目のような町割で、現在の京都市は人口が増えて、平安京の町割が左京側に拡張したものです。

現在の京都御所は桓武帝が定めた場所にあるのではなく、応仁の乱で、大内裏の殿舎が戦火に遭って焼失し、後に再建した時に、京都御所の場所が左京側に移動しています。
京都市では、北を上に描いた西洋式の地図を見ると、左側が右京区で右側が左京区になっていて、慣れないと戸惑ってしまいます。何ででしょうかね?

右京と左京の決め方は、京都御所の清涼殿にて、公卿を集めて会議する時の天皇のお席から見た、左右の位置関係を示しているのです。
「天子は南面す」という古代中国の易学に由来しているのです。

日本では東の方角から陽が昇りますので、清涼殿の高御座 (たかみくら:玉座)におられる天皇が南面したときの、天皇からご覧になられて左手 (東側) に座る大臣の方が位が高く、右 (西側) に座る右大臣よりも位階が高いのです。
民主主義の近代オリンピックの表彰式は、客席(民衆)から見て、2位の銀メダル受賞者は左側に立ち、3位の銅メダル受賞者は右側に立つでしょう。君主主義の平安時代とは左右 (上下関係) の見方が逆なんです。
京都市では、京都御所から南に住む人々は、御所の方に向かう事を上がる (北上:ほくじょう)、御所から離れることを下がる (南下) と現在でも呼んでいますが、御所から北に住んでいる人は、上がる・下がるを使いません。平安時代の御所は平安京の北限にあって、御所の北は未開地であり、住む人はなく、化野 (あだしの) のように鳥葬が行われた場所が散在していたのです。

ところで、現在の日本の首都は東京ですが、西暦794年〜1868年までの1074年間の日本の首都は京都だったのです。
1868年に明治維新政府によって、京は京都に改名され、江戸は東京に改名されました。
前島密(まえじま ひそか:民部省の官僚で、後に日本の近代的郵便制度の基礎を確立) の案により、東京奠都(とうきょう てんと:遷都) が決定し、1868年10月に明治天皇が京都御所から東京の江戸城 (東京城) に「東幸」して皇居(宮城 きゅうじょう)を遷されました。

これによって、上京するというのは、京都へ向かうという意味ではなく、東京へ向かうという意味に変わったのです。
でも、京都の人で東京へ出張するときは、「上京」するとは言わず、「東上」すると言う人もいます。

東京奠都が決まっても、依然として昭和天皇までの即位の礼は、京都御所で行われたのですが、今上天皇から、即位の礼は皇居で行われることになり、首都が遠くなった関西人としては寂しいですね。
大阪市の橋下市長が、大久保利通のように?「大阪都」構想をぶちあげていますが...果たしてどうなるんでしょうか?

京都の人は洛という文字が好きらしく、洛北(左京区や北区の北山周辺)・洛西(右京区や西京区の山麓部・嵯峨野など西山周辺)・洛南(伏見区や宇治方面)という地域をよく聞くのですが、洛東(東山区や山科方面)という呼び方は、個人的にはあまり聞きませんね。

京都の人との付き合いは、昭和39年に初就職の会社が京都市下京区市之町にあったので、大阪府羽曳野市から、近鉄南大阪線・国鉄の大阪環状線・京阪本線を利用して、毎日ではありませんが、1年半ほど通いました。勤務先や取引先の先輩の方々からプロの手解きをして頂きました。

ぼくが京都市内に通勤していた時期は、丁度、新幹線開業と東京オリンピックの年で、通勤に片道で2時間ほどは掛かっていたと思いますね。
京阪四条駅で淀屋橋行きの最終特急に乗れば、京阪京橋駅で下車して、国鉄大阪環状線の京橋駅に走って乗り継いで国鉄天王寺駅で下車し、また走って近鉄南大阪線の0時20分・あべの発古市行きの各停終電に間に合うのです。

その当時は、定期代にいくら掛かったのかは、全く憶えていませんが、客席車窓にガードを取り付けた1810系やガードを外した1900系の京阪特急にテレビーカー(モノクロのナショナル製)が京都寄りに連結されていました。座り心地の良い手動式の転換クロスシート車なのに、特急料金が不要で気に入りました。京橋駅を出ると七条駅まではノンストップ運転で、優越感に浸れましたね。

当時は、京都市内のタクシー運賃 (日産ブルーバードやトヨペット・コロナ) が2kmで70円(京都市) の時代でした。 出勤した日は、殆どは下京区市之町の河原町通り西側に面した、うどん・そば店の「いなり食堂」でよく昼食をとっていました。隣には、和定食や洋定食の「さくら食堂」が並んでいました。いなりうどん (大阪では、きつねうどんと呼びますが、京都では、甘く味付けした油揚げが短冊状に刻んである) が一杯、30円ぐらいだったと思いますね。その店は現在ありません。

京都では、きつねうどんや親子丼に、山椒を少し振り掛けて食べるのが大阪とは違いますね。大阪では七味か一味をパッパッと掛けるのが一般的です。
昨今では、大阪でも、きつねうどんが、800円以上もするお店があって驚いています。
近くのスーパーでは、関西風うどん出汁がワンパックで80円、国産大豆の油揚げが1枚80円、国産小麦のうどん一玉80円、パック入り刻みネギを半分使っても50円で、290円...。そこそこ美味しいので自分で作ってしまいます。ネギは7mmに刻んだものよりも、数本束になったものを買ってきて、調理するときに5cmぐらいにカットして、少し煮立てて使う方が、ネギの香りと美味しさが倍増します。

近鉄南大阪線沿線の自宅から京阪四条駅までの通勤定期があるので、20歳〜21歳にかけては、休日も京都に行って市バスや市電に乗って京都の名所見物もしました。
しかし、勤務先では、実写やアニメ撮影やネガ編集のアシスタントだったので、使い走りの雑用も多く、春と秋の観光シーズン以外は、休日は昼頃まで寝ていることが多かったです。

洛北と言えば、鞍馬寺や貴船神社、大原にある三千院や寂光院が観光スポットになります。
やはり、紅葉のシーズンがきれいですね。今から50年前の大原・寂光院の周辺は、茅葺きの古民家が多く残っていて、地上駅だった京阪三条のバスターミナルから京都バスに乗って、買ったばかりのNikon Fに50mm f2レンズを付けて写真を撮りにいった記憶があります。

当時は、国道367号線の宝ヶ池辺りまでは、舗装道路だったのですが、そこから大原三千院前までは砂利道でした。バスやトラックが走ると、国道に砂埃が巻き上がって、バスのリヤウィンドウから後ろが見えません。平日は一日に2便しかなく、大原でゆっくりしていられませんでした。
大原女 (おおはらめ) が燃料の柴を頭に乗せて、大原から歩いて出町へ行商に出掛けたと聞いてましたが、国道が砂利道で、晴天の日はバスやトラックの砂埃、雨天は、どろはね運転の被害などで止めたんだと思いますね。大阪府羽曳野市や松原市も昭和38年頃までは、砂利道の方が多かったんです。

今回のトップページには、2006年11月21日に、愛車を運転して鞍馬の紅葉を取材したものを掲載しました。 もちろん現在は、国道・府道・市道がアスファルト舗装され、交通標識やガードレールなどが整備され、路線バスの本数が増えていますが、洛北の大原三千院・鞍馬寺、洛西の清滝・高雄神護寺を周遊する時は、クルマで行った方が、バスの時刻表を心配しなくていいので安心です。

ぼくはまだ乗っていませんが、叡山電鉄(えいざん でんてつ:京福電鉄の経営から京阪電鉄の子会社) の出町青柳駅 (鯖街道の終着駅)〜 鞍馬駅まで、1997年から内装にモダンなアコモデーションを施した、叡電デオ900系展望列車「きらら」号が2両2編成(MT2両固定編成だが4両運転も可) が運転されていて、中々の人気者です。1998年に鉄道友の会よりローレル賞受賞の電車です。

叡電は標準軌 (1435mm) なので、同じゲージの京阪本線と出町柳の地下で線路を結べば、鞍馬〜淀屋橋まで直通運転が可能に見えますが、叡電は架線電圧が直流の600Vですし、叡電鞍馬線は急曲線や急勾配 (50パーミル) があって、架線電圧の違い、急曲線の改良、プラットホームの改良、50パーミルという急勾配の問題があって、鞍馬までの京阪特急の乗り入れは、現状では無理ですね。

さて、鞍馬寺に代々伝わる縁起資料によると、奈良時代に鑑真和上の高弟・鑑禎が宝亀元年(770年) 、鞍馬山に草庵を建て毘沙門天を安置したのが始まりとされ、平安遷都前には、山城国の北に鞍馬と呼ばれる霊山があったそうです。 鞍馬寺の寺領の中に「由岐神社」という小社(おやしろ)があって、毎年10月22日18:00〜10月23日2:00頃まで、真夜中に行われる松明を点けた御輿渡御の祭礼が「鞍馬の火祭」なんです。

ぼくは23:00まで取材しましたが、大阪の自宅に帰ったのは、10月23日の深夜1時半頃でした。 ま、鞍馬寺の火祭りは、2006年11月に、既に当サイトに掲載しましたので、もう8年も経っていますので、再掲載しました。 鞍馬は、鞍馬寺の門前町として栄え、近世までは若狭国の小浜藩(今の小浜市)と京の出町を結ぶ鯖街道の中継地としても発展し、参詣客の宿もあります。

現在では、鞍馬寺山門前から東へ15分ほど歩けば、天然硫黄温泉の「くらま温泉」という大きな旅館があり、11月中旬は松茸御飯に土瓶蒸しが出るみたいです。
若狭から京へ通じる「若狭鯖街道」には、数ルートがありますが、鞍馬街道も険しい花脊峠を迂回して大原と結ぶ鯖街道の一つで、冬の花脊峠越は路面凍結や30cmぐらいの積雪で四駆でも苦労します。

鞍馬付近では「山椒の実」が多く採れるらしく、これを醤油砂糖で甘辛く煮込んだ昆布と山椒の実を混ぜた木の芽煮が鞍馬の名産品になっています。とくに、「京くらま林」という店が作る「ちりめん山椒」がとても美味しく、これと「山椒こんぶ」、「椎茸こんぶ」を買いに、わざわざ大阪から鞍馬まで四、五回も通ったことがありますが、大丸京都店の地下の佃煮コーナーで販売されるようになってから、鞍馬まで行く必要がなくなりました。

「京くらま林」の佃煮は、最近になってネット通販で買えますが、鞍馬寺へ行ったついでに山門近くにある本店に行かれた方が良いでしょう。工場併設の店内は、お茶漬け御飯が食べたくなる佃煮の香りが漂っています。
また、鞍馬寺に向かう山門の右側に「雍州路 (ようしゅうじ:山城への道という意味 )」という精進料理専門のレストランがあって、和食好きでも、人によって食材や料理の好みは違いますが、普段は食べる機会が少ないメニューの「麦飯とろろ」がお奨めです。味は、精進料理なので、あっさり目ですが、北野天満宮東の上七軒郵便局前にある、うどん・そば店「ふた葉」の山掛け丼 (現在は、とろろは中止:ここの店は、親子丼がとても美味い) の方が好きですが。

京阪の大阪淀屋橋から鞍馬へ行くには、列車本数が多い京阪特急で出町柳まで55分+叡電(出町柳〜鞍馬まで29分) の利用が一番便利だと思いますが、JR京都駅からなら、地下鉄の烏丸線(からすま せん) で国際会議場まで行き、国際会議場前から鞍馬温泉行きの京都バスで行けば早く着きますが、鞍馬温泉行きの京都バスは30分間隔のダイヤのようです。

鞍馬に観光客が増えたのは、NHK製作の大河テレビドラマ「義経(よしつね:宮尾登美子原作、脚色は金子成人で、2005年1月9日〜12月11日まで、49 回放送され、関東地区の平均視聴率が19.4%)」の放送の効果のようです。放送が始まってから、「鞍馬」の知名度が上がって、他の都道府県や、海外から訪れる人が多くなったそうで、とくに、「鞍馬の火祭」が行われる夕方の鞍馬寺山門下の表参道一帯 (叡電の鞍馬駅から山門前までの鞍馬街道)は、見物客で鮨詰め状態になって、身動きできない状態になります。

夕方5時から京都府警の物物しい機動隊が大勢出動して、鮨詰め状態になった見物客の交通整理を行います。火祭りのテレビ取材や報道写真取材は山門前の食堂付近に集中し、ぼくもそこで場所取りをしていたんですが、祭の5分前になって、京都府警の機動隊員から強制退去させられました。火祭りの撮影許可書を持った報道関係者以外は、山門下で撮影の場所取りは出来ません。食堂や土産物屋さんの2階を半年前に予約しておけば、火祭りのクライマックスの写真が撮れるかも知れませんね。

鞍馬の火祭の由緒は、平安時代中期の天慶3年(940年)9月に、朱雀天皇の詔によって、鞍馬寺境内に京都御所 (大内裏) から遷宮された由岐神社 ( 御祭神に、大己貴命:おおむなちのみこと・少名彦命:すくなひこのみこと の二柱を祀る) の例祭で、還宮の際に、鞍馬の住民が葦を利用した篝火を灯して、神道具を運ぶ神職らの一行を迎えたという伝説を忘れないように再現したものです。

だから、鞍馬の火祭りと義経とは何の関係もないのですが、10月22日(桓武天皇が平安遷都を行った記念日) 当日の昼間は、平安神宮で「時代祭」が行われており、「時代祭+鞍馬の火祭」をワンセットに組んだバスツアーがあって、鞍馬は夕方からツアー客が加わって非常に混雑します。

鞍馬と関わりがある義経というのは、常盤御前 (ときわごぜん) が産んだ三名の男児で、三男は牛若丸と名付けられ、二人の兄 (今若と乙若) と一緒に、鞍馬寺で育った伝説があるからでしょう。
平安時代の後期に台頭した武家勢力の源氏と平氏...その河内源氏の嫡流を継ぐ源義朝に正室や側室、愛妾がいて(昔は一夫多妻制) 、今若・乙若・牛若の母である常盤御前が、夫・源義朝 (院政を主張する後白河法皇派) が、平清盛の官軍(親政を主張する二条天皇派)と戦った平治の乱で破れ、敗走した夫は、清盛の手下に謀殺されたんです。

平安時代の刑罰は、謀反を起こした夫の責任は、家族や幼い子供にまで及び、常盤の実母が平家の人質になったので、身分は低いが美貌の常盤御前は、平清盛に母の解放を懇願して、一時は敵将・清盛の妾になり、幼児三人の養育が出来なくなったので、義朝と常盤との遺児は、常盤の手を離れて鞍馬寺に預けられ、牛若は後に遮那王と名乗って、ここの天狗 (僧兵) から武術を習っていたからなんです。

源義朝と妾の常盤御前との間に生まれた三男は、義朝から見れば九男になり、「牛若→遮那王→義経」に名を変えていきます。この義経に扮したイケメンの滝沢秀明と、父は義朝で母が藤原季範(ふじわら の すえのり) の三女・由良御前との間に生まれた、三男の義兄の源頼朝 (中井貴一) との微妙な兄弟関係が、宮尾登美子原作の大河ドラマ「義経」で描かれています。

父と一緒に戦って平氏に敗れ、父と逃げ隠れた頼朝は途中で逸れて平氏に捕まり、父の源義朝が参戦した平治の乱の連帯責任で、斬首刑になるところを清盛の継母・池禅尼の嘆願で辛うじて死罪が免れ、辺境の蛭島 (伊豆) へ配流になったんです。これは、頼朝の実母・由良御前が熱田神宮大宮司の娘であったから。

頼朝と義経の二人の兄弟は、境遇は違っても、苦労して育ちますが、二人は立派な武士 (もののふ) に成長してから、戦場で運命的に出会います。義経の戦法は正攻法ではなく、奇襲を得意とし、合戦で手柄を立てた義経が頭角を現すと、頼朝は義弟を警戒するようになります。

私情をさしはさまない歴史観から見れば、源氏嫡流の統領を名乗る頼朝は、義弟の義経を上手く利用して、同族の政敵・従兄弟 (いとこ) になる木曾義仲を葬り、人質にとった跡継ぎの11歳になる義高も消し、武士 (もののふ) による質実剛健な政治を鎌倉で行おうとして、源平合戦で大手柄を立てた義経を特別扱いせず、他の部下と同列に扱って厳しく接しました。

しかし、数度の源平合戦で平氏を破って京の民衆から人気者になった義経はチヤホヤされ、大内裏でもVIP待遇で、京の貴族文化の華やかさを存分に享受し、頼朝が堅く禁じていた、自分の部下が天皇 (後白河法皇) から直接任官されることを堅く禁じていたのですが、義経は、法皇から検非違使 (けびいし:天皇を警護する役職) を任官されました。
後白河法皇は、日増しに勢いづく鎌倉の頼朝を怖れ、合戦巧者の義経を朝廷側の味方に置いて、兄弟を分断させて、機が熟せば「院宣」を下して、頼朝を討つ思惑もあったわけです。

頼朝は部下の義経が、自分の承諾無しに後白河法皇からの検非違使任官を受諾し、御所清涼殿での昇殿が許される官位 (五位) を得たことに怒って、義経の鎌倉凱旋入りを許さなかったのです。
やがて二人は犬猿の仲に...。
頼朝は、鎌倉幕府を開くのに厄介者になった義経を逆臣征討を口実にして、義経の所領を没収し、追っ手を差し向け、全国に守護地頭を配置し、貴族の特権である荘園を鎌倉幕府の公領として合法的に収奪していったんです。
ま、今で譬えれば、ロシア国益の為にという口実で、オリガルヒ(ロシアの新興財閥)を追放したウラジミール・プーチンのようなやり方ですね。
日本の政治家も頼朝みたいな、先を読んで手が打てる、ピリッとしたキャラの人が必要でしょ。

歌舞伎の芝居で「勧進帳 (三代目・並木五瓶作)」を劇場で見ましたが、主役は義経ではなく、安宅の関守・富樫左衛門から主君の義経を機転を利かして救うのが「武蔵坊弁慶」の名芝居ですし、弁慶のウソを見破りながらも、通関を許す関守の富樫に、頼朝の冷酷さも少しは救われた気がしますね。

鞍馬の火祭の写真取材:2006年10月22日
鞍馬と貴船の紅葉取材:2006年11月21日
洛北の秋と鞍馬の火祭:初稿掲載:2006年11月28日
写真と記事更新:2014年11月10日 尾林 正利

写真と記事の無断転載を禁じます。尾林 正利

 
 
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