春間近...
前回1月号のトップページは、奈良県五條市大津町 (おおづちょう) の念仏寺陀々堂で行われた「鬼はしり」の行事を載せましたが、今回は早春に相応しく、「梅」をテーマにしました。
日本国内の露地栽培で早春に咲く花は、寒椿、水仙、菜の花が挙げられますが、真冬でも温暖な気候の南紀白浜に近い南部梅林
(みなべばいりん) では、「南高梅 (正式には、なんこううめ)」の植樹が有名で、近畿地方では梅の開花が一番早く、毎年2月初旬に開花します。
2008年2月の話になりますが、取材先へ電話すると、「2008年の1月下旬は天候不順で、日照時間が不足して開花が1週間も遅れている...」とのお話だったので、一週間ほど撮影の予定を遅らせ、天気予報で晴れの日になっていた、2月15日にしました。
南部へは、仕事で2回 (1993年2月12日、2008年2月15日)も写真取材に行きました。1993年の時は、広報誌掲載の仕事だったので、35mmの一眼レフでもOKだったのですが、見栄張って6×6判のハッセルブラッド500ELXにツアイス製のディスタゴン40mmを付けで撮影し、撮ったカラーフィルムを全部納品したので手許にはありません。そこで、自分用に原板を持っておきたいので、自分で計画を立てて、別の果樹園を探して再取材に行きました。大阪から田辺まで高速道路が開通して、大阪市平野区に隣接した松原JCからみなべ町に1時間半ぐらいで着いて、目の前に満開の梅の花が咲く光景を見ると、気分が良いですね。
南部梅林の梅は、花の種類を観賞する「花梅 (はなうめ) 」ではなく、梅干し用や梅酒用の「実梅
(みうめ)」を収穫するのが目的なんです。
ここの梅林は、晩稲(おしね) と呼ばれるの丘陵地帯にあって、南部湾からの潮風が吹いて、梅の栽培に向いているのでしょう。
前回は専業農家の果園で、ライターさんと一緒でしたが、今回はぼく一人の取材です。先方さんに撮影許可を取って、梅林の中や、室内の梅干し製造工程を取材させて頂きました。
2008年2月15日に取材させて頂いた紀州高田果園さんでは、広い果樹園の中に養蜂業者が置いた巣箱が所々にあって、蜜蜂で受粉させていました。
梅の実は、開花から4カ月後ぐらいに成熟し、一定以上に熟すと自然に落果しますが、強風などに遇うと未成熟のままでも落果します。
梅園には収穫1カ月前に集果用の保護ネットを果樹園に張り巡らし、保護ネットに落ちた青梅を手作業で拾って集めるそうです。
本格的な集果作業は、梅雨入り前の凡そ、6月10日過ぎごろからのようです。
樹の幹や枝を揺らして人為的に実を落とすのは禁じられています。
青梅には出荷基準があって等級別に仕分けられるそうです。
南高梅のような大梅の場合は、
4L・ 果径(実の直径)が4.5cm以上。平均的な実の重さが45グラム。
3L・果径4.1〜4.5cm未満。実の重さ35グラム。
2L・果径3.7〜4.1cm未満。実の重さ25グラム。
L・果径3.3〜3.7cm未満。実の重さ20グラム。
M・果径3.0〜3.3cm未満。実の重さ15グラム。
S・果径2.7〜3.0cm未満。実の重さ10グラム。
というようになっていますが、生梅が梅干しになると、実が縮んで軽くなるので、例えば青梅の4Lと梅干しの4Lでは、果径と重さは異なります。これはサイズによる等級ですが、青梅(あおうめ)の表皮に異常が無いものはAランク、ワケありのものはBランクになるそうです。梅干しの場合は、高級品でも皮が切れたものは、商品価値が下がって、おにぎりなどに使われます。
さて、2008年の取材では、紀州高田果園さんの露地の梅園だけでなく、ビニールハウスの梅干し乾燥工程や工場内での梅干し加工も取材させて戴きました。
加工工場を撮影する前に、当日は梅干しをビニールハウス内で干していると訊いて驚いてしまいました。
というのは、梅干しは土用の三日干しといって、7月下旬の土用の頃に三日三晩の間、梅干しの表と裏(両面)を天日干しにする作業があって、夏以外の時期に梅を干すなんて、素人のぼくは全く想像もしていなかったからです。
この天日干しした梅は「白干し」といって、再び樽や壷に入れて涼しい場所に保存しておくと、白干し梅が自然に熟成して、3カ月後ぐらいには梅酢がジワーッと滲み出してきて美味しく食べられるようになるそうなんです。
このような梅を一時加工品と言うらしいです。
だから、梅干しの出荷時期は、天日干しした梅干しが食べられるようになる10月中旬が最盛期になるわけですが、流通在庫を考えずに多量に出荷し過ぎると、商品が市場にだぶついて一時的に価格が下がってしまうので、梅干し価格の安定維持のため、需給のバランスを考えて出荷する必要があるのです。
冬に梅を干すというのは、いつでも出荷できる体制で梅干しを生産しているということでした。
現在では梅干しの需要を増やすために、一時加工品を応用した、様々な種類の梅干しが生産されているようです。
二次加工品とは、一旦白干しして熟成させた梅干しを洗って、用途に応じて再び漬け直し、同じような行程を繰り返す梅干しのことらしいです。
この技術のお陰で、春夏秋冬に梅干しが食べられるようになっています。
二次加工の梅干しの方が、塩分の角がとれて味は少しマイルドになるそうです。
ビニールハウス内で梅干しを干すのは、直射日光が軟らかく拡散して、じわじわと乾燥し、乾きすぎないというメリットがあり、さらに、急な雨や黄砂・スギ花粉などのホコリにも掛からなくするためです。
外は寒いのに、ビニールハウスの中に入ると、暖房もしていないのにかなり暖かかったですね。
古典落語「初天神」でわかる京都の花街
さて、上七軒の料理屋さんでぶら下がっている提灯のシンボルに「五つ団子(御手洗団子:みたらしだんご)」の紋章は、上七軒花柳界のシンボルです。お茶屋さんの軒先にぶら下がった提灯が灯っていたら、営業中のサインです。
上七軒の由来は、室町時代に北野天満宮の社殿が一部焼けて(応仁の乱か?)、室町幕府の命令で再建したときに、余った木材で北野天満宮東門前の松林の傍に7軒の茶屋を建て、参詣者の休憩所にしたところ、どの茶屋も繁昌して「七軒茶家」といわれるようになったそうです。
その後、太閤になった豊臣秀吉が、天正15年(1587年)に、北野で大茶会を開催し、太閤も七軒茶屋を休憩所にして、七軒茶屋名物の「御手洗団子(みたらしだんご)」を茶屋から献上されたところ、気に入られて、七軒茶屋で御手洗団子を商う特権と、山城
(やましろ:平安京とその周辺)での法会茶屋株の公許が出たそうです。七軒茶屋が「上七軒」になったワケは、お上の許しが出た七軒(茶屋)ということなんでしょうね。
古典落語に、大阪天満宮や北野天満宮、東京の湯島天神を題材にした「初天神(はつてんじん)」という噺(はなし)の中にも、上七軒名物の「みたらし団子」が出てきます。
落語の「初天神」の原本は、江戸時代に作られたそうで、大坂版、京版、江戸版があり、上方と江戸では、噺の内容が少し違っており、落語家によって地元用に脚色されている部分もあります。
京都の寄席で噺家が「初天神」を演じる時は、北野天満宮の縁日の様子が語られます。
女房に内緒で、お茶屋で遊びたい親父が、初天神のお詣りへ行くという口実で、羽織を着込んでそわそわと出掛けようとしたところ...
お母はん:「また、あんた、羽織着て、どこ行くつもりや?」
お父はん:「どこって? お前、 今日、何日やと思てんねん」
お母はん:「今日って、・・・1月25日やないかいな」
お父はん:「ほれ、みてみい、今日は初天神の日じゃ。わし、これからな、お参りに行てくんねん」
お母はん:「まぁ、さよか。ご信心の篤いこと...どうぞ、どうぞ、止(と) めしまへん。行っといなはれ。
その代わりにな、もうすぐ寅やんが帰ってきますさかい、あの子、一緒に連れて行ったげなはれ」と頼まれたので、おとっつあんは、渋々息子の寅坊を連れて北野天満宮へ向かいます。
初天神(1月25日)には参詣者が多いので、鳥居をくぐった表参道には、食べ物やオモチャを売っている露店がぎょーさん(沢山)並んでいます。
子供は、露店で売っている物を欲しがります。 親父の下心を見抜いている寅坊は、親父がお茶屋へ行く前にお金を使わせようと、
寅坊:「お父ちゃん、今日は黙って付いて行くさかい、そのご褒美にリンゴ買(こ)うて」
お父はん:「また、これや。アカン。リンゴが歯に挟まって虫歯になる」
寅坊:「ほなら、ミカン買うて」
お父はん:「アカン。ミカンの皮が胃に引っ掛かって消化に悪い」
寅坊:「そんな、食うたら体に悪いもん売ってるなんて、警察はなんで取り締まれへんのやろか?あっこの、お巡りはんに訊いてみたろ?」
お父はん:「こらこら、寅っ、行くなって。ホンマに、お前は、しゃーない奴やなぁ」。
寅坊:「あんなぁーお父ちゃん、こないだ、きれいなお姉ちゃんのいてはるとこへ行ってたんを、チラッと見たんやけど...、
みたらし団子買うてくれたら、お母ちゃんには黙ってたるで」
息子に弱みを握られた親父が、天神さんの露店で、みたらし団子を買い、酒代を取り崩して、露店の売り物で一番高い大凧を買わされる羽目になってしまいます。・・・噺はこれで終わりとちゃいまっせ・・・。
北野上七軒は、京都の伝統的な和装(着物)産業である「西陣織(にしじんおり)」の染色や織物工房が多く集まっている地域にできた花街です。
上七軒は、大店(おおだな)の旦那衆が遊ぶ高級な甲部花街(こうぶ
かがい)ですが、今出川通「上七軒交差点」から七本松通りを15分ほど下がる(南へ進む)と、水上勉の小説「五番町夕霧楼」の舞台になった、職人や町人たちが遊ぶ、大衆的な乙部花街(おつぶ
かがい:遊郭)に着きます。落語の「初天神」に登場する親子は町人ですので、敷居の高い上七軒では遊べません。
天満宮へのお参りを口実にして、本音は天満宮の近くにある千本の歓楽街で遊びたい人も多かったのでしょうね。今でもやってるかって?そこまでは、知りまへんがな。
右大臣の菅原道真(すがわら の
みちざね)が、天神さんという神様になられたワケは?
ところで、北野天満宮は、元は平安京の一条大路から北に外れた北野天神社でした。菅公
(かんこう:菅原道真:845年〜903年) が生まれる前から、畿内には天神信仰があって、天神社が建てられておりました。
平安時代の「天神」というのは、菅公とは関係がなく、自然神 (天神地祇:てんじんちぎ)
の天の神様を祀るお社であったらしく、昨今は気象衛星や気象庁のドップラーレーダーで、台風の進路予報や降雨予報が正確に出せますが、平安時代には、気象科学の知識が全くありませんから、運を天に任すしかなく、旱魃(かんばつ:夏期の日照り)
になると神職さんが祭壇を設置し、幣(ぬさ:神の憑代になるもの)を振って祈雨の願いを朗誦し、巫女が踊って「雨乞い」の儀式を天神社や御所の清涼殿でやっていたワケです。
雷が近くで鳴ると、数分後には、涼しい風が吹いて雨が降りますので、雷(かみなり)=「神鳴り」といって、天神様は、農民にとって有難い神様だったのです。
平安時代の897年、宇多天皇は30歳の時に、長男の淳仁親王(12歳)に譲位して上皇になり、信仰の篤い仁和寺(にんなじ:世界文化遺産に指定)に入って法皇になり、院としての政治的影響力を持ち続けました。
僅か12歳で元服し、同年に践祚 (せんそ) して即位した淳仁親王は醍醐天皇(延喜帝)になられました。
治世に経験の浅い天皇を補佐するために、父の宇多上皇の強い薦めで、右大臣には、文章博士(もんじょうはかせ)の菅原道真(すがわらのみちざね)が抜擢されて就任し、左大臣には、関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)の長男・藤原時平(ふじわらのときひら)が父のポストを引き継いで就任しました。
因みに平安時代の地位の序列は、天皇(太政兼務)、左大臣(正一位)、右大臣(正二位)、大納言、中納言・・・という序列になりますので、右大臣の菅公(56歳)より26歳年下の藤原時平が左大臣(30歳)に、40歳年下の醍醐天皇(16歳)という内閣で政治が行われたワケです。歳が離れすぎ...。
天皇であっても、16歳の男子と言えば反抗期なので、父の宇多上皇が延喜帝の政治に干渉するのには、ご不興だったようです。
自分から40も歳の離れた、親父の息が掛かった菅公よりも、14歳しか離れていない藤原時平に頼るのは当然ですね。
醍醐天皇には、弟に斉世親王(ときよ しんのう)がおられました。菅原道真は、長女・衍子(えんし、ひろこ)を宇多天皇の女御として入内させ、宇多天皇第三皇子の斉世親王に三女「寧子」を嫁がせて皇室の外戚になり、道真は宇多上皇の信頼が大変厚いところから、左大臣の藤原時平は、上皇と菅家の強い絆を不快に思ったそうです。
上皇と菅家の強い絆を不快に思った...一般的に書かれているのですが、実は、右大臣の菅原道真は、あっちのほうにも達者で、男の鑑と言うべき老女とでも性愛がOKな在原業平(ありわら
の なりひら)と親交があったそうで、業平・道真は、平安時代屈指のプレイボーイだったんです。
平成の"男女同権の時代"から考えると、妻帯者なのにプレイボーイっておかしな話しなんですが、平安時代の天皇や貴族は、紫式部が書いた源氏物語によると、天皇は後宮の○○殿に住む中宮や女御が正室になり、○○舎にすむ更衣や尚侍(ないしのかみ:つぼね、局=天皇を補佐する女官)を側室とした「一夫多妻」にすることが公認されていて、貴族も正室・側室・妾を妻にすることが許され、遊女(あそびめ)と遊ぶのも許されていましたから、菅公は学問ができて地位が高く、女性には優しくて大もて...そら、度が過ぎると、ライバルの左大臣から妬まれますね。
菅公は正室との子供が2名ですが、生母不明の子供が13名もいたそうです。それが降格人事で、収入激減・・・今なら裁判の費用と養育費がたいへんですね。
正室の長男・菅原高視 (すがわらのたかみ)の家系が菅家を引き継いでいます。
そういう方でも、神様になられるって、不思議な気がします。それには、理由があったんです。
藤原北家(ふじわら ほっけ:摂関家の血筋)の藤原時平が菅家追放の陰謀を企て、醍醐天皇に讒訴(※ざんそ:事実でないことを語って、人を陥れる)したので、「右大臣は上皇と結託して、斉世親王を皇位に付けようとしているのでは......」を聞かされた当時16歳の醍醐天皇は怖れ驚き、弟が皇位に就く可能性はゼロではないので、道真は醍醐天皇から信用を失って、謀反の罪を着せられてしまいました。
昌泰4年(901年)の人事異動「昌泰の変」で、56歳の管公は従二位右大臣を解任されて、閑職の太宰権帥(だざいのごんのそち:地方の副官)を命じられたのです。
管公の家族 (長男の菅原高視)や弟子たちも、連帯責任を負って流罪(るざい)になり、貴族の地位から降格させられて、平安京から遠く離れた地方官の任務に就きました。それだけでなく、醍醐天皇の弟・斉世親王も御所から追放されて出家され、上皇も一時は内裏への出入りを禁止されたのでした。
太宰府左遷から2年後に、管公は失意のうちに薨去(こうきょ)されました。58歳でした。
ここから良くないことが京で次々に起こります。先ず、菅公の薨去から6年後に、政敵であった左大臣・藤原時平が39歳で病死したのです。
醍醐天皇は驚かれて、菅公の祟りを宥めるため、菅公の復位と流刑にした家族の帰京を赦しましたが、その後、加茂川の氾濫で疫病が発生し、町衆に多数の死者が出たり、醍醐天皇の皇太子・保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで夭折し、保明親王の王子・慶頼王(やすよりおう)も5歳で夭折したり、不幸が続いたのです。
極めつけは、御所・清涼殿での落雷事件で、時平の陰謀に加担した大納言の藤原清貫が雷に打たれて死亡、醍醐天皇はショックで病床に臥され回復されることなく崩御されました。
これら出来事は、政敵の陰謀によって左遷された管公の怨霊(おんりょう)が「雷神=天神」になって現れたとして、平安宮の高官たちから菅公の怨霊の祟りが怖れられました。
京には、政敵の陰謀で非業の死を遂げた「怨霊」を宥める御霊信仰が始まっており、平安京の右京七条に住む霊能を持った「丹治比文子(たじひ
あやこ)」という少女らに託宣(たくせん:神のお告げ)があって、その託宣に基づいて、道真の怨霊を鎮めるために村上天皇が北野の現在地に道真を祀る社殿が造営されたそうです。
こうして、北野天神社では、自然神の天神様と人格神の菅公の御霊を宥める二柱が御祭神に祀られることになり、北野天神社が平安京の北隣に接していたので、参拝客が多く、平安京の人々は、祈雨を願う天神さんよりも、菅公は「文章博士(もんじょうはかせ)」だったので、漢文の権威者ということで、学問の神様として慕われ、987年(永延元年)
に、一条天皇から「北野天満宮天神」の神号が贈られたのです。現在は「天神」を外しています。
本来は農耕者が祈雨や豊作を願うのが天神信仰の始まりなのですが、現在の天神信仰では、天神社に道真の御霊を合祀したので、時代の流れと共に、菅公の怨霊を宥めるために祈ることよりも、管公が優れた漢文学者でもあったので、御利益を優先して学業の神様として尊崇されるようになっています。
北野天満宮の社伝によりますと、現在の本殿は豊臣秀頼が父の遺志を引き継いで、慶長12年(1607年)に完成させたと書かれています。
どこの天満宮でも梅の木が多いのは、御祭神の天神様(菅原道真公)が、梅の花をこよなく愛でていたことにに由来します。
拾違和歌集に、
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」と詠まれています。
ところで、北野天満宮のご関係者にお聞きしますと、2010年の梅花祭(2月25日)は、梅が満開で珍しいそうです。
例年なら梅花祭の頃はまだ寒くて、梅が五分咲きだと仰られてました。
ぼくの写真スタジオはこの取材から9年前(2001年)まで、大阪市北区天満にあって、大阪天満宮の梅が満開になる頃は、土曜日のお昼下がりに境内で梅を見ながら、缶ビールを片手に、たこ焼きをよく頬張ったものです。2010年は、北野天満宮へ行って、満開の梅を楽しませて頂きました。
菅公が左遷された、北九州の太宰府って、どんなとこか、かなり気になって、2000年(平成12年) 9月2日に、撮影取材に行った博多出張のついでに繁華街の天神で一泊して、天神で美味しい魚貝料理を食べ、翌朝に西鉄福岡駅から大牟田行きの特急電車
(特急券不要) に乗って14分、西鉄二日市で乗り換えて、太宰府駅まで行きました。太宰府天満宮も、境内に樹木が多く、なかなか良か所でしたね。
春間近...
前回1月号のトップページは、奈良県五條市大津町 (おおづちょう) の念仏寺陀々堂で行われた「鬼はしり」の行事を載せましたが、今回は早春に相応しく、「梅」をテーマにしました。
日本国内の露地栽培で早春に咲く花は、寒椿、水仙、菜の花が挙げられますが、真冬でも温暖な気候の南紀白浜に近い南部梅林
(みなべばいりん) では、「南高梅 (正式には、なんこううめ)」の植樹が有名で、近畿地方では梅の開花が一番早く、毎年2月初旬に開花します。
2008年2月の話になりますが、取材先へ電話すると、「2008年の1月下旬は天候不順で、日照時間が不足して開花が1週間も遅れている...」とのお話だったので、一週間ほど撮影の予定を遅らせ、天気予報で晴れの日になっていた、2月15日にしました。
南部へは、仕事で2回 (1993年2月12日、2008年2月15日)も写真取材に行きました。1993年の時は、広報誌掲載の仕事だったので、35mmの一眼レフでもOKだったのですが、見栄張って6×6判のハッセルブラッド500ELXにツアイス製のディスタゴン40mmを付けで撮影し、撮ったカラーフィルムを全部納品したので手許にはありません。そこで、自分用に原板を持っておきたいので、自分で計画を立てて、別の果樹園を探して再取材に行きました。大阪から田辺まで高速道路が開通して、大阪市平野区に隣接した松原JCからみなべ町に1時間半ぐらいで着いて、目の前に満開の梅の花が咲く光景を見ると、気分が良いですね。
南部梅林の梅は、花の種類を観賞する「花梅 (はなうめ) 」ではなく、梅干し用や梅酒用の「実梅
(みうめ)」を収穫するのが目的なんです。
ここの梅林は、晩稲(おしね) と呼ばれるの丘陵地帯にあって、南部湾からの潮風が吹いて、梅の栽培に向いているのでしょう。
前回は専業農家の果園で、ライターさんと一緒でしたが、今回はぼく一人の取材です。先方さんに撮影許可を取って、梅林の中や、室内の梅干し製造工程を取材させて頂きました。
2008年2月15日に取材させて頂いた紀州高田果園さんでは、広い果樹園の中に養蜂業者が置いた巣箱が所々にあって、蜜蜂で受粉させていました。
梅の実は、開花から4カ月後ぐらいに成熟し、一定以上に熟すと自然に落果しますが、強風などに遇うと未成熟のままでも落果します。
梅園には収穫1カ月前に集果用の保護ネットを果樹園に張り巡らし、保護ネットに落ちた青梅を手作業で拾って集めるそうです。
本格的な集果作業は、梅雨入り前の凡そ、6月10日過ぎごろからのようです。
樹の幹や枝を揺らして人為的に実を落とすのは禁じられています。
青梅には出荷基準があって等級別に仕分けられるそうです。
南高梅のような大梅の場合は、
4L・ 果径(実の直径)が4.5cm以上。平均的な実の重さが45グラム。
3L・果径4.1〜4.5cm未満。実の重さ35グラム。
2L・果径3.7〜4.1cm未満。実の重さ25グラム。
L・果径3.3〜3.7cm未満。実の重さ20グラム。
M・果径3.0〜3.3cm未満。実の重さ15グラム。
S・果径2.7〜3.0cm未満。実の重さ10グラム。
というようになっていますが、生梅が梅干しになると、実が縮んで軽くなるので、例えば青梅の4Lと梅干しの4Lでは、果径と重さは異なります。これはサイズによる等級ですが、青梅(あおうめ)の表皮に異常が無いものはAランク、ワケありのものはBランクになるそうです。梅干しの場合は、高級品でも皮が切れたものは、商品価値が下がって、おにぎりなどに使われます。
さて、2008年の取材では、紀州高田果園さんの露地の梅園だけでなく、ビニールハウスの梅干し乾燥工程や工場内での梅干し加工も取材させて戴きました。
加工工場を撮影する前に、当日は梅干しをビニールハウス内で干していると訊いて驚いてしまいました。
というのは、梅干しは土用の三日干しといって、7月下旬の土用の頃に三日三晩の間、梅干しの表と裏(両面)を天日干しにする作業があって、夏以外の時期に梅を干すなんて、素人のぼくは全く想像もしていなかったからです。
この天日干しした梅は「白干し」といって、再び樽や壷に入れて涼しい場所に保存しておくと、白干し梅が自然に熟成して、3カ月後ぐらいには梅酢がジワーッと滲み出してきて美味しく食べられるようになるそうなんです。
このような梅を一時加工品と言うらしいです。
だから、梅干しの出荷時期は、天日干しした梅干しが食べられるようになる10月中旬が最盛期になるわけですが、流通在庫を考えずに多量に出荷し過ぎると、商品が市場にだぶついて一時的に価格が下がってしまうので、梅干し価格の安定維持のため、需給のバランスを考えて出荷する必要があるのです。
冬に梅を干すというのは、いつでも出荷できる体制で梅干しを生産しているということでした。
現在では梅干しの需要を増やすために、一時加工品を応用した、様々な種類の梅干しが生産されているようです。
二次加工品とは、一旦白干しして熟成させた梅干しを洗って、用途に応じて再び漬け直し、同じような行程を繰り返す梅干しのことらしいです。
この技術のお陰で、春夏秋冬に梅干しが食べられるようになっています。
二次加工の梅干しの方が、塩分の角がとれて味は少しマイルドになるそうです。
ビニールハウス内で梅干しを干すのは、直射日光が軟らかく拡散して、じわじわと乾燥し、乾きすぎないというメリットがあり、さらに、急な雨や黄砂・スギ花粉などのホコリにも掛からなくするためです。
外は寒いのに、ビニールハウスの中に入ると、暖房もしていないのにかなり暖かかったですね。
古典落語「初天神」でわかる京都の花街
さて、上七軒の料理屋さんでぶら下がっている提灯のシンボルに「五つ団子(御手洗団子:みたらしだんご)」の紋章は、上七軒花柳界のシンボルです。お茶屋さんの軒先にぶら下がった提灯が灯っていたら、営業中のサインです。
上七軒の由来は、室町時代に北野天満宮の社殿が一部焼けて(応仁の乱か?)、室町幕府の命令で再建したときに、余った木材で北野天満宮東門前の松林の傍に7軒の茶屋を建て、参詣者の休憩所にしたところ、どの茶屋も繁昌して「七軒茶家」といわれるようになったそうです。
その後、太閤になった豊臣秀吉が、天正15年(1587年)に、北野で大茶会を開催し、太閤も七軒茶屋を休憩所にして、七軒茶屋名物の「御手洗団子(みたらしだんご)」を茶屋から献上されたところ、気に入られて、七軒茶屋で御手洗団子を商う特権と、山城
(やましろ:平安京とその周辺)での法会茶屋株の公許が出たそうです。七軒茶屋が「上七軒」になったワケは、お上の許しが出た七軒(茶屋)ということなんでしょうね。
古典落語に、大阪天満宮や北野天満宮、東京の湯島天神を題材にした「初天神(はつてんじん)」という噺(はなし)の中にも、上七軒名物の「みたらし団子」が出てきます。
落語の「初天神」の原本は、江戸時代に作られたそうで、大坂版、京版、江戸版があり、上方と江戸では、噺の内容が少し違っており、落語家によって地元用に脚色されている部分もあります。
京都の寄席で噺家が「初天神」を演じる時は、北野天満宮の縁日の様子が語られます。
女房に内緒で、お茶屋で遊びたい親父が、初天神のお詣りへ行くという口実で、羽織を着込んでそわそわと出掛けようとしたところ...
お母はん:「また、あんた、羽織着て、どこ行くつもりや?」
お父はん:「どこって? お前、 今日、何日やと思てんねん」
お母はん:「今日って、・・・1月25日やないかいな」
お父はん:「ほれ、みてみい、今日は初天神の日じゃ。わし、これからな、お参りに行てくんねん」
お母はん:「まぁ、さよか。ご信心の篤いこと...どうぞ、どうぞ、止(と) めしまへん。行っといなはれ。
その代わりにな、もうすぐ寅やんが帰ってきますさかい、あの子、一緒に連れて行ったげなはれ」と頼まれたので、おとっつあんは、渋々息子の寅坊を連れて北野天満宮へ向かいます。
初天神(1月25日)には参詣者が多いので、鳥居をくぐった表参道には、食べ物やオモチャを売っている露店がぎょーさん(沢山)並んでいます。
子供は、露店で売っている物を欲しがります。 親父の下心を見抜いている寅坊は、親父がお茶屋へ行く前にお金を使わせようと、
寅坊:「お父ちゃん、今日は黙って付いて行くさかい、そのご褒美にリンゴ買(こ)うて」
お父はん:「また、これや。アカン。リンゴが歯に挟まって虫歯になる」
寅坊:「ほなら、ミカン買うて」
お父はん:「アカン。ミカンの皮が胃に引っ掛かって消化に悪い」
寅坊:「そんな、食うたら体に悪いもん売ってるなんて、警察はなんで取り締まれへんのやろか?あっこの、お巡りはんに訊いてみたろ?」
お父はん:「こらこら、寅っ、行くなって。ホンマに、お前は、しゃーない奴やなぁ」。
寅坊:「あんなぁーお父ちゃん、こないだ、きれいなお姉ちゃんのいてはるとこへ行ってたんを、チラッと見たんやけど...、
みたらし団子買うてくれたら、お母ちゃんには黙ってたるで」
息子に弱みを握られた親父が、天神さんの露店で、みたらし団子を買い、酒代を取り崩して、露店の売り物で一番高い大凧を買わされる羽目になってしまいます。・・・噺はこれで終わりとちゃいまっせ・・・。
北野上七軒は、京都の伝統的な和装(着物)産業である「西陣織(にしじんおり)」の染色や織物工房が多く集まっている地域にできた花街です。
上七軒は、大店(おおだな)の旦那衆が遊ぶ高級な甲部花街(こうぶ
かがい)ですが、今出川通「上七軒交差点」から七本松通りを15分ほど下がる(南へ進む)と、水上勉の小説「五番町夕霧楼」の舞台になった、職人や町人たちが遊ぶ、大衆的な乙部花街(おつぶ
かがい:遊郭)に着きます。落語の「初天神」に登場する親子は町人ですので、敷居の高い上七軒では遊べません。
天満宮へのお参りを口実にして、本音は天満宮の近くにある千本の歓楽街で遊びたい人も多かったのでしょうね。今でもやってるかって?そこまでは、知りまへんがな。
右大臣の菅原道真(すがわら の
みちざね)が、天神さんという神様になられたワケは?
ところで、北野天満宮は、元は平安京の一条大路から北に外れた北野天神社でした。菅公
(かんこう:菅原道真:845年〜903年) が生まれる前から、畿内には天神信仰があって、天神社が建てられておりました。
平安時代の「天神」というのは、菅公とは関係がなく、自然神 (天神地祇:てんじんちぎ)
の天の神様を祀るお社であったらしく、昨今は気象衛星や気象庁のドップラーレーダーで、台風の進路予報や降雨予報が正確に出せますが、平安時代には、気象科学の知識が全くありませんから、運を天に任すしかなく、旱魃(かんばつ:夏期の日照り)
になると神職さんが祭壇を設置し、幣(ぬさ:神の憑代になるもの)を振って祈雨の願いを朗誦し、巫女が踊って「雨乞い」の儀式を天神社や御所の清涼殿でやっていたワケです。
雷が近くで鳴ると、数分後には、涼しい風が吹いて雨が降りますので、雷(かみなり)=「神鳴り」といって、天神様は、農民にとって有難い神様だったのです。
平安時代の897年、宇多天皇は30歳の時に、長男の淳仁親王(12歳)に譲位して上皇になり、信仰の篤い仁和寺(にんなじ:世界文化遺産に指定)に入って法皇になり、院としての政治的影響力を持ち続けました。
僅か12歳で元服し、同年に践祚 (せんそ) して即位した淳仁親王は醍醐天皇(延喜帝)になられました。
治世に経験の浅い天皇を補佐するために、父の宇多上皇の強い薦めで、右大臣には、文章博士(もんじょうはかせ)の菅原道真(すがわらのみちざね)が抜擢されて就任し、左大臣には、関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)の長男・藤原時平(ふじわらのときひら)が父のポストを引き継いで就任しました。
因みに平安時代の地位の序列は、天皇(太政兼務)、左大臣(正一位)、右大臣(正二位)、大納言、中納言・・・という序列になりますので、右大臣の菅公(56歳)より26歳年下の藤原時平が左大臣(30歳)に、40歳年下の醍醐天皇(16歳)という内閣で政治が行われたワケです。歳が離れすぎ...。
天皇であっても、16歳の男子と言えば反抗期なので、父の宇多上皇が延喜帝の政治に干渉するのには、ご不興だったようです。
自分から40も歳の離れた、親父の息が掛かった菅公よりも、14歳しか離れていない藤原時平に頼るのは当然ですね。
醍醐天皇には、弟に斉世親王(ときよ しんのう)がおられました。菅原道真は、長女・衍子(えんし、ひろこ)を宇多天皇の女御として入内させ、宇多天皇第三皇子の斉世親王に三女「寧子」を嫁がせて皇室の外戚になり、道真は宇多上皇の信頼が大変厚いところから、左大臣の藤原時平は、上皇と菅家の強い絆を不快に思ったそうです。
上皇と菅家の強い絆を不快に思った...一般的に書かれているのですが、実は、右大臣の菅原道真は、あっちのほうにも達者で、男の鑑と言うべき老女とでも性愛がOKな在原業平(ありわら
の なりひら)と親交があったそうで、業平・道真は、平安時代屈指のプレイボーイだったんです。
平成の"男女同権の時代"から考えると、妻帯者なのにプレイボーイっておかしな話しなんですが、平安時代の天皇や貴族は、紫式部が書いた源氏物語によると、天皇は後宮の○○殿に住む中宮や女御が正室になり、○○舎にすむ更衣や尚侍(ないしのかみ:つぼね、局=天皇を補佐する女官)を側室とした「一夫多妻」にすることが公認されていて、貴族も正室・側室・妾を妻にすることが許され、遊女(あそびめ)と遊ぶのも許されていましたから、菅公は学問ができて地位が高く、女性には優しくて大もて...そら、度が過ぎると、ライバルの左大臣から妬まれますね。
菅公は正室との子供が2名ですが、生母不明の子供が13名もいたそうです。それが降格人事で、収入激減・・・今なら裁判の費用と養育費がたいへんですね。
正室の長男・菅原高視 (すがわらのたかみ)の家系が菅家を引き継いでいます。
そういう方でも、神様になられるって、不思議な気がします。それには、理由があったんです。
藤原北家(ふじわら ほっけ:摂関家の血筋)の藤原時平が菅家追放の陰謀を企て、醍醐天皇に讒訴(※ざんそ:事実でないことを語って、人を陥れる)したので、「右大臣は上皇と結託して、斉世親王を皇位に付けようとしているのでは......」を聞かされた当時16歳の醍醐天皇は怖れ驚き、弟が皇位に就く可能性はゼロではないので、道真は醍醐天皇から信用を失って、謀反の罪を着せられてしまいました。
昌泰4年(901年)の人事異動「昌泰の変」で、56歳の管公は従二位右大臣を解任されて、閑職の太宰権帥(だざいのごんのそち:地方の副官)を命じられたのです。
管公の家族 (長男の菅原高視)や弟子たちも、連帯責任を負って流罪(るざい)になり、貴族の地位から降格させられて、平安京から遠く離れた地方官の任務に就きました。それだけでなく、醍醐天皇の弟・斉世親王も御所から追放されて出家され、上皇も一時は内裏への出入りを禁止されたのでした。
太宰府左遷から2年後に、管公は失意のうちに薨去(こうきょ)されました。58歳でした。
ここから良くないことが京で次々に起こります。先ず、菅公の薨去から6年後に、政敵であった左大臣・藤原時平が39歳で病死したのです。
醍醐天皇は驚かれて、菅公の祟りを宥めるため、菅公の復位と流刑にした家族の帰京を赦しましたが、その後、加茂川の氾濫で疫病が発生し、町衆に多数の死者が出たり、醍醐天皇の皇太子・保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで夭折し、保明親王の王子・慶頼王(やすよりおう)も5歳で夭折したり、不幸が続いたのです。
極めつけは、御所・清涼殿での落雷事件で、時平の陰謀に加担した大納言の藤原清貫が雷に打たれて死亡、醍醐天皇はショックで病床に臥され回復されることなく崩御されました。
これら出来事は、政敵の陰謀によって左遷された管公の怨霊(おんりょう)が「雷神=天神」になって現れたとして、平安宮の高官たちから菅公の怨霊の祟りが怖れられました。
京には、政敵の陰謀で非業の死を遂げた「怨霊」を宥める御霊信仰が始まっており、平安京の右京七条に住む霊能を持った「丹治比文子(たじひ
あやこ)」という少女らに託宣(たくせん:神のお告げ)があって、その託宣に基づいて、道真の怨霊を鎮めるために村上天皇が北野の現在地に道真を祀る社殿が造営されたそうです。
こうして、北野天神社では、自然神の天神様と人格神の菅公の御霊を宥める二柱が御祭神に祀られることになり、北野天神社が平安京の北隣に接していたので、参拝客が多く、平安京の人々は、祈雨を願う天神さんよりも、菅公は「文章博士(もんじょうはかせ)」だったので、漢文の権威者ということで、学問の神様として慕われ、987年(永延元年)
に、一条天皇から「北野天満宮天神」の神号が贈られたのです。現在は「天神」を外しています。
本来は農耕者が祈雨や豊作を願うのが天神信仰の始まりなのですが、現在の天神信仰では、天神社に道真の御霊を合祀したので、時代の流れと共に、菅公の怨霊を宥めるために祈ることよりも、管公が優れた漢文学者でもあったので、御利益を優先して学業の神様として尊崇されるようになっています。
北野天満宮の社伝によりますと、現在の本殿は豊臣秀頼が父の遺志を引き継いで、慶長12年(1607年)に完成させたと書かれています。
どこの天満宮でも梅の木が多いのは、御祭神の天神様(菅原道真公)が、梅の花をこよなく愛でていたことにに由来します。
拾違和歌集に、
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」と詠まれています。
ところで、北野天満宮のご関係者にお聞きしますと、2010年の梅花祭(2月25日)は、梅が満開で珍しいそうです。
例年なら梅花祭の頃はまだ寒くて、梅が五分咲きだと仰られてました。
ぼくの写真スタジオはこの取材から9年前(2001年)まで、大阪市北区天満にあって、大阪天満宮の梅が満開になる頃は、土曜日のお昼下がりに境内で梅を見ながら、缶ビールを片手に、たこ焼きをよく頬張ったものです。2010年は、北野天満宮へ行って、満開の梅を楽しませて頂きました。
菅公が左遷された、北九州の太宰府って、どんなとこか、かなり気になって、2000年(平成12年) 9月2日に、撮影取材に行った博多出張のついでに繁華街の天神で一泊して、天神で美味しい魚貝料理を食べ、翌朝に西鉄福岡駅から大牟田行きの特急電車
(特急券不要) に乗って14分、西鉄二日市で乗り換えて、太宰府駅まで行きました。太宰府天満宮も、境内に樹木が多く、なかなか良か所でしたね。