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唐津市を歩いていて、一番気になった建物が、旧唐津銀行本店 (明治45年=大正元年:1912年に竣工)です。
幕末〜昭和の中期にかけて、唐津炭田(杵島炭坑・明治佐賀・三菱古賀山)などから産出される、船舶燃料用の石炭の積出港として、唐津は石炭産業で大いに栄えたそうです。しかし、後に良質な石炭を産出する筑豊炭田や三池炭田にシェアを奪われ、1972年 (昭和47年) に閉山になったそうです。
旧唐津銀行本店は、外観壁面に赤レンガを多用し、窓の上部をアーチ状にした、アールヌーボー調のデザインが日本に流行り出していた頃の大正浪漫の時代を彷彿させる建物です。大正7年 (1918年)に竣工した大阪市中央公会堂も、唐津銀行の外観デザインを参考にしたのでしょうね。それもその筈、唐津銀行本店の方は、唐津出身の建築家である辰野金吾氏監修で、唐津銀行本店の設計は辰野氏の愛弟子である田中実氏によるもので、唐津市に親近感を覚えました。大阪市中央公会堂の監修も辰野金吾氏で、設計者はコンペで一位になった岡田信一郎氏の原案を採用したものです。


唐津神社の例大祭に奉納する、唐津くんち曳山の宮入巡行は、刀町から一番曳山の赤獅子が文政2年(1819年)に製作されてからで、御輿の渡御(御神幸)はもっと古く、寛文年間(1661〜1672年)から行われていたそうです。現在は、佐賀県の重要有形文化財の14台の曳山が、唐津市曳山展示場に保管され、各町は、くんちが始まる時に曳山を展示場から曳き出して、曳山に提灯などの飾り付けをします。現在では、曳山を所有する町は、14町で、JR唐津駅北側から唐津城までの繁華街の中にあります。唐津くんちの祭礼は、国の重要無形文化財に指定されています。
因みに、二番曳山は鯛 (魚屋町:弘化2年 1845年製)、三番曳山は亀と浦島太郎 (材木町:天保12年 1841年製) 、四番曳山は源義経の兜 (呉服町:天保15年 1844年製) 、 五番曳山は鯛 (魚屋町:弘化2年 1845年製) 、六番曳山は鳳凰丸 (大石町:弘化3年 1846年製) 、六番曳山は鳳凰丸 (大石町:弘化3年 1846年製) 、七番曳山は飛龍 (新町:弘化3年 1846年製) 、 八番曳山は金獅子 (本町:弘化4年 1847年製) 、九番曳山は武田信玄の兜 (木綿町:元治元年 1864年製) 、十番曳山は上杉謙信の兜 (平野町:明治2年 1869年製) 、十一番曳山は酒呑童子と源頼光の兜 (米屋町:明治2年 1869年製) 、 十二番曳山は珠取獅子 (京町:明治8年 1875年製) 、十三番曳山は鯱 (水主町:明治9年 1876年製) 、十四番曳山は七宝丸 (江川町:明治9年 1876年製) で、全部が漆塗りで、美しい光沢があり、これを二本の綱で曳きます。大阪の「岸和田だんじり」のような、やりまわしは行いません。










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秋は見所いっぱいの唐津、伊万里、有田へ

 

トップページ更新 2014年10月14日更新:尾林 正利
唐津くんち、伊万里市大川内山陶器市、有田町黒牟田の撮影:2006年11月2〜5日
カメラ:Canon EOS 5D
レンズ:EF 24-70mm f2.8L USM

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11月初旬は、佐賀県への旅へ、
唐津市では「唐津くんち」、伊万里市大川内山の「鍋島焼窯元秋まつり」、有田町黒牟田での窯元見学、佐賀市嘉瀬川河川敷では「バルーンフェスティバル佐賀」がタダで見物できます...。

2006年11月に、今まで素通りしていた佐賀県に行ってみることにしました。
このエッセイは2006年11月に当サイトに初稿を掲載し、早いもので、もう8年も経ってしまいました。今回は8年振りにリライトして再掲載しました。

撮影機材などの重くて嵩張る荷物が無ければ、唐津くんちの見物は、大阪市の新大阪駅から福岡市の博多駅までは新幹線で行き、博多駅から唐津駅まではJR在来線の筑肥線で行けます。
ぼくの場合は、5年前までは、脚立や三脚を持参して泊り掛けの写真取材で行く場合が殆どだったので、ロケ先近辺で宿泊を断られた場合に備えて、愛車を寝床代わりにも使っていました。
でも、最近の日本は治安が悪くなっていて、クルマの窓ガラスを割られて襲われたり、狭い乗用車内での車中泊は、翌朝に疲れが残るので避けたいところです。キャンピングカーなら防犯的に安心で、足を伸ばせて寝られるので快適ですが...。

大阪市から九州行きの往路は、夜に大阪南港から、「名門大洋フェリー」を利用すると、北九州の新門司港には早朝に着いてラクチンです。船室はドライバー用の特2個室を利用していますが、"ブルトレ"B寝台車(オハネ24系)よりぐっすり寝られます。

大阪府内から愛車 (普通自動車) で北海道へ行くときは、京都府の日本海側にある舞鶴港まで行って、小樽港行きの「新日本海フェリー」を利用したことがありますが、時間が掛かり過ぎるので、最近は飛行機+レンタカーを活用しています。
とくに、トヨタレンタカーの場合は、クルマを借りた店に戻って返さなくても、道内や県内、府内や都内にある系列店なら乗り捨てできるサービスがあるので大変便利ですが、クルマを借りる時に「乗り捨てする系列店名」を店員さんに伝えておく必要があります。

佐賀に行きたくなったのは、今から10年以上も前の2003年頃に、佐賀県出身のお笑い芸人のハナワ(塙尚輝:はなわなおき)さんの自虐的な「佐賀県」の歌や漫才師の島田洋七さんの執筆による「佐賀のがばいばあちゃん」という本の販売、それにテレビの人気グルメ番組やバラエティ番組では高級和牛の「佐賀牛」が何度も取り上げられたりして、大阪でも「佐賀県」の名がちょっと目立ってきていたからでした。

とは言うものの、佐賀県が日本のどこにあるのか正確に知っている人は、大阪では少ないようです。
佐賀県は、九州北部の福岡県と九州北西部の長崎県に挟まれた県だと即答出来る方は、大阪では1割を切ると思います。明治維新の廃藩置県前にあった、肥前国(佐賀藩と唐津藩) が東西に分かれて、西側は長崎県、東側が佐賀県になりました。

個人的には、佐賀県は長崎県へ行くときには素通りしていた県で、初めて佐賀県内で食事したのは、今から30年前に遡ります。1984年3月28日 (水)、ぼくの写真スタジオで商品撮影中に、その商品を製造している工場の撮影もして欲しいという注文が入り、スタジオ撮影を一旦中断して、大急ぎでロケ支度しましたが、スタジオを出る時に、助手が三脚を積み忘れていたのを途中で気付いて、スタジオに引き返したので、大洋名門フェリーの最終便に乗り遅れてしまったのです。大阪南港のフェリー乗り場に着いたらフェリーのゲートは上昇中でした。

だから、中国自動車道を愛車のパジェロを徹夜で運転して、翌日の29日(木)の朝9時には博多にある工場に着いて撮影しなければならず、広島県山間部を走行中に睡魔に襲われ、残雪の積もった吉和SAで2時間ほど仮眠しましたが、睡眠不足のロケ撮影という強行スケジュールになってしまいました。
博多での工場撮影が終わったのは、29日夜の9時頃で、3月29日夜の博多は医師会の会合があってホテルの空き部屋が無くて、深夜の12時頃に久留米市のビジネスホテルに泊まって、翌朝30日(金) は早起きして諫早工場へ写真取材へ...いくらタフなぼくでもヘトヘトでした。

有明海沿いの国道207号線を走っていると、佐賀県鹿島市のドライブインに入って、目覚しにコーヒーを飲もうと、朝食のため休憩することにしました。
店内にはトラックドライバー達が朝食を取っており、「何を食べているんやろ?」と、チラッと見ると、吉野家の牛丼よりも大きな丼鉢に殻付きアサリが天こ盛り!そのド迫力にいっぺんに目が覚めました。
さっそく、アサリ定食を頼みました。焼いた鯖も付いていました。空き腹だったので美味かったですね。佐賀県はアサリが美味いという記憶が残りました。ぼくの体験では、博多や長崎のレストランや食堂で焼魚を注文すると、頭と尻尾がお皿から少しはみ出していますが、見た目重視の京都市内では有り得ません。アサリが丼鉢に天こ盛り..."食い倒れ"の大阪市内でも有り得ません。

今回は、2006年11月1日の夜に大阪南港から名門大洋フェリーの「きょうと2号」に乗船して、北九州市の新門司港に向かい、新門司で愛車を降ろすと、シンガー・ソングライターの井上陽水氏の出身地である飯塚市経由で一般国道をドライブして、佐賀市西部を流れる嘉瀬川(かせがわ)の河川敷で開催された「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ2006」のロケハンや唐津市の城下町で行われた「唐津くんち」の写真取材に行きました。

1998年8月14日に同じフェリーに乗って、長崎へ「精霊流し」の用事で行った時は、特2船室の一段ベッドの足元にはテレビが付いてなかったですが、今回はイヤホン対応の液晶テレビが各ベッドに装備されていて、乗客へのサービスが向上し、夜は明石海峡大橋まで大阪のテレビ放送が見られたので退屈しませんでした。

今回の取材目的は、第一に「唐津くんち」の写真取材、第二に「熱気球大会(佐賀インターナショナル・バルーンフェスタ2006」の写真取材、第三に「鍋島焼窯元秋まつり」、第四に有田黒牟田での工房の写真取材、第五に唐津沖3kmにある高島にある宝当神社 (正式には、寳當神社) なので、テレビのグルメ番組で話題になっていた佐賀牛のことまで徹底取材する時間的余裕はありませんでしたが、第五の取材目的である「宝当神社」へは、ちゃっかりと参拝してお札を買ってきました。11月になれば、年末ジャンボの季節も近いので、お詣りに行ったワケです。

五つの取材を終えて、11月5日には、伊万里市から唐津市経由で大阪市まで国道202号、国道3号、国道2号、姫路バイパス、加古川バイパス、第二神明、阪神高速経由で、707kmを15時間かけてドライブして帰阪し、早速、宝当神社の神職さんの仰った通りに翌日にお札を自宅に祀ったら、祀ったその日の昼に神主さんが祝詞(のりと:ご祭神に告げ申す言葉)をあげる声がする。これには驚きました。

「嘘やろ?」と思って、ベランダの下を覗いてみると、何と神官装束の神職さんが、ぼくの住んでいるマンションの方に向かって祝詞をあげておられました。
さらによく見ると、隣のマンションの庭に小さなお社が祀ってあったのです。2006年2月7日に大阪市平野区に引っ越して九ヶ月目 (当時:現在は8年目) になりますが、隣のマンションの敷地内に御社(おやしろ)があることには全く気付きませんでした。

それにしても「宝当神社」の御札の神通力(御利益)は凄い。お札を祀った当日に頼みもしない神職さんが間近に来られて、こちらに向かって祝詞をあげて頂けるなんて...。年末が楽しみになってきました。
因みに、今年はサマージャンボを10枚 (バラで3,000円分) 買って、それを7月に取材した熊野那智大社で買った烏牛王(からすごおう)に包んで保管したら、1万3百円が当たったのです。「那智の火祭」の取材費の内、7300円分が宝くじの当選金で補填できたわけです。

ところで、今回取材したイベントは、同じ月日にカブって佐賀県の各地で開催されるので、バルーンフェスティバルの取材は、宿泊した伊万里市のホテルで朝4時半に起き、唐津くんちの宵宮(夜祭)の取材は、夜11時頃まで撮影が掛かり、晩御飯は伊万里で摂ることに。ホテルへ帰ったのは、深夜の1時前、というかなりハードなスケジュールになりました。伊万里駅前のローソンでおにぎりを買い、暖かいオカズのおでんのタマゴが売り切れ。最初の夜は、ホテルの部屋で、冷えたおにぎりを囓りなから缶ビールで流し込む侘びしい一夜でした。

ぼくが泊まった伊万里グランドホテルは駐車場が広く、ほぼ満車状態でした。早朝の7時から大浴場がオープンしていて朝風呂に浸かり、痒い頭も洗ってホッとしました。
ここの朝食は、和洋ミックスのバイキング方式で、とくに地元料理の「筑前煮 (がめ煮)」が美味しかったですね。(※筑前煮とは、一口大にカットした鶏肉に、ゴボウ・レンコン・人参・小芋・厚揚げ・こんにゃく・椎茸を入れて甘辛く煮立てたもの)

今回は、内容の異なった四つの催し(唐津くんち、佐賀インターナショナルバルーンフェスタ2006、伊万里市大川内山の鍋島焼窯元秋まつり、有田町の窯元見学を一つのエッセイにまとめるのには無理がありますので、佐賀バルーンフェスティバルを語るのは、次の機会にしておきます。

今回取材に行った「唐津くんち」は曳山(ひきやま)の祭としては、「長崎くんち」と並んで全国的に有名な祭のようです。
唐津市の「唐」は、古代中国王朝の唐を意味し、「津」は商業港を表すので、古くから中国(唐)や朝鮮(高句麗・新羅・百済)などの国々と貿易や文化の交流があったのでしょう。

唐津市の西側の鎮西町に、16世紀末に国内の諸大名を平定した豊臣秀吉が明皇帝のアジア支配(冊封貿易体制=中国皇帝がアジアの君主で、朝貢国の李氏朝鮮や日本国が臣下になって、明皇帝と君臣関係を結び、不平等な貿易を強いていた)の秩序を武力で改善したいため、明皇帝が支配する朝鮮へ出兵する為の根城「名護屋城」を建設し、諸国の大名に出陣を要請し、文禄・慶長の役(1592年〜1598年) を命じました。

今の韓国の人は、明軍を降参させるため朝鮮に出兵した豊臣秀吉を嫌いますが、秀吉は、明との対等貿易を望んで戦ったワケで、かなり誤解されているようですね。
この役に参加していた、後に肥前佐賀藩主になる鍋島直茂が朝鮮半島で広まっていた白磁の製陶技術に目を付け、優れた高麗人陶工の「李参平 (金ヶ江三兵衛:かねがえ・さんべい ) 」たちを佐賀藩に連れて帰り、彼らの指導によって、元和2年(1615年)に、磁器の原料である陶石が採れる肥前国の上有田の泉山の近くに登り窯を併設した「天狗窯」が作られ、有田焼が製作されるようになったワケです。

佐賀県では磁器の原料である長石 (アルミニウム・ナトリウム・カリウム・カルシウムなどの珪酸塩鉱物)の採掘できる陶石鉱山が県内にあって、さらに有明海の南に浮かぶ天草下島からも陶石が入手できて、磁器製造のノウハウが向上しました。

白磁に描く絵は、染め付けが呉須 (コバルトブルーの藍色顔料で、現在は青色だけで30色ほどある) 一色だけでしたが、後に、緑・黄・赤の顔料や色秞が開発されて、磁器に描かれる絵がカラフルになっています。
江戸時代の頃は、伊万里焼と有田焼には違いはなく、伊万里港から出荷された肥前国で生産されたやきものを伊万里焼と言われていたそうで、長崎県の波佐見で生産された、大衆的なやきものも含まれていました。でも、大川内山の窯で生産されるやきものと、有田の窯で皇室向けや美術品、上流社会で贈答品として生産されるやきものは、ちょっと違うようですね。酒井田柿右衛門の窯がある有田の方が高級品です。因みに佐賀県西松浦郡有田町とドイツ連邦共和国ザクセン州マイセン市(ドレスデン市の北西20km) とは高級陶磁器生産地として姉妹都市を提携しています。

唐津には、萩焼に似た、器に釉薬が塗られた部分に、美しい貫入 (かんにゅう:細かいモザイク模様のヒビ) が入った唐津焼が有名で、その工房を見学したかったのですが、くんちの期間中は唐津にある工房が休業していて傑作を拝見できませんでした。

さて、くんちの龍や獅子の曳山のデザインを見ていると、関西方面の龍や獅子よりデフォルメ(誇張)が強く、中国文化の影響が強く感じられます。鯛はユーモラスな形をしていて、胸びれが動くようになっています。

「くんち」とは陰暦の重陽(ちょうよう)の節句、つまり、旧暦の9月9日(くにち)に行われていた祭礼が、長崎弁の「くんち」に訛(なま)ったものらしい。またくんちを「供日」とする解釈もあるようだ。唐津神社のホームページでは、「唐津供日」と表記されていました。

西九州方面で、くんちがおこなわれる都市は、長崎県では長崎市と佐世保市。佐賀県では唐津市と伊万里市ですが、伊万里市の場合は伊万里くんちとは言わず、伊万里神社の例祭は「伊万里トンテントン」と言われ、神輿同士をぶつけ合う喧嘩祭らしいです。

唐津くんちは11月2日〜4日まで行われる。雨天の日は中止になります。
というのは、曳山(ひきやま)が漆(うるし)塗りなのと、宵宮の時に曳山に飾り付ける提灯が紙製なので雨に濡れると良くないそうです。
この祭は、唐津城の近くにある唐津神社の秋季例大祭で、「唐津くんちの曳山行事」ともいわれ、国指定の重要無形民族文化財と佐賀県の重要有形民族文化財になっており、江戸時代からの伝統行事になっています。
唐津くんちは、唐津神社と(唐津藩)城下町氏子の祭ですが、唐津市も市民の祭として積極的に支援しているようです。
祭のスケジュールは、
11月2日の夜7時半〜10時ごろまでが宵宮。
11月3日の朝9時半〜夕方4時半までが神輿の渡御(御旅所での神事がある)
11月4日の朝10時半〜夕方4時半まで曳山の市内巡行

今回は、他の取材も重なっているので、2日の宵宮(市内巡行と唐津神社宮入)と、3日の午前中に曳山と二台の神輿の渡御列を取材しました。西の浜での祭礼の様子を撮れなかったのは残念ですが、仕方がありません。
11月2日は、午後3時から佐賀市西部を流れる嘉瀬川の河川敷で「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ2006」という、国際的な熱気球競技大会が予定されており、競技が行われるまで撮影好適地で待機しましたが、4時過ぎに、風速5m/secの風が吹いて、熱気球の飛行が中止になり、大急ぎで佐賀市から唐津市へ向かいました。

唐津市街の道路が唐津くんちの宵宮で通行止めになる前に、愛車を繁華街中心の駐車場に早く停めたかったからです。撮影現場の間近に車を停める方が便利です。
警察などの指示で、撮影現場から遠く離れた場所に車を停めさせられた場合、取材前は神経が高ぶって気が張っていますので、撮影現場まで少々歩くのは辛くはないですが、取材が終わった後は、緊張の糸が切れて、疲れがドッと来ますね。仕事が済んで駐車場まで延々と歩く無駄な労力はできるだけ避けたいものです。

唐津に着き、早速唐津神社へ行った。ここの大鳥居は白く塗られています。一般的に鳥居の色は、石製やコンクリート製の場合は素材の色で、木造の場合は魔除けの朱色に塗られているものが殆どですが、白く塗られた鳥居を見るのは初めてですね。

唐津くんちの日は、唐津神社南側の参道から境内の本殿間際まで様々な露店が両側に並び、夕方の5時頃にはすでに露店の裸電球が点(とも)されて宵宮のお祭りムードが高まって賑やかになっていました。
因みに唐津神社の御祭神は、大阪の住吉さん(住吉大社)と同じで、住吉三神(底筒男命:そこつつおのみこと、中筒男命:なかつつおのみこと、表筒男命:うわつつおのみこと)をお祀りしています。
判りやすく言うと、主に航海の安全を司る神さまですが、家内安全や交通安全など「諸事安全」を祈願してもかまいません。

唐津神社の各々(おのおの)の氏子町内(14町)では法被を着た若衆が、曳山を曳山展示場から表に出して、町内まで曳行し、提灯などを取り付けて宵宮の準備をします。
祭の準備が整うと、各氏子町内の祭礼責任者が仲間を引き連れて唐津神社の本殿に昇殿し、神職さんから神事資格者としての修祓(しゅばつ:おはらい)の儀を受けなければなりません。大幣(おおぬさ) を振って祓い清めていただきます。本殿には3日の朝に御旅所へ渡御する2台の神輿が飾ってありました。

今年の唐津くんちの宵宮は、夜7時半から始まる予定だったのですが、6時半から7時過ぎまで、突然、ザーッと激しい通り雨が降って宵宮のスタートが少し遅れました。
雨対策のレインコートは、駐車場に停めた車の中。カメラボディは何とか上着で隠しましたが、レンズとストロボは、上着からはみ出していたので結構濡れてしまいました。
庇(ひさし)のあるところで雨宿りしながら濡れたカメラ機材を木綿のタオルで拭いて乾かし、通り雨が過ぎるのを待ちました。

2006年7月の和歌山県那智勝浦町で行われていた那智の火祭取材の時も祭礼のクライマックスの時にもザーッと雨が降ってカメラが濡れ、カメラとフラッシュの故障を心配したのですが、EOS5DとEF24-70mm2.8L、580EXは、ちょっと濡れた程度なら大丈夫でした。もちろん、カメラやレンズ、スピードライトが濡れたら早めに吸水性のよい木綿のタオルで拭くことが肝心です。
これからは、取材時の不意の降雨に備え、EOS5DのCFカードスロットカバーと電池室カバー、インターフェース端子カバーに防水粘着テープを貼っておこうと思いました。

30分間ほど経っても俄雨が止まないので、宵宮の行事が中止になるかも知れないと心配したのですが、地元の方に訊けば、岸和田だんじり祭と同様、唐津くんちも少々の雨なら決行するということでした。
小降りになると、路地の方から唐津くんちの囃子が威勢良く聞こえてきます。
唐津くんちの囃子は、大太鼓1名、横笛4〜9名、鉦1名の構成で、曳山の後部に座って演奏します。
引き綱を曳く氏子たちと、曳山のてっぺんに乗っている祭礼責任者の掛け声が、両手を挙げて「エンヤー、エンヤー」、「オイサー、オイサー」と力強く叫びます。

曳山の大きさですが、高さは岸和田型だんじり(4m)よりも高く、7mのものもあります。重さは2〜5トンです。奥行きは舟形の曳山を除けば、岸和田型だんじりの方が長いです。
てっぺんに人が上れる曳山(9台)では、氏子の代表二人または一名が曳山のてっぺんに上って、引き綱を曳く仲間たちを指揮します。曳山の製作費は現在の貨幣価値に換算すると1億円を超えるそうですよ。
唐津くんちの曳山の綱は二本で、綱を引く人は小学生から青年まで200名ぐらいがお揃いの法被を着用して曳く。岸和田祭礼のような地車の「やりまわし」や「飛行機乗り」のパフォーマンスはありませんが、みんな楽しそうでしたね。

曳山の奥行きは、短いものが多いので、ホィールベースも短く、小回りが利くので交差点では停止せずにクルッと曲がれます。
岸和田だんじり祭では、大阪府警によって、だんじりが曳行する主要な道路の両側にロープが張られていますが、唐津くんちではロープを張られなかったですね。
ロープのような無粋なものを張れば、祭の一体感がなくなるからでしょうね。繁華街の中町周辺で曳山が動き出すと、ドンドン人が集まってきます。阪神タイガースが優勝した時の道頓堀に架かる戎橋上の混雑のようでした。

11月3日の朝には唐津神社のご神霊を乗せた二台の神輿が御旅所(西の浜海水浴場に設けられた仮宮)へ渡御します。
朝9時前には、曳山14台(江戸時代末期の製作は9台、明治時代初期の製作は5台)は行進順に神社の鳥居前の広場に整列し、先頭の刀町(かたなまち)曳山「赤獅子(あかじし)」が9時半に出発します。曳山が数台続いた後に、神輿と宮司を乗せた車が二台続く。そして神輿の後も曳山が続き、見応えがありました。
御旅所へ着くと「御旅所神事」が斎行され、各曳山は浜辺で駆け回りますが、今回はその光景を撮れませんでした。
撮れなかった理由は、「宝当神社」を取材するため、ぼくは高島へ渡っていたからです。

今回は、伊万里市大川内山の旧鍋島藩の藩窯の伝統を引き継ぐ、焼き物の里に行ってみました。ここは、どの店も現金商売で、VISAなどのクレジットカードが使えず、ちょっと現金を持って行った方がいいでしょうね。色鍋島の高級品は150万円ぐらいの値札が貼られていましたが、ま、その価格で買う人はいないでしょうね。ぼくは、1万円の大きなティーカップを7千円出して一個買いました。大川内山に来る観光客は、 40歳から年長の女性客が多かったですね。青磁で貫入 (かんにゅう:意図的に釉薬のヒビ模様を入れた焼物) カップを3千円で買い、ここで買った青磁は、お正月に伏見の純米酒・玉乃光を呑む時に時々使っています。

JR伊万里駅近くの繁華街では店終いが早く、夜9時になれば街路灯も消えて薄暗く、晩飯に苦労しました。ホテルの紹介で近くの割烹店に入ったら、広い店内に客はぼく一人だけで、ぼったくられそうな、やばい感じが...。水槽で泳いでいた大きなイカを刺身にして貰いました。

大阪で食べる刺身のイカは、小さいイカが多くて白っぽいのですが、伊万里のイカは生きたまま刺身にするから半透明で、「呼子 (よぶこ)イカ」という、玄界灘で育った大型のもので、イカ一杯で、二人前のボリュームがありましたね。刺身の方は、コリコリした歯応えがありすぎて、歯の弱い人には向きませんので、ゲソの方は天ぷらにして貰いました。刺身よりゲソの天ぷらの方が、身が柔らかくなって食べやすく、イカの味も圧倒的においしかったです。
個人的には、二十代の頃に東京都千代田区平河町の小料理屋で食べた、小芋とイカの炊いた煮物がとくに美味しく、その味が忘れらず、時々自分で作りますが、素人料理では、その味と食感には及びませんんね。

今回は、有田にも立ち寄ってみました。JR有田駅から上有田駅までの県道281号線の沿道には、陶器店が軒を連ね、陳列品を見ると高級品が多いですね。ここは、毎年、春のゴールデンウィークの連休中に「有田陶器市」行われるそうですし、工房見学できる窯元もあります。有田町上幸平の裏通りには、ドンバイ塀通りがあって、懐かしい日本の風景が見られますよ。

初稿掲載:2006年11月14日
写真と記事更新:2014年10月14日 尾林 正利

写真と記事の無断転載を禁じます。尾林 正利

 
 
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