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大阪市平野区喜連に引っ越してきて2015年3月で9年目...ここでは雪は滅多に積もらないのですが、2008/2/9に撮った珍しい喜連団地の雪景色です。喜連という場所は、明治時代の喜連村の南側に、戦後になって大阪府営や市営の集合住宅が次々に建てられたところで、昔と今が共存しています。


一番上の写真を参照にして、喜連団地の左奥に入ると、古事記に書かれた久禮(くれ→きれ:喜連)に由来する古い町並みがあり、今でも喜連小の生徒たちがこの道を歩いて登下校します。平野区では、平野郷や喜連郷の古い街並みの通りにタイルが埋めてありますが、最近では減ってきています。


ここは喜連にある式内楯原神社です。式内とは平安時代の「延喜式」に記載された由緒あるお社のことですが、現在は社務所が閉まっていて普段は閑散としています。 境内のサクラが満開になると、神職さんが氏子の児童を集めて入学式をやっていたそうですが...今は境内で花見の宴会をします。


楯原神社は喜連小学校から北へ徒歩5分。帰ってきたピカピカの一年生を撮っている人がいましたが...その位置からサクラも写るのかな?


念仏寺の桜です。ここの除夜の鐘は、大晦日に希望すれば撞けるそうですよ。
ここに初めて来たのは、大相撲春場所で東関部屋 (あずまぜきべや) の宿舎になった時に、旅行会社のツアーに参加して、横綱「曙」のケイコ見物と「ちゃんこ鍋」を食べるのが目的でした。それとおおさかスケッチを描くための取材も兼ねていたんです。
でも、肝心の曙が、他の相撲部屋に出稽古に...。他の力士の稽古をみて帰りを待っていたら食事に遅れ、慌てて行くと鍋を片付けている途中でした。

横綱・曙太郎の写真を撮ったのは、多分1994年の春場所だったと思います。この頃は、まだ、プロ用デジカメが普及していなくて、Canon new F-1とFDレンズで撮りました。インタビューは、「河内音頭」で有名な、浪曲師の河内家菊水丸さんだと思います。


平野に長く住んでいる方に「平野のサクラの名所は何処ですか?」とお訊きすると、「加美霊園」だと教えて頂いたので、早速自転車で行ってみました。 20本ほどのサクラの巨木が植樹されていて、見上げると、満開のサクラに圧倒されました。霊園内でも花見の宴会ができるようですね...。


↑これって、平野区内で撮ったと言っても、殆どの平野の人は信じないかも...。

杭全神社 (くまたじんじゃ) の傍にある杭全公園の紅白のサクラです。カラオケ宴会で盛り上がっているところに、「選曲よりも、選挙区が気になる」議員さんが挨拶まわり...


加美霊園の帰りに旭神社に寄り道してみました。人の気配のない静かな境内にサクラが揺れていました。


江戸時代には、河内木綿の綿花を満載した"柏原船"が行き来した平野川です。水面にも春が...。


サクラ見物も良いですが、玄関をカラフルな花で飾ったお家が平野本町にあり、ここを通ると元気になりますね。


平野区民の間で囁かれる都市伝説、廃止か存続かで揺れるJR西日本の阪和貨物線の線路です。阪和連絡線とも呼ばれて、阪和線の杉本町駅〜大和路線の久宝寺駅までの路線で、昔は阪和線用の回送電車も通っていました。ま、天王寺駅でスイッチバック運転すれば、阪和線の電車を大和路線に乗り入れは可能ですが...写真は、地下鉄の出戸 (でと) 付近のユニークな踏切です。JR西の「おおさか東線」の一部区間 ( 放出:はなてん駅〜加美駅 ) は、最近開通しましたが、こっちの開通は、果たして実現するのでしょうか?最近になって、ここの線路が無くなり寂しいですね。

さくらの季節 Vol.2


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記事と写真:尾林 正利 2015年3月26日編集

さくらの開花が間近...

三寒四温と言いますが、3月26日、大阪市平野区も桜がちらほら咲き出し、いよいよ、行楽シーズンの春がやって参りました。
時が経つのは早いもので、大阪市平野区の喜連 (きれ) へ引っ越して、3月末で9年目の春を迎えます。

喜連という地名は、栃木県さくら市喜連川(きつれがわ)がありますが、大阪市平野区喜連(きれ)とは関連がなく、古名の久禮(くれ) が訛って喜連(きれ)になったそうです。
喜連というところは大正11年に編纂された大阪府志によりますと、

「本村は、往古河内国の内なりしが、後摂津国住吉郡に入れり。杭全郷 (くまた) の内にして喜連村と呼び、元和六年(げんな:1620年:大坂夏の陣から5年後) 分かれて東喜連・中喜連・西喜連の三ヶ村となり来たりしも、明治五年三月合併せられて、喜連村と称す。 同二十二年四月一日町村制の施行に際し、独立して一村を為し、同二十九年四月一日大阪府東成郡に属す。

旧西喜連に南町・北町・西町・金元町・境町の名あり、同中喜連に馬場町・東町・寺町の名あり、又東喜連の南に川村といへるあり。
・・・村名の喜連は久禮の転訛ならんといふ(キレはクレがなまった名前)、即ち、古事記伝には"住吉の東一里許(もと:ほど)に、喜連村と云あり、河内の堺(境界)なり、 昔は河内に属して万葉 ( 万葉集 ) に河内国伎人 (くれひと) 郷とある処なるを、久禮を訛って喜連とは云なり。・・・伎人(くれひと)は呉人なり。( ※國→国などのように旧漢字を当用漢字に変更 )

三国志によると、孫権が国王になった呉は3世紀末に滅ぼされたが、その末裔が東シナ海を渡って難波津 (なにわづ:中央区渡辺橋付近に船着場)や住吉津 (住吉大社の近くにも船着場) に渡来して、絹織物の文化と機織り技術を池田や喜連郷に伝えたものと思われます。
池田市にも同じころに呉の国から渡来し摂津国に機織り技術を伝授した呉服媛(くれはとりのひめ)を祀る呉服神社 (くれはじんじゃ) があります。

久禮は、万葉の時代から外国人居留地で渡来人が日本に帰化し、暮らしやすい場所なので、歴史のある町に引っ越して良かったと思っています。
喜連の北隣にある平野には9世紀の初めに開墾された坂上広野麿の荘園が発展した環濠都市の「平野郷」の遺構があり、6〜7世紀の万葉期に既に磯歯津路(しはつみち:長居公園通りの旧道)沿いに集落が出来た「伎人郷(くれのさと)→喜連郷」の名残が今でも残っていて、古い街並みの中を歩いて通ると、60年前に見た古い日本家屋の懐かしさが甦ってきて、心が癒されます。

平野は町の古さだけではなく、7月11日〜7月14日の「平野郷夏祭り」の期間には、平野郷7町では布団太鼓の巡行、杭全神社の御輿渡御や「天狗さん(猿田彦)」の巡行、そして勇ましい「だんじり祭」が盛大に行われ、ご縁があって、ぼくも「野堂南地車委員会」さまの許可を得て2007年に祭礼を密着取材できるチャンスを頂きました。

当サイトのWEBページのデータ容量が2015年2月末まで200MBが限度だったので、「平野郷夏まつり」を2007年の数ヶ月だけ掲載しましたが、当サイトが制作した「平野郷を歩く」のアクセスが多く、2015年の7月に編集しなおしたものを掲載したいと思っています。

桜といえば、花見です。 前回の3月号では、岡山・奈良・京都・大阪造幣局などの桜の名所を紹介しましたが、平野も古事記に登場する歴史のある場所なので、地元の人しか知らない名所があります。
今回は、自宅から自転車に乗って、近年に撮った平野の桜の名所を掲載しました。
記事の更新は、2015年 3月26日 尾林 正利

写真と記事の無断転載を禁じます。尾林 正利

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