大阪市内も10月中旬になってから朝晩がやっと涼しくなってきた。夕冷えする黄昏時の空をふと見上げると、時々ウロコ雲(高積雲)が西の空から東に向かって緩やかに流れている。夕焼け空の美しい季節になった。
秋と言えば「食欲の秋」。サンマの丸焼きやマツタケご飯など...秋が旬の美味しい食べ物に話題がいくが、写真を撮るのを仕事にしている者にとっては食欲よりも「写欲」の方に興味がいく。近畿地方で紅葉が早いのは、大台ヶ原ドライブウェイの辺りからだろう。
10月中旬は、全国的に稲刈りが殆ど終わる頃で、農作業が一段落した農村などでは収穫ができたことを地元の氏神さんに感謝して「秋祭」を行うところが多い。
爽やかな秋風が、どこかの祭囃子「ピーピーヒャララ、ドンヒャララ〜〜〜」を運んでくるのだろうか...映画に出てくる「寅さん」ほどではないが、頭の片隅で微かに鳴り響いている笛太鼓に誘われて、まだ見ぬ町や村の祭りを見にフラッと車で出掛けてみたい気持ちになった。
2006年の10月は、岐阜県の「高山祭(櫻山八幡宮例祭)」や京都市左京区の「鞍馬の火祭(由岐神社例祭)」を写真取材したが、個人的には、観光パンフレットに載っているような有名な祭は観光客やアマチュアカメラマンがあまりにも多すぎて、場所取りに神経を使い、不要な物がファインダーに入り込むので、撮影に集中する気持ちに入っていけない。
それで、2007年の10月は、観光客の少ない奈良県吉野郡東吉野村の小(おむら)という集落で「小川祭」と「丹生川上神社例大祭(にゅうかわかみじんじゃ・れいたいさい)」を大阪から延べ2日通って取材した。「小川祭」の方は奈良県吉野郡では、かなり有名なお祭りらしい。
因みに丹生川上神社は吉野郡に三カ所あって、下社(しもしゃ:丹生川上下社)は下市町の長谷(はせ)に、上社(かみしゃ:丹生川上上社)は川上村の迫(さこ)という集落に、そして今回取材した東吉野村の小(おむら)の集落にあるのが丹生川上中社(にゅうかわかみ
なかしゃ)にあたる。
中社(現在は丹生川上神社)へ行くのは初めてであるが、丹生川上下社の方は旧・国道309号線に面しており、吉野郡天川村洞川(てんかわむら・どろがわ)へ名水の「ごろごろ水」を汲みに行くときには、下社の境内で時々休憩して途中のコンビニで買ったおにぎりを頬張っていた。
丹生川上神社の創建は、7世紀頃の飛鳥時代に遡る。
社境内に建てられた社伝を読むと、当神社は、天武天皇白鳳4年 (675年)、 「人声ノ聞コエザル深山丹生川上ニ我ガ宮柱ヲ以テ敬祀セバ天下ノ為ニ甘雨ヲ降ラセ驟雨(しゅうう:激しい雨)ヲ止メン」との御神教により創祀(そうし)せられ、雨の明神・水神崇社として上下の尊崇殊の外(ことのほか)篤く、天皇の行幸五十数度、祈雨止雨の奉幣祈願九十数度に及ぶ...とある。
因みに天武天皇(673年3月〜686年10月まで在位) の即位前は大海人皇子:おおあまのみこ)と呼ばれた。天皇独裁で大臣を置かず、皇族のみで政治を行なう「皇親政治」を布いた。
天武天皇は、現在の皇室の礎を築いた天皇といわれている。例えば、倭の国を日本に、天皇在位中の元号の制定や、三種の神器の制定、「古事記」と「日本書紀」の編纂を閣僚に命じたが、完成は奈良時代になり、国内向けの古事記は712年に完成、8年後に外国向け
(中国向け) の日本書紀は720年に完成した。
ところで、白鳳という元号はなく、壬申(じんしん)の乱(飛鳥時代の672年に起きた大海人皇子と大友皇子(おおとものみこ)の皇位継承争いで、天智天皇が崩御された後、皇位が空白になっていた時に、仮に使われる元号らしい。この乱で、皇室の歴史書「天皇記」が兵火に焼かれ、天武天皇は閣僚に古事記の編纂を急がせた事情があった。
室町時代に起こった応仁の乱(応仁元年:1467年〜文明9年:1477年)で、丹生川上神社(中社)は兵火にあって灰燼と化し、雑草が生い茂って荒廃した状態が続いていたようだが、本殿は江戸時代の文政12年(1829年)に再建され、地元の村民から「蟻通神社
(ありとおし じんじゃ)」として尊崇された。明治時代になって当時の内務省が、皇室とも縁の深い神社であったため、応仁の乱で兵火にあった丹生川上神社はどこか?という調査がおこなわれ、大正11年
(1922年) 当村出身の森口奈良吉氏の調査資料が内務省神社局に認められ、郷社から一転して「官幣大社 (かんぺいたいしゃ)」に指定され、村民たちは喜びに沸き立った。
終戦までは中社を中心として、上社・下社の三神社が一つの丹生川上神社として扱われたが、「官幣大社(かんぺいたいしゃ)」に指定されたのは、中社
(なかしゃ) だけである。
官幣大社とは、官幣社の最上位の神格を持つ神社で、戦前の内務省神社局の決まりでは、神祇官(じんぎかん)が官幣社に出張して、毎年斎行される祈年祭の時に幣帛(へいはく)を受ける資格のある神社のことで、国費の援助によって神社の維持管理が行われ、官幣大社、官幣中社、官幣小社の社格があった。
官幣社の選別は、平安時代の醍醐天皇 (延喜帝)在位の期間中に左大臣の藤原時平に命じて定められた。先ず、延喜式神名帳に記載されている式内社や、長暦3年(1039年)、後朱雀天皇が定めた名神大社(みょうじんたいしゃ)22社を対象にしているが、橿原神宮のように歴史は非常に浅くても、明治天皇の勅許によって、官幣大社に列せられた神社もある。
戦後になって、GHQ統治下の日本政府が皇室と関係の深い神宮(伊勢神宮など)を別扱いにして、神社の公的な社格制度を廃止し、国や自治体が公に神社の維持管理費を奉納するという慣習は殆どなくなった。国や都道府県の重要有形文化財に指定されておれば、維持費や修繕費は出る。現在では丹生川上中社(戦後に丹生川上神社として登記)、丹生川上上社、丹生川上下社は分離独立した法人格を取得しており、三神社の主祭神も異なるようだ。
今回取材した丹生川上神社(旧・丹生川上中社)は、地元の年長者たちは「蟻通(ありとおし)さん(蟻通神社)」と親しく呼んでいる。
丹生川上神社の摂社「丹生神社」は高見川の西岸にあって、境外摂社(けいがいせっしゃ:本宮と離れた場所に鎮座する縁の深い社)へ村民の担いだ太鼓台がお詣りする時の渡る橋に「蟻通橋」という名称が付けられている。
清流の高見川に架かる「蟻通橋」は、欄干を朱色に塗られ、擬宝珠(ぎぼし、ぎぼしゅ)で装飾した美しい橋で、1日4往復の奈良交通の路線バスも渡っている。
蟻通のいわれは諸説があって、どれが本当なのか分からないので説明を省くが、「蟻通さん」は難問題をスラスラと解く知恵を授けていただける神様らしい。大学受験や検定試験に合格を授ける神様としてお詣りする若者も多い。
ここの主祭神は日本最古の水神(御祭神:ミズハノメノカミ・罔象女神)をお祀りする神社で、古くから、祈雨・止雨を祈願する神であった。10月16日の例大祭の式典に来られた方々の紹介を傍で聞いていると、電力会社のダム工事関係者や水道工事関係者の奉賛者が多かった。「豊水安全」や「工事安全」を水神さんに祈願するためである。もちろん、関西電力の方々もスーツ姿で来られていた。
水に関わる神様なので、「酒造り」や「水商売」関係の方がお詣りしてもOKなのだそうだ。割烹店。旅館の女将さんらしい方も臨席されていた。
例大祭の正式参拝は、受付で役職と氏名を記帳して玉串料を納め、神職から神事参加資格の修祓(しゅばつ)を受けてから拝殿に並べられた席に着席して待機する。神職から名が呼ばれると、「玉串(たまぐし:榊(さかき)の小枝に紙垂(しで)を付けたもの)」を拝受し、本殿に昇殿して玉串奉奠の儀式を行う。
一般参拝者の場合は記帳が不要で、拝殿の賽銭箱の前でコイン(硬貨)またはお札(紙幣)を入れてから参拝する。賽銭箱の位置は、祭礼の儀式によって場所が変わる場合もある。ここの神社では、「二礼二拍手一礼」である。
今回の例大祭では、拝殿で雅楽の「蘭陵王(らんりょうおう)」の演奏と、勇壮で華麗な一人舞(ひとりまい)が奉納された。まさか、古代中国・北斉の蘭陵王・高長恭(こうちょうきょう)の逸話伝説の舞を山深い東吉野村で観賞できるとは思わなかったが、前日に神社へ電話して、拝殿で斎行される例大祭の撮影許可を得ていたので撮影した。
神社の例祭では、舞楽などの古典芸能が奉納されることが多い。ぼくのような一般人は、格調の高い古典芸能を観賞できる機会は殆どないので、実際に生(ライブ)で見るといい勉強になる。
住吉大社の御田植神事の時も、八乙女(やおとめ・神楽女8名)が舞う「田舞(たまい)」や御稔女(みとしめ)が一人で舞う「御田代舞(みとしろまい)」が奉納されるので写真を撮りにいった。
だから、丹生川上神社ではどんな芸能が奉納されるのかを密かに期待していたのである。蘭陵王の雅楽と舞は良かった。
ここの祭礼は、村民の「小川祭」と神社の「例大祭」を同じ日(10月16日)に行っていたそうだが、平成7年
(1995年) 頃から平日の祭では、太鼓台を担ぐ大人が勤め人だったり、太鼓台の乗り児が小学生の男児で通学しながらの参加が年々難しくなってきたので、村民参加の小川祭だけを例大祭に近い日曜日に行うようになった。従って、2007年
(平成19年) の小川祭は10月14日に繰り上げられた。
小川祭というのは、別名で「太鼓台奉舁奉告祭(たいこだい ほうよう ほうこくさい)」という祭礼である。現在は、「太鼓台奉舁安全祈願祭」に改名された
「乗り児」4名を乗せた太鼓台8台の宮入は午後1時頃で、祭りが終わって太鼓台が各地区へ帰るのは午後3時頃になり、神社周辺の道路は昼の12時から午後4時までが自動車通行止めになる。
小川祭の小川は、東吉野村の村役場のある地区の名で、この地区が中心になって丹生川上中社が大正11年に「郷社」から「官幣大社」に大昇格したのを村民たちが奉祝して、太鼓台奉昇祭という祭礼が行われるようになったらしい。だから小川祭の始まりは、大正時代の末期になってからである。
現在では、8地区から太鼓台の曳行と宮入が行われているが、山村集落の過疎化と少子高齢化で担ぎ手の不足や太鼓台に乗って太鼓を叩く「乗り児(のりこ)」がいないことから祭礼に参加できない区域もあるようだ。
この村の太鼓台は、地車(じしゃ・じぐるま・だんじり)の車輪を外したようなもので、岸和田や平野だんじりのような屋根の飾目(しかめ)には獅噛(しがみ)などが、拝懸魚(おがみけぎょ)にも彫刻が施した立派なものである。太鼓台は1トンぐらいの重さがあって、宮入する時は、太鼓台を連(から:丸太で組んだのもの)に載せて、大人たちが三十名が一緒に担いで運行する。
小川祭の太鼓台が丹生川上神社へ宮入するのは、東吉野村の中黒(なかぐろ)、小栗栖(こぐりす・こぐるす)、小川(おがわ)、木津川(こつかわ)、小(おむら)、三尾(みお)、狭戸(せばと)、大豆生(まめお)の8地区で、祭礼時には地名の後に区が付けられる。「小区(おむらく)」という風に。
太鼓台の宮入の順序などは、鳥居前に到着した順番で宮入する。東吉野村大字の各区に太鼓台実行委員会というような組織はないが「太鼓台保存会」はあるらしい。祭礼の進行に細かい規則はないが、運行の統制は取れている。各集落の区長さんが祭礼責任者になって太鼓台の先頭に立って指揮を執る。
昔は喧嘩祭と言われていたそうだが、太鼓台を押し合って力比べをするような名残は残っていて、今回はそれが見られた。
ぼくの住んでいる大阪市平野区では、「平野郷夏まつり」に担がれる布団太鼓に乗る少年たちを「敲き児(たたきこ)」と呼んでいるが、平野郷にはだんじりが9台あっても、太鼓台が1台しかないので、子供(男児)たちが太鼓台に乗れるチャンスは10年に一度しか回ってこない。
平野郷の場合は、3才〜6才ぐらいの幼い男児が乗るが、「敲き児」の人数が30名以上もいるので途中で交代する。小川祭では、少子化と過疎化が進行しているため、小学生高学年の男児でも太鼓台に乗る。
東吉野村では祭礼に参加する各区に太鼓台があって、少年たちは毎年乗れるチャンスがある。園児〜小学生の男児に薄化粧して口紅を塗り、正装させて太鼓台に乗せた太鼓を敲(たた)かせる。乗り児4名が太鼓台に乗り、それを30名ぐらいの大人が担いで練り歩く。掛け声は「ヨイヤサーノセー」で、悠長なテンポである。
但し、神社から4kmも離れた集落では、坂道もあるので、2時間も重さ約1トンの太鼓台を担いで宮入すると、途中でへばってしまうので、最近では神社近くまで手押しの台車で曳行したり、大型トラックの荷台に太鼓台を載せて運んでいるようであった。
東吉野村は林業が基幹産業なので、昔は毎日のように丸太を担いでいたので力持ちの男が多く、自分たちの住んでいる地区から神社までの遠い道程を1トン近い太鼓台を担いで宮入したそうだ。
今は、便利なフォークリフトや荷台にクレーン付きのトラックが普及しているから、製材所内で丸太を担ぐようなことは少なくなって、山男の体力は落ちていると思う。
小川祭の日の女児は、丹生川上神社の臨時の巫女さんになって、14日の朝9時に神事参加資格の修祓(しゅばつ:おはらい)を神職さんから受けるが、ぼくが神社に着いたのが10時頃だったので、修祓式の写真は撮れなかった。
東吉野村でも山奥の集落では空き家が散見されて過疎化(人口が2,426人:2007年10月時点)が進んでいるが、このお祭りの時だけは、都会に出ていった若者も帰省して太鼓台を担ぐ。普段はひっそりとした山村だが、この日だけは村民が大勢集まって賑々しく、見せ場の多い楽しい祭を見せて頂いた。
吉野郡は奈良県南部の郡で3町8村が含まれる。面積は約2,257平方キロメートルで、大阪府全体の約1,897平方キロメートルよりもはるかに大きい。吉野郡の人口は約59,000人で、大阪府には約8,829,000人が住んでいる。人口密度にかなりの違いがあるが、地勢的なことを考えると納得がいく。
吉野郡に編入されている村は、殆どが森林山岳地帯で、平野部が殆どない。水田は少なく自給できるほどの米は採れないが、お祭りには餅撒きの慣習があって、年に3回ほどは餅を搗くらしい。
吉野と言えば桜の名所であるが、東吉野村の基幹産業は林業で、吉野杉やヒノキの生産と製材が中心だ。ぼくは、杉と桧(ヒノキ)の違いが分からないので、地元の方に訊いてみた。そしたら傍に生えている杉と桧の樹木から葉っぱを無造作に千切って、違いを見せて頂いた。百聞は一見に如かずである。木材で比較すると、杉と桧では香りが違う。
ぼくは大阪市南東の平野区に住んでいるので、平野区から国道25号線を利用、河内国分の交差点で国道165号線、穴虫西・右折で大和高田バイパス、御所市東佐味・左折で国道24号線、五條市三在・左折で国道370号線
(伊勢街道)、吉野町下市口で国道309号線と400m合流するが吉野川に沿って東進、吉野町土田の交差点から国道169号線と合流する。宮滝大橋・左折で国道370号線
(伊勢街道)へ、窪垣内・新(あたらし) から県道16号線(伊勢街道)へ向かうと、道路の右側に高見川が見え次第に山深くなって、芳(かぐわ)しい森の匂いが車内に入ってくる。東吉野村村役場に着くと県道220号線に入って少し走ると丹生川上神社に到着する。
東吉野村で大和上市寄りの集落・小栗栖(こぐりす・こぐるす)付近では、住宅建築用木材の製材所が多い。間伐材や建築端材を利用した木工品や製箸(割り箸)加工も行われている。
小栗栖の木工店「東吉野」さんにアポ無しで立ち寄って、男の仕事場の写真を撮らせて貰った。写真を撮った後で、ヒノキの端材をサイコロ状にカットしたものを「入浴用」に頂いた。
自宅マンションのバスタブは合成樹脂だが、貰ったヒノキの木片を湯の中に浮かすと、ヒノキの芳香がバスルームに充満して、取材の疲れがスーッと取れていくような気がした。入浴後は木片をバスタブから引き上げて乾いた部屋で自然乾燥させれば、何回も反復使用ができるらしい。
大阪市平野区の自宅から東吉野村の丹生川上神社へ車で行った場合の片道の走行距離は73kmで、一般道で行けば2時間半ほどかかる。天川村(てんかわむら)の洞川(どろがわ)へ行くのと殆ど距離が変わらない。
ぼくは、洞川へは名水の「ごろごろ水」を2009年頃まで汲みに行ってたが、今回は「水の神様」を祀る場所に行ったわけだ。
奈良交通バスだと、近鉄大阪線の榛原駅から奈良交通の「大又」行きのバスが5本(直通は2本、途中乗換が3本)、近鉄南大阪線の大和上市から1本(新子:あたらしで乗換)が出ているが、昼間のバスが少ないので不便である。
吉野郡東吉野村は、今も緑濃い豊かな大自然が残っているところで、明治38年(1905年)まで「ニホンオオカミ」が棲息して捕獲された場所で、捕獲したオオカミの剥製標本は英国から派遣された探検隊に買い取られ、大英博物館にニホン
オオカミの標本が展示されているようだ。
オオカミの剥製が売買された場所が東吉野村の鷲家口(わしかぐち)なので、標本採集地に「ニホン ホンド ワシカグチ」と記録されているらしい。林道を走っていると野生の鹿が前方を横切った。奈良公園のボーっとした鹿とはちょっと違う。動きが俊敏だ。最近では、鹿や猿が農作物を食い荒らすので、山村の住民は畑の周りに防護ネットを張る費用が大変らしい。
今回の取材は、人情の厚い地元の方々に協力して頂いた。伊豆尾のてっぺんから高見山を撮りたいので、林業をやっておられる方に展望の良い場所を訊いたところ、普通乗用車では入れない狭くて急坂の林道を通らなければならないので、軽トラに乗せてもらって見晴らしの良い場所に案内して頂いた。
取材した日の天候がイマイチだったが、三重県と境をなす台高山脈の高見山 (1248.9m)
の三角形の頂上部分が伊豆尾の高所から良く見えた。
また、厚かましく木工工房の中に入って、木材加工の写真を撮らせて頂き、お土産まで貰った。小川祭では、村の方からお酒を勧められたりもした。飲酒運転になるので、これはご遠慮させて頂いた。
高見川の水はきれいで、6月〜9月頃は、入漁券を買えば、アユの友釣りやアマゴ(ヤマメ)釣りも楽しめる。大豆生
(まめお) では、廃校になった小学校を利用した宿泊施設「ふるさと村」やキャンプ施設、ヒノキ風呂の温泉「やはた温泉」もあって、子供連れのサマーレジャーにはお奨めなところだと思う。トンボや美しい蝶も多い。ディズニーランドやUSJに行くのもいいが、都会育ちの幼い子供たちには大自然の中で遊ばせる事も大切なことだとつくづく思った。