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えべっさん

大阪市内の祭は、1月9日の「えべっさん」で始まって11月23日の「神農さん」で終わります。今回、当サイトのトップページに載せたイラストは尾林正利が1991年1月10日にスケッチ用の写真取材して描きました。仕事の合間に少しずつ下絵を描き、着色した絵の完成は7月24日です。
絵の背景は「中座」ですが、今は取り壊されてレジャービルになっています。上の絵をご購入される方は原画を忠実に再現した「四つ切」プリントをステンレス調の額に入れて17,000円 (送料込み) で販売しておりますので、ご希望の方は、フォームに「お名前」、「メールアドレス」、「 ほえかご 」と、ご記入してください。ご注文をお待ちしております。

上の写真は、大阪市中央区の宗右衛門町にある老舗茶屋の「南地大和屋」さんの前で2005年1月11日に行われた、今宮戎神社に向かう「宝恵駕籠参詣隊(ほえかご さんけいたい)」の出発式で紙吹雪が撒かれます。 カメラは、FUJI FILM FinePix S3Proで、レンズは、Nikon AI AF-S Zoom-Nikkor 17-35mm f/2.8D IF-EDを使用しました。


上の写真は2005年の「福娘」さんたちです。後ろの宝恵駕籠は、歌手や芸能人、歌舞伎役者が松竹座の付近で乗りますが、戎橋や心斎橋筋でファンサービスするだけで、今宮戎までは乗りません。

宗右衛門町で宝恵駕籠参詣隊の出発式が終わると、猿田彦 (天狗さん) のお面を被った人が先頭に、大阪のミナミの心斎橋筋を練り歩いたあと、本隊は今宮戎に向かいます。

宝恵駕籠参詣隊は、周囲を囃しながら行進します。
囃子は、幇間 (ほうかん) たちが「えらいやっちゃ えらいやっちゃ、えらいやっちゃ えらいやっちゃ」と叫ぶと、
芸妓 (げいぎ・大阪では、げいこ) さんたちが、「ほえかご ほえかご、ほえかご ほえかご、年の初めのえべっさん、商売繁盛で笹持って来い」と2度繰り返します。


芸妓が乗った宝恵駕籠は今宮戎神社拝殿前で「籠上げ」をします。「えべっさん」が終わると大阪の商人たちは正月気分が抜けて、通常の商売に精を出します。




どやどや

えべっさんが終われば、今宮戎神社と関係が深い、大阪市天王寺区の「四天王寺」さんの六時堂で、元旦から14日まで行われる修正会 (しゅしょうえ) のご祈祷が行われます。
僧侶による「天下泰平」・「五穀豊穣祈願」の法要が行われ、1月14日には牛王宝印 (ごおうほういん) という魔除けの護符を天井から散蒔き、それを締め込み姿の若衆が奪い合う風習が現代に根付き「どやどや」と言われています。この絵を描いたときは、清風学園高校?の男子生徒が参加していました。

スケッチ用の写真取材は1991年(平成3年)1月14日です。作画は10月30日に描き始め11月4日に色付け完了しました。上の絵をご購入される方は原画を忠実に再現した「四つ切」プリントをステンレス調の額に入れて17,000円 (送料込み) で販売しておりますので、ご希望の方は、フォームに「お名前」、「メールアドレス」、「 どやどや 」と、ご記入してください。ご注文をお待ちしております。




おいなりさん

伏見稲荷大社には何回も行っています。 2005年2月22日には、参拝客が少なくなる時期なので「千本鳥居の」をFinePix S3Proで撮影をしました。
上の写真は、参道や境内が混雑する三が日を避けて、好天の2012年1月5日にCanon EOS5Dmark2で撮りました。レンズは、EF24-105mm f/4L IS USMです。2007年1月3日に撮った写真は曇天下だったので、入れ替えました。


上の写真は、稲荷信仰の篤い「豊臣秀吉」が、母の大政所 (おおまんどころ) の病気が伏見さんの特別なご祈祷執行で治ったため、秀吉はお礼に伏見稲荷の本殿や拝殿の修復を行い、新たに「楼門」を寄進しました。写真が楼門で、安土桃山時代の社寺建築が伏見稲荷大社に残っています。

楼門から見た境内の参道です。お正月の三が日は、参詣者が一杯で満員になります。1月5日に行けば、伏見詣でがラクになります。

上の写真は、昨今では「外国人観光客」で超人気の"千本鳥居"の途中の入口です。初詣 (はつもうで) の混雑を配慮して「複線」区間にした鳥居のトンネルです。お正月は画面左が奥社奉拝所への登り専用になり、右は奥社からの本殿への帰り道になりますが、途中で合流します。
千本鳥居の通行料や奥社奉拝所の入場は無料ですが、伏見さんの境内にはお社が多く、賽銭箱が沢山ありますので、神前で祈願成就を望む時は、ポケットに賽銭用の小銭を用意しておきましょう。先に賽銭を入れてから、鈴を鳴らします。鈴の音で浄め、神霊を呼ぶわけです。
日本の神さんは耳が遠いので、神前で"二礼二拍手一礼"(二拝二拍手一拝)して参拝するルール (決まり) が一般的ですが、神社によって拝み方が異なる場合もあります。本殿に昇殿して玉串奉奠する場合 ( 正式参拝する場合 ) は、賽銭ではなく神社が定めた玉串料が要ります。

上の写真は、千本鳥居の中です。これは、本殿側から撮ったもので、逆 (奥社側) から撮ると、鳥居を寄進した会社名や個人名が彫られています。

千本鳥居は隙間が殆ど無く建てられていますが、カーブの所は隙間があるので、陽が差し込みます。美しいですね。人のいない写真はお正月には撮れませんので2005年2月22日の好天の日を選んで撮影に行きました。ここに鳥居を建てたい方は奥社奉拝所で受け付けており、規定の初穂料を奉納しなければなりません。

上の写真は、奥社奉拝所で撮りました。灯籠の上に乗った「おもかる石」を持ち上げ。「思っていたより軽く感じたら」願いが叶い、「重くかんじたら」願いが叶わない...というもので、ぼくが行った時は列が出来ていました。この写真は2007年1月3日に撮りました。

上の写真は、「おもかる石」のある奥社奉拝所で撮りました。お正月に神社に行けば、「おみくじ」を引きますね。小さなお子さんが、おみくじを真剣な眼差しで見ているのに驚き、シャッターを切りました。

お正月

おいなりさん詣でと、えべっさん詣で


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写真取材:えべっさん取材:2005年1月11日 (残りえびす)
初稿掲載:2005年1月11日 カメラ:FUJIFILM FinePix S3Pro
レンズ:Nikon AI AF-S Zoom-Nikkor 17-35mm f/2.8D IF-ED
写真取材:おいなりさん取材:2012年1月5日
カメラ:Canon EOS 5Dmark2
レンズ:EF24-105mm f/4L IS USM
記事と写真、WEBページ制作:尾林 正利
写真と記事のリニューアル掲載 2015年12月21日

お正月

時代が変わっても、大晦日とお正月というのは、殆どの日本人が特別な意味を持つ日だと思います。
義理人情を大切にしていた昭和の時代が遠のき、人情よりもドライな (利己的、他人とは関わりたくない) 人間関係を志向する情報化社会の中で暮らす人が増えた平成になって、単身者や核家族の世帯が増え、家族全員が同じ屋根の下で一緒に暮らしていた頃に比べ、日本人の気質が西洋風に変わってきたような感じがしますが、親と子の人生観が変わっても、お正月には、実家に里帰りされる方も多いと思います。
里帰りと言えば、昭和は鉄道利用が殆どでしたが、高速道路網が発達した平成になってからは新幹線よりも価格の安い夜行の高速バスの利用とかマイ・カー帰省が増えました。

ぼくが成人式を迎えた昭和39年 (1964年) は、東京オリンピックの年でした。
同年の10月1日に国鉄東海道新幹線 ( 現在はJR東海 ) が東京駅〜新大阪駅まで開通し、当時は線路に入れた砕石の地盤慣らしのため、最高速度を時速220キロ運転に下げたため、最速の「ひかり」で4時間も掛かりました。現在のN700系の最速「のぞみ」は、東海道区間の最高速度は時速285キロ運転で、東京〜新大阪を下りが2時間22分、上りが2時間23分で走ります。

ぼくは、新幹線が開業した年に、TVCF (テレビ・コマーシャルフィルム) の撮影助手として運良く新大阪〜浜松まで「こだま」に乗車しました。時速220キロでも、車窓を流れる景色の速さは驚きで、友達に自慢したのは言うまでもありません。
でも、新幹線と言えば、個人的にはダブルデッカーの食堂車とグリーン車を2両 (後に4両) を連結した100系ひかりの方が好きですね。近鉄の30000系ビスタ・カー(現在はビスタEX)より車窓がワイドなんです。

銀座の富士フォトサロンで作品展をした一週間の東京出張の帰りで、快晴だった1987年11月27日、東京発のAM10:00発のひかりに乗車すると、車掌のアナウンスで "食堂車" を連結していることが分かり、新丹那トンネルを抜けたら食堂車に行きました、カレーライスとホットコーヒーを頼み、二階席のワイドな車窓から眺めた雪化粧の富士山は素晴らしかったですね。二年後にはダブルデッカー4両の編成が投入され、「グランドひかり」と命名されました。早々と引退したのが惜しまれます。

新幹線開業当時は、国鉄の非電化区間には蒸気機関車 ( SL ) が牽引する旅客列車や貨物列車が現役ばりばりでした。記憶では函館から札幌までC-62が牽引する「ていね」に乗ったことや水俣〜博多(急行さつま)、三原〜呉でもSL牽引の「音戸」に乗車した思い出があります。仕事でデゴイチ (D51) の3重連を撮りにクルマで岡山県の新見まで行ったこともありましたが、伯備線の布原信号所付近にある鉄橋へ着くのが遅れ、撮れませんでした。
旅をしていると、やはり、SLの汽笛が郷愁 (ノスタルジー) に誘われて良いものですね。

ま、お正月には、早朝から家族揃って近くの神社に初詣 (はつもうで) し、神社で授与された御札を自宅の神棚に御飾りしてから皆揃って食卓について、お屠蘇で乾杯し、主食の丸餅が入ったお雑煮を食べ、重箱に飾った御節料理を頂くというのが、昭和の時代の一般家庭の習わしでした。

でも、時代が平成に変わって、大阪では、そういう先代からの仕来りを守っているご家族は減ってきてると思いますね。
歌謡曲や演歌、童謡に唄われている長閑な故郷 (ふるさと) の情景は、昨今では幻 ( まぼろし) になりそうです。
「うさぎ追いし かのやま 小鮒釣りし かのかわ...」は、旧文部省唱歌ですが、今の小学校でも唄っているんでしょうかねえ。
大阪府では、ぼくが9才だった昭和28年(1953年) 頃に、富田林市から羽曳野市に至る羽曳野丘陵でウサギ狩りをやっていた話しを聞いたことがありますが、ウサギは鶏 (にわとり) と同じ扱いで、数を勘定するときは、1羽、2羽って数えるんですよ。現在の日本でウサギ狩りをするような家庭は秋田のマタギ以外にはないと思いますね。フランスでは、食用と毛皮用に兎狩りを続けていますが。パリのムフタール市場で仕留めたウサギが肉屋さんの店頭に吊ってありました。日本の女子児童が見たら泣くかも。

ところで、平成28年 (2016年) の干支 (えと) は、猿年とは書かず「申年( さるどし )」です。
私事で恐縮ですが、ぼくの干支 (えと) になります。1944年生まれの申年生まれです。
昭和19年 ( 1944年 ) は旧暦の「甲申」に当たり、干支占いでは「二黒土星」のようです。
二黒土星をちょっとググって ( Googleで検索して) みますと、性格は、如才無い ( 気が利く)、抜かりが無い、世渡り上手な人が多いそうですが、世渡り云々は別にて、ま、少しは当たっていますね。

干支占いをあまり信じませんが、ぼくの性格は「八白土星」の性格に近いです。そこに書かれた性格判断では、仕事好きで他人の領域へも入り込んで、全部やってしまうが、飽き性で長続きしない...ぼくのことじゃありませんか!

ぼくも写真、イラスト、執筆、WEBページ制作を1人でやっており、的中していますね。
しかし、写真撮影・グラフィックデザインと絵画制作・エッセイの執筆・WEBページ制作の仕事は、50年(写真撮影の仕事)〜17年(WEBページ制作の仕事)もやっていますが、全く飽きません。

お正月と言えば、個人的には京都市にある、「おいなりさん」こと、伏見稲荷大社への参詣と、御節料理、御用始めの数日後に行われる「えべっさん」こと、今宮戎神社への参詣を思い出します。
今回のトップページには、お正月に因んで、おいなりさん、おせち料理、えべっさんをテーマにしました。

三が日に神様詣 (かみさまもうで) で行く神社は、京都の伏見稲荷大社です。大阪からクルマで行くと、神社から数キロ離れた場所に駐車しなければならず、道中もかなり渋滞しますので、始発駅の淀屋橋駅から京阪特急で伏見稲荷駅へ行きます。京阪特急は伏見稲荷駅に停車しないので、丹波橋駅で普通電車に乗換え、伏見稲荷駅で降ります。(昨今では、京橋〜七条間がノンストップ運転の特急「洛楽」が復活して丹波橋駅を通過する特急もありますから、乗車の時に駅員さんにご確認して下さい。

因みに伏見稲荷の主祭神は宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ) ですが、これは「古事記」名で、「日本書紀」名では倉稲魂命(ウカノミタマ ノミコト)と表記します。
諸説はありますが、日本書紀では3世紀?頃に応神天皇に仕えた弓月君 (ゆづきのきみ) は、紀元前3世紀中に栄えた古代中国の秦という国の帝王の末裔らしく、その秦氏一族が百済を経由して、倭の国 ( 日本)に渡来し、わが国に帰化して山城国(今の京都市) の深草や太秦 (うずまさ) に住みつきました。秦氏らは、養蚕と絹織物の生産、土木工事と建築工事が得意で、数年後には在日の小豪族になりました。

飛鳥時代の欽明天皇が、幼い頃に夢に見た「秦 (はた) の大津父 (はたのおおつち)」を側近に登用すれば天下をうまく治められる」と聞いて、大和にあった宮殿から深草にいる秦氏へ使いを出して、数学 (経理) ができる大津父を閣僚 (大蔵大臣) に登用しました。やがて、伊呂巨( いろこ・伊呂具:いろぐ) の時代になって、得意の養蚕で作った絹織物を天皇家に献上し、秦氏の子女が天皇家と姻戚関係を持ったので、秦氏の氏神神社である伊奈利社 ( いなりしゃ) が伏見に、松尾社が太秦に創建することを天皇から許されました。

社伝によりますと、稲荷信仰の原点は「稲荷山」にあって、稲荷大神=宇迦之御魂神が鎮座されたのは、奈良時代初めの和銅4年 ( 711年) 2月初午の日だとされています。奈良時代から現代に続くどの時代でも身分に関係なく、参詣者から「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、とくに五穀豊穣・商売繁盛・交通安全の神として、日本中に稲荷信仰が根付きましたが、室町時代に10年も続いた応仁・文明の乱によって、上社・中社・下社の本殿と拝殿が焼失し、しかも重要な資料も焼失したそうです。

諸国勧進による寄進で仮殿が建てられましたが、今のように立派な本殿や拝殿に復興したのは、戦国時代に頭角を現した豊臣秀吉のお陰だそうです。
太閤の稲荷信仰もあって、伏見稲荷大社の近くに伏見城を建てて城下町を整備したのです。
秀吉の母・大政所 (おおまんどころ) が重病になり、秀吉が「母の大病平癒を伏見稲荷に祈願し、願いが叶ったら1万石を寄進する」と申し出て、伏見稲荷では特別な祈祷を執行して母の病が治ったそうです。この御利益 (ごりやく 霊験) によって、秀吉の稲荷信仰は一層篤くなり、本殿や拝殿の修復、楼門の新築が行われ、現在に至っています。

ぼくは数年前まで広告写真家で、クルマを運転することが多かったので、商売繁盛と交通安全を願って伏見詣でをしてきました。
豊臣秀吉が寄進した楼門近くにある、本殿や拝殿をお詣りして帰る人は多いですが、高校時代に足腰を鍛えた健脚のぼくは千本鳥居をくぐって奥社奉拝所に詣ります。体調は良いときは稲荷山の参詣道を一周します。
奥社には「おもかる石」が灯籠の上に乗っかっていて、持ち上げる時に想像よりも軽く感じたら願いが叶い、重く感じたら願いが叶わないということで、伏見さんへ行ったら必ず持ち上げていましたね。
ぼくは奥社にある社務所で新春の御札を授与して頂き初穂料を納めて帰ります。バブル景気絶頂期には語呂合せの小切手を奉納していましたが、それが幸いして商売が順調でした。

三が日の伏見稲荷大社はすごく混んでいて、京阪の伏見稲荷駅からの参詣道 (裏参道) と境内の参道はぎゅうぎゅう詰め状態です。裏参道には、飲食店や土産屋が軒を連ね、伏見名物の「すずめの丸焼き」を売っていて、スズメを食べるのは可哀想な気がして未だ食べていませんが、奥社にお詣りしてから小腹が空いた時は「関東炊き(発音は、カントダキ)」 や少し甘い油揚げが入った「いなりうどん」はよく食べていました。
京風の食べ物は、総じて大阪よりも薄味ですが、美味しいですよ。大阪の「きつねうどん」と京都の「いなりうどんは」ちょっと違います。大阪では三角形の油揚げですが、京都では短冊形です。
おいなりさん詣での帰りは、お土産に「すぐき(酸茎)」を買います。最初は裏参道で買っていましたが、京阪の祇園四条駅から西の錦市場へ寄り道して専門店で買うことにしました。


京都・錦市場近くにある「千枚漬」けがメインの大藤 (だいとう) さんの店舗ですが、「すぐき」もおいしいです。すぐきは平安貴族の食べ物だったらしいのですが、遠方の方には、すぐきの「真空パック」も販売されています。植物性乳酸菌による発酵食品で、すぐきが乾燥すると味が落ちるので、ラップに包んで冷蔵庫の野菜室に保存し、買ってから3日以内に食べた方がいいでしょう。

すぐきは晩御飯のシメに、蕪 (かぶら) や葉を刻んだすぐきに鰹節(ヤマキのかつおパック)を混ぜたものを暖かいご飯の上にのせて食べる...おいしいですね。

お正月の楽しみは、子供たちにとっては「お年玉」と凧揚げや羽根突きでしたが、ぼくが物心ついた時から「お年玉」で欲しいモノを買った記憶がありません。母は貯金するからと言って回収...母子家庭で育ったので諦めました。母は働いていたので、お節は明治生まれの祖母が、12月30日から一生懸命に御節料理を作ってくれました。

昭和三十年代の日本にはスーパーマーケットもコンビニも無いし、総菜屋さんもありません。御節料理を作るのは各家庭の主婦の仕事でした。
当時は数の子が安かったので、わが家のお節でもカズノコ ( 子孫繁栄を祈願 ) は定番でした。十分塩抜きしてからカツオ出汁か昆布出汁であっさりと味付けします。現在では食品に賞味期限が印字されていますが、昔は数年前の数の子が売られていて、いくら塩抜きしても「薬品」の臭いが消えず、味見したら苦いので全部捨てた記憶があり、今では食品添加物の有無、製造日・賞味期限・製造業者を見て買います。

子供の頃のお節料理のメニューを思い出してみました。
1:塩抜きしたカズノコを出汁に浸けたもの ( カズノコは魚卵の塊なので、子孫繁栄を祈願 )
2:紅白のカマボコ( 紅白は縁起がいい ) 、
3:鰤 (ぶり) の照焼 ( ぶりは出世魚だから縁起がいい:焼いた鯛でもOK) 、
4:車エビの焼き物 ( 海老は背中が丸いので長生きを祈願 )、
5:田作り(ごまめ:カタクチイワシの小魚を植物油で炒めて砂糖醤油で味付けしたもの;昔は、売れない小イワシを肥料にして豊作になったので五穀豊穣を祈願 )、
6:たたきごぼう (酢ごぼう:牛蒡はしっかりと大地に根を張るから)、
7:紅白膾 ( こうはくなます:大根と人参を細く千切りにして酢で味付けしたもの:祝い事に用いる紅白の水引をイメージしたもの:子供のぼくは膾が嫌いで食べませんでした )、
8:酢蓮 (すばす:レンコンは穴が開いているので見通しがいいから)、
9:大きな芽のついたクワイを煮たもの ( めでたい )、
10:昆布のニシン巻き ( コンブはヨロコブの語呂合せ )、
11:金平牛蒡、( きんぴらゴボウ:人参とゴボウを千切りにして甘辛く炒めたもの、金平は役者の名前で強さのシンボル )
12:手綱こんにゃく( 長方形に切ったこんにゃくの真ん中を少し切ってを片方を突っ込んで捻る。士族の料理文化らしい )、
13:大豆の煮物 ( マメに働くことを祈願:わが家では小さなサイコロ状にカットした人参や正方形にカットした昆布も入っていた;正式には甘く煮た「黒豆」を食べます

ま、わが家では、子供が結婚するまで5人家族だったので、五段重ねの御重(わが家では陶器 ) にこのような料理を入れていましたが、現在はお節メニューは単品でスーパーの惣菜コーナーで大量販売されるので、食べたい物だけを買います。
澄まし仕立ての雑煮用の具材として、海老入り紅白の丸餅、海苔、豆腐、小芋、大根、三つ葉など、
重箱には、ボイルした薄味の車エビ、出汁で味付けしたカズノコ、紅白カマボコ、調理済みの田作り、ニシンの昆布巻き、叩き牛蒡、黒豆、ロースハムや鰤の切り身、玉子、青菜、などを入れるだけです。

自宅には1970年頃まで懐かしい2連のカマドがあって、薪 (たきぎ) の火力で羽釜でご飯を炊いていました。ぼくも羽釜でご飯の炊き方を祖母から伝授されました。
毎年、12月30日に行う餅搗きも、ぼくが高校3年生の頃まで毎年自宅でやってました。
1:お鏡餅 ( 神棚に飾る)、
2:小餅 ( 雑煮用の丸餅 )、
3:保存用の切り餅 ( 小餅に丸めるのが面倒なので搗いた餅を棒状に伸ばし、切り易い時に包丁で切って、七輪の上に網を載せ、餅が膨れたら食べる)
4:保存用の乾し餅 ( 乾いたら包丁で煎餅のように薄く切って、火の点いたかんてき(七輪)に餅網を載せて炙り、軟らかくしておやつにしていた。海老入りや胡麻入り、砂糖入りも)
高校2年生から餅を数回搗かせて貰いました。
現在では、新潟産の切り餅が近くのスーパーで年中売られていますが、餅の値段が高くなりましたね。電気オーブンの中に、餅網をセットし、餅を入れて7分加熱すれば、膨れたお餅が出来上がり...便利な時代ですわ。

ところで、明治生まれの祖母が亡くなった後は、母以外にお節を作る人がいなくて、ぼくは正月休みに長野県でスキーや石川県へ取材旅行していたので、実家には母ひとりだったので、簡素なものになりました。
兄の知り合いに某ホテルのレストランで働くコックさんがいて、そこのレストランの御節料理を2年続けて配達して貰いました。洋式おせちです。魚介類はボイルした海老とスモークサーモンと鰤の照焼だけで、肉系はローストビーフ( オーブンで蒸し焼きした牛肉 )、生ハム・ボロニアソーセージ( 牛や豚の挽肉を混ぜ、牛腸ケーシング 又はコラーゲンケーシングしたもので、直径36mm以上のソーセージ )とか、燻製のロースハム、チキンの唐揚げ、サラダが入っていました。前菜 (オードブル) は無かったですね。
洋風にしてから、カロリー満点で正月太りしました。一時は神戸三宮のトアロードにあった「デリカッセン」でハムやソーセージを買いに行ってたのですが、阪急百貨店梅田店の食料品売場でも買えるようになりました。
洋食も良いですが、やはりお節は和食の方がお正月の雰囲気としっくりしていいですね。

ま、今のぼくは独り住まいなので、スーパーで買ってきた出来合のお節やロースハムと紅白カマボコを重箱の中に並べるだけです。下の写真は、2011年の大晦日に手早く用意したものです。
味付け煮玉子と手綱コンニャク、鶏肉だけは自分で味付けしましたが、売り物ではないので、盛り付けは手を抜いています。関西で一番好きなお酒は伏見の純米吟醸酒「玉乃光・酒魂」です。冷やでも燗でも愛飲しています。洋酒はスコッチの「バランタイン12年」ものをオンザロックで愛飲しています。ビールはキリンの「のどごし<生>500ml」を愛飲しています。

正月に食べる御節料理には、1:かずのこ(子孫繁栄)、2:田作り(五穀豊穣)、3:黒豆(マメに働く) が必須アイテム(品目)らしいです。近くのスーパーでは、クリスマス商戦の12月25日6時頃からカマボコの値段が急に上がりますので、クリスマスイブの日に買い出しに行きます。ロースハム、紅白のカマボコ、車エビ、田作り、黒豆の甘露煮、ニシンの昆布巻は年中販売されていますが、叩き牛蒡が売場に出るのはクリスマス後ですね。ぼくは2日分しか作りません。お節料理は体が温まらないので、3日の夕食には鍋料理かカレーシチューにします。なお、海老の入った丸餅は28日、29日、30日の午後に少しずつ販売され、すぐに売れきれるので、前日に店員さんから販売時刻を訊いて買いにいきます。

さて、三が日はあっと言う間に過ぎます。
毎年の正月は、フジテレビ ( 大阪では関西テレビ ) の「新春スターかくし芸大会」を楽しみにしていたのですが、それが2010年に終了して、昨今はお正月のテレビ番組が寂しくなりました。「ミスターかくし芸」と称賛された堺正章さんの芸を観たかったですが...やはり、マンネリ感は否めず、休日ゴールデンの視聴率で二桁取れなかったのが響いたんでしょうね。

大阪では大発会 ( だいはっかい:新年早々に行われる証券取引所で取引が行われる1月4日 ( 土日が重ならない場合 ) の初日の祭事 ) から5日経った9日から、南海電鉄の今宮戎駅近くにある今宮戎神社では「十日戎:えべっさん」の祭が賑々しく行われます。ぼくは3回写真取材しました。

えべっさんと言えば「福娘」です。応募者が多く、ま、良家の子女さんにアドバンテージ (有利) が高そうですが、厳しい審査で福娘に合格すると、履歴書や経歴書に書けば就活にプラスになります。
ぼくは、南地花街にある宗右衛門町の茶屋「南地大和屋(なんち やまとや)」さんから出発する宝恵駕籠参詣隊 (ほえかご さんけいたい ) に興味を持って3回も取材に行きました。

1992年の取材では、旧専売公社 (JT) の前で行われた鏡開きでは、宝恵駕籠に乗った祐子さんから「カメラマンさまもどうぞ」とお酒を注いで頂きました。周りを見渡すと報道関係者は誰もいなかったですね。
芸妓さんが乗った宝恵駕籠参詣隊だけが今宮戎へ参詣しますが、宝恵駕籠が一挺の年もあれば、三挺の年もあります。宝恵駕籠には、歌舞伎役者・プロ野球選手・芸能人が乗りますが神社までは行きません。
「ほえかご ほえかご、 ほえかご ほえかご、年の初めのえべっさん、商売繁盛で笹持ってこい」の掛け声がいいですね。

子供から見たえべっさんとは、甘すぎる「福あめ」でした、昭和31年(1956年) 頃に食べた経験があります。長細い円筒形の飴で、表面はどぎついピンク色です。断面にお多福の絵が色粉で書いてあるんです。だから、どこを切ってもお多福の絵が、巻き寿司のように出てきます。

ぼくが小・中学生のころは、えべっさんへお詣りしたおっちゃん達から「福あめ」を頂いたのですが、昭和33年頃の福あめは、砂糖ではなく、人工甘味料のサッカリンで作られていたので甘苦く、おいしい飴では無かったですね。今は砂糖が安いのでサッカリンを使っていないと思いますよ。

実は、ぼくがえべっさんに興味を持ったのは、48歳過ぎてからなんです。
だから、それまでは神社の主祭神のことや例祭の由緒などを知らずにお詣りしていたのです。
平成4年 ( 1992年 )〜6年(1994年) 頃に大阪本ブームが起きて「大阪本」が書店の入口に平積みしていた時に、数冊買って読みました。
しかし、平成7年1月に起きた阪神・淡路大震災の影響で、大阪本ブームは早々と収束しましたが、日本の祭を撮りたかったぼくは、神社神道を勉強し、神社の由緒に興味を持ちました。
それで、今宮戎神社にも興味を持ったワケです。

ところで、大阪市内の大阪平野というのは、完全な平野ではなくて、大阪市住吉区の住吉大社付近から中央区の大阪城に至る「上町台地」という丘陵があって、地下鉄谷町線の「四天王寺前夕陽丘駅」〜「谷町4丁目駅」付近の地上が標高が高くて、四天王寺で標高21mほどらしく、今でも急坂の上から美しい夕陽が眺められます。
江戸時代は夕陽丘の高所から大阪湾が眺められたそうで、現在は大阪湾が沖の方まで埋め立てられて舞洲 (まいしま) のような人工島が出来、高層ビルや工場が建ち、海は見えません。JR難波駅は、国鉄時代は「湊町」駅でした。つまり、大阪鉄道 (今の大和路線) が開通した明治時代の初めから、そこから西は大阪湾だったのです。

今宮戎神社は、難波の近くにあるので、海と関わる由緒があったワケです。
大阪市浪速区にある今宮戎神社の社伝によりますと、お社(やしろ)ご鎮座の起源は飛鳥時代に遡り、聖徳太子が建立したと伝えられる四天王寺の西方の守護神社として現在地に奉祀されたそうです。
現在は戎神の一神とされる事代主神(ことしろぬしのかみ)を御祭神にされていますが、ご鎮座当時は戎社ではなかったようです。

では、今日のような「えびす信仰」や「十日戎」の行事は、いつ頃から始まったのでしょうか?
平安時代の中期には、兵庫県の西宮の浜近くに、廣田神社の末社として、記紀(古事記と日本書紀)に記載されている「蛭児命(ひるこのみこと)」を主祭神とする戎社(今の西宮神社)が鎮座されました。

記紀には、イザナギとイザナミの子であった蛭児(ひるこ)は、生育が遅過ぎるので葦舟に乗せて海へ捨てられと書いてあるそうですが、記紀を読んだ後世の人々は、蛭児命が海の神様になってどこかへ漂着したという信仰が生まれたわけです。蛭児は蛭子とも書いて「えびす」と読みます。

戎(えびす)とは意味がちょっと違うようです。戎とは、日本では浜辺に打ち上げられた他国からの漂着物を祀ると、幸せが訪れるという民俗信仰がありますが、中華思想によると「西戎(せいじゅうに)」に当たるので、明治時代から、政府が西洋諸国との外交関係に気兼ねして、戎の表記を大阪では恵美須、東京では恵比寿という当て字に書き換えられた例もあります。

因みに、西宮という地名の由来は、平安京が建都される前から、京から遥か西の廣田の国(今の芦屋・西宮・尼崎西部)に広大な社領を持つ「廣田神社(天照大神の荒魂を奉祀)」が建てられており、平安中期の延喜式神名帳では「名神大社」に列せられたので、平安時代から平成に至るまで皇室から幣帛が下賜されるほどの格式があり、平安貴族の参詣も多く、平安京の貴族たちは廣田神社のことを西宮と呼んでていたそうです。

しかし、室町時代から七福神信仰が大衆に広まり、廣田神社の末社であった戎社の方が有名になって、近世では西宮と云えば、大衆的な西宮神社のことを指すようになっています。
蛭児命のことは、書くと長くなるので省略しますが、「蛭子」に「戎」が習合したことから、平安時代の後期から西宮の浜で行われていた民間行事の浜の市の守護神になり、航海の安全と大漁を祈願する漁師たちや商売繁昌を祈願する市の商人たちから篤い信仰を集め、西宮の戎社もえびす講の奉賛者が増えて発展していきました。

大阪においても、西宮の浜の市とほぼ同時期に、四天王寺の西門(さいもん)前で浜の市が定期的に開かれるようになり、四天王寺と親交のあった「今宮」に、市の守り神として「えびす神」の分霊が祀られるようになり、大阪でもえびす信仰が徐々に広まっていきました。

因みに、今宮の地名の起源は、半農半漁の村であった「今村」にえびす神を祀るお宮さんが建てられたので、「今村の宮」が訛って「今宮」と呼ばれるようになったそうですが、本当かどうかは判りません。今宮が近世まで海岸近くにあったことは事実で、西成区の萩ノ茶屋に入船、天下茶屋北に今船、海道という地名が残っていています。

十日戎の行事が行われるようになったのは、西宮神社では鎌倉時代の終わり頃に「忌籠祭(いごもりさい:戸締まりして部屋に籠もって沈黙する)」という厳かな神事をやっていたようですが、今宮戎神社ではかなり後の江戸時代の延宝3年(1675年)頃から宝恵駕(ほえかご)奉納の行事が行われていたそうです。人形浄瑠璃の「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ:半七と三勝の心中事件を芝居に脚色)」にも語られているところから、江戸時代中期の元禄期(1688〜1703年)に遡ります。

大坂夏の陣(慶長20年:1615年、元和(げんな)元年)の絵図などを見ますと、大坂城と城下町一帯が徳川方と豊臣方の兵火によって、武士だけではなく多くの町民も犠牲者になって、城や町家も焼かれて焦土と化しましたが、江戸幕府の二代目将軍になった徳川秀忠は、大坂城城代に家臣の松平忠明を赴任させて、元和2年から戦乱で荒廃していた大坂の復興と大坂城天守閣の再建に当たらせました。

大坂の陣の勝敗が決した元和元年は、南長堀運河(道頓堀川)が開通した年でした。道頓堀川の開削は、豊臣家から許可を得た平野郷商人の成安道頓によって掘削工事が行われましたが、道頓が豊臣方に味方して夏の陣で戦死されたので、仕上げの工事を道頓の従弟であった安井九兵衛(安井道ト:どうぼく)が道頓の遺志を引き継ぎ、東横堀川の生玉付近から西へ真っ直ぐ大阪湾へ流れる運河を開通させました。このようにして、東西南北が東横堀川・西横堀川・南長堀川・長堀川の運河で囲まれた「島之内(しまのうち)」という商業予定地が出来たのです。

島之内が出来た頃は未開地も多く、二度の大坂の陣で荒れ地になった所に墓地が散在し、大坂へ赴任してきた松平忠明は気になって、島之内に散在する墓地と島之内の西端にあった刑場を島之内の外へ移転する事業から着手しました。そして、安井九兵衛を大坂三郷の南組惣年寄に就任させて、島之内一帯の商業開発に当たらせたのです。

南長堀運河は、成安道頓の功績を讃えるために、名を冠して道頓堀川と呼ばれるようになり、道頓堀運河の開通によって、大坂市中の水路が次第に網の目のように張り巡らされて、舟運による物流が活発になり、諸国の特産品が大坂に集まって商業が栄えるようになりました。現在の大阪市の礎 (いしずえ) である大坂三郷(北組、天満組、南組)の町割は、豊臣秀吉の時代に着手し、江戸時代に整備されていったのです。

大阪市民の正月三が日の年頭行事は、太鼓橋(反橋:そりばし)と国宝の本殿で有名な住吉さん(すみよっさん:住吉大社の愛称)へお詣りされる方が多いと思いますが、大阪商人が仕事始めにお詣りに行くところは、「えべっさん」になるでしょう。

大阪人は、今宮戎神社で行われる十日戎の祭礼を「えべっさん」と、親しく呼んでいます。十日戎の期間中は、地下鉄などに乗っていると、吉兆(きっちょう)という縁起物で飾った福笹(ふくざさ)を手にしている人をよく見掛けます。

福笹は、福笹授与所で渡された笹を吉兆授与所に持参して、小判や米俵、宝船や熊手、御札などの「縁起物」を付けて頂き、初穂料を奉納します。神様をお祀りしている神社で、「料金はいくら?」と訊いてはいけません。「初穂料をいくら奉納すればいいのですか?」が無難です。でも、庶民的な「えべっさん」なら、「これ、なんぼ?」はOKでしょう。

下の写真は、今宮戎神社周辺の露店で売られている「縁起物」で、七福神の中の恵比寿さんを笊 (ざる) に飾ったものが多いです。理由は「福をすくい取る」という洒落からデザインされました。大阪で飲食店経営の方は、これを買ってお店や調理場に飾る方が多いです。

十日戎は曜日に関係なく、毎年1月9日から11日まで行われ、9日は宵えびす、10日は本えびす、11日は残りえびすと呼びます。通例では、本えびすの日に宝恵駕籠奉納の行事が行われるようになっていますが、2010年は宵えびすの午前10時〜12時に行われました。宵えびすには、木津市場が奉仕する献鯛行事があります。

江戸時代の元禄期になると、十日戎の行事を後援する様々なえびす講(組合や振興会)が結成され、南地五花街の一つであった島之内の宗右衛門町(そうえもんちょう:発音はそえもんちょう)からも、芸者が乗った宝恵駕籠行列が商売繁昌を祈願して市中を練り歩いて、今宮戎神社へ賑々しく参詣する行事が定着しました。

その後、ミナミの大火(明治45年:1912年)が発生し、道頓堀川から南側の難波新地や千日前、櫓町一帯が焼失しました。大火の後、花街の廃止や移転でミナミの花街が5分の1に縮小してしまいましたが、道頓堀川の水路のお陰で大火を免れた宗右衛門町からの宝恵駕奉納の伝統は現在にも引き継がれています。(※ 昭和20年に今宮戎神社の社殿が米軍の空襲で焼失し、昭和31年に本殿が再建されるまで、11年間の休止期間があります)

現在では、宗右衛門町にある老舗の茶屋で料亭の「大和屋」さんのお店の前で、芸妓(げいこ)さんを集めて賑々しく宝恵駕籠出発式を行います。ミナミの花街が隆盛を極めた大正時代の宗右衛門町には、茶屋や置屋、仕出し屋が軒を連ねて、約600人の芸妓さんがいたらしいのですが、現在の大阪では花街が縮小して芸妓さんになるような人は少なくなり、新町、南地、今里に残る花柳界の伝統文化を守っていくのは大変なご努力だと思います。写真的には、宝恵駕籠出発式と今宮戎神社境内での「駕籠上げ」の儀式が十日戎のハイライトですね。

因みに、道頓堀の掘削と道頓堀北岸の町興しに尽力した商人の山口屋宗右衛門の名を町名にした宗右衛門町という場所は、戎橋の北岸から東に入った道頓堀川沿いの繁華街です。ミナミに住んでおられる高齢者の方々は、今でも島之内と呼んでおられますが、戦後の大阪市の都市計画で西横堀川や長堀川が相次いで埋め立てられたので、今の宗右衛門町は、地形的に島之内とは呼べなくなってしまいました。

道頓堀川と言えば、ミナミのシンボルである「戎橋」がよく知られています。2009年には立派な橋に架け替えられましたが、江戸時代の戎橋は木造の橋でした。元和元年に架けられた橋の長さは21間(38.2m)で、橋の幅が2間(3.6m)だったそうで、かなり狭いですね。
江戸時代に架けられた大坂三郷の橋は、12カ所にあった公儀橋以外の町橋は、殆どが受益者負担だったので、橋の近くの大店(おおだな)や町会が建設費や維持費を負担しなければならないので、店を構えている商人たちは大変でしたが、店頭に人の往来がが多いと商売繁昌に繋がりますので、商人たちは高額な割り普請が掛かっても先行投資を重視し、橋はどんどん架けられていきました。

因みに大阪には商人の名が付けられた橋が多く、京の伏見商人・美濃屋の岡田心斎が元和8年(1622年)に長堀川(伏見川を拡幅)に架けた橋は「心斎橋」と呼ばれています。
心斎橋は長堀通りの跨道橋になって保存されていたのですが、現在は取り壊されました。昔は木造の橋でした。同じく、京の材木商で財を成した淀屋常安が大坂の土佐堀南岸に店を構え、諸国の産物を扱うようになります。やがて子孫の代には米穀商に特化し、蔵屋敷を造築して店頭で米市を開きました。米の取引で大儲けした淀屋は、諸国の大名にお金を融資するようになり、これが幕府に睨まれて財産没収、お店が取り潰しになり、淀屋の商号が大坂から消えましたが、淀屋が架けた淀屋橋の名前は残っております。

元和元年に道頓堀に架けられた戎橋とは、今宮戎神社へ参詣する人の為に架けられた橋なのですが、江戸時代中期には道頓堀の南岸沿いに人形芝居や歌舞伎の小屋、見せ物小屋が多数建ち並び、公許の遊郭も数カ所に出来て、芝居見物や千日墓参り、遊所へ通う人で大変賑わっていたようです。
江戸時代には戎橋の傍に人形芝居(文楽)の小屋があり、「操(あやつ り)橋」の別名があったそうです。ただ、人形を糸で操るという意味だけではなく、おそらく、戎橋の周辺は江戸時代の頃から既に巧妙な客引きが多かったのでしょう。昨今でも、戎橋の上では胡散臭い客引きが出没し、ナンパ目的の若者がたむろしている橋なので、別名で「引っ掛け橋」とも呼ばれています。

さて、宝恵駕参詣隊は黙って歩くのではなく、芸者衆が「ほえかご、ほえかご」、「ほえかご、ほえかご」と掛け声架ければ、
幇間たちが、「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」、「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」、の合いの手を入れ、みんなで、「ほえかご ほえかご、ほえかご ほえかご、年の始めのえべっさん、商売繁盛で笹持ってこい!商売繁盛で笹持ってこい!」と、扇子(せんす)で商売繁昌を煽り立てながら繰り返し連呼します。
今宮戎神社の境内は威勢のいい掛け声が響きます。宵えびす、本えびす、残りえびすには、三日間で延べ約100万人の参詣者が訪れるそうです。

このページのスケッチは、1991年1月10日に撮った写真を参考にして、7月下旬に描きました。芸妓(げいこ)さんを乗せた宝恵駕籠2挺が、道頓堀の中座の前を通る様子を描いています。
残念ながら、歌舞伎と松竹新喜劇を上演していた伝統ある中座(道頓堀五座の一つ)は2002年に取り壊しが決まって、9月9日の解体中にガス漏れで爆発炎上して全焼し、火の手は法善寺横町の飲食店街にも及び、とばっちりを受けた半数の飲食店が延焼しました。
中座の跡地は商魂逞しい、けばけばしいゲームセンターに変貌し、現在は往時を偲ぶ面影は全くありません。絵に描いておいて良かったです。

写真と記事更新:2015年12月21日 尾林 正利

写真と記事の無断転載を禁じます。尾林 正利

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