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今回のトップページには、2000年から毎年10月の第二月曜日 (体育の日:元は1964年10月10日の東京オリンピック開催日に由来) に岐阜県高山市の市街地で行われる "秋の高山祭 (八幡祭:はちまんまつり)”を9年振りにリニューアル掲載しました。
高山市は、古来から"飛騨の小京都"とも呼ばれ、実際に数回訪れてみると、木工家具や木彫の工芸品、和紙、お香、味噌、漬物、酒造が盛んで、市街地には土産物店や喫茶店も多く、観光都市の京都市と似通っています。高山を流れる宮川の眺めも鴨川のような感じがしました。最近では"飛騨牛”ブランドが大阪でも知られています。これは、高山の旅館で初めて食べました。朝市では、飛騨名物?の「栃餅」を買ってきて自宅のオーブンで焼いて食べました。

そして高山には、京都・八坂神社の祇園祭の山鉾に匹敵する華麗な"高山屋台"の曳き揃えがあって、なんと、4月と10月に上 (かみ) の祭と下(しも) の祭の「高山祭」が年に2回も行われ、市内の上三之町 (かみ さんのまち) は国選定の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。秋の高山祭「八幡祭」では、櫻山八幡宮の境内で「布袋臺 (ほていたい)」のからくり人形の芝居 (8名の人形遣い) が奉納されます。
年に2回の高山祭は日本の三大曳山に数えられており、高山で行われる春の山王祭 (さんのうまつり:屋台12基) 、秋の八幡祭 (屋台11基)の"御神幸"神事 は、国の重要無形民俗文化財に指定され、合計23基の屋台は、国の重要有形文化財に指定されています。
ところで、京都市内で今でも使われている「上ガル (北へ向かう)・下ガル (南に向かう)」の文化が高山市にもありますが、高山では「上がる (南に向かう・下がる (北に向かう)」になり、京都をよく知る関西人のぼくは迷いました。

上の写真は、高山祭を祝う商家の軒先に掲げられた提灯です。日本国旗も掲げてあります。昨今では国が定めた休日に国旗を掲げる習慣が無くなってしまいましたが...。高山の"重伝建区域"は日本の原風景を残す観光スポットとして、フランスのミシュラン・ガイドでも高評価されています。
個人的には、高山市の市街地には5〜6回ぐらい行ってますが、穂高連峰が見える上高地の写真取材や雲海を撮りに乗鞍岳への登山、白川郷の写真取材で、取材後に土産を買ったり昼食を食べに高山へ寄り道しただけで、市街地にあるホテルや旅館に泊まったのは2回ぐらいですね。
高山の市街地は周囲が峻険な山岳地帯に囲まれた海抜573m (JR高山駅の場所) の高地にあって、10月中旬の朝夕の冷え込みは、体感的には大阪市内の12月中旬並みでしたね。だから、高山祭 (秋の八幡祭) の宵宮・屋台のライトアップ (18時〜20時)の曳行を見るときは、半袖シャツと短パンだと寒いので、長ズボンと長袖のシャツの上にジャケットが必須です。

取材:2006年10月9日〜10月10日、当サイト初掲載は2006年10月17日
写真のサイズアップと記事の更新:2015年9月23日
写真と記事、WEBページのデザイン制作と XHTML1.0 でのコーディング:尾林 正利
使用カメラ:Canon EOS5D, 使用レンズ:EF24-70mm f2.8L USM, EF70-200mm f2.8L IS USM,
なお、当サイトの画像と記事の転載・無断使用を禁じます。


秋の高山祭 ( 八幡祭:はちまんまつり 体育の日に開催)


高山祭を見たくなったのは、JR西日本のテレビCMでした。元アリスの谷村新司氏が作詞・作曲した、「いい日旅立ち」です。
CM映像に出ていた、JR東海自慢のキハ85系「ワイドビューひだ」に乗ってみたくなったからです。
依頼されたロケ取材の時は、カメラと交換レンズの他に、携帯用フラッシュ(スピードライト) 、脚立や三脚、数灯の室内用スタジオライトやライトスタンド・ゼネレーター、レフ板などの撮影機材の他に、雨合羽や着替えなどの荷物が嵩むので、マイ・カーで行くことが殆どなのですが、プライベートな取材なので、大阪駅から高山駅まではJR在来線の直通特急「ワイドビューひだ号」で凡そ4時間10分...。1日1往復しかありませんが、列車で行くことにしました。

2006年10月9日は、2日前までは全国的に雨空でしたが、大陸から移動性高気圧の張り出しで、秋晴れの快晴に恵まれました。
朝8時02分に大阪駅を発車して高山駅に昼12時11分に着くと、先ず予約した旅館に電話し、撮影が夜の8時に終わるから、八幡宮の大鳥居前まで車で迎えにきて頂くように連絡しました。そして、タクシーで櫻山八幡宮に向かいました。
大鳥居前で下車して、徒歩で鳥居をくぐると「屋台の曳き揃え」が整っていて周辺は大勢の見物人や観光客で混雑していました。ふと、空を見上げると澄み渡った青空が広がっていました。大阪市内では見られないクリヤーなブルーでした。

前回掲載の大阪・岸和田だんじり祭に使う地車 (じぐるま) の曳行 は、江戸時代の元禄期に始まった?庶民の祭なので、藩主の岡部家に気遣って華美にならないケヤキの木目を活かした渋めの、通好みのものでしたが、高山城を廃して幕府の天領になってから発達した高山祭の屋台は、郡代の許しを得て、飛騨の匠の伝統工芸の技術を磨いて後世に継承していく目的もあって、高山各町の豪商などがスポンサーになって、番匠たちが互いに競い合い、贅を極めた絢爛豪華な屋台 (曳山に屋根があるもの) が製作されるようになったそうです。高山屋台の中には高さ8.8mの鳳凰台もあって、屋台が曳き出される巡行道路の電柱は高いですね。


屋台の曳きまわし


一番上の屋台は、神楽台 (かぐらたい)で、氏子町へ屋台曳き回しの先頭になります。 屋根がないオープンデッキなので"曳山"ですね。
二番目の屋台は、行神台 (ぎょうじんたい)です。三番目の屋台は鳳凰台(ほうおうたい)で、高さが何と8.8m!もあります。四番目は鳳凰台のリヤビュー(後ろ姿=見送り)で、12尺(3.6m)の掛軸が飾ってあります。


八幡祭


上の写真は、櫻山八幡宮の本殿に掲げられた神号です。
八幡祭では宵宮の昼から布袋台 (ほていたい)1基が神社境内に宮入して、カラクリの芸能を八幡宮に奉納します。
三味線の演奏(テープ録音)に合わせて、布袋和尚(ほていおしょう)の肩に二人の唐子(からこ)が飛び移る空中芸を八幡宮の御祭神である応神天皇に奉納します。二人の唐子が布袋和尚の肩に上手く飛び乗ると、和尚がくす玉を割って紙吹雪を撒きます。
因みに、布袋台のからくり人形は36本の糸を8名で操っているそうですよ。からくり人形は屋台から取り外しができ、他の場所に設置して練習できるようになっています。


屋台に灯入れ提灯の準備が整い八幡宮の表参道に集合した11台の屋台は、国指定の重要有形文化財なので、夜になると屋台保護のため、屋台を所有する町の「屋台蔵」に保管されます。
八幡祭の屋台の殆どは下之町方面に戻りますが、大新町(おおじんまち)の屋台だけは撮影場所(日下部民芸館:くさかべみんげいかん) の前を通りません。
ぼくは、背景が良くて10台の屋台が通る道に夕方から場所取りして待機し、6時半〜7時半まで、目の前を通過していく屋台の写真を撮りました。
10カットは似たような写真なので、後ろの屋台も写っている2カットにしておきました。もちろん、フラッシュを弱めに発光しています。
屋台の周りを提灯で飾り、灯入れ曳行する姿はファンタジックでした。高山市内でも地球温暖化の影響があるそうですが、肌寒かったですね。

高山の八幡祭


(10月の櫻山八幡宮例祭)

高山祭とは、4月に行われる日枝神社例祭の「山王祭(さんのうまつり)」と、10月に行われる櫻山八幡宮例祭の「八幡祭」の2つの祭を総称したものです。今回の八幡祭には11基の屋台が曳き出されました。
2006年10月9日〜10日に行われた八幡祭を再掲載しました。

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写真取材:2006年10月9日(月:祝日)〜10日 (火)
記事と写真、WEBページ制作:尾林 正利
初掲載:2006年10月17日
写真と記事のリニューアル掲載 2015年9月23日

今夏(2015年)の大阪は蒸し暑い日が続き、9月半ばを過ぎて朝晩は少し肌寒くなって、ようやく秋らしい過ごしやすい気候になってきた。大阪での秋分の日は、30℃超えの夏日...。
10月は実りの秋である。日本人のルーツは農耕民族だったので、縄文時代から五穀豊穣の神を祀る慣習が現代社会にも引き継がれていて、稲の収穫が終わった日本各地では豊作になったことを地元の氏神さんに感謝するための「秋祭り」が盛んに行われる。

今から9年前の6月14日に、大阪・住吉大社の「御田植神事」で、新町芸妓の植女(うえめ)から早苗を授与された替植女 (かえうえめ:専業農家の婦人) たちが住吉さんの御田(おんだ)に入って田植えをしている光景を写真取材したが、あれから4ヶ月経った10月17日には、御田の刈り取りの儀式ある「宝之市神事」が行われ、その日に刈り取られた初穂は神前に供えられる。1年という時の流れは早いものである。

コマーシャルフォトの仕事をリタイアした2006年から数年間、日本全国の様々な「祭」を撮ってみようと思って、取り敢えず、祭礼の様子が絵(写真)になって、全国的に名の知られた祭から追っかけているが、今回は「芸術の秋」に相応しく、日本三大美祭として有名な飛騨高山の「高山祭」を10月9日(月・祝日)〜10日(火)に亘って写真取材することにした。

高山の市街地には過去に6回ほど訪れているが、いずれも上高地や乗鞍岳方面へドライブや写真を撮りに行った帰りにフラッと立ち寄ったもので、高山祭の写真取材で高山市を訪れるのは初めてである。
高山祭を取材するに当たり、祭礼の中心になる御神幸(ごじんこう)の神輿の渡御コースなどを知りたかったので、高山祭を支援している高山市役所観光課さんにお願いして祭礼の資料を送って頂いた。

送って頂いた数々の資料によると、現在の高山市では、旧高山藩の城下町(今の市街地)を南北に二分する祭が年に二回行われるということであった。
実際に高山へ行くと、地元の人々は春の祭を「上(かみ)の祭 (山王祭)」、秋の祭を「下(しも)の祭 (八幡祭)」と呼んでいるらしく、非常に分かりやすい。

春の山王祭 (さんのうまつり・日枝神社例祭 )は、宮川(みやがわ)付近のサクラが満開になる4月中旬に行われ、秋の八幡祭 (はちまんまつり・櫻山八幡宮例祭 )は、高山盆地周辺の山々が秋色に染まる10月中旬に行われる。この春と秋の二つの祭を併せて「高山祭」と呼ぶそうである。

なお、高山の市街地で地元の方に道を尋ねると、地元の人は北へ向かうことを「下(しも)の方へ」、南へ向かう事を「上(かみ)の方へ」と言う表現をする。
これは、高山から京や江戸の方を見た表現なのだろうと思う。高山から京や江戸に向かって旅することは「上り」になるからだ。

平安時代の延暦13年10月 (794年) から明治維新の明治元年 (1868年) 9月20日の明治天皇の東京行幸まで続いた日本の首都「京(きょう:洛中)」は、現在の京都市市域よりも京域が遥かに狭い。平安京の範囲は、南北の距離は一条大路〜九条大路まで、東西は東京極大路 (ひがしきょうごくおおじ:新京極付近)〜西京極大路 (現存) の範囲であって、京都御所は一条大路〜二条大路の間、左京と右京を分かつ朱雀大路の北端に造営されていた。

つまり、天皇の御座所である京都御所の方向へ向かうことを「上(ア)ガル」と言い、南へ向かうことを「下(サ)ガル」、東西に向かうことを「東入 (ヒガシイ) ル」・「西入ル」と2015年でも使うが、高山と京都では、上(かみ)と下(しも)が逆の方角を表現する。
と言うことは、「天皇は南面する」と教えられてきた京都人が高山へ来て、高山の人に道を教えて貰うと、きっと道に迷ってしまうだろう。

西洋の地図は北を上にして描くが、平安時代の日本では天皇が清涼殿で諸卿を集めて会議をする時に、1位の左大臣は天皇からご覧になって左側に座り、2位の右大臣が右側に座った。だから京都市の地図を見ると、今の地図では、左京区が東側に、右京区は西側に、逆になっているので、「何でや」と困惑してしまう。それにフランス革命後のジャコバン党から派生した左派・右派の思想影響もあって、左翼が右翼より急進的でインテリジェンスが高いというイメージが日本の思想界・教育界・新聞メディアを幻惑させている。

今回の高山祭の写真取材で判ったことは、高山祭は春と秋の両方の祭を見なければ、高山祭を全部見たことにはならないようだ。宿泊した旅館は下の方 (北小学校に近い高山市桐生町3丁目) だったが、桜が満開の中橋を渡る屋台の写真が玄関のロビーに飾ってあった。上で行われる山王祭を撮ったものだった。
但し、高山祭は天候に左右される。
祭礼日が雨天の時は神社内だけの神事になり、神輿の渡御や屋台の曳き揃えや巡行が中止になるので、高山祭を是非見たい方は、「照る照る坊主」を軒先にぶら下げて、お天道様に祈るしかないね。

従って、雨天の場合は観光客が激減して、高山市の経済的損失は多大になる。JR東海も乗客が減る。
そういう事情もあって、櫻山八幡宮に隣接した高山屋台会館では、3〜4台の屋台が年中無休で常時展示してあるので、開館している時間帯に行けば見学できるそうだ。

2006年10月初旬は日本列島の太平洋沿岸に停滞する秋雨前線上に台風並みの低気圧が突然発生して発達し、例祭の2日前まで関東甲信・東北方面は大雨と強風の大荒れの天候が続いた。
櫻山八幡宮の約1200戸の氏子たちが参加する八幡祭の重要な神事・「御神幸(ごじんこう)」が中止になりそうな雲行きになってヤキモキしたが、例祭の前日には何とか秋の嵐が鎮まって、八幡祭の行われた2日間は秋晴れの快晴に恵まれて、秋の高山祭が盛大に行われることになった。
振り替え休日(体育の日)の10月9日(月曜) は、22万人の方が桜山八幡宮の参道や境内に押し寄せ、午後1時〜3時頃は場所によって身動きできない場所もあった。お正月の三ヶ日に京都の伏見稲荷大社に参拝するような混雑ぶりであった。

大阪から片道300kmぐらいの距離なら、いつもは車を運転して写真取材に行くが、今回は高山市街地だけの写真取材なので、列車の方がラクチンと思ったので、大阪駅から高山までJRの直通特急「ひだ23号」を利用することにした。

「ワイドビューひだ号」には、各車両の乗客扉側にスキー板などの長尺な荷物が収納できるスペースも付いている。ぼくは脚立(きゃたつ)を大阪から持参したので、収納庫のある車両には大いに助かった。JR九州の在来線リレー特急「つばめ」などにも同様な荷室があって重宝する。新幹線でも大きな荷物や長尺物が格納できる荷室が欲しいところだが、新幹線の場合はテロ対策の問題があるので、実現はむずかしいと思う。

なお、春と秋の高山祭は県外からの観光客が多いようなので、旅館やホテルの宿泊手配は2ヶ月前に、列車の乗車券手配は1ヶ月前にした。※毎年1月下旬〜2月下旬の土日に行われる「白川郷ライトアップ」の時期も同様だが、JR高山駅の北側から乗る濃飛バスの切符の手配 (電話予約) を忘れないように。

10月9日の朝8時2分にJR大阪駅から特急「ワイドビュー・ひだ23号」に乗ったが、JR東海が開発したキハ85系は、アメリカ製の大馬力エンジンを搭載し、ディーゼルカーとしては、加減速性能がよく、なかなかの俊足(東海道本線では時速120キロ運転)で乗り心地がよく、座席も床面から1段高くて、広々とした車窓からの眺めも素晴らしかった。
主にトラックやバスに使われるディーゼルエンジンは混合気の圧縮比がガソリンエンジンよりも高いので、アイドリングでもエンジン音がうるさく、排ガスの量も多い。ディーゼル車は車体の振動も気になるが、キハ85系はJR在来線特急電車並みの性能と快適性を誇っている。
列車が高山盆地に入ると、快晴の青空に中腹まで真っ白に雪化粧した神々しい乗鞍岳が一瞬見えて、車掌さんの社内放送に乗客から大きな歓声が沸き上がった。

  

今回取材する秋の高山祭(八幡祭)は、高山市街地で安川通り(国道158号線)の北側(下:しも)にある「櫻山八幡宮(さくらやま はちまんぐう)」で行われ、地元では「八幡祭(はちまんまつり)」とも呼ばれている。
ぼくは神道(しんとう)の信者ではないが、神社の祭礼には平安時代から伝統な儀式 (延喜式) に興味が湧く。天神地祇や自然崇拝の神を招(お)ぐ神事には、何らかの芸能が神前に奉納されるからである。

因みに、櫻山八幡宮の主祭神は、応神天皇(誉田別尊:ほんだわけのみこと)である。
応神天皇は「戦(いくさ)の神様」でもあるので、今の平和な世の中なら、剣道とか柔道の選手が、大事な試合の前に自分が住んでいる所の八幡宮にお詣りしてもいいと思うが...。
プロ野球球団でも、キャンプ前や開幕直前には、監督・コーチ・選手一同が地元の神社に優勝祈願のお詣りをする球団があって、テレビのニュース番組で参拝シーンが放映されたり、スポーツ紙の三面に載ったりする。

神社に玉串料を払って昇殿し、位の高い宮司さんにご祈祷して戴いても、必ず勝てて優勝できるとは限らないが、勝負事は本人の実力だけでなく、時の「運」も左右するので、その運の行方を見守ってくださるのは「神様」だから、やはり気休めにお詣りしといた方がいいと思う。迷信だという人もいるだろうけど、欧米の外人観光客も櫻山八幡宮の境内に大勢いた。クリスチャンやムスリムの彼らは日本の神道をどのように思っているのだろうか?

コマーシャル・フォトグラファー現役の頃は、京都の伏見稲荷大社 (御祭神は宇迦之御魂大神=日本書紀名:うかのみたまのおおかみ) にほぼ毎年参拝して、新春のお札を買っていたが、正月に朱色に塗られた魔除けの大鳥居をくぐって神社に参拝し、新春のお札を授与されると心がスーッと落ち着く。
伏見稲荷に参拝したからといって、売上げが伸びるとは限らないが、いつまでも健康で仕事が長く継続できることを神さんに感謝して、お詣りするわけである。

櫻山八幡宮では、本殿の傍に稲荷神社(御祭神は倉稲魂命=古事記名:うかのみたまのみこと・農耕神だが、商売繁昌の神でもある)と、菅原神社(御祭神が菅原道真:すがわらのみちざね・書道や学問の神)も鎮座しているので、お稲荷さんと天神さんが好きな人は、高山へ引っ越しても大丈夫。

八幡宮という神社は、古くは河内源氏(かわちげんじ:平安時代の中期に今の大阪府羽曳野市壺井に本拠を置く武士団)の氏神神社であった。
源氏の嫡流(ちゃくりゅう:本家の血筋)といわれる河内源氏が武家社会を築き、一族の源頼朝(みなもとのよりとも)が、ライバルの平氏を倒して武家政権による鎌倉幕府を開始したことから、江戸時代においても、引き続き強固な武家政権(幕政)を維持するために、八幡神が武家(とくに藩主)の守護神として崇められるようになったようだ。
高山も戦国時代の後期から江戸時代の元禄5年までは、金森家を国主(藩主)とする高山藩の城下町であったので、藩主が八幡神を崇敬するのは当然のことだろう。

八幡祭のルーツは、地元の氏神さんに五穀豊穣を祈願する村人の祭が発祥になっているそうだ。
この地に金森氏を国主とする高山藩が誕生するまでは、飛騨高山は米作に向かない山深い過疎の山村だったので、住民に課せられる税は領主から免除されていたらしいが、その代わり、木工職人の「飛騨の匠:ひだのたくみ」が領主の下に徴用 (無料奉仕) させられた。

やがて、高山藩の城下町が栄えていくと、藩主は藩民の結束を図るために祭を奨励した。その祭が「八幡祭」や「山王祭」に発展していった経緯ははっきりしない。
藩主は八幡祭を重要視し、例祭の「御神幸」の時は奉行・正副2名と警護の藩士を特派して、行列に参列した記録が残っているそうである。

元禄5年 (1692年) に高山藩が幕府の天領になった後も、八幡祭の時は高山代官所は休業して「郡代(ぐんだい:広域の幕府領を統治する代官)」と代官所の警備隊が御神幸に参列し、歴代の郡代が幣帛(へいはく:帛は、木綿や絹の反物であるが、神酒や紙に包んだ金幣も含まれる)を神前にお供えしていたというから、格式のあるお祭りであったようだ。

明治になって、国策により神道は国教になり、桜山八幡宮は内務省神社局から「県社」に昇格されて、祈年祭などの神社例祭の時は、当時の「高山県(後に岐阜県)」知事から幣帛を受けることになった。
県社というからには、その格式に相応しい風格が必要で、櫻山八幡宮の立派な本殿や境内は緑鮮やかな木々に囲まれて美しかった。鎮守の森(ちんじゅのもり)が大切に保存されている感じがした。

戦後になって、神社に対して国の直接的な関与が無くなったとは言え、高山の八幡祭の御神幸は国の重要無形民俗文化財に指定されており、高山祭に曳行される屋台は国の重要有形文化財に指定されている。
八幡祭の伝統を守り、重要文化財を維持するためには、国からの助成がある筈だと思う。但し、御神幸などの祭礼に参列する氏子たちの装束(裃:かみしも・羽織・一文字笠・足袋・草履など)は、氏子たちの自前である。

さて、高山祭が華やかなのは、絢爛豪華(けんらんごうか)な高山屋台の存在である。
高山の屋台は、基本的には4輪の山車(だし)だが、3輪の山車もある。ユニークなのは、4輪屋台の曳き方だろう。

既に写真で紹介しているが、交差点を直角方向に曲がる時は、4輪屋台の場合は交差点の真ん中過ぎで停止し、木製のジャッキに二対の木製の梃子(てこ)で、前の二輪を均等に持ち上げ、前輪が一定の高さに浮いたら、屋台の傾きは後輪に梃子を差し込んで固定し、屋台の床下に折り畳んだ「戻し車」を引き起こして接地させ、ジャッキを外して屋台を人力で旋回させる仕掛けになっている。
戻し車は横方向に動くので、屋台前部の側面を数人で曲がりたい方向に押せば、屋台の向きを簡単に変えられるわけだ。

1カ月前に取材した岸和田のだんじりと高山の屋台では、足回りのメカニズムがかなり違う。
高山の屋台は、曳き綱は2本で7〜11名ぐらいで屋台を曳き、後ろ梃子は2名で、舵取りは1名であった。屋台の後ろ中央から出ている棒は、舵取り用の棒で屋台の進む方向を微調整する。屋台の後ろには見張りが2名付いて、大きな屋台を15名ぐらいで曳行する。
三輪の屋台の場合は、1輪側を数人で持ち上げて前輪を浮かせ、強引に左右に引っ張って舵を切るので、三輪の屋台は、四輪の屋台より小型軽量である。

八幡祭で表に曳き出される屋台は現在11台あって、1台を除いて殆どが江戸時代に製作されたものらしく、今なお美しく輝いているのは驚きである。
高山屋台の大きな特徴は、「飛騨の匠」たちが丹精込めて製作した絢爛豪華な屋台に、江戸時代の大坂で流行った「からくり芝居」の芸能を採用し、屋台から突きだした樋で「からくり人形」の実演ができることだろう。樋の中には人形を操る糸が配線され、観客の見えない所から人形遣いが人形を操っている。

八幡祭では、八幡宮の境内でカラクリ人形の実演が見られるのは「布袋台(ほていたい)」だけで、からくり人形の実演が20分間奉納される。からくりの実演には三味線と鳴り物が入るが、音の方は残忍ながら、テープ演奏であった。
布袋和尚(ほていおしょう)の肩に、二人の唐子(からこ)が乗る演技で、36本の糸を8名で操るそうだ。
2名の唐子がブランコをピョンピョンと跳び渡る空中芸が見どころになっている。

春と秋に曳き出される23台の高山屋台の中で、現在でも「からくり人形」の実演ができるのは、春の山王祭では、「三番叟(さんばそう)」、「石橋台(しゃっきょうたい)」、「龍神台(りゅうじんたい)」の3台で、秋の八幡祭では「布袋台(ほていたい)」の1台である。からくりの実演は、写真で撮るより、ビデオで撮る方がいい。

八幡祭は10月9日の朝10時から、桜山八幡宮で神職によって「斎館前列立」の儀式が行われ、祭礼が始まる。ぼくは9日の昼12時過ぎに高山に着いたので、この儀式の写真は撮れなかった。
八幡祭で一番重要な神事は、御神幸(ごじんこう)である。

御神幸とは、櫻山八幡宮の氏子や崇敬者が一文字笠に裃(かみしも)姿や人足姿に扮装し、八幡宮の神職・職員も楽人(がくにん:雅楽演奏者)や神官になって正装で参列し、御神霊を乗せた神輿(御鳳輦:ごほうれん)を担いで氏子町内を巡回しながら御旅所(おたびしょ)まで渡御する儀式である。

御旅所とは、神輿の渡御中に休憩または宿泊する場所のことで、神社と由緒のある場所(元宮など)が選ばれる。御旅所に神輿が着くと「御旅所祭」が行われ、しばしの休憩後に、神輿は出発した神社へ還御(かんぎょ)する。

神輿の渡御と還御は八幡宮の神事なので、神輿行列の通り道に当たる家に幕を張るなどの気配りが見られる。御鳳輦を高所から覗くのは、御神霊に失礼になり、2階の窓から渡御行列を見下ろして見物しているような人は極めて少なかった。

大阪で行われる天神祭でも、7月25日に御鳳輦の神輿を船に乗せて渡御するときは、天満橋の欄干を板で遮蔽する。見物人が橋の上から御鳳輦の船を見下ろさないようにするための対策である。御鳳輦の船渡御中は、本来は天神橋、天満橋、川崎橋の通行を禁止すべきなのであるが...。

高山の御神幸行列のなかに巫女姿の少女や、獅子舞、闘鶏楽(とうけいらく:地元ではカンカコカン)という舞踏団が参列し、獅子舞は氏子の家の前で獅子舞を披露するので、行列がなかなか前に進まない。10日の本宮は平日であったが、高山の八幡祭の地域は休日であった。

宵宮の屋台の灯入れ曳行は美しい、西日が傾くと宵祭りの準備が忙しくなる。屋台の周りを提灯で飾る。日が暮れると、夜空の下での屋台曳行はファンタジックだった。
屋台の提灯を点すと暖かい光を放つ。八幡宮の表参道から、11台の屋台がそれぞれの屋台組(屋台を所有している町内)へ帰るのである。ぼくは絵になる場所を探し、日下部(くさかべ)民芸館の前の向かい側で屋台を撮ることにした。

陽が落ちるとゾクッと秋冷えがし、大阪では12月の寒さ...辺りがすっかり暗くなった6時半になって、提灯を点した「神楽台(かぐらたい)」が祭囃子を奏でながらやって来た。そして、後続の屋台も次々と目の前を通り過ぎていく。
こういう光景を初めて見たので、夢を見ているような気分であった。祇園祭の宵山もきれいだが、祇園祭の宵山は山や鉾が停まったままである。光がゆっくりと動くというのも実にいい。

美しい大自然に囲まれ、古来からの飛騨の匠の伝統と文化が育まれている町...高山。
2006年になって、初めて総理になられた安倍晋三氏が、就任当初は「美しい日本」をスローガンに掲げておられたが、大勢の氏子市民が奉仕して盛り上げる高山祭は、その良き例の一つになっているのかも知れない。


早朝は濃霧に包まれる標高570mの飛騨高山
朝9時ごろになると、霧が流れて青空が覗く

飛騨高山は、安土桃山時代の天正15年(1586年)から江戸時代の元禄5年(1692年)までの106年間は、金森(かなもり)家を藩主とする高山藩の城下町でした。
元禄5年に、高山藩を統治する金森氏が幕府の命令によって奥羽地方に転封になり、藩の統治は、高山に代官所ができるまで、一時的に前田氏の預かりになってしまいました。
飛騨高山は元禄5年から明治2年(1869年)までの177年間は幕府の天領になり、高山に代官所(高山陣屋)を設置して、幕府から命じられた「郡代(ぐんだい:代官より上位)」が高山に赴任して統治することになりました。

高山の城下町の上(かみ:南側)の方に、現在でも江戸時代の商家や代官所(高山陣屋)が保存されています。上の写真の右側に、朱色の中橋(なかばし)があって、橋を渡ると高山陣屋に着きます。
高山の市街地は、標高約570mの高山盆地の中央にあって、昼夜の寒暖の差が大きく、この地に慣れないと風邪を引いて体調を壊します。2012年2月5日〜6日に白川郷へゴム長を履いて取材に行った時は、高山駅のプラットホームでは、ひざまでの雪が積もっていました。白川郷では80センチの積雪。
10月中旬の秋晴れの日の午前中は霧が街全体を覆いますが、陽が高くなるにつれて霧が瞬く間に消えて、澄み切った青空が上空に広がります。

上の写真は、日枝神社(ひえじんじゃ)の氏子町内で、春に高山祭(山王祭:さんのうまつり))が行われる地域です。今回の「八幡祭(はちまんまつり)」には関係のない地域なので、祭囃子は聞こえず、ひっそりとしていました。早起きして古い町並みを散歩していて、コンクリートで根元が固められた松の樹を見ました。松が生えていたところに、後から道が出来たとは言え、この倒れかかった松の生命力には驚きました。


高山市上三之町(国指定・重要伝統的建造物群保存地区の界隈


上の写真は、高山を訪れる観光客が必ず立ち寄る古い町の上三之町(かみ さんのまち)界隈です。二番目の写真の左側の家には、京都の祇園界隈で見られる「竹矢来(たけやらい)」が設置されていますが、竹矢来は、通行人の覗き見や盗聴を防ぐために設置します。高貴な方の来店が多い老舗の玄関や勝手口の両側によく見られます。

上三之町界隈には造り酒屋や味噌屋、和紙や民芸品を売る店などが軒を連ねています。
観光客で混雑した昼間に行くより、朝7時〜8時ごろに散歩する方が、清々しくてお奨めです。朝8時頃に開店する店も、所々にありますよ。

2006年10月10日 (火) は、この界隈は火曜日の朝がゴミ収集の日だったので、写真やビデオを録りたい人は、その時間帯を避けた方がいいでしょう。ぼくが行った時は収集前で、路上に置かれたゴミ袋を、写真に写らないように隠して撮影しました。一番下は高山陣屋で「郡代」が高山を統治していた屋敷です


高山の名物「朝市」の町内から屋台が出発

高山名物の朝市が行われる宮川(みやがわ)沿いの下三之町(しも さんのまち)をぶらぶら散歩していると、八幡祭(はちまんまつり)に曳き揃えられる「行神台(ぎょうじんたい)」の屋台蔵があり、朝の8時過ぎには、「屋台蔵」から屋台が曳き出されていました。

八幡祭りに曳き揃えられる11台の屋台は、それぞれの氏子町内を曳行して、9時頃には八幡宮の表参道に停めて参詣者や観光客に披露します。高山屋台は重要有形文化財なので、雨天の場合は、屋台蔵内または屋台会館内でのお披露目になります。

写真左側の露店が朝市の店です。この時期は朝の7時ごろから営業するようです。1993年12月7日〜8日に無料接待のバスツアーに参加して、ここの朝市で栃餅(とちもち)を買った思い出があります。アズキの餡が入った栃餅は、美味しかったですよ。


アイディア溢れた高山屋台の辻回し...前輪の前に「戻し車」を格納!
(木製のジャッキで前輪を持ち上げ、第三の車輪を引き出して交差点を曲がる)


自動車のようなハンドルが無い高山屋台のような大きな曳山は、どのようにしてカーブを曲がるのだろうかと、県外者の方々は気になりますよね。祇園祭の山鉾の旋回は、道路に割り竹を敷いて車輪の滑り止めをしてから「辻廻し」を行いますが、高山の大きな屋台には三番目の車輪(戻し車)が屋台の床下に格納されていて、2台の木製のジャッキを使って、二本の木製の梃子(てこ)で屋台前部の左右二輪を少し持ち上げて戻し車を引き出します。

戻し車は屋台進行方向に対して、左右方向に動くように取り付けられており、それを引き出して接地させると、屋台の前二輪が浮き上がりますので、一時的に高山屋台は横方向に動く三輪車になります。
上の写真のように画面右から出てきた屋台は、交差点の中央で停止し、前梃子係2名が左右の前輪を木製のジャッキを使って2本の梃子で均等に持ち上げます。この時、後輪が後ろに滑らないように、2名の後ろ梃子係が棒でブレーキを掛けます。戻し車を引き出して接地させたらジャッキの梃子を引き抜いて、屋台を曲がりたい方向に横から押して旋回させます。旋回が終わると逆の手順で戻し車を格納します。
高山に現存する屋台は、9月に取材した大阪・岸和田のだんじりよりも大きいですが、屋台を曳く人数は、屋台の前後に10〜14名ほどで非常に少ないです。
少ない人数でも大きな屋台を曳けるのは、飛騨の匠の技でしょう。写真は「行神台(ぎょうじんたい)」の屋台です。


本宮で行われる八幡祭の御神幸(ごじんこう)
ご鳳輦神輿の渡御と還御は、国指定の重要無形民俗文化財


上の写真は御神幸の先頭を務める旗持ち。
「飛騨八幡宮」の旗は、櫻山八幡宮が69年前(1946年)までは「県社(けんしゃ)」の社格(しゃかく:平安時代に定められた延喜式の神社社格 (官幣社など) の他に、大日本帝国憲法によって、内務省神社局による神社の格付けが追加されたことを物語っています。
御神幸は行事ではなくて、八幡宮主祭神の御神霊を乗せた神輿をお旅所まで渡御・還御する神聖な神事なのです。とくに神輿行列の中を横断することや二階から見下ろすのは、慎みたいものですが、脚立に上って撮るカメラマンには,おゆるしを...。


JR東海自慢のキハ85系気動車(ディーゼル) 特急「ワイドビューひだ号」
大阪駅〜高山駅まで1日1往復の直通運転・スキー板を格納する荷室付き


高山駅に停車した15時42分発「ワイドビューひだ号(大阪行き4連:通常は3連)」が飛騨古川発・名古屋行きの「ワイドビューひだ号(6連:通常は4連)」を待機しているところで、大阪行きの後ろへ連結後に途中の岐阜駅で、大阪行きと名古屋行きを切り離します。高山駅→岐阜駅までの先頭車は大阪行きになり、1号車の運転台がパノラマ型の車両が運用されています。

名古屋発の富山・飛騨古川行きの先頭車になる10号車または8号車 (両数ではない) は、パノラマ車になることが多いですが、名古屋発は、岐阜駅構内でスィッチバック運転になり、名古屋駅→岐阜駅までは1号車が先頭車になります。

JR東海所属「ワイドビューひだ号」のキハ85系車両は、大馬力の350HPディーゼルエンジンを一両に2基搭載し、JR在来線の特急電車並みの高性能と快適さを発揮します。
大阪〜高山間は1日1往復の運転で3両編成ですが、多客期は4両に増結されるようです。もし、JR大阪駅で乗り遅れたら、新大阪まで行って新幹線の「のぞみ」で名古屋へ行き、名古屋発の高山方面行きの「ワイドビューひだ号」に乗れば大丈夫ですが、ちょっと高くつきますね。

今回も長目のトップページになりました。暫くの間、トップページには数年間・配信停止したフォトエッセイをリニューアルして掲載します。

写真と記事更新:2015年9月23日 尾林 正利

写真と記事の無断転載を禁じます。尾林 正利

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