今夏(2015年)の大阪は蒸し暑い日が続き、9月半ばを過ぎて朝晩は少し肌寒くなって、ようやく秋らしい過ごしやすい気候になってきた。大阪での秋分の日は、30℃超えの夏日...。
10月は実りの秋である。日本人のルーツは農耕民族だったので、縄文時代から五穀豊穣の神を祀る慣習が現代社会にも引き継がれていて、稲の収穫が終わった日本各地では豊作になったことを地元の氏神さんに感謝するための「秋祭り」が盛んに行われる。
今から9年前の6月14日に、大阪・住吉大社の「御田植神事」で、新町芸妓の植女(うえめ)から早苗を授与された替植女
(かえうえめ:専業農家の婦人) たちが住吉さんの御田(おんだ)に入って田植えをしている光景を写真取材したが、あれから4ヶ月経った10月17日には、御田の刈り取りの儀式ある「宝之市神事」が行われ、その日に刈り取られた初穂は神前に供えられる。1年という時の流れは早いものである。
コマーシャルフォトの仕事をリタイアした2006年から数年間、日本全国の様々な「祭」を撮ってみようと思って、取り敢えず、祭礼の様子が絵(写真)になって、全国的に名の知られた祭から追っかけているが、今回は「芸術の秋」に相応しく、日本三大美祭として有名な飛騨高山の「高山祭」を10月9日(月・祝日)〜10日(火)に亘って写真取材することにした。
高山の市街地には過去に6回ほど訪れているが、いずれも上高地や乗鞍岳方面へドライブや写真を撮りに行った帰りにフラッと立ち寄ったもので、高山祭の写真取材で高山市を訪れるのは初めてである。
高山祭を取材するに当たり、祭礼の中心になる御神幸(ごじんこう)の神輿の渡御コースなどを知りたかったので、高山祭を支援している高山市役所観光課さんにお願いして祭礼の資料を送って頂いた。
送って頂いた数々の資料によると、現在の高山市では、旧高山藩の城下町(今の市街地)を南北に二分する祭が年に二回行われるということであった。
実際に高山へ行くと、地元の人々は春の祭を「上(かみ)の祭 (山王祭)」、秋の祭を「下(しも)の祭 (八幡祭)」と呼んでいるらしく、非常に分かりやすい。
春の山王祭 (さんのうまつり・日枝神社例祭 )は、宮川(みやがわ)付近のサクラが満開になる4月中旬に行われ、秋の八幡祭
(はちまんまつり・櫻山八幡宮例祭 )は、高山盆地周辺の山々が秋色に染まる10月中旬に行われる。この春と秋の二つの祭を併せて「高山祭」と呼ぶそうである。
なお、高山の市街地で地元の方に道を尋ねると、地元の人は北へ向かうことを「下(しも)の方へ」、南へ向かう事を「上(かみ)の方へ」と言う表現をする。
これは、高山から京や江戸の方を見た表現なのだろうと思う。高山から京や江戸に向かって旅することは「上り」になるからだ。
平安時代の延暦13年10月 (794年) から明治維新の明治元年 (1868年)
9月20日の明治天皇の東京行幸まで続いた日本の首都「京(きょう:洛中)」は、現在の京都市市域よりも京域が遥かに狭い。平安京の範囲は、南北の距離は一条大路〜九条大路まで、東西は東京極大路
(ひがしきょうごくおおじ:新京極付近)〜西京極大路 (現存) の範囲であって、京都御所は一条大路〜二条大路の間、左京と右京を分かつ朱雀大路の北端に造営されていた。
つまり、天皇の御座所である京都御所の方向へ向かうことを「上(ア)ガル」と言い、南へ向かうことを「下(サ)ガル」、東西に向かうことを「東入
(ヒガシイ) ル」・「西入ル」と2015年でも使うが、高山と京都では、上(かみ)と下(しも)が逆の方角を表現する。
と言うことは、「天皇は南面する」と教えられてきた京都人が高山へ来て、高山の人に道を教えて貰うと、きっと道に迷ってしまうだろう。
西洋の地図は北を上にして描くが、平安時代の日本では天皇が清涼殿で諸卿を集めて会議をする時に、1位の左大臣は天皇からご覧になって左側に座り、2位の右大臣が右側に座った。だから京都市の地図を見ると、今の地図では、左京区が東側に、右京区は西側に、逆になっているので、「何でや」と困惑してしまう。それにフランス革命後のジャコバン党から派生した左派・右派の思想影響もあって、左翼が右翼より急進的でインテリジェンスが高いというイメージが日本の思想界・教育界・新聞メディアを幻惑させている。
今回の高山祭の写真取材で判ったことは、高山祭は春と秋の両方の祭を見なければ、高山祭を全部見たことにはならないようだ。宿泊した旅館は下の方
(北小学校に近い高山市桐生町3丁目) だったが、桜が満開の中橋を渡る屋台の写真が玄関のロビーに飾ってあった。上で行われる山王祭を撮ったものだった。
但し、高山祭は天候に左右される。
祭礼日が雨天の時は神社内だけの神事になり、神輿の渡御や屋台の曳き揃えや巡行が中止になるので、高山祭を是非見たい方は、「照る照る坊主」を軒先にぶら下げて、お天道様に祈るしかないね。
従って、雨天の場合は観光客が激減して、高山市の経済的損失は多大になる。JR東海も乗客が減る。
そういう事情もあって、櫻山八幡宮に隣接した高山屋台会館では、3〜4台の屋台が年中無休で常時展示してあるので、開館している時間帯に行けば見学できるそうだ。
2006年10月初旬は日本列島の太平洋沿岸に停滞する秋雨前線上に台風並みの低気圧が突然発生して発達し、例祭の2日前まで関東甲信・東北方面は大雨と強風の大荒れの天候が続いた。
櫻山八幡宮の約1200戸の氏子たちが参加する八幡祭の重要な神事・「御神幸(ごじんこう)」が中止になりそうな雲行きになってヤキモキしたが、例祭の前日には何とか秋の嵐が鎮まって、八幡祭の行われた2日間は秋晴れの快晴に恵まれて、秋の高山祭が盛大に行われることになった。
振り替え休日(体育の日)の10月9日(月曜) は、22万人の方が桜山八幡宮の参道や境内に押し寄せ、午後1時〜3時頃は場所によって身動きできない場所もあった。お正月の三ヶ日に京都の伏見稲荷大社に参拝するような混雑ぶりであった。
大阪から片道300kmぐらいの距離なら、いつもは車を運転して写真取材に行くが、今回は高山市街地だけの写真取材なので、列車の方がラクチンと思ったので、大阪駅から高山までJRの直通特急「ひだ23号」を利用することにした。
「ワイドビューひだ号」には、各車両の乗客扉側にスキー板などの長尺な荷物が収納できるスペースも付いている。ぼくは脚立(きゃたつ)を大阪から持参したので、収納庫のある車両には大いに助かった。JR九州の在来線リレー特急「つばめ」などにも同様な荷室があって重宝する。新幹線でも大きな荷物や長尺物が格納できる荷室が欲しいところだが、新幹線の場合はテロ対策の問題があるので、実現はむずかしいと思う。
なお、春と秋の高山祭は県外からの観光客が多いようなので、旅館やホテルの宿泊手配は2ヶ月前に、列車の乗車券手配は1ヶ月前にした。※毎年1月下旬〜2月下旬の土日に行われる「白川郷ライトアップ」の時期も同様だが、JR高山駅の北側から乗る濃飛バスの切符の手配
(電話予約) を忘れないように。
10月9日の朝8時2分にJR大阪駅から特急「ワイドビュー・ひだ23号」に乗ったが、JR東海が開発したキハ85系は、アメリカ製の大馬力エンジンを搭載し、ディーゼルカーとしては、加減速性能がよく、なかなかの俊足(東海道本線では時速120キロ運転)で乗り心地がよく、座席も床面から1段高くて、広々とした車窓からの眺めも素晴らしかった。
主にトラックやバスに使われるディーゼルエンジンは混合気の圧縮比がガソリンエンジンよりも高いので、アイドリングでもエンジン音がうるさく、排ガスの量も多い。ディーゼル車は車体の振動も気になるが、キハ85系はJR在来線特急電車並みの性能と快適性を誇っている。
列車が高山盆地に入ると、快晴の青空に中腹まで真っ白に雪化粧した神々しい乗鞍岳が一瞬見えて、車掌さんの社内放送に乗客から大きな歓声が沸き上がった。
今回取材する秋の高山祭(八幡祭)は、高山市街地で安川通り(国道158号線)の北側(下:しも)にある「櫻山八幡宮(さくらやま
はちまんぐう)」で行われ、地元では「八幡祭(はちまんまつり)」とも呼ばれている。
ぼくは神道(しんとう)の信者ではないが、神社の祭礼には平安時代から伝統な儀式 (延喜式) に興味が湧く。天神地祇や自然崇拝の神を招(お)ぐ神事には、何らかの芸能が神前に奉納されるからである。
因みに、櫻山八幡宮の主祭神は、応神天皇(誉田別尊:ほんだわけのみこと)である。
応神天皇は「戦(いくさ)の神様」でもあるので、今の平和な世の中なら、剣道とか柔道の選手が、大事な試合の前に自分が住んでいる所の八幡宮にお詣りしてもいいと思うが...。
プロ野球球団でも、キャンプ前や開幕直前には、監督・コーチ・選手一同が地元の神社に優勝祈願のお詣りをする球団があって、テレビのニュース番組で参拝シーンが放映されたり、スポーツ紙の三面に載ったりする。
神社に玉串料を払って昇殿し、位の高い宮司さんにご祈祷して戴いても、必ず勝てて優勝できるとは限らないが、勝負事は本人の実力だけでなく、時の「運」も左右するので、その運の行方を見守ってくださるのは「神様」だから、やはり気休めにお詣りしといた方がいいと思う。迷信だという人もいるだろうけど、欧米の外人観光客も櫻山八幡宮の境内に大勢いた。クリスチャンやムスリムの彼らは日本の神道をどのように思っているのだろうか?
コマーシャル・フォトグラファー現役の頃は、京都の伏見稲荷大社 (御祭神は宇迦之御魂大神=日本書紀名:うかのみたまのおおかみ)
にほぼ毎年参拝して、新春のお札を買っていたが、正月に朱色に塗られた魔除けの大鳥居をくぐって神社に参拝し、新春のお札を授与されると心がスーッと落ち着く。
伏見稲荷に参拝したからといって、売上げが伸びるとは限らないが、いつまでも健康で仕事が長く継続できることを神さんに感謝して、お詣りするわけである。
櫻山八幡宮では、本殿の傍に稲荷神社(御祭神は倉稲魂命=古事記名:うかのみたまのみこと・農耕神だが、商売繁昌の神でもある)と、菅原神社(御祭神が菅原道真:すがわらのみちざね・書道や学問の神)も鎮座しているので、お稲荷さんと天神さんが好きな人は、高山へ引っ越しても大丈夫。
八幡宮という神社は、古くは河内源氏(かわちげんじ:平安時代の中期に今の大阪府羽曳野市壺井に本拠を置く武士団)の氏神神社であった。
源氏の嫡流(ちゃくりゅう:本家の血筋)といわれる河内源氏が武家社会を築き、一族の源頼朝(みなもとのよりとも)が、ライバルの平氏を倒して武家政権による鎌倉幕府を開始したことから、江戸時代においても、引き続き強固な武家政権(幕政)を維持するために、八幡神が武家(とくに藩主)の守護神として崇められるようになったようだ。
高山も戦国時代の後期から江戸時代の元禄5年までは、金森家を国主(藩主)とする高山藩の城下町であったので、藩主が八幡神を崇敬するのは当然のことだろう。
八幡祭のルーツは、地元の氏神さんに五穀豊穣を祈願する村人の祭が発祥になっているそうだ。
この地に金森氏を国主とする高山藩が誕生するまでは、飛騨高山は米作に向かない山深い過疎の山村だったので、住民に課せられる税は領主から免除されていたらしいが、その代わり、木工職人の「飛騨の匠:ひだのたくみ」が領主の下に徴用
(無料奉仕) させられた。
やがて、高山藩の城下町が栄えていくと、藩主は藩民の結束を図るために祭を奨励した。その祭が「八幡祭」や「山王祭」に発展していった経緯ははっきりしない。
藩主は八幡祭を重要視し、例祭の「御神幸」の時は奉行・正副2名と警護の藩士を特派して、行列に参列した記録が残っているそうである。
元禄5年 (1692年) に高山藩が幕府の天領になった後も、八幡祭の時は高山代官所は休業して「郡代(ぐんだい:広域の幕府領を統治する代官)」と代官所の警備隊が御神幸に参列し、歴代の郡代が幣帛(へいはく:帛は、木綿や絹の反物であるが、神酒や紙に包んだ金幣も含まれる)を神前にお供えしていたというから、格式のあるお祭りであったようだ。
明治になって、国策により神道は国教になり、桜山八幡宮は内務省神社局から「県社」に昇格されて、祈年祭などの神社例祭の時は、当時の「高山県(後に岐阜県)」知事から幣帛を受けることになった。
県社というからには、その格式に相応しい風格が必要で、櫻山八幡宮の立派な本殿や境内は緑鮮やかな木々に囲まれて美しかった。鎮守の森(ちんじゅのもり)が大切に保存されている感じがした。
戦後になって、神社に対して国の直接的な関与が無くなったとは言え、高山の八幡祭の御神幸は国の重要無形民俗文化財に指定されており、高山祭に曳行される屋台は国の重要有形文化財に指定されている。
八幡祭の伝統を守り、重要文化財を維持するためには、国からの助成がある筈だと思う。但し、御神幸などの祭礼に参列する氏子たちの装束(裃:かみしも・羽織・一文字笠・足袋・草履など)は、氏子たちの自前である。
さて、高山祭が華やかなのは、絢爛豪華(けんらんごうか)な高山屋台の存在である。
高山の屋台は、基本的には4輪の山車(だし)だが、3輪の山車もある。ユニークなのは、4輪屋台の曳き方だろう。
既に写真で紹介しているが、交差点を直角方向に曲がる時は、4輪屋台の場合は交差点の真ん中過ぎで停止し、木製のジャッキに二対の木製の梃子(てこ)で、前の二輪を均等に持ち上げ、前輪が一定の高さに浮いたら、屋台の傾きは後輪に梃子を差し込んで固定し、屋台の床下に折り畳んだ「戻し車」を引き起こして接地させ、ジャッキを外して屋台を人力で旋回させる仕掛けになっている。
戻し車は横方向に動くので、屋台前部の側面を数人で曲がりたい方向に押せば、屋台の向きを簡単に変えられるわけだ。
1カ月前に取材した岸和田のだんじりと高山の屋台では、足回りのメカニズムがかなり違う。
高山の屋台は、曳き綱は2本で7〜11名ぐらいで屋台を曳き、後ろ梃子は2名で、舵取りは1名であった。屋台の後ろ中央から出ている棒は、舵取り用の棒で屋台の進む方向を微調整する。屋台の後ろには見張りが2名付いて、大きな屋台を15名ぐらいで曳行する。
三輪の屋台の場合は、1輪側を数人で持ち上げて前輪を浮かせ、強引に左右に引っ張って舵を切るので、三輪の屋台は、四輪の屋台より小型軽量である。
八幡祭で表に曳き出される屋台は現在11台あって、1台を除いて殆どが江戸時代に製作されたものらしく、今なお美しく輝いているのは驚きである。
高山屋台の大きな特徴は、「飛騨の匠」たちが丹精込めて製作した絢爛豪華な屋台に、江戸時代の大坂で流行った「からくり芝居」の芸能を採用し、屋台から突きだした樋で「からくり人形」の実演ができることだろう。樋の中には人形を操る糸が配線され、観客の見えない所から人形遣いが人形を操っている。
八幡祭では、八幡宮の境内でカラクリ人形の実演が見られるのは「布袋台(ほていたい)」だけで、からくり人形の実演が20分間奉納される。からくりの実演には三味線と鳴り物が入るが、音の方は残忍ながら、テープ演奏であった。
布袋和尚(ほていおしょう)の肩に、二人の唐子(からこ)が乗る演技で、36本の糸を8名で操るそうだ。
2名の唐子がブランコをピョンピョンと跳び渡る空中芸が見どころになっている。
春と秋に曳き出される23台の高山屋台の中で、現在でも「からくり人形」の実演ができるのは、春の山王祭では、「三番叟(さんばそう)」、「石橋台(しゃっきょうたい)」、「龍神台(りゅうじんたい)」の3台で、秋の八幡祭では「布袋台(ほていたい)」の1台である。からくりの実演は、写真で撮るより、ビデオで撮る方がいい。
八幡祭は10月9日の朝10時から、桜山八幡宮で神職によって「斎館前列立」の儀式が行われ、祭礼が始まる。ぼくは9日の昼12時過ぎに高山に着いたので、この儀式の写真は撮れなかった。
八幡祭で一番重要な神事は、御神幸(ごじんこう)である。
御神幸とは、櫻山八幡宮の氏子や崇敬者が一文字笠に裃(かみしも)姿や人足姿に扮装し、八幡宮の神職・職員も楽人(がくにん:雅楽演奏者)や神官になって正装で参列し、御神霊を乗せた神輿(御鳳輦:ごほうれん)を担いで氏子町内を巡回しながら御旅所(おたびしょ)まで渡御する儀式である。
御旅所とは、神輿の渡御中に休憩または宿泊する場所のことで、神社と由緒のある場所(元宮など)が選ばれる。御旅所に神輿が着くと「御旅所祭」が行われ、しばしの休憩後に、神輿は出発した神社へ還御(かんぎょ)する。
神輿の渡御と還御は八幡宮の神事なので、神輿行列の通り道に当たる家に幕を張るなどの気配りが見られる。御鳳輦を高所から覗くのは、御神霊に失礼になり、2階の窓から渡御行列を見下ろして見物しているような人は極めて少なかった。
大阪で行われる天神祭でも、7月25日に御鳳輦の神輿を船に乗せて渡御するときは、天満橋の欄干を板で遮蔽する。見物人が橋の上から御鳳輦の船を見下ろさないようにするための対策である。御鳳輦の船渡御中は、本来は天神橋、天満橋、川崎橋の通行を禁止すべきなのであるが...。
高山の御神幸行列のなかに巫女姿の少女や、獅子舞、闘鶏楽(とうけいらく:地元ではカンカコカン)という舞踏団が参列し、獅子舞は氏子の家の前で獅子舞を披露するので、行列がなかなか前に進まない。10日の本宮は平日であったが、高山の八幡祭の地域は休日であった。
宵宮の屋台の灯入れ曳行は美しい、西日が傾くと宵祭りの準備が忙しくなる。屋台の周りを提灯で飾る。日が暮れると、夜空の下での屋台曳行はファンタジックだった。
屋台の提灯を点すと暖かい光を放つ。八幡宮の表参道から、11台の屋台がそれぞれの屋台組(屋台を所有している町内)へ帰るのである。ぼくは絵になる場所を探し、日下部(くさかべ)民芸館の前の向かい側で屋台を撮ることにした。
陽が落ちるとゾクッと秋冷えがし、大阪では12月の寒さ...辺りがすっかり暗くなった6時半になって、提灯を点した「神楽台(かぐらたい)」が祭囃子を奏でながらやって来た。そして、後続の屋台も次々と目の前を通り過ぎていく。
こういう光景を初めて見たので、夢を見ているような気分であった。祇園祭の宵山もきれいだが、祇園祭の宵山は山や鉾が停まったままである。光がゆっくりと動くというのも実にいい。
美しい大自然に囲まれ、古来からの飛騨の匠の伝統と文化が育まれている町...高山。
2006年になって、初めて総理になられた安倍晋三氏が、就任当初は「美しい日本」をスローガンに掲げておられたが、大勢の氏子市民が奉仕して盛り上げる高山祭は、その良き例の一つになっているのかも知れない。