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今回のトップページには、"みちのくの夏の夜空を彩るホットなねぶた祭”を再掲載しました。
写真と記事:尾林 正利
写真取材は、2006年8月6日〜9日
使用カメラ:Canon EOS5D, 使用レンズ:EF24-70mm f2.8L USM, EF70-200mm f2.8L IS USM + スピードライト580EX
当サイト初掲載は、2006年8月15日(初稿)
写真のサイズ:従来はデータ容量に制限があったので、画像を縮小して掲載していましたが、最大横幅を1046ピクセルに拡大しました。なお、当サイトの画像や記事の転載や無断使用を禁じます。
記事と写真の更新、2015年7月20日


個人的には、一番最初に青森駅へ行ったのは、昭和43年(1968年)の冬でした。でも青森駅では降りず、夜中に青函連絡船に乗って函館に向かいました。まさに「津軽海峡冬景色」の時期だったのですが、大部屋船室のカーテンを少し開けた窓の外は深夜で真っ暗でした。
朝には函館に着いて、SLが牽引する「急行ていね」に乗りました。長万部 (おしゃまんべ) で買った駅弁の「かにめし」を頬張りながら、雪原を走る"C62-2"を先頭にした重連の排煙がたなびく車窓から眺めた北海道原野の雪景色は今でも忘れられません。
その1年後、ぼくは運転免許を25歳で取得して、1970年に念願のマイカーを買って、数年後には、大阪から青森まで片道で凡そ1000km以上をドライブして、十和田湖・奥入瀬渓谷へ春と秋に2回訪れましたが、八戸市へはウミネコの群舞を撮りに寄り道したのですが、青森市や弘前市には立ち寄らず、大阪へUターンしていました。

時は流れ、思わぬチャンスが巡って来ました。広報紙の仕事で、弘前市で活躍されている津軽錦絵作家協会の作家さんをライターさんと一緒に取材することになったのです。
1986年6月2日に、大阪駅20時20分発「日本海」の寝台客車に乗り込みました。弘前には6月3日11時15分着です。
そこで初めて、ねぷた絵作家の制作現場を見せていただいてから写真取材し、いつかは「青森ねぶた」の巡行を取材してみたいと思い続けていました。2005年頃にコマーシャル・フォト界の第一線をリタイヤし、還暦を過ぎた2006年8月6日11時10分、ぼくは大阪伊丹空港から青森へJALのMD-90に乗って、旅立ちました。ねぶた祭を撮りに...。
上の写真は2006年8月6日の夜に撮影しました。青森ねぶた祭は、人形ねぶたのヴィジュアル面の迫力も然る事ながら、腸(はらわた)に響く大太鼓や囃子のサウンド面も素晴らしいですね。観に行って良かったです。


上の写真は、NTTさんがスポンサーのねぶたです。人形ねぶたの作り方は、凡そ7m四方の山車に、竹や針金で骨組みを造り、白い紙を貼ってから錦絵を描いた「人形ねぶた」を載せ、高さ4m(道路標識に引っ掛からないように)、重さ4トンにもなり、24名ほどの若い男子が曳きます。これは、2車線以上ある広い十字路交差点内に入ると、見物人のために山車を360度以上回転させます。
人形ねぶたのデザインは、乗用車のデザインと同じで、後ろ姿"見送り"の魅力的なことも、コンクール審査の対象になっています。戦前はローソクを照明に使っていたのですが火災事故が多くて危ないので、現在の灯籠の中は電球や蛍光灯照明です。電源は自動車用バッテリーや可搬式エンジン (小型発電機) を利用します。


上の写真は、「ねぶた愛好会」の人形ねぶたです。
ねぶた...大阪の方言では、眠たいことを「ねぶたいわ」と言いますし、ねぶたのルーツは、江戸時代に弘前藩が幕府から青森港の開港を許され、大坂商人や近江・越前の商人たちも青森村に住み着いて青森村が発展したそうです。
ブリザードが吹き荒れる冬の時期が長い津軽地方は、快適な夏が来ると開放感から、ねぶたの題材に強烈な色彩や力強さを誇張した武者絵が好まれるようで、三国志などを参考に、英雄の武将と敵対する悪人の武将を描きます。
夏のキツイ野良仕事はウトウトし易いので、眠り流しの行事 (秋の豊作祈願) が江戸時代から始まったそうですが、人形ねぶたを灯籠にして山車の上に載せてパレードするようになった時期は大正〜昭和初期のようです。なお、太平洋戦争中は、桃太郎がルーズベルトをやっつけるねぶたも造られ、マッカーサ司令官が戦後の日本を統治していた数年間は、歌舞伎やねぶた祭を中止に。刀を振り回して"仇討ち"というのが、気に食わなかったらしいです。
なお、「ねぶた大賞」は、9世紀の初め、桓武天皇の重鎮で数々の武勲を立てた征夷大将軍の坂上田村麻呂に因んで「田村麻呂賞」だったのですが、奥州の夷を征討するのに灯籠を使って誘き出したという伝説に根拠がないことから、「ねぶた大賞」に変更されました。


前回は、パレードに参加した全部のねぶたを掲載したのですが、編集の都合上、個人的な好みで数点に絞りました。HITACHIさんのは、人形ねぶたも囃子も良かったです。


上の写真は、HITACHIさんの囃子(太鼓・笛・手振り鉦)です。8連の大太鼓を引っ張るのは、怪力でないと無理ですね。
ねぶたの太鼓の響きは大阪へ帰っても、数日間も体の中で音が響いていました。


上はHITACHIさんの囃子です。


上はPanasonicさんの正装ハネト(跳ね人)です。この他に、着ぐるみをきたパケト(化け人)も行列に参加できます。


上は略式ハネトです。ラッセーラ (酒持って来い)、ラッセーラ!


上の写真:スポーツ選手育成の学校で、年末の最終日曜日に京都市内で行われる、全国高等学校駅伝競走に上位にランクするのでよく知っています。


下の写真:8月8日に撮った弘前市の扇ねぷたです。面手の絵は、ヒーローやヒロインを描き、悪者をやっつけます。


下の写真:裏の絵は、見送りと言って、ヒーローやヒロインと関係のある絵を描きます。バッテリーを使って扇部分が電動で回転できるので、交差点で山車を360度回転させなくてもOKです。人形ねぶたは、竹や針金で骨組みを造ってから白い紙を貼り、絵師が描いて仕上げますが、扇ねぷたは、作家が工房で絵を仕上げてから、骨組みに張り込みます。


下の写真は、8月8日に撮った五所川原市の「立佞武多(たちねぷた)」のパレードに使う大太鼓です。


下の写真は五所川原市の立佞武多(たちねぷた)で高さが凡そ20mもあって、地車庫の高さが25mほどあります。雨の日にシートを掛けるのが大変ですね。


下の写真は、二番目にやってきた立佞武多です。子供たちのほっぺに白い化粧を塗っています。


下の写真は、青森ねぶた祭のフィナーレを象徴する花火です。先ず、数台のねぶたの海上運行が行われ、それが終わると、青森港の埠頭で花火大会が行われるのです。ぼくも大阪のチケット・ピアで3500円払って入場券を買って見物しました。最後のスターマインが迫力ありました。


8月7日の花火大会が終わると、青森ねぶた祭が終了。ぼくは、JR青森駅前のホテルでシャワーを浴びて服を着替え、ホテル向かいの居酒屋で郷土料理に舌鼓...。ホタテや鮮魚料理に純米酒「田酒」がスルスルっと喉を通りました。東北弁が行き交う店内に、なぜか京都出身の女将...隣席にはマスコミ関係者...一期一会の乾杯をしてきました。


みちのくの夏の夜を彩る、
ホットな「ねぶた祭」と「ねぷた祭」

「ねぶた祭」とは、青森市などでは山車に巨大な人形ねぶたを載せ、凡そ20数名で曳く。
「ねぷた祭」とは、弘前市などは、山車に扇型の灯籠を載せて曳き、扇部分は電動で回転する。
青森県の西側・津軽藩地域と、津軽人と近江や越前商人が混じった青森市、県東の南部藩地域では、方言の違い、ねぶた・ねぷたの文化が少し違うようです。


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記事と写真:尾林 正利 2015年7月20日編集

ねぶた祭との関わり...

今(2015年)から29年前の1986年6月3日に、大阪に本社のある農機メーカー・クボタ様の広報紙の取材で、青森県弘前市(ひろさきし)にお住まいのねぷた師:津軽錦絵作家協会(当時は副会長)の阿部義夫氏のアトリエへ紹介者を通じてライターさんと一緒に取材に伺ったことがありました。

カメラはハッセル500ELXと500CM、レンズは40ミリ・50ミリ・100ミリ・150ミリ、ストロボはナショナルPE-563二台と新品バッテリー2個、フィルムはFUJICHROME PROVIA ブロニー20本、ポラロイド用マガジン、フジインスタントカラーフィルム、ミノルタフラッシュメーター、コンパクトライトスタンド2本、中型三脚1本と...両肩と両手が手荷物で一杯でした。荷物が嵩張るので、本来なら1982年に買った愛車のパジェロで行きたかったけど...大阪〜青森まで1日で1,000kmも連続運転するのはシンドイ。所要時間7時間前後で大阪〜東京までの550kmなら平ちゃらなんですが。

当時は、まだ東北新幹線の全線や関空が開業しておらず、大阪伊丹空港から青森空港までの便数が少なかったのと、座席数の少ない国産プロペラ機のYS-11が就航していたので、取材日が満席で座席が取れず、往きは、1日2便もあった寝台特急の「日本海3号」に乗って弘前へ向かいました。
夜の8時20分にブルトレ「日本海3号」のB寝台に乗車すると、翌日昼前の11時過ぎに弘前駅に着き、津軽クボタの方と合流して、早めの昼食をとってから約束の時間にねぶた祭の灯籠に使用する錦絵作家のお宅を訪問しました。
ご家族の案内で大広間に通されると、作家さんが部屋を埋め尽くした特大の紙(幅7m)に描いた錦絵がほぼ出来上がっており、作品をチェックされている途中で、「扇ねぷた」用の錦絵の大きさにビックリした思い出が今でも脳裏に焼き付いていおります。ハンドストロボを2灯持っていって正解でした。

当時のぼくの仕事は、カメラマンの仕事だけをすればよく、一緒に行ったライターさんの指示に従って、「弘前ねぷた祭」に使う巨大な錦絵制作中の写真と、ねぷた師の阿部さんの顔写真を撮って、機材を撤去。
ライターのF氏が、別室にて阿部さんの記事取材を行っていたので、阿部さんがどんなお話をされていたのかは詳しくは知らなかったですね。約2カ月後に発行された広報紙の記事を読んで、何となく「ねぶた」というものが薄々分かったような気がしたんです。

今のぼくなら、写真取材をする場合は、どんなに忙しくても常識的な予備知識を頭に入れてから写真を撮るように心掛けていますが、29年前はスタジオでの商品撮影の仕事が忙しくて、飛び込みのロケ取材は、ぶっつけ本番で写真を撮ることが多かったですね。ちょっと、写真(カメラマンの仕事)をなめているところがあったようで反省しています。もう、遅いかも...。

錦絵作家が描いた武者絵は扇ねぷたの面手の絵になり、裏面(見送り) には武将と関係のあった女性の絵を色っぽく描いて二枚仕上げて完成します。絵が出来ても、組み立てた扇ねぷたに、絵を貼り付ける作業が完成するまで1ヶ月半ほど掛かり、新作の扇ねぷたの写真は広報紙の発行に間に合わないので、弘前市にある「ねぷた会館(現在は、津軽藩ねぷた村)」を紹介して頂き、館内には阿部義夫作の「扇ねぷた」が展示してあるというので、そこへ行って写真を撮りました。

青森県の「ねぶた祭」は、県内では多くの市町村で行われていて、中でも青森市、弘前市、五所川原市、黒石市などの祭は規模が大きいといわれています。
青森市では「ねぶた」と発音し、江戸時代は弘前藩(津軽藩)の所領であった、弘前市、五所川原市と黒石藩所領の黒石市では「ねぷた」と発音します。
江戸時代に越前や近江の商人が多く移住してきた青森村地域と、土着の人が住む津軽地域とでは、ねぶた文化の違いがあり、青森市のねぶたは「人形ねぶた」ですが、弘前市や黒石市では「扇ねぷた」、五所川原市では「立佞武多(たちねぷた)」が主流になっています。もちろん、囃子やハネトの掛け声も地域によって変わります。
青森を知るには、江戸時代以前から土着の人が多く住んでいた津軽(つがる)地方と、青森港の開港によって、移民文化の影響が感じられる文化圏の違いを理解しなければならないようです。

青森市の起源は、江戸時代の始めの寛永3年(1626年)に弘前藩の第2代藩主・津軽信枚(つがる のぶひら)の命令によって、外が浜の善知鳥(うとう)村に商業港の建設工事が行われました。前年に江戸幕府から津軽〜江戸間の廻船業が許可されたからでした。船から港を見ると、港の背後に樹木が青々と茂った小高い森があって「青森」と呼ばれ、開港後は「青森村」と改称されるようになったそうです。

弘前藩は、関西や北陸方面からの商人の移住を奨励したので人口が増え、商業が活発になって青森村が栄え、したがって、青森市中心部で行われる青森ねぶた祭は、県内各地で行われる「ねぶた祭」の中ではスケールが一段と大きく、実際の祭の様子を傍で見る価値はあると思いますね。
青森市の「ねぶた祭」は、2006年の場合は8月2日〜6日の夜7時〜9時まで、JR青森駅の東に接する繁華街「新町通り」を中心にして行われ、最終日の8月7日は、青森港で花火大会が開催されるので、7日のねぶた運行は時間が早まって、日中の午後1時から3時になります。ま、現在は東北新幹線が開業し、航空運賃も安くなっているので、行きやすくなりました。

8月7日といえば、日中は大変暑そうですが、青森市は北国の港町なので、時々海の方から涼しい風が吹いてきて、日陰で見物していると、汗は殆どかきません。でも、帽子は被っていた方がいいでしょう。

雨天だと、ねぶたにビニールシートを掛けて運行しますので、満足な写真は撮れません。やはり、ねぶた祭は夜の運行を見る方が、ねぶたに灯(あか)りが点いて、ねぶたの迫力が際立って美しいですね。

今回は、青森市に2006年8月6日〜9日まで3泊4日のスケジュールで滞在しましたが、毎日が快晴の好天という幸運に恵まれました。
※今回の更新の際に、津軽錦絵作家協会(取材当時は副会長)の阿部義夫氏のことが気になって、インターネットで調べたら、お亡くなりになられていたそうです。ぼくが弘前へ写真を撮りにいった3年後のことで、心からご冥福をお祈り申し上げます。

弘前市にある「ねぷた会館」は、「弘前さくらまつり」で有名な、弘前城天守閣が建っている弘前公園の東側外周道路の北角にあります。
現在は「ねぷた会館」の展示館が建て替えられて「津軽藩・ねぷた村」に改名され、展示場の他に郷土玩具の「金魚ねぷた」などを販売している店舗も併設されています。

さて、ねぶた祭の巡行パレードを実際に観たくなったのは、弘前の錦絵作家を取材してから20年後になってからです。
きっかけは、日本各地の祭りを撮ってみようという気持ちが湧いてきたのと、誰でも歳を重ねれば、写真を撮りたくなる興味の対象も変わってくるものです。
2006年になって、ぼくの写欲を満たすカメラ・Canon EOS 5DやEF24-70mm/f2.8LやEF70-200mm/f2.8LISズームを揃えることができました。この機材ならISO1600で撮っても、画質的には大きな問題はないでしょう。

青森と言えば、ぼくは「十和田湖」と八戸市(はちのへし)の「蕪島(かぶしま)」のことしか知らないんです。
十和田湖は奥入瀬渓谷の新緑と紅葉(写真的には黄葉という方が正しい)が美しくて、大阪から愛車を利用して三十代に3回ほど通って写真を撮ったことがありますが、湖畔の民宿で1泊した程度では満足な写真を撮ることが出来ませんでした。
ねぶた祭を見たくなったのは、東北を代表する祭だからです。

一口に「ねぶた」と言っても、青森県の各地で行われる「ねぶた祭」は、地域によってねぶたの呼び方、ねぶたの形、囃子の掛け声が異なるようです。
先ず、青森市ではねぶたと呼び、山車に乗せるのは巨大な「人形ねぶた」です。大型ねぶたの大きさは、幅と奥行きが7〜8m平方で、ねぶたを載せた台(山車)の高さが4mぐらいで、重さは4トンもあるらしい。これを20〜24名ぐらいの「曳き手」が動かす。とくに交差点の中心でねぶたを360°回転させる技は迫力があって見応えがありました。

ねぶた運行を指揮するのは「扇子持ち(せんすもち)」の役で、年配の男性が務めますが、団体によっては若い女性も務めていました。
囃子(はやし)は、楽器を奏でる人々です。5〜8個を連結した大太鼓が囃子の先頭に立ってテンポを整え、続いて横笛を吹く人々がリズムを奏でる。その後に手振り鉦(てぶりがね)を鳴らす人々が続きます。

太鼓台から集音マイクが後方に長く伸びていて、笛や鉦の音が大太鼓に負けないようにミキシングアンプでボリュームを上げています。
囃子方の大太鼓を打つ音は、五臓六腑に染み渡りますね。法被(はっぴ)を着た若い女性も大太鼓を打ちます。
青森市のねぶたの場合、掛け声は、着飾った「跳人(はねと)」や「化人(ばけと:おどけた格好で登場)」が大太鼓の前で踊りながら「らっせらー、らっせらー!!」を繰り返し叫びます。
「らっせらー!」とは、「酒持って来い!」という意味らしいです。

「ねぶた」とは、大阪でも眠たいことを「あぁーねぶた」という人も多い。夏のうだる暑さに負けて昼寝したくなる。仕事(農作業など)を怠け、眠気から目を覚まさせる「眠りながし」という行事のことらしいです。めざめを促す祭りでもあるワケです。眠気覚ましの大太鼓の音を聴いて、グーグーと寝ていられるような人はいないでしょ。
ねぶた祭が何時頃から行われるようになったのかは、正確な記録がないのでわからないようです。弘前の「扇ねぷた」や五所川原の「立佞武多」の土台には「雲漢(うんかん:中国では天の川を表す)」と書かれてあるところから、弘前や五所川原のねぷた祭は、七夕祭がルーツになっていると考えられているようです。

ねぶたの歴史は、江戸時代中期の享保(きょうほう)年間に、青森の祭りで、祇園祭りの山車のような絵が描かれているらしく、青森のねぶた祭りと、弘前や五所川原のねぶた祭のルーツが、少し異なるようです。
19世紀の初め(江戸時代の後期)に、灯籠の加工技術が進歩して、小ぶりで簡素な人形ねぶたが作られ、人形ねぶたを山車に乗せたり、担いだりして、夜に町内を練り歩くような祭が行われるようになったそうですが、大きなねぶた(灯籠)の曳行は、贅沢でもあり、防火面から危険だとして、度々禁止していたらしい。太平洋戦争後のねぶたは、ロウソク灯から電灯 (発電機搭載) に進化し、火災の心配は少なくなって、大きなねぶたが作られるようになっていったそうです。

弘前と黒石では、ねぷたの形は扇で「扇ねぷた」とも呼ばれます。扇と人形を合わせた「組み合わせねぶた」もあるようです。五所川原市ではノッポの「立佞武多(たちねぷた)」がメインになります。
今回の取材では、ぼくは青森駅近くでレンタカーを借りて、弘前市の「津軽藩ねぶた村」や「リンゴ公園」、五所川原市の「十三湖」を見たり、五能線の列車に乗って秋田県の東能代まで足をのばしたので、スケジュール的に弘前のねぷた祭の写真を撮れなかったのは残念でした。

ねぷたの中でユニークなのは、五所川原市(ごしょがわらし)の立佞武多(たちねぷた)でしょう。立佞武多の幅は大した幅ではないが、高さが20m(ビルの5〜6階建ての高さに相当)ほどもあって、立佞武多が行進する市内の目抜き通りは、電線や電柱が道路になく、街並みがスッキリしていました。
五所川原の祭囃子(まつりばやし)の構成は青森市と似ていますが、掛け声は、「やってまれ、やってまれ、そーりゃ !!」でした。
8月8日に五所川原で立佞武多を見ましたが、大型は少なく、小型の人形ねぶたの方が多かったです。帰りの終電車 (21時で終電) の都合で最後までは見られませんでした。

今回は1カ月前に青森駅前のホテルに予約し、3連泊してねぶた祭りを撮りましたが、大阪から見物にきて良かったです。
高い交通費を払っても、青森のねぶた祭は一見の価値はあります。外人客もちらほらいて、優しそうな女性に訊いてみると、オーストラリアからのツアー客でした。

青森市では毎年8月2日〜8月7日まで「ねぶた祭」が行われます。
自由な撮影取材許可は、主催者の青森ねぶた祭実行委員会と祭が行われる区域を管轄する警察署長からの許可が必要です。しかし、申請書を提出しても、許可が下りるとは限りません。
許可が取れなくても、ねぶた運行開始(午後7時)の30分前に県道や国道が閉鎖されて、車道が歩行者天国になるので、ねぶたが右折する交差点で待機しておれば、車両通行止めと同時に車道の真ん中に座って席を確保し、座ったままで写真を撮ることが出来ます。最前列で立って写真を撮ることは後ろの観客の迷惑になってマナー違反です。

ねぶたが運行する車道の両側の歩道は、青森市民がビニールシートやござを敷いて前日から場所取りしていますので、他都道府県の人間には場所取りは無理でしょ。(社)青森観光コンベンション協会が斡旋する有料観覧席で観ると、弁当・お茶付きで5,000円もするらしい。ちょっと高いような...。

ねぶたは基本的に夜7時の運行になりますが、ラストの日だけは昼の1時から運行が始まり3時に終わります。そして夜の7時から青森港で5台のねぶたが、ねぶた船に積まれて海上運行と花火大会が行われます。
ぼくは入場料3500円払って、ねぶたの海上運行と花火大会を撮ることにしました。「青森花火大会観覧席券」は、大阪市梅田地下街の「チケット・ぴあ」から買ったものですが、当日券も残っていたようです。
中央埠頭に行くと、近畿日本ツーリストの旗を持った団体客が一番良い席を確保していて、さすが大阪の旅行会社だと思いました。

ねぶた船と花火をタイミングよく、迫力ある写真を撮るには、押しの利く黒沢明のような名監督が演出しなければ不可能に近いです。五隻のねぶた船が運航している時間帯は、花火が単発で小さく迫力が全くない。これは、ねぶたが紙製なので大きな花火を連発で打ち上げると、燃えカスがねぶたに落ちて火災の危険があるからでしょう。やはり、ねぶた船が去った後は、大きな花火(スターマイン)が連発で打ち上げられるようになりました。
8月1日に大阪のPL花火芸術で花火の写真を撮って、データーが分かっていたので、青森の花火大会も何とかものにすることができました。
青森市のねぶた祭は、神社やお寺の祭礼ではない。宗教色は殆どなく、青森県民の誇りを祝う祭りです。

ねぶた祭が終わった後の青森は寂しい。大型ねぶたが保管されていた観光物産館アスパムの広場にある大テント「ねぶたラッセランド」は空室になり、お盆過ぎに行われる大相撲の夏巡業の旗が、秋の気配が漂う浜風に靡いていました。
祭りが終わると、一部のねぶたは海外などに売却され、殆どのねぶたは解体して焼却されるようです。そして2007年のねぶた祭に備えて、人形ねぶたが新たに製作されるそうです。その物作りに対する青森県人の心意気とバイタリティーには、旅人も励まされてしまいます。


大阪〜青森までの往きはジェット旅客機で...ねぶた祭の期間は搭乗券が取れないので1ヶ月前に予約


最終日の8月7日に行われた青森ねぶた祭の昼間の運行は、陸自の和製ジープが先導しますが、"ミスねぶた"の方が絵になりますね。


日立さんの"凱旋太鼓”。間近でカメラを構えていると、すごい音圧が...。


ねぶたの迫力は、漆黒の夜に映える灯籠が美しいので、昼間に見るとイメージが違う...。


青森駅前AUGAビル地下にある「海鮮市場」で売っている殻付きホタテを大阪へ送って貰いました。


「海鮮市場」で売っている北洋紅サケ...三切れ250円!大阪のスーパーなら一切れ280円ですよ。


8月9日に前から乗ってみたかった五能線、青森〜弘前〜川部〜五所川原〜東能代のローカル線に乗車しました。


青森駅に入線する五能線快速列車「リゾートしらかみ(キハ40やキハ48を改造したディーゼル車)」橅編成4連に乗車しました。※青池編成は、HB-E300系ハイブリッド車
写真の先頭車が東能代行きの最後尾になり、青森駅を発車すると弘前駅までノンストップ(現在は新青森駅に停車)で走り、弘前駅でスイッチバック運転して川部駅まで引き返し、五能線構内に入線して、またスイッチバック運転して、東能代に向かいます。ややこしい運転です。 JR奥羽本線は全線複線と思っていましたが所々に単線区間もあって、通過する駅で列車交換の停車もします。幹線区間のJRの普通電車がワンマンカーというのも驚きましたね。


「リゾートしらかみ」の先頭車側では、五所川原駅〜鰺ヶ沢駅まで、津軽三味線のライブが無料で聴けます。


青森ねぶた祭が終わった8月8日に、レンタカー(トヨタ・ヴィッツ)に乗って弘前市の「津軽藩ねぷた村」と「弘前リンゴ公園」、そして五所川原市の十三湖にも行って、名物の「しじみラーメン」も食べました。
りんご園周辺は、園内から軽トラックの飛び出しもあり、時速40キロで運転して下さい。


上の写真は、津軽の秀峰・岩木山が北西に見える「弘前リンゴ公園」です。公園の周りはリンゴ果園に囲まれていて、少し色付いた実がなっていました。下の写真は、「津軽藩・ねぷた村」で、津軽三味線の実演や郷土玩具も販売しています。二カ所とも、駐車場が完備しています。


8月8日は快晴で気温が高かったので「弘前リンゴ公園」で食べたリンゴのジェラートが美味しく、そこの売店で果汁100%のジュース(JA青連)を大阪へ2箱送ってもらいました。また、青森市の青森県観光物産館「アスパム」で売っていた「気になるりんご」1個700円のアップルパイがとても美味しく、お土産に...。



五所川原市の立佞武多(たちねぷた)が始まる18時までの空いた時間を利用して竜飛岬の方に向かいました。途中の小泊港に寄り道しました。漁船をみると、イカ漁が盛んなようですね。


小泊港の土産物屋さんです。炭火で炙った一夜干しのイカを食べたかったのですが、還暦超えたので、後で歯痛になるのが怖い...塩辛や刺身はOKです。「みそいか」って何やろ?四角い七輪は初めて見ました。


竜飛岬までの国道339号線です。画面左に海水浴客が二人...竜飛岬までは遠く、五所川原市のねぷた祭開始時間に間に合うように、途中で引き返しました。


帰りは飛行機ではなく、青森駅に入線するブルトレ「日本海」に乗車しました。大阪まで1,000キロほど...運転士と車掌は、JR西日本の方です。乗務員は定められた運転区の停車駅で交代します。実は7月13日〜8月8日まで羽越本線の一部の区間が土砂崩れになって、日本海は27日間も運休し、8月9日夜にようやく正常ダイヤに復帰しました。
EF81-104は、トワイライト塗装で、トワイライト・エクスプレスの牽引機です。夜が明けた富山駅では停車時間が長く、大阪行きのサンダーバードに乗り換えるお客さんが多かったですね。もちろん、朝食用に鱒寿司とお茶を買いました。写真は発車2分前です。EF81-104は、日本海沿岸を走るので、"塩害"によるパンタグラフの錆が気になります。


今回は、チョット長目のトップページになりました。学校の夏休みが始まりますし、8月は帰省のシーズンで旅行される方が多いと思います。余暇をエンジョイなさって下さい。

写真と記事:2015年7月20日 尾林 正利

写真と記事の無断転載を禁じます。尾林 正利

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