ねぶた祭との関わり...
今(2015年)から29年前の1986年6月3日に、大阪に本社のある農機メーカー・クボタ様の広報紙の取材で、青森県弘前市(ひろさきし)にお住まいのねぷた師:津軽錦絵作家協会(当時は副会長)の阿部義夫氏のアトリエへ紹介者を通じてライターさんと一緒に取材に伺ったことがありました。
カメラはハッセル500ELXと500CM、レンズは40ミリ・50ミリ・100ミリ・150ミリ、ストロボはナショナルPE-563二台と新品バッテリー2個、フィルムはFUJICHROME
PROVIA ブロニー20本、ポラロイド用マガジン、フジインスタントカラーフィルム、ミノルタフラッシュメーター、コンパクトライトスタンド2本、中型三脚1本と...両肩と両手が手荷物で一杯でした。荷物が嵩張るので、本来なら1982年に買った愛車のパジェロで行きたかったけど...大阪〜青森まで1日で1,000kmも連続運転するのはシンドイ。所要時間7時間前後で大阪〜東京までの550kmなら平ちゃらなんですが。
当時は、まだ東北新幹線の全線や関空が開業しておらず、大阪伊丹空港から青森空港までの便数が少なかったのと、座席数の少ない国産プロペラ機のYS-11が就航していたので、取材日が満席で座席が取れず、往きは、1日2便もあった寝台特急の「日本海3号」に乗って弘前へ向かいました。
夜の8時20分にブルトレ「日本海3号」のB寝台に乗車すると、翌日昼前の11時過ぎに弘前駅に着き、津軽クボタの方と合流して、早めの昼食をとってから約束の時間にねぶた祭の灯籠に使用する錦絵作家のお宅を訪問しました。
ご家族の案内で大広間に通されると、作家さんが部屋を埋め尽くした特大の紙(幅7m)に描いた錦絵がほぼ出来上がっており、作品をチェックされている途中で、「扇ねぷた」用の錦絵の大きさにビックリした思い出が今でも脳裏に焼き付いていおります。ハンドストロボを2灯持っていって正解でした。
当時のぼくの仕事は、カメラマンの仕事だけをすればよく、一緒に行ったライターさんの指示に従って、「弘前ねぷた祭」に使う巨大な錦絵制作中の写真と、ねぷた師の阿部さんの顔写真を撮って、機材を撤去。
ライターのF氏が、別室にて阿部さんの記事取材を行っていたので、阿部さんがどんなお話をされていたのかは詳しくは知らなかったですね。約2カ月後に発行された広報紙の記事を読んで、何となく「ねぶた」というものが薄々分かったような気がしたんです。
今のぼくなら、写真取材をする場合は、どんなに忙しくても常識的な予備知識を頭に入れてから写真を撮るように心掛けていますが、29年前はスタジオでの商品撮影の仕事が忙しくて、飛び込みのロケ取材は、ぶっつけ本番で写真を撮ることが多かったですね。ちょっと、写真(カメラマンの仕事)をなめているところがあったようで反省しています。もう、遅いかも...。
錦絵作家が描いた武者絵は扇ねぷたの面手の絵になり、裏面(見送り) には武将と関係のあった女性の絵を色っぽく描いて二枚仕上げて完成します。絵が出来ても、組み立てた扇ねぷたに、絵を貼り付ける作業が完成するまで1ヶ月半ほど掛かり、新作の扇ねぷたの写真は広報紙の発行に間に合わないので、弘前市にある「ねぷた会館(現在は、津軽藩ねぷた村)」を紹介して頂き、館内には阿部義夫作の「扇ねぷた」が展示してあるというので、そこへ行って写真を撮りました。
青森県の「ねぶた祭」は、県内では多くの市町村で行われていて、中でも青森市、弘前市、五所川原市、黒石市などの祭は規模が大きいといわれています。
青森市では「ねぶた」と発音し、江戸時代は弘前藩(津軽藩)の所領であった、弘前市、五所川原市と黒石藩所領の黒石市では「ねぷた」と発音します。
江戸時代に越前や近江の商人が多く移住してきた青森村地域と、土着の人が住む津軽地域とでは、ねぶた文化の違いがあり、青森市のねぶたは「人形ねぶた」ですが、弘前市や黒石市では「扇ねぷた」、五所川原市では「立佞武多(たちねぷた)」が主流になっています。もちろん、囃子やハネトの掛け声も地域によって変わります。
青森を知るには、江戸時代以前から土着の人が多く住んでいた津軽(つがる)地方と、青森港の開港によって、移民文化の影響が感じられる文化圏の違いを理解しなければならないようです。
青森市の起源は、江戸時代の始めの寛永3年(1626年)に弘前藩の第2代藩主・津軽信枚(つがる
のぶひら)の命令によって、外が浜の善知鳥(うとう)村に商業港の建設工事が行われました。前年に江戸幕府から津軽〜江戸間の廻船業が許可されたからでした。船から港を見ると、港の背後に樹木が青々と茂った小高い森があって「青森」と呼ばれ、開港後は「青森村」と改称されるようになったそうです。
弘前藩は、関西や北陸方面からの商人の移住を奨励したので人口が増え、商業が活発になって青森村が栄え、したがって、青森市中心部で行われる青森ねぶた祭は、県内各地で行われる「ねぶた祭」の中ではスケールが一段と大きく、実際の祭の様子を傍で見る価値はあると思いますね。
青森市の「ねぶた祭」は、2006年の場合は8月2日〜6日の夜7時〜9時まで、JR青森駅の東に接する繁華街「新町通り」を中心にして行われ、最終日の8月7日は、青森港で花火大会が開催されるので、7日のねぶた運行は時間が早まって、日中の午後1時から3時になります。ま、現在は東北新幹線が開業し、航空運賃も安くなっているので、行きやすくなりました。
8月7日といえば、日中は大変暑そうですが、青森市は北国の港町なので、時々海の方から涼しい風が吹いてきて、日陰で見物していると、汗は殆どかきません。でも、帽子は被っていた方がいいでしょう。
雨天だと、ねぶたにビニールシートを掛けて運行しますので、満足な写真は撮れません。やはり、ねぶた祭は夜の運行を見る方が、ねぶたに灯(あか)りが点いて、ねぶたの迫力が際立って美しいですね。
今回は、青森市に2006年8月6日〜9日まで3泊4日のスケジュールで滞在しましたが、毎日が快晴の好天という幸運に恵まれました。
※今回の更新の際に、津軽錦絵作家協会(取材当時は副会長)の阿部義夫氏のことが気になって、インターネットで調べたら、お亡くなりになられていたそうです。ぼくが弘前へ写真を撮りにいった3年後のことで、心からご冥福をお祈り申し上げます。
弘前市にある「ねぷた会館」は、「弘前さくらまつり」で有名な、弘前城天守閣が建っている弘前公園の東側外周道路の北角にあります。
現在は「ねぷた会館」の展示館が建て替えられて「津軽藩・ねぷた村」に改名され、展示場の他に郷土玩具の「金魚ねぷた」などを販売している店舗も併設されています。
さて、ねぶた祭の巡行パレードを実際に観たくなったのは、弘前の錦絵作家を取材してから20年後になってからです。
きっかけは、日本各地の祭りを撮ってみようという気持ちが湧いてきたのと、誰でも歳を重ねれば、写真を撮りたくなる興味の対象も変わってくるものです。
2006年になって、ぼくの写欲を満たすカメラ・Canon EOS 5DやEF24-70mm/f2.8LやEF70-200mm/f2.8LISズームを揃えることができました。この機材ならISO1600で撮っても、画質的には大きな問題はないでしょう。
青森と言えば、ぼくは「十和田湖」と八戸市(はちのへし)の「蕪島(かぶしま)」のことしか知らないんです。
十和田湖は奥入瀬渓谷の新緑と紅葉(写真的には黄葉という方が正しい)が美しくて、大阪から愛車を利用して三十代に3回ほど通って写真を撮ったことがありますが、湖畔の民宿で1泊した程度では満足な写真を撮ることが出来ませんでした。
ねぶた祭を見たくなったのは、東北を代表する祭だからです。
一口に「ねぶた」と言っても、青森県の各地で行われる「ねぶた祭」は、地域によってねぶたの呼び方、ねぶたの形、囃子の掛け声が異なるようです。
先ず、青森市ではねぶたと呼び、山車に乗せるのは巨大な「人形ねぶた」です。大型ねぶたの大きさは、幅と奥行きが7〜8m平方で、ねぶたを載せた台(山車)の高さが4mぐらいで、重さは4トンもあるらしい。これを20〜24名ぐらいの「曳き手」が動かす。とくに交差点の中心でねぶたを360°回転させる技は迫力があって見応えがありました。
ねぶた運行を指揮するのは「扇子持ち(せんすもち)」の役で、年配の男性が務めますが、団体によっては若い女性も務めていました。
囃子(はやし)は、楽器を奏でる人々です。5〜8個を連結した大太鼓が囃子の先頭に立ってテンポを整え、続いて横笛を吹く人々がリズムを奏でる。その後に手振り鉦(てぶりがね)を鳴らす人々が続きます。
太鼓台から集音マイクが後方に長く伸びていて、笛や鉦の音が大太鼓に負けないようにミキシングアンプでボリュームを上げています。
囃子方の大太鼓を打つ音は、五臓六腑に染み渡りますね。法被(はっぴ)を着た若い女性も大太鼓を打ちます。
青森市のねぶたの場合、掛け声は、着飾った「跳人(はねと)」や「化人(ばけと:おどけた格好で登場)」が大太鼓の前で踊りながら「らっせらー、らっせらー!!」を繰り返し叫びます。
「らっせらー!」とは、「酒持って来い!」という意味らしいです。
「ねぶた」とは、大阪でも眠たいことを「あぁーねぶた」という人も多い。夏のうだる暑さに負けて昼寝したくなる。仕事(農作業など)を怠け、眠気から目を覚まさせる「眠りながし」という行事のことらしいです。めざめを促す祭りでもあるワケです。眠気覚ましの大太鼓の音を聴いて、グーグーと寝ていられるような人はいないでしょ。
ねぶた祭が何時頃から行われるようになったのかは、正確な記録がないのでわからないようです。弘前の「扇ねぷた」や五所川原の「立佞武多」の土台には「雲漢(うんかん:中国では天の川を表す)」と書かれてあるところから、弘前や五所川原のねぷた祭は、七夕祭がルーツになっていると考えられているようです。
ねぶたの歴史は、江戸時代中期の享保(きょうほう)年間に、青森の祭りで、祇園祭りの山車のような絵が描かれているらしく、青森のねぶた祭りと、弘前や五所川原のねぶた祭のルーツが、少し異なるようです。
19世紀の初め(江戸時代の後期)に、灯籠の加工技術が進歩して、小ぶりで簡素な人形ねぶたが作られ、人形ねぶたを山車に乗せたり、担いだりして、夜に町内を練り歩くような祭が行われるようになったそうですが、大きなねぶた(灯籠)の曳行は、贅沢でもあり、防火面から危険だとして、度々禁止していたらしい。太平洋戦争後のねぶたは、ロウソク灯から電灯
(発電機搭載) に進化し、火災の心配は少なくなって、大きなねぶたが作られるようになっていったそうです。
弘前と黒石では、ねぷたの形は扇で「扇ねぷた」とも呼ばれます。扇と人形を合わせた「組み合わせねぶた」もあるようです。五所川原市ではノッポの「立佞武多(たちねぷた)」がメインになります。
今回の取材では、ぼくは青森駅近くでレンタカーを借りて、弘前市の「津軽藩ねぶた村」や「リンゴ公園」、五所川原市の「十三湖」を見たり、五能線の列車に乗って秋田県の東能代まで足をのばしたので、スケジュール的に弘前のねぷた祭の写真を撮れなかったのは残念でした。
ねぷたの中でユニークなのは、五所川原市(ごしょがわらし)の立佞武多(たちねぷた)でしょう。立佞武多の幅は大した幅ではないが、高さが20m(ビルの5〜6階建ての高さに相当)ほどもあって、立佞武多が行進する市内の目抜き通りは、電線や電柱が道路になく、街並みがスッキリしていました。
五所川原の祭囃子(まつりばやし)の構成は青森市と似ていますが、掛け声は、「やってまれ、やってまれ、そーりゃ !!」でした。
8月8日に五所川原で立佞武多を見ましたが、大型は少なく、小型の人形ねぶたの方が多かったです。帰りの終電車 (21時で終電)
の都合で最後までは見られませんでした。
今回は1カ月前に青森駅前のホテルに予約し、3連泊してねぶた祭りを撮りましたが、大阪から見物にきて良かったです。
高い交通費を払っても、青森のねぶた祭は一見の価値はあります。外人客もちらほらいて、優しそうな女性に訊いてみると、オーストラリアからのツアー客でした。
青森市では毎年8月2日〜8月7日まで「ねぶた祭」が行われます。
自由な撮影取材許可は、主催者の青森ねぶた祭実行委員会と祭が行われる区域を管轄する警察署長からの許可が必要です。しかし、申請書を提出しても、許可が下りるとは限りません。
許可が取れなくても、ねぶた運行開始(午後7時)の30分前に県道や国道が閉鎖されて、車道が歩行者天国になるので、ねぶたが右折する交差点で待機しておれば、車両通行止めと同時に車道の真ん中に座って席を確保し、座ったままで写真を撮ることが出来ます。最前列で立って写真を撮ることは後ろの観客の迷惑になってマナー違反です。
ねぶたが運行する車道の両側の歩道は、青森市民がビニールシートやござを敷いて前日から場所取りしていますので、他都道府県の人間には場所取りは無理でしょ。(社)青森観光コンベンション協会が斡旋する有料観覧席で観ると、弁当・お茶付きで5,000円もするらしい。ちょっと高いような...。
ねぶたは基本的に夜7時の運行になりますが、ラストの日だけは昼の1時から運行が始まり3時に終わります。そして夜の7時から青森港で5台のねぶたが、ねぶた船に積まれて海上運行と花火大会が行われます。
ぼくは入場料3500円払って、ねぶたの海上運行と花火大会を撮ることにしました。「青森花火大会観覧席券」は、大阪市梅田地下街の「チケット・ぴあ」から買ったものですが、当日券も残っていたようです。
中央埠頭に行くと、近畿日本ツーリストの旗を持った団体客が一番良い席を確保していて、さすが大阪の旅行会社だと思いました。
ねぶた船と花火をタイミングよく、迫力ある写真を撮るには、押しの利く黒沢明のような名監督が演出しなければ不可能に近いです。五隻のねぶた船が運航している時間帯は、花火が単発で小さく迫力が全くない。これは、ねぶたが紙製なので大きな花火を連発で打ち上げると、燃えカスがねぶたに落ちて火災の危険があるからでしょう。やはり、ねぶた船が去った後は、大きな花火(スターマイン)が連発で打ち上げられるようになりました。
8月1日に大阪のPL花火芸術で花火の写真を撮って、データーが分かっていたので、青森の花火大会も何とかものにすることができました。
青森市のねぶた祭は、神社やお寺の祭礼ではない。宗教色は殆どなく、青森県民の誇りを祝う祭りです。
ねぶた祭が終わった後の青森は寂しい。大型ねぶたが保管されていた観光物産館アスパムの広場にある大テント「ねぶたラッセランド」は空室になり、お盆過ぎに行われる大相撲の夏巡業の旗が、秋の気配が漂う浜風に靡いていました。
祭りが終わると、一部のねぶたは海外などに売却され、殆どのねぶたは解体して焼却されるようです。そして2007年のねぶた祭に備えて、人形ねぶたが新たに製作されるそうです。その物作りに対する青森県人の心意気とバイタリティーには、旅人も励まされてしまいます。