大阪市の北区には、大阪天満宮の例祭「天神祭 (7月24日〜25日)」という全国的に名の知られた祭があるが、大阪府内の岸和田市にも江戸時代から岸和田だんじり祭(岸和田祭礼)という、元岸和田村の産土神(うぶすなのかみ)を祀る神社に宮入する勇壮な祭があって、近年では全国的に知名度が高まってきている。それは、岸和田だんじり祭を扱った劇映画やテレビで放映された影響が大きいと思う。
最近のものでは、2013年10月6日(日)に、テレビ朝日の人気番組「大改造!劇的ビフォーアフター」で、事例のタイトルは、「物件254:孫が玄関で寝る家」を観た。
...岸和田市紙屋町にある鱧谷家の祖母が1人で住む古い住宅をリフォームして、だんじり祭の時に12人?の子供や孫たちが全員宿泊し一緒に食事できるように改造して欲しいという要望に、派遣された一級建築士の「匠
(長谷川渉氏)」が知恵を絞って奮闘される様子が紹介されており、番組中には修理の終わった紙屋町のだんじりを宮入させて、入魂式のシーンも挿入されていて、祭礼重視の家族の生活が描かれ、紙屋町が祭で使う法被の色は"赤色"なので、2006年9月に5回も岸和田へ通って取材したことが懐かしく感じられた。
昨今の「岸和田だんじり祭」は、大阪では天神祭に続く人出の多い祭になっており、2006年の天神祭は、7月25日の本宮
(船渡御と陸渡御、奉納花火の打ち上げ) の人出が85万人だったようだが、岸和田祭礼も2003年の本宮の人出が40万人に膨らんでいる。
とくに、「9月祭礼」の3地区(中央・浜・天神の22町※春木南含む)の祭礼では、一般用の特設観覧席を「カンカン場(かんかんば)」の西側と北側の二カ所設置している。
有料観覧席のキャパシティーは、A観覧席が1171席、S観覧席が1285席だ。甲子園球場の観客席にはとても及ばないが、2006年9月15日(金)の試験曳きでは午後1回の開場で、16日(土)の宵宮では午前2回と午後2回の入れ替え指定席になり1日4回も観客が入れ替わる。そして17日(日)の本宮では午後2回の入れ替え指定席になっている。なお、座席料金は日と時間帯によって料金が異なる。
岸和田だんじり祭の有料観覧席は、7月1日から「チケットぴあ」や「ファミリーマート」などで販売していたようだ。「チケットぴあ」ではVISAなどのクレジットカードがあれば、インターネット上からでもゲットできるが、とくに、S席の完売が早い。今年買えなかった方は、来年はお早めにどうぞ。
さらに、報道カメラマン席をだんじりのパレードが行われる「南海岸和田駅前(西口)」と、宮入が行われる途中の「こなから坂(市役所前)」の2カ所に設置していて、ここは岸和田祭礼実行委員会の関係者や報道関係者しか入れない。
このように、9月の岸和田祭礼には、見物客が大勢押し掛けるような賑わいを呈しているが、今から凡そ45年以前までは、「岸和田だんじり祭」は、岸和田とその周辺の市町村の人々にしか知られていない祭であった。
2015年から45年前のというと、EXPO70(大阪万博)の年に当たり、ぼくは26歳...すでに大阪市内で一人前の広告写真のフォトグラファーになっていたが、欧米文化志向が強かった頃のぼくはだんじり祭には殆ど興味がなかった。
岸和田祭礼という行事が、一般に知られるようになったのは、やはり、音と映像で情報発信するテレビというメディアの力が大きい。
10月に祭礼が行われるのはJR阪和線の沿線で、JR東岸和田駅周辺になる。地元では山手(やまて)といわれる内陸部で、旭・太田地区、脩斉(しゅうさい)地区、八木地区、山直(やまだい)地区、山直南地区、南掃守(みなみかもり)地区、山滝地区の6地区47町だ。
山手と呼ばれるのは、戦前に南海本線と並行して「南海山手線(なんかいやまてせん:南海がライバルの阪和電鉄を買収合併、戦時中の国策で南海山手線は国鉄に吸収...戦後は国鉄阪和線に)」が通っていたからであろう。
その山手線の沿線でもだんじり祭が行われていた。
2006年に僕が取材しただんじりは岸和田3地区の21台 (春木南含む) だけだったが、実際は岸和田市内の10地区から81台のだんじりが参加したそうだ。つまり、7地区60台のだんじりを見てないことになる。
岸和田市はまさに「だんじり王国」であると言える。岸和田市も「岸和田だんじり祭」を観光客誘致の資源として、積極的にPR活動を行っている。
岸和田の山手 (JR阪和線の沿線) は農業が盛んで、泉州の伝統的な水茄子やタマネギの生産、昨今では高級な桃の生産地と知られている。
岸和田市包近 (かねちか) 町で、マルヤファーム生産の糖度22.2 (世界一甘い桃:ギネス認定) の1個2万円の桃「まさひめ」が、テレビ番組「朝だ!生です旅サラダ」で、リポーターの”ラッシャー板前(たけし軍団メンバー)"
さんが紹介されていた。岸和田市三ヶ山町にある地元JAの農産物直売所「愛彩ランド」で7月下旬に販売しているそうですが、包近町の桃は、愛彩ランドが開店して直ぐに売り切れになるそうです。
2006年は「岸和田だんじり祭」の象徴と言える9月祭礼・岸和田地区21町(春木南も含む※2015年は22町)の「岸和田だんじり祭」を日中のみ取材することにした。夜の灯入れ曳行は時間の都合で今回は見送った。
9月祭礼のスケジュールは、2006年は祭礼の日が変わって、3日、15日が「試験曳き」の日になった。
16日が南海岸和田駅前でパレードの行われる「宵宮」で、17日が地元の岸城神社(きしきじんじゃ)または岸和田天神宮にだんじりを宮入させる「本宮」になる。
宗教的な祭礼は、通常は神社側が例祭として主催するのだが、岸和田祭礼では市民団体が主催している。ぼくも大阪生まれの大阪育ちで、岸和田市中心部と約30kmほど離れた羽曳野市北西部に長い間住んでいた。岸和田に住んだことのない者が「岸和田だんじり祭」を語るのは、僭越でチョット気が引けるが、思い切って取材して記事を書いてみることにした。
岸和田だんじり祭というのは、町同士でだんじりをぶっつけ合うような、「あらくたい」けんか祭を想像していたのだが、そういう荒っぽい祭ではないことがわかった。誤解のないように。(※
昔は喧嘩が多くて死人も出たので、だんじりの正面・曳行責任者が立つ隣に制服警官が1名同乗した頃もあった)
「あらくたい」というのは、大阪・和泉方面の方言で、大胆で怖さ知らず(イケイケドンドン)という意味らしくて、試験曳きは、だんじり曳行の予行演習のことであるが、本番と同じ曳き方をするので、練習だからといって気を抜くと、制御できなくなった、だんじりに振り回されて大ケガをする。
ただ、疾走するだんじりの大屋根が家の軒先や電柱に当たって、軒先が壊れて屋根瓦が落ちたり、電柱が傾くことは時々あるようだ。
だから、だんじりの後ろには法被を着た町内会の「会計係」「交渉係」「事故担当係」のいずれかがメモ帳持ってだんじりを追走して、損壊を与えた相手と補償交渉に当たるそうだ。これは、ぼくが現在住んでいる大阪市平野区の「平野郷夏まつり」に曳き出される9台のだんじりも「事故担当係」がいる。
昨今では、各町の地車委員会に、祭の最中に転倒して心肺停止状態になった人を電気ショックで蘇生させる、AED (自動体外式除細動器)の携帯が義務づけられた。2006年の取材では、後梃子の数名がカンカン場でだんじりが大きく傾いて、振り落とされ身動き出来ない人がいて、救急車に運ばれた。
昨今では、各町がだんじりを曳行する際は保険に加入していて、事故発生時の町会費の負担を軽くしているようだ。だんじり曳行時に物損や人身事故が発生した場合の責任者は、岸和田市長ではなく、町内会の世話役(曳行責任者)になる。
9月3日の試験曳きでは、だんじりが電柱に当たって電柱が大きく傾いて道路を塞ぎ、高さが3.8mもある後続のだんじりが曳行できなくなったらしい。
ぼくは「カンカン場」で、だんじりの曳行を撮影していたが、3時頃になって、だんじりがなかなかやって来ないので、「終了」だと思って、混まない内に早めに帰ったが、後で訊くと実はトラブルがあったようだ。
電柱というのは、だんじりに一回ぐらい当てられても大きく傾くことはないが、何回も当てられている内にだんだん電柱が傾いていく。
こういう場合は、電柱が倒れそうなトドメのダメージを与えた町が関西電力に弁償しなければならないそうだ。ちょっと不公平な気がするが...。
ぼくが最初に現地へ行った9月3日は、快晴で残暑の厳しい日であった。
その日は、午後2時から4時までの「試験曳き」が行われる日であったが、ロケハンも兼ねる為に、朝10時に平野区喜連の自宅事務所から車で岸和田へ向かった。
昼の12時前に岸和田城の前に着いて、お城の傍にある「だんじり会館」横の市営駐車場に車を停めて、ロケハンとテスト撮影を開始した。
お城近くに、お寺や古い家並みが軒を連ねる本町(ほんまち)というレトロチックな街並みがあって、後で調べると、旧・紀州街道に面した町であった。
密集した民家の向こう側の通りから「ワー!」、「ワー!」と賑やかな声がするので、気になって紀州街道に入ってみた。
すると、「だんじり小屋 (地車庫)」の前で黒い法被を着た凛々しい町衆が大勢集まって、すでにだんじり曳行のスタンバイが整っていた。
この「ハレ」の祭礼の時を待ちわびていたのか、みんな嬉しそうな顔をしている。早速カメラを構えたところ、祭を指揮する若頭(わかがしら:わかがし)の方も、ぼくが撮っていることを黙認しておられたので、それを良いことに、本町青年団の「乗り」に乗せられて、厚かましくパシャ、パシャと撮った。
撮る相手の気が大きくなっていると、誰もカメラマンに「撮るな!」とは言わないでしょう。こういう時は、「プロが写真を撮りにきて、一枚も撮らない方が却って失礼になる」という身勝手な論理で写真を撮った。本町青年団の方々、本当に有難うございました。
そして、午後1時から町内で軽めのウォーミング・ランが始まったのである。だんじりはただ走るだけでなく、賑やかな「鳴り物」が欠かせない。
だんじり囃子の楽器は、笛以外は、だんじりの舞台に備え付けてあり、青年団から選ばれた大太鼓1名、小太鼓1名、笛が2名、鉦(かね)1名の五名で演奏される。もちろん、交代要員も控えている。
鳴り物に指揮者の掛け声が加わる。本町では「ちょいとさー、えんやさー」で、掛け声も本番さながらであった。
因みに、だんじり囃子の掛け声は、町によって違うようだ。「そーりゃ、そーりゃ」が圧倒的に多いようだ。
だんじり囃子のテンポは、「並み足」だと、だんじりはゆっくりと進み、「半きざみ」は、やりまわしの時(交差点を曲がる時)で、「きざみ」は、真っ直ぐな道を疾走する時だ。
2006年の8月6日〜8日に取材した、青森のねぶた祭とは異なった迫力があった。やはり、だんじりの大屋根に立つ大工方(だいくかた)の舞の技が、岸和田だんじり祭の大きな魅力であろう。片足で立って両手を翼のように広げる「飛行機乗り」という美技もあるそうだ。
写真を撮りながら周りの様子を見ると、大勢の市民が「やりまわし(だんじりを走らせながら、交差点で急旋回させる荒技)」の行われるカンカン場(ば)の方へ早足で向かっていく。
午後2時から始まる「試験曳き」を見物するための場所取りのためだと思って、ぼくも本町から離れて町衆の流れに付いていった。
「やりまわし」の見せ場カンカン場という場所は、岸和田市港緑町・大阪臨海線の岸和田港交差点を指す。
カンカン場というのは、大型トラックなどを大きな鉄板(トラックスケールという重量計)の上に乗せ、積み荷の重さをチェックして過積載を防止する施設のことらしいのだが、岸和田漁港の移転に伴って、漁港施設とカンカン場もどこかへ移転した。
カンカン場の跡地にスーパーの「イズミヤ」やコンサートや歌劇を行う「浪切ホール」が建っている。
ここの交差点は、普段は十字路交差点だが、祭礼の時は西行きが閉鎖されてT字路交差点になる。
各だんじりは、北と南から岸和田港交差点に入り、ここで「やりまわし」を観客に披露して合流し、東進して岸和田駅前商店街のアーケードを通って、南海岸和田駅前西側広場まで駆け抜ける。そして、駅前広場でだんじりが再び左右(南北)に分かれる。
駅前広場も、「やりまわし」を観覧するのに最良の場所なので、駅前にイントレを組んだ報道カメラマン席が祭礼の一週間前から工事が始まるが、ここには一般用の観覧席はない。ここは「やりまわし」を撮るには、ベストポジションになるが、ここの場所を確保しないとナイスショットが撮れない。
9月の岸和田祭礼が近づくと、スーパー「イズミヤ」の前に有料観覧席(A観覧席)が設置されているので、カンカン場を初めて訪れる方でも判りやすい。
しかし、このA観覧席は、だんじりが曳行される車道の車線からかなり離れているので、見るだけならいいが、写真を撮る場所にしてはチョット遠すぎると思う。
A観覧席からだと、APS-Cサイズのデジタルなら200〜300mmの望遠、35mmフルサイズデジタルなら300〜400mmの望遠が必要になると思う。
また、A観覧席の方向からでは、「やりまわし」のだんじりが後ろ姿になるので、カメラアングルとしてはイマイチだ。
ぼくが撮影に確保した場所は、カンカン場の「シーサイドゴルフ練習場」南西の角で、「やりまわし」が間近で見られる所であったが、人集(ひとだか)りが多く、最前列にロープが張られて身動きができなかった。ここなら、標準ズーム(24〜70mm)1本で充分だったが、宵宮と本宮では立入禁止になる。
9月8日に再びカンカン場の様子を見に行ったら、ぼくの選んだ場所に有料観覧席(S観覧席)の工事が始まっていた。S席の方がA席より高いのは納得できる。
早速、座席表を入手し、宵宮の一週間前に「チケットぴあ」で撮影に好適なS観覧席の西端の席(2時間4000円)をゲットした。
チケット販売は、若い番号から順番に販売するので、売れ残りが悪い席だとは限らない。
試験曳きの9月3日も周辺の公道を3時間ほど通行止めにして、9月の祭礼に出場する21台のだんじりが宵宮や本宮と変わらぬ曳き方をするので人出がもの凄く、大阪府警が警備に就いていた。
人出の多さからして、とても予行演習だとは思えない。3日の試験曳きでも、大勢の人がカンカン場周辺に群がっていた。
岸和田市民の祭なので、ぼくは特別な撮影許可は要らないと楽観していた。しかし「試験曳き」に来て、警察の警備が思っていたよりも厳しいことが判った。早急に警察や祭礼関係の方々に取材許可の問い合わせをしたが、すでに受付を締め切り、報道関係者などを集めた説明会も終わったということであった。
結果的に一般見物客と同じ条件で撮影しなければならなくなってしまった。つまり、警備の後ろから写真を撮ることになるわけだ。法被の群衆の中に制服警官が写らないように、カメラを両手で高々と持ち上げて、ノーファインダーで撮るしかない。
記事を書くためには祭礼の知識が必要なので、9月8日に「岸和田だんじり会館」へ行った。有料の展示室では、「岸和田だんじり祭」の様子を横長の3面スクリーンでマルチ映像を上映している。マルチイメージを観るのは、約10年振りのことで懐かしい。昔、ぼくがやっていた仕事だ。
その10分間のマルチムービーを観ていると、9月の岸和田祭礼のカメラポジションは、「カンカン場」、「駅前広場」、そして市役所前の「こなから坂」そして、市役所の3〜4階から撮ったものが大半であった。
市役所前の「こなから坂」も、「やりまわし」を見るのに適した場所で、報道カメラマン用のイントレ(俯瞰撮影台に上る足場)が組まれる。イントレに上っての撮影は、ショバ代がウン万円もするらしく、結構高そうなので諦めた。
9月3日の試験曳きでは、1時間で1GBのCFカード(コンパクト・フラッシュ:jpegの最高画質)を使い切ってしまったので、3時にはテスト撮影を切り上げ、帰りの混雑を避けて早めに帰ることにした。
「岸和田だんじり祭」では、カンカン場のような(事故の起きやすい)場所では、脚立に上っての見物や撮影は危険なので固く禁じられている。
現場に行ってなるほどと思った。三脚も無理である。群衆に蹴飛ばされてしまう。足も踏まれる。実際に撮影中のぼくの目の前でだんじりが遠心力で大きく傾いて、後梃子(うしろでこ・舵取り役)の数人が振り落とされてバタバタと転倒し、救急車で運ばれた方もいた。
自宅に帰って、EOS5Dの画像データをPowerMacG5にダウンロードして、画像のチェックをしてみた。やはり、ノーファインダーで撮ったからフレーミングが悪く、とてもプロが撮った写真には見えない。走るだんじりの大屋根で華麗に舞いながら指揮を執る大工方(だいくかた)と空しか写ってない写真が殆どであった。
NGの原因は、EF24-70mmのズームを標準の50mmにセットして撮ったので、上が切れたり下が切れたり、まともな構図で撮れた写真は数枚しかない。素人写真のオンパレードだ。
24mmの広角側にすれば、だんじりの上下が切れることは少なくなるが、絵が小さくなって迫力がない。
結果的に、200枚ほど撮って、トリミング処理で何とか使えるというのが20枚程度であった。本番前のテスト撮影をやっていて正解だった。
試験曳きの人出の混雑から想像すると、宵宮や本宮になると沿道に、日本一多い露店が建ち並ぶそうなので、見どころのカンカン場などへ見物に行くのは、夜明け頃に行って場所取りをしないと無理なようだ。
というのは、宵宮のだんじりの曳行は朝6時から晩10時まで、本宮(宮入り)では朝9時から晩10時まで行われるからで、良い場所から見物するには早起きしなければならない。昭和34年までは、深夜の3時からだんじりの曳き出しが行われていたそうである。
ここで、岸和田だんじり祭のルーツをちょっと調べてみた。
岸和田市は大阪府の南部(泉南)にあり、1922年(大正11年)に泉南郡岸和田町から市制が敷かれた。
現在の人口は約20万5千人を少し超える。(大阪市平野区の人口よりやや多い) 市域は広く、山手は標高858mの和泉葛城山の山頂で和歌山県と接する。
岸和田は、最初は「岸」という地名だったそうで、鎌倉幕府衰退の頃、河内や和泉を守護していた楠木正成(くすのきまさしげ)の家臣「和田高家」が1333年(建武元年)に「千亀利城(ちぎりじょう)」という城を建てたので、領民から「岸の和田さま」即ち、「岸和田」と縮めて呼ばれるようになったらしい。
読者からええかげんな事を書くなといわれそうだが、「せっかち」なDNAを祖先から受け継ぐ大阪人は何でも縮めて呼ぶのが好きな人種だ。
一例として、大阪発動機→>ダイハツ、大阪金属工業所→ダイキンなど、縮めた名前が現在の社名になっている。
千亀利のいわれは、築城工事の時に亀が沢山出てきたことによる。これを吉兆として命名されたそうだ。(※他説あり)
最初の千亀利城は、現在の岸和田城から少し離れたところに建てられたそうだが、1585年(天正13年)に豊臣秀吉の家臣「小出秀政(こいでひでまさ)」が秀吉から新たに3万石の所領を賜って、現在地に本格的な五重の天守閣を建てた。
しかし、「大坂夏の陣(1615年:慶長20年)」で豊臣方は徳川家康の軍勢に敗れたため、家臣の小出秀政と長男の吉政は、徳川幕府から処罰を受けて岸和田城を失うところであったが、次男の小出秀家が関ヶ原合戦で東軍に味方して活躍したので処罰を赦され、小出家の岸和田城は安泰であった。
しかし、その安心も束の間で、1640年(寛永17年)より、高槻城主の岡部宣勝氏が入城して小出家の所領を引き継ぎ、その後明治維新まで13代に亘って岡部氏の居城になった。
1827年に落雷によって天守閣を焼失し、幕政が疲弊した幕末ということもあって天守の再建は見送られたが、近年の1954年(昭和29年)に、三重の天守閣と櫓が再建された。これが今の岸和田城である。
岸和田藩主・岡部家の3代目城主の岡部長泰(おかべながやす)公が、岸和田城内に伏見稲荷を勧請し、「三の丸稲荷社」を建てた。
伏見稲荷は農耕の神様・商売繁昌の神様で、藩主は五穀豊穣(ごこくほうじょう)と岸和田藩の発展を祈願した。
因みに五穀とは:米・麦・アワ・キビ・豆の穀物類で、豊穣は豊作のことである。
この岸和田城内には、お城が建つ前から領民が建てた「産土神(うぶすなのかみ)」を祀る社(やしろ)があった。それが現在の岸城神社(きしきじんじゃ)のルーツであるようだ。
村の中まで城域が広がったことによって、領民たちは城内へ自由に入ることは許されなかったが、長泰公は城内にある村のお社への参拝を領民に許したので、領民たちは大いに喜び、稲荷祭の時は町衆が何らかの「芸能」を奉納していたものと思われる。
その芸能が後に「だんじり」の曳行という行事になっていったらしい。岸和田のだんじり祭も、農家が多かった山手地区では「五穀豊穣」、漁師が多かった浜地区では「豊漁」を祈願する祭礼だ。
さて、栃木県の日光市に国宝の日光東照宮がある。主祭神は徳川家康で、元は神仏習合の神社であるが、ぼくも1991年11月3日に東京の浅草から東武特急「スペーシア」に乗って見学に行ったことがある。(東京モーターショーの写真取材の帰りに寄り道した)
煌(きら)びやかな本殿や陽明門も素晴らしいが、境内の塀などに彫られた猿の彫刻がユーモラスで彩色も美しかったのが印象深い。
日光東照宮に飾られている「眠り猫」は、木彫りの寺社彫刻を得意とする宮彫師(みやぼりし)の左甚五郎(ひだりじんごろう)の作だといわれている。
左甚五郎は、落語や講談などに登場する創作上の人物で、大阪の貝塚に実在していた岸上甚五郎左義信(きしのうえじんごろうひだりよしのぶ)をモデルにした説が有力視されているようだ。
日光東照宮の造営が始まったのは、左甚五郎が生きておれば115才の時で、とても「眠り猫」を彫ったとは思えない。実際の製作は和泉忠兵衛義一(いずみちゅうべい
よしかず:岸上甚五郎一門の9代目番匠)の作らしい。
左甚五郎=岸上甚五郎左義信という根拠は、貝塚には宮大工の棟梁(番匠とも言う)岸上甚五郎左義信が実在していたという書物が見つかったからで、左甚五郎は岸上一門の祖先だとする説も生まれた。岸上甚五郎は、1504年(永正元年)の生まれのようだ。
1616年(元和2年)、駿府城にいた家康は死去し、一時的に駿河久能山に葬られた。
しかし、家康の遺言による改葬のため、江戸幕府から、一周忌以内に日光東照宮の造営を和泉の岸上一門にも命じられ、宮大工70名ほどを貝塚から引き連れて、遠い日光へ移住したらしい。東照宮完成後は、岸上一門は江戸に住んで和泉姓を名乗り、宮大工の仕事を続けたようだ。
現在でも和泉彫(いずみぼり:木彫り)の匠の技を伝承する彫刻職人が岸和田にもいて、彼らの腕の見せ所が、だんじりの獅噛(しがみ)、桝合(ますあい)や見送り、腰回りに彫られた彫刻である。カメラのレンズで彫り物をアップしてみると、職人芸の技術の高さが感じられる。
明治の初めには、すでに現在のような年番制による「だんじり」の曳行が行われていたようで、こうした祭礼の慣習が親から子へ、孫へ、曾孫へ伝承され、他市に住む者から見れば、町内の仲間意識や絆が非常に強いように感じられる。
岸和田に生まれ育ち、転勤などで故郷を離れた方も、9月又は10月の祭礼には、故郷に戻って来る方が多いと聞く。
それを裏付けるのは、冒頭で述べた鱧谷さんの自宅のリフォームだろう。家族全員が集まって祭礼を楽しむ...。
岸和田祭礼で、だんじりを曳き出す町では、とくに男子の場合は老人から子供まで役割があるようだ。
法被やタスキに地位(役割)が記してあるので、すぐに判る。
具体的には、
相談役・賛助員・参与(56才以上)・・・世話人を経験した数名が町内の長老として、祭礼の慣習を後進に指導する。年齢は凡その年齢で、お見受けしたところでは70歳前後の方が相談役になっておられるようだ。
世話人(46〜55才)・・・祭礼時に町内のまとめ役をする。隣町などと交流を深めて祭の進行を円滑に行う。だんじり曳行では、世話人は3名ほどで、世話人の代表が「祭礼責任者」のタスキを掛けてだんじりの正面に立つ。
若頭(わかがしら、わかがし:36〜45才)」・・・青年団と組、大工方をまとめ、だんじり曳行の時はだんじりの前後左右を警備して事故やトラブルの発生を防ぐ。また、事故やトラブルが起きた時のまとめ役をする。十数名が就任し、若頭用の法被を着用する。
大工方(だいくかた:26才以上・・・大屋根に1名、小屋根に3名が選ばれる。宵宮と本宮では法被の背中に自分の名前が入れられる特権(並松町:なんまつちょう)や派手な着物(五軒屋町:ごけんやまち)が着られる町もある。
組(26〜35才)・・・青年団を終え、前梃子(まえでこ)・後梃子(うしろでこ:だんじりの舵取り)を担当する係だ。組員が20人であっても、「30人組」などというタスキを掛けている。
青年団 (16〜25才)・・・だんじり祭だけではなく、町の行事に積極的に参加する。だんじり祭の時は、だんじりを前に曳く中心になる。だいたい80〜100名ぐらいだ。
殆どの町では、入会金や年会費が必要。少子化でだんじりを曳く団員の確保が難しいようだ。
昔の青年団と言えば、若い男が集まって、「社会の勉強・大人の勉強」を「ちょい悪先輩」の団員から学ぶところであったが、今はそんなご時世ではないと思う。昨今では女性の加入もOKな町もある。
少年団・子供会(15才以下)・・・少年団(中学生)なら青年団と一緒に綱を曳く。子供会(小学生や園児)は灯入れ曳行の時は主役になる。
女子中高生・女子大生たち・・・祭礼に参加していた殆どの女の子が、ヘヤースタイルをプロ野球選手のタフィー・ローズ(近鉄・巨人に在籍)のような、髪の毛を細かく編み込んだヘヤースタイルだった。一時的な流行(はやり)のファッションなのだろうか。
彼氏や好きな人が青年団に入っていたり、彼氏探しのために、だんじりの綱を曳きたい女の子も多いようだ。とくに彼女らをまとめるような組織はないようだ。天神祭には「ギャル神輿(みこし)」の組織はあるが・・・。因みに、ぼくの住んでいる平野では、平野郷夏まつりのだんじりを曳く(押す)ギャル達をまとめる姫頭(ひめがしら:背戸口町)という組織がある。
婦人会・・・祭の準備、町内の奉仕活動、休憩所でおにぎりを作ったり、関東炊きなどの食事の用意や親睦を深めるための行事を行う。最近はコンビニを利用するケースもある。
岸和田だんじり祭は町内の名誉をかけたお祭りだ。したがって、祭礼のある日は市内の学校が休みになり、勤め人も仕事を休む。祭を最優先に考えるこんな都市は、日本中探しても他に見当たらない。でも、時流に配慮して2006年から祭礼の日が土・日になった。
だんじりの曳行は、町内の殆ど全員が参加する行事なので、個人個人の都合に合わせていたら、祭礼の行事が成り立たないからである。
「岸和田だんじり祭」は、昭和47年(1972年)のNHK総合テレビの番組「ふるさとの歌祭」で全国に紹介されたそうだ。但し、この時代はまだ民生用のビデオレコーダーは無かった。
さすがに全国ネットのNHKテレビ放送の反響は大きく、その後の「岸和田だんじり祭」は、大阪府以外からの見物客が増えたそうである。
平成になってから、在阪の各テレビ局が「岸和田だんじり祭」を取り上げることが増え、昨今では大阪の秋祭として全国的に名を知られるようになった。なお、だんじり祭は岸和田市だけではなく、泉北・泉南(大阪南西部)の各市町で、盛んに行われている。
岸和田出身の女性ファッションデザイナー「コシノ三姉妹」の活躍やプロ野球界の「番長」こと清原和博選手の知名度の高さも、大きな宣伝効果になったようだ。
彼が巨人に在籍していた2005年まで、東京ドームの外野席に「岸和田魂・清原和博」のどでかい応援幕が張られていて、とても印象的だった。
今回は、岸和田祭礼の行事を通じて「岸和田魂」というものを見物させて頂いた。