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能登半島の輪島市...。大阪市平野区から北北東に450km (一般国道を利用した場合) も離れた場所にあります。今回、当サイトのトップページに掲載した写真は、今 (2015年11月) から35年前で、ぼくが36歳の時に撮ったドキュメンタリー・フォト (記録写真) です。
初めて能登の曽々木海岸へ旅したのは、1972年の11月23〜26日で、28歳の時でした。

能登に凩 (こがらし) の訪れは、自宅のある大阪よりも早く、風上に向かって歩けない霰を吹き付ける寒冷な季節風 (強風波浪警報の天候) がもたらす冬の光景は、大阪では体験できない寒風なので、圧倒されてしまいました。

それは、モノクローム (単色の濃淡) に染められた水墨画の世界でした。
陽を遮る低く垂れ込めた雪雲から吹き付ける凍える寒さが、旅人の体温だけでなく、視界から色彩までを奪っていました。因みに、上の写真は白米千枚田 (しろよねせんまいだ ) の雪景色です。ここの千枚田の田植えの写真は牧歌的で有名なのですが、稲刈り後の切り株が残る田に、氷が張って抽象画のような造形美が見られる冬景色も"素敵"だと思いました。

35年前は、フィルムカメラ全盛の時代でした。インターネット情報端末のスマホを使いこなす今の高校生は、今やガラパゴス化したフィルムカメラを使った経験は殆どないと思いますが、デジタルカメラの時代になっても、化学を駆使した写真の原理は知っておいた方がいいと思います。
"デジカメ"のイメージ・センサーやADコンパーターの役目をする写真フィルムは、牛の皮や骨から抽出したゼラチンと感光物質のハロゲン化銀 (塩化銀・臭化銀・沃化銀) を混ぜたエマルジョン(乳剤)を透明なセルロースフィルムの膜面側に塗布したものなんです。

写真フィルムをカメラに装填して撮影すると、フィルムの膜面に潜像が出来ますが、肉眼では感光した画像が見えないので、暗室内で現像液に浸けて画像が見える状態にし、決められた現像時間が済むと、現像停止液に浸ける → 定着液に浸ける → 流水で水洗 → フィルム乾燥というプロセスを経て、ネガフィルムやカラースライドフィルム (カラーリバーサル・フィルム) で撮った写真が出来ます。

ネガで撮った写真を大きくしたいときは「引伸機」を使って、印画紙にプリントします。35ミリ判スライドフィルムで撮った写真を拡大するときは、6コマごとスリーブ状になったフィルムをワンカットごとにハサミでカットし、平面性のいいプラスチックマウントなどに装填して、スライド映写機 (KODAK SA-V)などで鑑賞します。

従って、生のカラーフィルムは、メーカーさんの推奨では15℃〜20℃で保管し、ISO感度の数値が変化しない凡そ1年間の使用期限がパッケージに表記してあるのです。現像液の適温は20℃です。
でも、撮影する時の環境が マイナス70℃の極寒のシベリアだったり、50℃を超える酷暑のアラビア砂漠であれば、撮影済みフィルムの現像をいくら適温で処理してもカラーバランスが崩れ、正常な発色を期待できません。また、撮影してから数ヶ月経ってから現像すると、場合によっては、カラーフィルムで撮っても、現像後は白黒ネガフィルムのようなモノトーンの発色をするのです。ま、能登で撮った現像後のフィルムを見てショックを受けましたね。冬に荒天の能登をカラーで撮ると、モノクロに写る...。だったら、最初からモノクロフィルムで高感度のトライXで撮ればいい。

43年前は、輪島市の曽々木から珠洲市の狼煙 (のろし) の集落がある禄剛崎灯台 (ろっこうざきとうだい) までは、道幅の狭い未舗装の砂利道で、海岸に波消しテトラポッド (消波ブロック) もなく、愛車の屋根が高波の洗礼を浴びた記憶が残っています。


上の写真は、能登半島の輪島市東部にある曽々木海岸です。カメラは、今は懐かしい35mm判一眼レフ・フィルムカメラのCanon newF-1モードラ仕様で、レンズは、マニュアルフォーカスで蛍石使用の超望遠・Canon FD500mm f4.5Lを使用しました。
曽々木海岸には、上の写真の中央に「窓岩」という穴の開いた三角形の奇岩があります。
厳冬時の能登の北西沿岸部では「西高東低の気圧配置」の影響を受け、大時化 (おおしけ) になる"強風波浪警報”や"暴風波浪警報"が発表される日があり、とくに曽々木海岸は、能登の風物詩「波の花」が舞う景勝地になっています。

「波の花」とは、荒磯の岩場が季節風の波で激しく揉まれると、海中の植物性プランクトンが粘液を出して石鹸の泡 のような塊が岩場に溜まって、強風に煽られて泡が次々と宙に舞い上がる現象で、冬の曽々木海岸などで見られます。泡の色は少し黄身掛かっていて、舐めるとかなり塩っぱいです。塩分は撮影機材に悪影響しますから、カメラやレンズに付いた塩分をエチルエーテルとエチルアルコールの混合液 (1;1) をレンズクリーニングペーパーなどに垂らして拭き取ります。三脚はティッシュペーパーで十分です。

季節風が吹く荒天の昼間の気温は0℃ぐらいですが、海水温は意外と温かく、素手を海水に入れても指先が悴まないので、岩海苔採りができるワケです。岩海苔は曽々木海岸近くの荒磯に繁茂し、漁業権のある人が採取できます。岩海苔は目の細かい網などを使って薄く伸ばして乾燥させ、正月の朝に、澄ましのお雑煮の中へ入れると、黒かった岩海苔がお椀の中で鮮やかな緑色に蘇り、それを見ると生命の愛おしさを感じ、思わず笑みがこぼれました。

岩海苔採りは滑りやすい岩場で行います。体を"くの字"にしての作業なので重労働です。海が荒れると作業は中止です。女性の仕事みたいです。


上の写真は、荒布(あらめ)を採りに行く2人です。シルエットを見ると女性のようですね。
冬の輪島市上空は、次々と真っ黒な雪雲の塊が降りてきて、当たると痛い霰が激しく降ります。霰が止むと雲の切れ目から陽 (スポットライト) が海面を差し、気象の演出で、舞台照明のようなドラマチックなライティングが見られます。
真昼でも空の色が真っ暗になるのは、暖かい海面からの激しい上昇気流の影響で積乱雲が発達し、時々稲光がスパークして、雷鳴も轟きます...冬の輪島上空の風物詩でしょうね。冬の輪島沖ではウナギのような竜巻 (漏斗雲 )が数本発生しますが、冷えきった陸地の近くには竜巻はやってこないようです。でも、稀に海岸近くで発生した場合は避難しなければなりません。

高波が岩に当たる瞬間の波しぶきを撮ってみました。楽器では表現できない「濤声」が凄いです。


上の写真は、時化の日に漁師さんの家に押し寄せる大波です。右端の漁船に迫る波高は4〜5mぐらい...ぼくは海岸に入って撮影し、下半身がずぶ濡れに。...クルマの中で着替えました。ここで暮らす人々の冬の猛威に耐える厳しさを知りました。


上の写真は、高さ10mを超える大波です。台風の波ではありません。このような大時化 (おおしけ) の日は、防波堤に近づかないように..大波に呑み込まれると、間違いなく行方不明者になってしまいます。

上の写真は、時化で漁に出られない船です。防寒用のマント姿がエキゾチックですね。

上の写真は、能登半島南東の内浦・珠洲市の海です。こちらは強風の影響が少なくて、海面が穏やかです。内海では波の花は舞いません。

上の写真は、輪島市から西の外浦 (そとら)にある西保海岸の大沢地区・上大沢地区で撮りました。この辺りは、汐を含んだ季節風の影響をモロに受け、「苦竹 (にがたけ) 」や「真竹 (まだけ )」を大量に隙間無く並べた"間垣"と呼ばれる錆びにくい塀で母屋の周りを囲み、寒風を防ぎます。
間垣の中に入ると風が止んで、ほっこりと暖かい感じがしました。

上の写真は、輪島市の市街地で撮りました。家屋の壁面を板で覆い囲み、独特なデザインですね。ガラス窓は強い季節風で割れやすいので、戸板 (雨戸)で閉めたままに...?

上の写真は、曽々木海岸の近くで撮りました。ぼくのアシスタントから教えてもらった、中島みゆきさんの作詞・作曲「かもめはかもめ」
...かもめはかもめ ひとりで海を ゆくのがお似合い...ま、かもめは海岸近くに集団で営巣する鳥で、餌 ( 生きた魚や死んだ魚 ) を探すために飛びます。
しかし、中には"ジョナサン・リビングストン"のような、餌を探す為に飛ぶのではなく、誇りを持った海鳥として、より高く、より速い飛び方をトレーニングする孤高の先駆者もいて、コロニーから仲間外れにされたカモメもいるようです。1970年に出版された小説上の話しですが。
2016年のお正月も、多感な若い旅人が凍てつく曽々木海岸の前で、荒れ狂う海上を飛ぶカモメを分身のように見立てて眺めていることでしょう。

冬の旅...35年前の能登半島取材の記憶

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写真取材:1980年 12月29日〜1981年1月4日
カメラ:Canon new F-1モードラ2台
レンズ:new FD24-35mm f/3.5L, new FD80-200mm f/4L, 50mm f/1.4, FD500mm f/4,5L
フィルム;KODAK・コダクローム64, エクタクローム・ハイスピード 160 使用
スキャナ:EPSON GT-X970

記事と写真、WEBページ制作:尾林 正利
初掲載:2004年12月23日
写真と記事のリニューアル掲載 2015年11月8日

冬の旅
1980〜1981年能登取材の記憶

今回のトップページは、ぼくが37歳だったころの、年末年始の一週間の休暇を利用したプライベートな旅の記憶を辿ってみました。

ぼくは1975年1月10日〜2001年2月28日まで、大阪市北区天満にあった自分のフォトスタジオで広告写真を撮っていたフォトグラファーですが、フィクション (作り物) のコマーシャルフォトとは正反対の、リアリズム (写実的なもの)を追い掛けて、北国へ冬の旅をしたくなったのは、作家への願望からです。
因みに、この仕事に就いたのは1966年9月からで、広告制作会社の写真担当の社員 (途中で同業他社へ転職) として1973年9月まで勤務し、サラリーマンからフリー(個人事業者) になったのは1973年10月からです。

コマーシャル・フォト (広告写真) の仕事は、広告制作に組み込まれた不可欠な部門で、「商品撮影 (ブツ撮り)」 の仕事が中心になります。商品撮影は、自動車工場に併設された大きなスタジオへ出張したり、「料理写真」は著名な割烹店での撮影もあって、ぼくが引き受ける撮影のレパートリーは様々ですが、家電メーカーさんの新製品を撮るスタジオ撮影が圧倒的に多かったですね。フリーになる前は、東京まで撮りに行った経験があります。特殊な撮影を除いて、お得意さまが発注された仕事の選り好みは出来ません。選り好みすると干されてしまいます。

家電 (家庭用電化製品) の撮影は、Audio,Video機器が多く、撮影商品をぼくのスタジオに搬入して、ディレクターさんの指示に従ってタイトなスケジュールで撮影します。撮影のために商品の借りられる時間帯が、メーカーさんの営業時間外が多くて、土日撮影は当たり前で、平日の夕方に撮影商品を借りる場合は徹夜で撮影し、翌朝の会議前に商品を返却することは日常茶飯事でした。ぼくの場合は徹夜撮影後も、撮影フィルムの仕上がりチェックと納品の仕事がありますので、24時間連続勤務は当たり前でしたね。もちろん、休憩はしますよ。自分の選んだ道ですから、何とも思わなかったですね。

フォトグラファーにとっては、広告写真の制作にアイディアとか創造力を求められるよりも、作業効率を重視したロボットのような働き方を求められると...ま、1936年に「モダン・タイムス」を撮ったチャップリンのようにストレスが溜まるワケです。「ブツ撮り」のフォトグラファーは精密機械ではないんです。

コマーシャル・フォトの仕事は、ビジネスとしては実入りは良いけれど、タフな体力が買われているな...「便利屋」にされているなと気付くと、素直に喜べない面もあったのです。ストレスをリセットし、仕事後に好きなクルマを飛ばして、モヤモヤをスカッとしたい。
たまには制約のない普通の写真も撮ってみたい...。大阪から日帰りできる冬の鳥取砂丘へ通っていたのです。商品撮影が終わって商品をメーカーさんに返却し、現像済みフィルムを広告制作会社へ納品した夜は、散らかったスタジオを掃除・整理整頓してから、愛車にカメラを積んで国道29号線を走りました。

しかし、鳥取砂丘を長年撮り続けている地元の写真家やアマチュア以外の人が、靴の足跡のない新雪の積もった鳥取砂丘を撮れるのは極めて稀だと思います。
半ば諦めていた1972年の11月、凩 (こがらし) が吹き始めた能登半島の輪島を旅して、能登の親不知と言われていた曽々木海岸で、高波が岩に砕ける荒々しい水墨画のような光景を見てから、次第に能登の冬を撮ってみたい写欲が沸いてきたのです。

ぼくは思い立ったら一度は実行するタイプで、ロケハンが1980年11月2〜3日の連休に掛けて、荒天下での本番撮りは1980年12月29日から1981年1月4日に掛けて、追加撮影は1981年12月29日〜1982年1月4日に掛けて、3年続けて厳冬の能登半島を1人で写真取材しました。

当サイトに掲載したのは、その一部ですが、1981年の大晦日と1982年元日の能登取材は、風波の穏やかな青空が広がる快晴の好天で、一応撮影はしましたが、現像したフィルムの色彩がカラフルで厳冬のイメージが全くしないので、当サイトへの掲載を見送りました。

人間の貌の表情に喜怒哀楽があるように、海の表情にも、荒れた日と穏やかな日があります。だから、ぼくの選んだ写真を見て、輪島の曽々木海岸は荒天の日が多いと決めつけないように...。
1964年製作のフランス・ミュージカル映画「シェルブールの雨傘 (歌は吹き替え)」...シェルブールとは、大西洋の英仏海峡に面したフランス領コトンタン半島にあって、古くからフランス海軍の港町です。ここは霧雨が多いらしく、雨傘店の美しい娘・ジュヌヴェーヴ (カトリーヌ・ドヌーヴ) が主役になった港町です。シェルブールだって、晴れの日もありますよ。メロドラマの背景は霧雨や粉雪が降っている方が劇映画のストーリーに相応しいのです。

能登取材のフィニッシュは、打ち上げを兼ねて、宿泊する場所は車中泊や民宿ではなく、曽々木海岸近くで展望の良い大浴場がある一流旅館にしました。
曽々木海岸近くには1982年に政府登録の国際観光旅館になった「ホテルニュー真浦 (2000年11月30日に廃業)」 があって、最後の取材はここに泊まる予約を申し込んで連泊しました。いくら払ったのかは業務日誌に書いていません。廃業のワケは観光客の減少らしいです。

今の世の中、リゾート(保養地や行楽地) への客寄せには、地域の物産販売や伝統芸能の実演などの「正攻法」だけではダメなようですね。子供や若い女性がが喜ぶドナルド・ダックやハリー・ポッター人気には、敵わないようです。だから、昨今はくまモンを代表とするご当地「ゆるキャラ」やふるさと出身の人気芸能人を使ったイベントとか「ふるさと納税」をしてもらった人に、地場産業の特産品を贈って、町興ししている市町村も多いようです。

冬の旅から35年後...つまり、2015年も後1カ月で新年を迎えますが、71歳も超えたら、もう「新年の抱負」を述べる気持ちなんて、さらさら湧いて来なくなりましたが、35年前は、ぬるま湯に妥協した生き方ではアカンと、自分を追い込んでいた青臭い時代もありました。

孤島での寒さの極限を体験し、写真で記録するために、航路がある舳倉島 (へぐらじま) へ連絡船で渡ってみたかったのですが、海が時化やすい冬季は欠航の日が多くて断念しました。
1980年の年末に第一級の寒波が北陸地方にやって来て、福井県下の北陸自動車道が豪雪で大渋滞に...帰省者たちが乗った車列は、高速道路の追い越し車線でノロノロ運転...夜の10時頃には前のクルマが止まって、ぼくもクルマを停め、帰省者の人たちは暖房用にエンジンを掛けたまま数時間仮眠しました。ま、渋滞する数百台のクルマの排ガスが道路上に溜まって、仮眠中に一酸化炭素中毒になる恐れもあったのですが、朝方に雪が止んでクルマも動き出して助かりました。

ロケハンは能登半島内陸部 (柳田村) や能登半島の内浦になる穴水海岸を見て回りましたが、写真を撮った主な場所は、防風用の間垣の集落が見られる石川県輪島市の外浦の沿岸部です。
1980年〜1981年の時は、大晦日からお正月にかけて、珠洲市・禄剛崎 (ろっこうざき) 近くの民宿「浜九 (当時) 」に泊まりました。

実は、能登半島の北東にある珠洲市の狼煙 (のろし) には43年前 (1972年) に訪れており、民宿「漁師の家 (当時) 」に宿泊したことがあります。ぼくの場合は、日の出を撮りたい時は海岸近くで車中泊します。冬の北国へクルマで行くときは、タイヤチェーンの携行は必須ですが、雪用のタイヤに履き替えたり、ラジエーターに不凍液を注入するとか、バッテリーをフル充電しておく用心深い人は、積雪時のドライブ体験が殆ど無い大阪では少ないようです。
ぼくが車中泊するときは、雪が積もらない、風の当たらない場所を探しますが、羽咋市のガソリンスタンドで、「お客さんのタイヤ、もう、冬用 (1972年当時はタイヤに鋲を埋め込んだスパイクタイヤが主流でしたが、道路を削って傷めるので現在は使用中止に。昨今では、氷点下の低温でもタイヤのゴムが硬化しない、積雪路面と凍結路面に適したスタッドレスタイヤが主流に) に換えないと危ないよ」と言われてしまいました。

今は廃止された国鉄輪島駅の近くに、トラックドライバー達が利用する食堂「レストラン・やぶ」があって、朝定食が薄茶色の玄米 (軽く精米したもの) で、ウルメイワシの一夜干しを焼いた熱々のもの、岩海苔の入った味噌汁が付いていて、とても美味しかったですね。 
個人的には和食・洋食ともに料理は凝ったモノより、食材が新鮮で、炊きたてや焼きたての熱々で、シンプルな調理の方が好きなんです。
こじゃれたレストランに入るよりも、定期便の運送会社の大型トラックが数台停まっている、めし・おかず・味噌汁を提供する食堂をよく利用します。

冬の寒い時期は「味噌汁」よりも、刻んだ大根と小芋、塩鮭のアラが入った「粕汁」の方が体が暖まり元気も出るのですが、最近の大阪では「粕汁」を出す食堂が少なくなりましたね。酒粕で浸けた奈良漬けの漬物を食べたり、粕汁飲むと飲酒運転になるのかな?酒粕には8%のアルコール分があるらしく、飲酒運転の検査機に引っ掛かるのは、個人差があるようですね。酒粕は、ぼくが中学生の頃 (1956年〜1959年) の冬のおやつで、生では食べず練炭火鉢の火で焼いて、砂糖醤油を垂らして食べた思い出があります。

冬の能登半島は、季節風が吹き荒れる北西海岸の外浦 (輪島) の景観と、南東の穏やかな内浦 (穴水) では海の景色がかなり違います。
大阪の平野部では、気温の下がる夜中に雪が降っても、日中の最高気温が氷点下になることは滅多にないので、お昼頃には道路上に積もった雪は完全に溶けてしまいます。
大阪では珍しい雪景色を眺めていると、雪国の生活を本格的に撮影したいという気持ちが三十代の頃に沸いてきたのです。

それで、そのころ仕事に使っていた愛車のカローラ・バンを利用して、厳冬の能登半島の写真を撮りに行こうと決心しました。
能登半島北端の外洋海岸周辺に住んでおられる方は、厳しい冬をどんな風に過ごしておられるのか、取材のテーマとして興味を持ったのですが、ただそれだけでは行動が鈍ったでしょうね。やはり、ロケの取材先で獲れる新鮮な魚介を料理したものを食べてみたい目的もあります。だから、ぼくの選ぶ旅先は、海の近くに偏っています。例えば、冬の天橋立(宮津市)と伊根の舟屋(京都府与謝郡伊根町)を観に行く= 間人ガニ (たいざ:京都府京丹後市にある地名で間人港で水揚げされるズワイガニ) とアワビを食べにいく...というのが本音になりますね。

旅先で美味しいものを食べた記憶が残るのは、ぼくが二十八歳だった1972年11月23日〜26日にかけて、仕事仲間のT君を誘って初冬の能登半島をドライブ旅行したことがあって、25日の夜は、国鉄 (JR) 七尾駅で駅員さんから美味しい魚介料理の店を紹介して頂き、駅近くの割烹店「ひでよし (当時の店名) 」に行きました。
そこの店は、調理場の床下が生け簀になっていて、目の前で脂の乗った寒ブリを網で掬って、俎に載せてさばいて貰った時の、分厚い刺身の味が忘れられなかったのです。
数分前までは、まな板の上で跳ねていた寒ブリの分厚い刺身の迫力は、大阪ではなかなか味わえませんよ。個人的には旅先の夜食は、必ず地元の数人に訊いてから決めています。地元の観光ガイドに載っている店やホテルのボーイに訊いて行くと、店は大きいが店内は閑散としていて、ぼったくられる方が多いです。

因みに1972年当時は、二食つき民宿料金が大人1名で1200円 (現存する漁師の家:因みに2015年では、6800円) で、ガソリン代がレギュラー1リッター63円 (2015年11月中旬は135円) でした。1972年当時は、普通自動車の運転免許取得に掛かる費用が40,000円 (補習なしの場合) ぐらいだったので、普通免許を取るのに30万円も掛かる今の二十代の人は、ぼくらの青年時代を羨むでしょうね。

ロケハンに持っていったカメラは、ぼくが衝動買いした自動露出のキャノンA-1でした。
シャッター速度優先AE、レンズ絞り優先AE、プログラムAEのカメラで、単独露出計が不要でロケハンにはピッタリでしたが、プロ機として足りない面があったので、 1981年正月から能登取材の本番に用意した撮影機材は、キャノンnewF-1二台(モードラ付)、FD Zoom 20-35mm f/3.5L,FD50mm f/1.4,FD Zoom 80-200mm f/4L,FD 500mm f/4.5Lと二倍のエクステンダーでした。

使用フィルムは、ASA64のコダクローム(当時)とASA160のエクタクローム・ハイスピード(当時)、モードラ充電器、ジッツオ三脚、脚立、撮影用の手袋を持っていくことにしました。
ロケハンした1980年11月2〜3日は、能登半島の海岸部にそんなに雪は降らなかったのですが、1980年の年末は、寒波の影響で北陸方面が豪雪に見舞われて、北陸自動車道が半日以上も閉鎖された為、能登半島の輪島市への到着が1日遅れになってしまいました。
この時は、ジープタイプの4WD車の必要性を痛感しましたね。

北陸の雪道では、ノーマル (夏用) タイヤのカローラバンは何度もスタック(立ち往生)しました。
JAFを呼ばずに自力でスタックを脱しましたが、タイヤチェーンをカローラバンの駆動輪(後輪 )に装着しても、何回も雪の吹き溜まりに突っ込んで、ボディがボコボコになってしまい、輪島からの取材帰りには、ヒーターが故障して暖房が効かず最悪でした。

ぼくが雪道対策に持参したのは、タイヤチェーン3組(何回も切断したので)、タイヤ止め、スコップ、ゴム製長靴、ウインドウ用の雪かき、フロントガラスの油膜汚れ取りスプレー(クリンビューなど)を数缶、窓拭き用の布きれ数枚、予備のガソリンタンク、携帯カイロ(ホカロンなど)二週間分、非常食と飲料、睡気覚ましのロッテブラックガム、毛布数枚、目だし帽などの防寒具、コンパス、牽引ロープ、充電ケーブル、軍手、懐中電灯、車載工具、ジャッキ二台、木の板、JAFの会員証などですが、殆どのアイテムをフルに使いましたね。過疎な地方に行くと、ガソリンスタンドが少ないので、ガス欠にならないように、予備のタンク (金属製の20リッター用) は必須ですよ。

JAFの会員証を持っていても、豪雪で道路が閉鎖されると、救援に来られない場合もありますので、冬のドライブ旅行は、雪道に対する装備が大切です。
ぼくは、滋賀県の木之本町付近で猛吹雪に遭い、ワイパー作動を最速にしても、雪がフロントウインドウに積もり、怖い思いをしました。

豪雪地帯の雪の降り方は、大阪人の想像を超えます。そういう苦い体験もあって、1982年7月26日に、新発売された「パジェロ」に買い替えました。新車価格80万円のカローラ・バン1400から190万円のパジェロ2300ディーゼル・ターボへ...取引先から"賛否両論"
「君は仕事より、遊び優先やな!困るなぁ、うちにこんなクルマで来られたら...」
大阪商人は、ベンツSシリーズやロールス・ロイスを買う金があっても、取引相手に気遣って贅沢を控える考え方が現代でも根強く、地味な商用車のカローラ・バンやハイエースを仕事に使います。ぼくも大阪人ですから、そんな事は分かっていたのですが、当時のパジェロは道路交通法の小型貨物車扱いの4ナンバー登録なので、パジェロを減価償却の対象にして経費に計上、レジャー用ではなく、商用車として使用しました。

能登半島に出発する時、大阪で全国の天気予報をテレビで観ました。
アナウンサー:「大阪管区気象台の発表によりますと、輪島市の上空5000メートルには氷点下30度(上空1000mでマイナス6℃)の寒波が押し寄せ、日本列島は大陸から張り出した高気圧とオホーツク海で発達した低気圧の影響で、近畿・北陸の日本海側沿岸には筋状の雲が出て、典型的な冬型の気圧配置になっています。
このため近畿・北陸の日本海側の沿岸では強風波浪注意報(風速が14m〜17mで風に向かって歩けない風で、転倒して怪我することも)、や暴風波浪警報(風速が28m〜32mで、外出すると深刻な災害が予想される警報)、日本海側の山間部では大雪注意報や大雪警報が出ているところもありますので、今後の気象にはご注意下さい」
その猛烈寒波の真下にぼくはいたのです。

上空5000メートルには氷点下30度の寒気団と言っても、地表では0℃の気温なので、それ程寒くはないのですが、荒天時は能登北西沿岸部の風速が15〜20mぐらいあるので、体感温度はもっと寒く感じますね。寒さで耳たぶや鼻が痛いです。しかし、能登半島の東南海岸は内海になっているので、風も強くなく、海は穏やかで雰囲気はガラリと変わりますよ。

元日には時化が少し収まり、ホッとしました。
朝起きて寒々とした海岸に出ると、「波の花」が風に煽られて空に舞っており、手を海水に浸けると意外にも暖かく感じました。能登半島の外洋沿岸は暖流の海域なので、一月初旬では海水の温度は、まだ高めなのでしょう。

宿泊した民宿では、客がぼく一人だけだったので、元日の朝は、民宿のご家族と一緒に食事をしました。
澄まし仕立てのお雑煮の中には、時化の数日前に奥さんが海岸で採った岩のりがタップリ入っていて、とても美味しかったですね。お餅も美味しかったです。

能登半島には、正月休みを利用して3年も続けて通いましたが、数日間滞在しただけで撮った写真は、発表できる作品として満足のいくものではなく、ドキュメンタリー取材活動の難しさを思い知らされました。今でも記憶に残るシーンは3カットです。




上の写真;冬の能登半島の外洋沿岸は季節風が強く「波の花」が宙を舞います。波の花を撮らないと厳冬の能登を取材したとは言えませんね。
1981年正月の能登は、昼間の体感温度が氷点下で、手袋していてもシャッターボタンを押す指先が悴みました。荒波が押し寄せる曽々木海岸の護岸工事が行われていて、超望遠の500mm f/4.5Lでアップすると、殆どの土木作業員が女性で驚きました。夫が深夜に働く漁師なので、夫の代わりに妻たちがやっているようでした。漁は時化などで不漁の時もあり、護岸工事の仕事なら現金収入が確実に得られます。それにしても、雪国の女性たちは、漁師の夫の手伝いをしたり、岩海苔採りや荒布採りをしたり、働き者が多いようです。

中の写真:輪島は朝市が有名ですが、近海ものの鮮魚を売るには、朝市を開く前に魚やイカを獲って輪島港で競りに掛けないと小売の商いができません。深夜の輪島港で外洋に向かって出漁する漁師の様子を撮りました。漁の安全を願って、漁師の夫を見送る奥さんも大変です。時化の日は漁を休み、金沢の魚市場などからトラックを使って競りの始まる前に輪島港まで魚を運びます。

下の写真:真冬の能登の内陸部 (当時は柳田村) は、沿岸部よりも雪が多く、積雪で畑と道路の区別が分からない箇所もあって、ぼくの愛車・カローラバンは何度も雪の吹きだまり (側溝) にハマって、立ち往生しました。クルマに頑丈な板やジャッキを数個を積んでいたので、落輪から脱出できましたが。...ロケの途中で、下校中の小学生が1人で歩いているのを発見...。大阪市平野区の小学生たちは、雪が5センチも積もれば、雪だるまを作って大はしゃぎしますが、能登では児童たちが作った雪だるまを見掛けませんでしたね。写真を撮ったのは凡そ35年前だから、現在は46〜47最ぐらいになっておられると思いますが...。能登で暮らしておられるのでしょうか?

ルポルタージュ(現地取材の報道) ものは、やはり、現地に腰を据えて、最低でも一冬住んで、住民と交流しながら目線を合わせて生活してみないと、心が通じないものもあり、作品として発表できるような記事が書けず、また写真も撮れないような気がしました。当たり前のことですが。

ぼくのような広告写真をやっているフォトグラファーには、写真を作り過ぎる ( 演出したくなる) ので、何を撮るのか?的を絞らないと、本格的なドキュメンタリーの写真は撮れないでしょうね。
今考えると、28歳の時と30代半ばに6回も能登へ通いましたが、納得のいく写真が撮れなかったのは、「迷い」があったからです。

現在 (いま) の日本は、パソコンやスマホを使った有線や無線のインターネットが発達しているので、地域の情報がすぐに分かり、知りたいことを詳しく調べることができます。
但し、情報源の真偽ほどは定かではありませんがね。ネットやテレビからの耳学 (視聴) で物知りになるより、情報を鵜呑みにせず、自分の目で確かめ、自ら望んで真実を体験することが重要なのです。

冬の旅で得られたのは、ぼくにとっては非日常的な体験をした記憶ですね。日本海の鉛色の空、渦巻く荒波、凍てつく寒さ...、
能登取材のフィルムは一部を編集して、1980年代の終わりにマルチイメージの仕事で一度だけ使いました。
その後は眠ったままです。

能登の冬は、というより厳冬の日本海は、正(まさ)しくモノクロームの世界なのです。中途半端な色彩の残るカラーフィルムで撮ったのが間違いでした。トライXで撮れば、作品っぽいものが出来たと思いますが、ぼくはもう能登を撮るようなことはないでしょう。

今のぼくは寒い冬になると、2月なのに真っ赤なハイビスカスの花が咲く暖かい沖縄の西表島(いりおもてじま)の長閑な光景を思い浮かべ、暑い夏になると、北海道の富良野(ふらの)や美瑛のお花畑を思い浮かべてしまうからです。ぼくは、スタジオ商品撮影だけでなく、ロケ写真取材の仕事も多く、美しいカラフルな光景に惹かれてしまいます。
やはり、海の色が珊瑚礁のエメラルドグリーンで、緑鮮やかな樹木の前で写真を撮っている方がぼくの気性に合うようです。

ぼくは20代の頃からクルマの運転が大好きで、数年前まで1日700キロ程度(大阪〜長崎片道・大阪〜福島片道) の長距離ドライブは平気でした。スケジュールが数日間空いている時は、一人で日本各地を旅しました。東北地方や北海道行きは、フェリー+マイカー、又は飛行機+レンタカーも利用します。日帰りのドライブ旅行にはカメラを持って行かない時も多いです。ドライブを楽しみ、カメラの仕事への縛りを解放するためです。ま、最近ではすっかり出不精になってしまいましたが...。
ぼくは旅というものは一人でするものだと思っており、人生修行の一つですね。ちょっと、大袈裟かな。

数人で行くと、どうしても通俗的な行動になって、後味が悪くなってしまいます。
観光バスなどに乗って、カラオケを歌いながら騒々しく旅行するのには参加したくないですね。そういうのは旅ではなくて、移動する宴会ですよ。テレビの旅番組は、ステマの臭いがプンプンの観光ガイドが見受けられ、旅ではありません。旅というのは「食べる」だけが目的ではないんです。
「男はつらいよ」の寂しがり屋の寅さんのような、ちょっぴりほろ苦い旅がいいですねぇ。
これまでの旅の経験が今のぼくの仕事に役立っているのは言うまでもありません。

冬の旅と言えば、やはり、30代半ばに厳しい寒さを体験した能登半島の旅が記憶に残ります。
真冬の能登半島の外浦に押し寄せる日本海の荒波には凄い迫力があって、時化た水平線を数分間じーっと眺めていると、陸地に立っていても「船酔い」してしまいそうな気分になります。
2016年の正月も、かってのぼくのような若い旅人が曽々木海岸の前で、様々な心境を抱えながら荒れ狂う海を眺めていることでしょう。

写真と記事更新:2015年11月8日 尾林 正利

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