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モンパルナスの灯

薄幸の画家、アマデオ・モディリアニの晩年を映画化
(1958年のフランス・イタリア合作映画)

Les Amants de Montparnasse
un film de Jacques Becker

先ず始めに、モンパルナス(montparnassose )という地名は、古代ギリシャの聖地、学芸を司る女神(ギリシャ語でムシケ、英語でミューズ)を祀る聖地であるMont Parnassos(パルナッソス山:標高2457m)の名に由来するらしい。
フランスでは、首都のパリで芸術や学問を振興する地域として、ギリシャ神話の聖山の名が採用されたのだろう。

モンパルナスは、パリの中心部を蛇行して流れるセーヌ川左岸のオフィス街の14区〜15区にある。
モンパルナスと反対側のセーヌ川右岸には、パリの観光名所が沢山あって、例えば、エッフェル塔、エトワール凱旋門、ルーブル美術館、シャンゼリゼ大通り、高級ブランドのブティック(boutique)の並ぶ、フォーブル・サントノレ街、パリオペラ座、そして、ムーラン・ルージュや夜の歓楽街があるモンマルトル界隈には、パリ見物の外国人観光客が集中するが、左岸の方はオフィス街なので、外国人の観光客が少ない。

現在のモンパルナスの中心には、パリでNo.1の高層ビルになっている、 トゥール・モンパルナス(La Tour Montparnasse:英語ではモンパルナス・タワー)という、地上高210m、59階建てのビル(東京六本木ヒルズの森タワーの地上高・238m54階建てよりもやや低い)が建っていて、その近くにあるフランス国鉄(SNCF) のモンパルナス駅 (Gare Montparnasse:ガール・モンパルナス) から、フランスご自慢のTGV (テジェヴェ:Train à Grande Vitesse の略。車両が豪華で速いというフランス語)のボルドー(Bordeaux)行きの特急(TGV Atlantique)が発着している。

トゥール・モンパルナスは、ぼくが初めてフランスに行った時(1975年の正月)は、既に完工していて、パリの街並みのイメージからかけ離れていた。
1975年当時のパリのメトロ(地下鉄)には、殆どの駅にエスカレーターは設置されて無かったように記憶しているが、メトロのモンパルナス駅には、エスカレーターが設置されていて利用したのを憶えている。

因みに、1975年当時は、1ドルが240円の頃で、1フランが80円ほどだった。
大阪市内で、その頃の喫茶店で飲むホットコーヒー代が、一杯で180円ぐらいだったと思うが、パリへ行けば、2フランほどで、大阪市内と大差なかった。

その当時の1フランの下には、サンチーム(セントや銭に相当)という単位があって、1フラン=100サンチームなので、カフェオーレの一杯が2フランなら、160円相当で、大阪と変わらないことになるが、50サンチーム(40円)又は20サンチーム(16円)のチップが加算され、当時の為替レートで、パリのカフェで飲むカフェオーレが200円〜216円ぐらいになっていた。

パリのカフェやレストランで、コーヒーやディナーを飲食した時のレシート(計算書)を記念に貰って持ち帰ったのだが、39年も前のことなので、貴重な資料を帰国後に紛失してしまった。
パリ市内で、SELF の看板を掲げた飲食店なら、マクドのようなセルフサービス店なので、店員にチップは要らない。

余談だが、パリの屋台で売っていたホットドッグは、ばかでかかった。大人の顔の長さ(30cm)ぐらいあって、ソーセージも長くて太い。これに炒めたキャベツと一緒に切れ目を入れたコッペパンに挟み、マスタードやケチャップを塗って、アゴが外れるぐらい口を一杯開けてガブッと食べる。熱くて美味い。ドイツのフランクフルトに行けば、もっとでかいホットドッグがある筈。日本のホットドッグは、どの店でもちっちゃいような気がする。

パリの洒落たカフェで出る、カフェオーレのコーヒーカップは、神戸三宮の「にしむら珈琲店」のカフェオーレのカップとほぼ同じ大きさで、どのカフェに行っても、コーヒーカップのサイズが、日本の平均的な喫茶店よりも大きかった。

さて、20世紀初頭(1900年代)のパリには、アール・ヌーヴォー(Art Nouveau:新しい芸術)というロンドン発祥の美術運動が盛んになり、芸術の都「パリ」に憧れて、日本人画家の藤田嗣治(ふじたつぐはる:レオナール・フジタ)やスペインのパブロ・ピカソなど、世界各国からの芸術家や思想家たちがフランスに定住するようになった。

パリで彼らの受け入れ先になった右岸のモンマルトルや左岸のモンパルナス界隈の安アパートには、芸術家達や思想家達が集まって、彼らのコミューン(共同社会)が出来て、最寄りのカフェで壮大な夢を語り合っていた。
とくにモンパルナス界隈は、自由奔放な暮らしを望むボヘミアン(ロマ系の放浪民族)たちが住み着くようになった。

「モンパルナスの灯」という映画は、イタリアのトスカーナ州リヴォルノ市(ティレニア海に面した港町)出身の画家、ユダヤ系イタリア人のアメデオ・モディリアーニ(1884〜1920:Amedeo Clemente Modigliani 通称、モディ)が貧困で苦しみ、35歳で夭折した波瀾万丈の人生を描いた伝記的映画である。

映画のプロローグでは、 「現在、モディリアーニが描いた絵画は、世界中の美術館が求めている。
しかし彼が生きていた1919年当時は、彼の画の才能は美術評論家から見向き一つもされず、個性的な画風が理解されぬまま、画家としての人生に絶望し、自信を失っていた。
そして、この映画は事実に基づいて製作されたが、(演出や編集の都合で)すべてが史実通りではない。という説明がフランス語で書かれている。

モディ(モディリアーニの愛称)が1906年に渡仏して、芸術の都・パリで最初に住んだ場所は、モンマルトルの「洗濯船」というオンボロアパートの近くだったらしい。
洗濯船には、売出し中のパブロ・ピカソ(1881〜1973)が住んでいて、モディもピカソと交遊があり、一緒に並んだ写真も現存する。
その、写真を観ると、画家のモディは、イタリアの二枚目スター、マルチェロ・マストロヤンニのような、甘いマスクの美男であった。
当時のピカソは、かなりの金欠だったらしく、貧乏なモディから借金して10年間ほったらかしにしたので、モディは怒って延滞利息を追加し、借金の100倍を請求したというエピソードがある。

ピカソはモディよりも女好きで、45歳の時、妻でバレリーナのオルガ・コクローヴァがいたが、オルガが上流貴族の堅苦しい女だったので次第に不仲になり、17歳のマリーテレーズ・ワルテルを街でナンパして愛人にし、マリーテレーズの肖像画(※1)を数作描くほどで、ピカソの女性関係は常に二股三股で、複雑だったようだ。

ピカソの方は92歳まで長生きし、生存中に画風を次々に変え、世界的な有名画家になったので、作品が数億円単位で売買され、巨万の富を築いた。
(※1:2013年2月5日、ロンドンの競売専門のサザビーズ絵画オークションで、ピカソが51歳の時(1932年)に愛人をモデルにした「窓辺に座る女(モデルは23歳の時のマリーテレーズ)」が2860万ポンド(42億円)で落札された。)

モディの方は、青臭い芸術家気取りが邪魔して、ユダヤの血筋なのに商才がなく、美術界に影響力のある評論家を味方に付けて、自分を高く売り込むのが下手だった。ここがピカソの生き方と違う。

彼は、生活費を稼ぐ為、頼まれもしないのに、カフェで隣の客の写生をして、クロッキー(デッサン用の木炭や鉛筆などで早描きした写生画)の作品を一点5フランで強引に売ろうとするが、モディの肖像画は、本人とそっくりな似顔絵ではなく、相手の特徴を捉えた絵なので素人受けせず、誰も買ってくれない苛立ちのストレスと、持病の結核の発作(咳き込みと胸の痛み)を鎮めるために酒とクスリに溺れ、不摂生な生活が祟って結核髄膜炎を患い、モンパルナスの路地を酔っ払って徘徊中に行き倒れ、病院に運ばれて、35歳の短い一生を終えた。

モディが生きている時に売れた画(タブロー:主にキャンバスなどに描かれた油絵)は、友人が400フランで買ってくれた一枚と、モディが死の直前に400フランで売った「エビュテルヌ夫人像」の肖像画の合計2枚だけだったらしい。生存中の絵の売り上げが、800フラン...。

ぼくがモディリアーニの名を知ったのは、20代の時だった。
家族の誰かが貰ってきた銀行のカレンダーに名画の複製が使われていて、カレンダーの表紙が瞳が虚ろな「エビュテルヌ夫人像」の肖像画だった。
独特なタッチ(画風)と人物の造形・色調が気に入って、美術印刷された肖像画部分をカッターで切り抜いて、数年間、ぼくの部屋に飾っていた想い出がある。
映画の中にも僕が壁に貼っていたものと同じような複製絵画が写っていた。

モディの画は、顔が細長く首の長い、ディフォルメされた肖像画が多く、中には無気味な作品もあって、美的で写実的な絵画を好む日本人には、好きになれない方もおられると思う。


モディ(アマデオ・モディリアーニの愛称)が描いた、特徴のある肖像画のアップ。

モディは16歳で結核を患い、当時はBCGような予防接種ワクチンや結核に効く抗生物質の特効薬がなく、酒浸りの不摂生な生活を続けていたので、結核の発作が何度も再発してモディの体力を蝕んでいった。

モディがフランス在住の時は、第一次世界大戦の兵役が免除されるほど体力が弱っていたが、かなりのイケメンで、女性にはかなりもてていたようだ。


モディは、お金には困っていたが、甘いマスクのイケメンなので、どこでも女性にモテモテ。
馴染みのカフェの女店主は、毎朝、タダでワイン付きの朝食を...

自宅近くのカフェでは、女店主がワイン付きの朝食を用意してくれるし、そこのウエイトレスは、モディの背広のボタンを繕ってくれる。
アパートに帰れば、管理人のおばちゃんが気を利かせて、モディの洗濯物にアイロンを掛け畳んで届けてくれる。
アパートの同じ階の向かい側に住む夫婦は、ポーカーに勝ったからといって、モディが滞っている家賃まで払ってくれている。
みんな、モディに優しいのだ。


パリのカフェで、モディと愛人のベアトリス(リリー・パルマー)

モディは、19歳の画学生、ジャンヌ・エビュテルヌと同棲するまでは、年上の熟女、イギリス人のベアトリス・アステン(フランス語読み)を愛人にしていた。
ベアトリスは、酒乱のモディから、時々酷い暴力(失神するほど)を受けても恨まず、彼のために無償の行為で一肌脱いでヌードモデルになったり、生活費の面倒もみていた。

ある日、モディが別れようと言った時、
「女が出来たのね。あんた、お金も無いのに、その女(こ)と所帯を持つ気?
私の居るモンマルトルから離れて、飲まず食わずで、絵を描ける?
私はバカだから、あんたに殴られても我慢できるけど、今の若い女(こ)には、辛抱できるかしら」。

映画の「モンパルナスの灯」では、アマデオ・モディリアーニ役には、フランスのイケメン俳優のジェラール・フィリップが演じている。
アラン・ドロンが銀幕(ぎんまく:映画)にデビューするまでは、フランスを代表する二枚目俳優であったが、ジェラール・フィリップもモディリアーニと同じく短命で、36歳(1959年)の時に肝臓癌で急死した。


美術学校のデッサン塾で知り合ったモディとジャンヌ。 ジャンヌの父は二人の交際に大反対。

ジャンヌ・エビュテルヌ役には、クロード・ルルーシュ監督の「男と女」に主演し、1966年アカデミー主演女優賞にノミネートされた、アヌーク・エーメが起用され、19歳の画学生を演じている。アヌーク・エーメのベレー帽姿は、とても可愛く、似合っている。

モディの愛人になる、陽気なベアトリス・アスティン夫人役には、ポーランド出身の女優、リリー・パルマーが演じている。
この映画では、リリー・パルマーの愛人の演技とプチブル的なファッションも見所だ。

そして、人で無しの画商、モレル役になった、リノ・ヴァンチュラの渋い演技が光る。
さらに、この映画の脇役陣も芝居上手だ。
アパート管理人のおばちゃん、
モディの真向かいの部屋に住んでいるスブロフスキーの妻役に、リラ・ケドロヴァ(ヘッド・ライトにも出演)、
カフェのマダムとウエイトレス、
画廊のマダム、
ニースの売春婦にも台詞を与えて、映画と言うより、演劇に近い作品だ。

18歳になったジャンヌ・エビュテルヌは、モンマルトルにあった絵画専門学校の「アカデミー・コラロッシ」のデッサン塾で14歳年上のモディと知り合い、モディと激しい恋をする。

愛娘の朝帰りを叱責する父親の猛反対のあって、ジャンヌは自宅の部屋に鍵を掛けられて籠の鳥にされる。
しかし、モディを慕うジャンヌは、父の隙を見て籠から抜け出して家出し、モディのマネージャーから彼の居所を訊いて、ニースで療養しているモディに会いに行き、一緒に暮らし始める。
デッサン塾に通っていたジャンヌ・エビュテルヌにも画の才能があって、彼女の死後30年後(1950年)に、エビュテルヌ家からの許諾を得てジャンヌの作品が一般公開された。

主なキャスト

Amedeo Modigliane(アマデオ・モディリアーニ:1884年〜1920年イタリア人の画家)・・・Gérard Philipe(ジェラール・フィリップ)

Jeanne Hebuterne(ジャンヌ・エビュテルヌ:1898年〜1920年 フランス人でモディの内妻(事実婚)。
モディと同棲していたのは、1917〜1920年)・・・Anouk Aimeée(アヌーク・エーメ)

Béatrice Hastings (ベアトリス・アスティン:モディの愛人:交際していた期間は1914〜1916年)・・・Lilli Palmer(リリー・パルマー)

Léopold Sborowsky(レオポルド・スボロフスキー:モディと同じアパートに住むポーランド人で、モディの専属マネージャーになる)・・・Gérard Séty (ジェラール・セティ)

Mme. Sborowsky (スボロフスキーの妻)・・・Lila Kedrova (リラ・ケドロヴァ)

Rosalie(ロザリー:モディに惚れているカフェの女店主)・・・Léa Padovani(レア・パドヴァニ)

Morel(モレル:モディが死んだ瞬間に、夫の死を知らない妻のジャンヌから作品を買い占める狡猾な画商)・・・Lino Ventura(リノ・ヴァンチュラ)

Berthe Weill(ベルテ・ウェイル:画廊の女店主)・・・Marianne Oswald(マリアンヌ・オズワルド)

Lulu(ルル:ニースの娼婦)・・・Arlette Poirier(アルレッティ・ポワリエ)

主なスタッフ

監督:Jacques Becker(ジャック・ベッケル)
原案:Max Ophüls(マックス・オフュルス)
脚本:Jacques Becker(ジャック・ベッケル)
原作:Michel-Georges Michel(ミシェル ジョルジュ・ミシェルの "Les Montparnos")
撮影:Christian Matras(クリスチャン・マトラ)
音楽:Paul Misraki(ポール・ミスラキ)
美術:Robert Christidés(ロベール・クリスティデス)
衣装:Georges Annenkov(ジョルジュ・アヌンコフ)
編集:Marguerite Renoir(マルグリッド・ルノワール)
製作:Ralph Baum(ラルフ・バーム)
製作会社:Franco London Film
配給会社:Gaumont 製作年と製作国:1958年・フランス・イタリア合作
画面サイズとカラー:ヨーロッパ・ビスタ(1:1.66)・モノクロ作品
日本版DVDの製作・販売 デジタル・リマスターしたブルーレイ仕上げ(株)アイ・ヴィー・シー

ストーリー

モディの生い立ちは、映画には描かれてないので、ちょっと補足をしておこう。
モディは、イタリアのトスカーナ州リヴォルノ(ティレニア海に面した港町)の出身で、14歳(1898年)からデッサンを学び始めた。
ところが、16歳の時に結核に罹り、イタリアの各地で転地療養を兼ねて、母の付き添いで、ナポリやローマ、フレンツェ、ヴェネツィアを旅行し、モディはヴェネツィアで、彫刻に興味を持つようになる。

そして、19歳(1903年)の時にヴェネツィアに移住し、そこの美術学校に通うが、パリで本格的に絵画を学ぶために、母に旅費とパリで数ヶ月生活できる費用を出して貰って、22歳の時(1906年1月)にモンマルトルのコランクール街に、パブロ・ピカソが住んでいた洗濯船というおんぼろアパートの近くへ引っ越す。

洗濯船というのは、今から100年前にあった、セーヌ川の河岸で衣服やシーツの洗濯をする洗濯屋の粗末な船のことで、上の階で床に零した水が天井から雨漏りのようにポタポタと落ちてきたり、上の階や隣り部屋の人が歩く音が直に聞こえるような粗末なアパートのことである。
イタリアからパリにやって来たモディは、パリは家賃や物価が高いので、忽ち苦しい生活に陥った。
さらに結核も再発していたが、1906年当時は、結核に効く抗生物質が発明されてなくて、発作的な咳を鎮める為に強い酒を飲み、胸の痛みを麻薬で散らしていたらしい。

モディは25歳(1909年)に、モンマルトルからモンパルナスに転居したが、モンパルナスで暮らしている時に、ルーマニアの抽象彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシと知り合い、モディは、彼の作風の影響を受けて、彫刻制作に没頭するが、資金と体力が続かず、モンパルナスで交流を深めた友人らの勧めもあって、30歳(1914年)から画業に専念することになる。

この映画は、1914年から始まり、1920年で終わる。35歳で夭折した画家のモディリアーニの短い人生を描いた物語である。
映画のプロローグは、モンマルトルのカフェの中で、隣席の客を写生するモディの姿から始まる。

2〜3分でクロッキー(croquis:木炭や鉛筆などで描く速写画)を描き、それを隣席の客に強引に売りつけるが、いわゆる「似顔絵」ではないので、モディの描いた肖像画が、実物と全く似ていないので、全然売れないのだ。
「ぼくは、似顔絵描きではない。画家なんだ」と、いうので、モディは「似非(えせ)画家さん」とか、「巨匠」とか言われて、カフェのお客たちから、かわれている。


パリのカフェで、頼まれもしないのに客の絵を描くモディだが、 似顔絵では無いので、誰も買わない。

モディはモンマルトルで出会った、お金持ちで独身熟女のベアトリス・アスティンと知り合って親密な交際を始める。
ベアトリスはモディのパトロンになり、彼の画のヌードモデル(モディの裸婦作品の殆どはベアトリスがモデル)になってあげたり、モディに酒代の小遣いをあげたり、身の世話を焼く。 なかなかいい女である。
ベアトリスは、酒に溺れるモディに対し、「あなたを悪く(堕落)させたのは、私ではないわ」


モディ(左)と、愛人の熟女ベアトリス

1916年には、同じアパートに住むポーランド人のレオポルド・スボロフスキーは、モディのクロッキーを観て、その稀有な画風に惚れて、モディの作品販売のマネージャーとして専属契約を結び、モディの作品販売をレオに一任する見返りに、アトリエの賃貸料と画材購入費の資金援助を受けることになる。



モディの住居兼アトリエで、恋人の19歳のジャンヌ・エビュテルヌ(左)のデッサンを描くモディ。

1917年に、絵画専門学校の「アカデミー・コラロッシ」に入学し、そこのデッサン塾で出会った14歳年下の画学生であった、19歳のジャンヌ・エビュテルヌに一目惚れして交際を始める。

ジャンヌの父は、愛娘と14才も年上の生活力のない貧乏暮らしのモディとの交際に大反対して、ジャンヌを自宅の一室に軟禁する。ジャンヌに会えないモディは大ショック。
その絶望のショックで、モディは激しい発作で道端に倒れ、医師から南仏の保養地「ニース」での転地療養を勧められ、単身でニースへ転地療養する。


娼婦のルル(左)と、南仏のニースで、転地療養しながら、絵を描くモディ

ニースで借りた部屋はマルセルという荒くれ男が経営する、売春宿(Cafe Hotelの看板)の二階であるが、窓からの眺望は風光明媚だ。

そこで働く娼婦のルルは、イケメンのモディに一目惚れ。
表通りで客を引く商売そっちのけで、モディの部屋でスリップ一枚の下着姿になり、モデルになってあげる。

ルル:「あなたは、女にもてるタイプよ。美人に描いてね」。
モディ:「もう、描けたよ。見るかい」。
ルル:「えっ、これ、私なの?」
モディ:「ぼくは、似顔絵描きじゃないんだ。画家なんだ」。

そこへ強面(こわもて)のマルセルがやってくる。
マルセルはルルに向かって、「こらっ、ちょっと目を離すと、モナリザの真似なんかしゃがって、表に出て仕事しろ!」
マルセルはモディに向かって「巨匠さんよ、あの女のモデル代は高いよ。今週4回もモデルになったから、400フラン払って貰おうか」。
モディ:「そんな金は無い」。
マルセル「じゃ、どうするんだ」。
モディは、マルセルに向かってファイティングポーズを取る。
それを見たマルセルは、「やるのか・・・その根性気に入った。その画を400フランで買ってやる。それで(チャラだ)、どうだ」。

父に軟禁されていたジャンヌは、家から逃げ出し、モディのマネージャーのレオからモディの療養場所を訊いて、ニースにやってきて一緒に暮らすことになる。
ジャンヌが傍にいてることで、モディの制作欲が高まり、
ジャンヌ:「子供も出来るし、毎月、絵が二枚売れると良いわね」。
モディ:「二枚は無理だよ。一枚(400フラン:現在の貨幣価値で20万円)売るのにも難しいんだから」。

1917年12月には、生涯唯一の個展をウェイル画廊で開催するが、ベアトリスの裸婦作品を画廊の入口のショーウインドウに展示したところ、パリ警察からワイセツ図画として作品の撤去を言い渡され、画は一枚も売れず、散々な個展に終った。

署長「警察だが、すぐに表の画を外してくれ。弁明は無用。ワイセツだ」。
店主のウェイル夫人「ワイセツじゃありませんよ。芸術です」。
署長「ワイセツか、そうでないかは我々が判断する」。


マネージャーのスボロフスキー(左)と狡猾な画商のモレル(リノ・ヴァンチュラ)

個展の客寄せヌード作品が表から撤去され、早くも閑古鳥が鳴く二日目・・・。
画商のモレル:「やあ」。
マネージャーのレオ:「やあ」。
モレル:「オレは画商だ。モディの画は実に素晴らしいが、奴が生きている内は売れんよ。これは俺の勘だ。奴には運がない」。
レオ:「素晴らしいのに、なぜ買わないんだ?」
モレル:「まだ、買うのには、時期が早い。画の買い時にはタイミングがあるんだ。それまで待つ」。
レオ:「お前は、汚い野郎だ。人でなしだ。ここから出て行け!」 レオは物を投げつけ、入口のガラスを割る。

モディが33歳(1918年)の時、結核の症状が酷くなっていた。
南仏のニースから、再びパリのモンパルナスのアパートに戻ってきたモディリアーニは、マネージャのレオがアメリカ人の大富豪実業家が、パリで絵の買い付けに来ていることを知り、モディリアーニの作品を欲しがっているようなので、モディが描いた十点ほどのタブローをタクシーに積んで、実業家の宿泊しているホテルに出掛ける。
レオ:「表にクルマを待たせている。ホテル・リッツで、アメリカの金持ちに、画を売るんだ。」
モディ:「俺は断る。どうせ、一山いくらだろ!」
ジャンヌ:「あなた、絶好のチャンスよ」。
レオ:「さぁ、ネクタイをきちんと締めて・・・」
モディ:「身形(みなり)で、画を売るのか?」

リッツホテルに到着すると、アメリカへ帰国前の大富豪実業家の妻は、パリの高級店で売っている宝石しか眼中に無く、帰国前の僅かな時間を自分の買物のために割いて、財布係の夫を急かす。夫の方は、絵画の収集が趣味。

金持ち:「すまん、待たせたな。先に、俺の買ったセザンヌの画を見てくれ。有名な美術評論家が絶賛した作品だよ」。
モディ:「その画は本物です。でも、本当に画が解るのは、詩人だけです」。
金持ち「・・・」。
モディ:「・・・ゴッホが言うには、人間には教会に無いものがある。それを描きたいと・・・」。
金持ち:「ゴッホは、酔いどれじゃないか?」
モディ:「それは、苦悩を忘れるため。画は苦悩から生まれます。ゴッホは飲酒を責めた人にこう言っています。この夏に見た黄色を表現するために飲むんだと・・・」。
金持ち:「そんな芸術論は聞きたくない。時間がないので、さっ、早く画を並べて・・・。この画は、目が虚ろなのが良い」。
レオ:「でしょう、虚ろな瞳は、別世界を見ています。青い波をイメージしたものです」。
金持ち:「青い波・・・良いアイディアじゃないか!早速、青い波を商標登録して、うちの化粧品のボトルにこの画をラベルにして使おう」。
モディ:「商標登録って、ぼくの画を広告に?」
金持ち:「そうだ」。
モディ:「トイレの中にも、ぼくの画が・・・レオ、引き揚げようや」。
金持ちの奥さん:「あなた、もう5時よ。そろそろ出掛けないと」。
金持ち:「オー・マイ・ガーッ!」
商談は決裂した。

帰り際、リッツのエレベータの中で,別れたベアトリスに会う。
ベアトリス:「あなたの個展観に行ったわ。私の裸婦のせいで、とんだ災難だったわね?
私ね、デンマーク人と結婚することになって、これからコペンハーゲンに新婚旅行に行くの。又、パリに戻ってくるわ」。

モディは、すでに名が売れていたポール・セザンヌと比較されて、格下に観られ、画家としてすっかり自信を失ってしまう。
しかし、生きるためには生活費を稼がなければならない。 明日の生活費を得るために、アトリエの床に散乱したA5ぐらいの紙に書いたクロッキーを十枚ほど持って、モンパルナスのカフェに出掛け、一点5フラン(※2500円相当:5フランは、1920年当時のエッフェル塔3階展望台の入場料)で、売りに行くが、モディの名は誰も知らないので一枚も売れなかった。
物乞いと誤解されて、カフェの客から貰った5フランだけだ。

モディリアーニは、ユダヤ系のイタリア人なのだが、ユダヤの血筋にしては商売が下手で画の見せ方が悪い。
手垢で汚れたクシャクシャの写生画などは、素人相手には見向きもされないのは当たり前だった。晩年のモディの頭髪はボサボサで、服装もヨレヨレ。
カフェで寛いでいた、あるご婦人に、
「モディリアーニです。絵を買って下さい。5フランですよ」と、差し出すと、
「(お困りのようね)5フランなら上げる。その画はけっこうよ」と、物乞いに誤解されて、煙たがられる始末・・・。

モディは貧困と、画が売れないストレスの蓄積と、持病の結核で体の抵抗力が低下し、咳を止める為の飲酒や痛みを抑える薬物の濫用によって結核髄膜炎に進行していた。
個展やカフェで画が全然売れなかったモディは、自尊心に傷つき、生きる力が萎えてフラフラの状態・・・そんな死にかけのモディの背後を追う、ハイエナのような画商のモレル・・・。 狡猾な画商のモレルはモディの非凡な才能を見抜き、絵を買うタイミング・・・つまり、モディが死ぬのを待ち構えていた。

          
          

          

画商のモレルは(左)は、病弱のモディが死にかけているので、死を確認するまで尾行する

獲物が倒れるのを尾行するハイエナのようなモレルは、行き倒れたモディを救急車に運んでもらい、病院で彼の死を看取ってから、モディのアトリエを兼ねたモンパルナス・ファルギール街のアパートに馬車で駆け付け、夫の死を知らない妻のジャンヌから、アトリエに置いてあった、モディの代表作品を殆ど買い占めてしまう。

留守番をするジャンヌは、グラフィックデザイナー志望であった。 モンパルナスでモディと一緒に暮らすアパートで、絵はがきを描くアルバイト(一週間で10フラン:現在の貨幣価値で5000円ぐらい)で、暮らす苦しい貧困生活の中で、夫の画が突然に沢山売れて喜ぶジャンヌの幸せそうな顔・・・実はジャンヌのお腹には、モディとの間に二人目の子を宿していたのであった。
映画は、このシーンで終わってしまう。

あとがき

映画には描かれていないが、さらなる悲劇は、モディの死んだ二日後に起きる。
妻のジャンヌ・エビュテルヌは、モディの死を知らされて錯乱し、一人娘のジャンヌ(1歳)を実家に預けた後で、アパートの5階の窓から飛び降り自殺を図る。22歳であった。
1歳の遺児(女の子でジャンヌ・モディリアーニ)は、モディリアーニ家の親戚に引き取られイタリアで育てられる。

モディの死から6年後(1926年)、パリでモディリアーニの回顧展が開かれ、フランスのマスコミ(新聞)が高く評価したことで、モディが生きている時に、一点400フランほどで、2作品しか一般人に売れなかった油彩の肖像画は、やっと、一枚の最高額が3万5千フランで売れたらしい。モディの油絵を1枚400〜500フランで仕入れた、モレルはぼろ儲け。
モディリアーニ家やエビュテルヌ家には、差額の利益が1フランも入らない。
現在では、希少価値のある芸術作品が、画商やブルジョワの騰貴の対象にされていることが嘆かわしい。

1926年のモディリアニ回顧展での最高落札価格の3万5千フラン(当時の1フラン=現在の貨幣価値の500円にすると、17,500,000円が妥当な評価価格)なのだが、ぼくが住んでいる大阪市には、市制100周年の記念事業として、当時の最高落札1750万円の91倍もする、16億円で買ったモディの油絵が大阪市立美術館に保管されているらしい。ぼくは実物を未だ観たことがない。

自分の人生が、生きているときに妥当な評価がされて、皮肉な運命に終らないようにしたいものだが・・・。ま、個人的には、自分の好きなことをして、モディリアーニの2倍も生きられたのだから、此の世に神様というのが存在するのであれば、幸せだったと神様に感謝しなければならないと、この映画を観て感じた。

2014年2月13日 尾林 正利

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