戦場にかける橋
1957年公開・原作はフランス人作家ピエール・ブールの小説「クウェー川の橋」の映画化
The Bridge on the River Kwai
Directed by Sir David Lean
昭和生まれの日本人男性なら、太平洋戦争時に、硫黄島における日米激戦の様子は、多かれ少なかれご存知の筈だと思う。
太平洋戦争(マレー半島の西側のアンダマン海でも日英海軍の海戦があったので、大東亜戦争と呼ぶのが正しいと思う)という問題になると、すぐに過敏に反応を起こして、日本は軍国主義国だヒステリックに叫ぶ隣国の人もいるが、どの国の主導者でも、国土と国民の命と財産を守るという重責があって、国防を重視している。永世中立国のスイスでも徴兵制があって、国防軍が配備されている。
日本の開国も、アメリカ東インド艦隊のペリー提督の砲門外交(1853年7月8日、旧暦では嘉永6年6月3日、東京湾で脅しの空砲数十発を発射)に、江戸幕府はびびって、ペリーの開国要求に屈服して鎖国を解き、幕府は、日本にとって不利益な条約を丸呑みさせられた。
これを皮肉った狂歌が、「太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も寝られず」
"上喜撰"とは、宇治茶のブランド喜撰山(煎茶)に由来か?
"杯"は、船を数える単位で、ペリー提督の4隻の蒸気船(黒船=軍艦)に引っ掛けた狂歌である。
少し前の2006年に、硫黄島の戦没者遺骨調査で、大日本帝国陸軍・小笠原兵団(栗林忠道中将)の将兵たちが、迷路のような洞窟内の地中に埋めた多数の手紙が発見され、それを知ったアメリカ人の映画監督・俳優であるクリント・イーストウッドが日系2世アメリカ人のアイリス・ヤマシタに脚本を頼み、自ら監督して「硫黄島からの手紙」という映画を製作した。
この映画は、アメリカの戦争映画としては、当時は敵国であった日本人からの目線(視点)から初めて描かれ、全編が日本語の台詞で、日本人俳優が日本語で喋るリアリズムを強調した映画だった。エンド・クレジットだけが英語表記である。
アメリカ人の映画監督が日本を描くと、フジヤマ、ゲイシャ・ガール、サムライ、なぜか中国風の音楽が流れる雑な演出の映画が殆どだったのだが、米アカデミー賞最優秀監督賞を数回受賞しているクリント・イーストウッドは、戦時中の日本人の生活と、時代考証に拘り、日本人に対する従来の印象を排除した、ワンランク上の作品に仕上げていた。
太平洋戦争で日本軍と米軍が戦火を交えた映画は、戦後になって、米軍の戦いを正当化したアメリカ目線のプロパガンダ映画が数多く作られ、ドラマよりも、米軍用機の戦闘シーン(ドッグファイト)や米空母に離着艦するシーンに興味があったぼくは、中学生の時によく観たが、戦争映画として印象に残ったドラマは、イギリス人のアリステア・マクリーンの小説を映画化した「ナバロンの要塞(1961年公開)」ぐらいだ。美人の女スパイも登場する。
なお、戦争映画でも、捕虜収容所から脱獄する映画には名作が多い。ジャン・ルノワールの「大いなる幻影(1937年公開)」、ビリー・ワイルダーの「第十七捕虜収容所(1953年公開)」、ジョン・スタージェスの「大脱走(1963年公開)」、そして、デヴィッド・リーンの「戦場にかける橋(1957年公開)」だ。
「戦場にかける橋」という映画は、配給会社のコロムビア・ピクチャーズが製作費を出しているので、米英合作映画であるが、イギリス人監督のデヴィッド・リーン(当作で、アカデミー賞最優秀監督賞を受賞)と主演男優のアレック・ギネス(当作で、アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞)が、共にイギリス人で、映画の演出や俳優の演じ方がアメリカとはかなり違う。演出が玄人好みなのだ。
イギリス人のデヴィッド・リーンは、イギリス色の濃い映画に、軽々しいアメリカ人の出る幕はないと、台詞のある俳優は、正確な英語を喋る英国人にすると発言したので、この映画に280万ドル(1956年当時)も投資することになったコロムビアの社長が怒り、
デヴィッド・リーンに「アメリカ人の俳優を使え!」と、クレームを付けた。
そして、プロデューサーのサム・スピーゲルが、監督を説得して、ピエール・ブールの原作にはないアメリカ軍人が登場するシチュエーションを作り、原作を大幅にアレンジして、当時は非米活動委員会から睨まれていた、スクリーンライターのマイケル・ウィルソンにこっそりと、台本の書き直しを頼んだ。
アメリカ人が出る幕は、シアーズ中佐(実は、米海軍の二等水兵)を演じることになった、ウィリアム・ホールデンである。
ウィリアム・ホールデンは、マッチョな俳優で、殆どの映画で上半身裸になって筋肉美を見せるのが好きなナルシストのようだ。
1953年公開のビリー・ワイルダー監督の「第十七捕虜収容所」でも、ドイツ軍の捕虜収容所から脱走する米陸軍航空軍の軍曹役を演じ、アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞している。この映画はモノクロだが、個人的には面白かった。キム・ノヴァクと共演した「ピクニック」の演技も良かった。
デヴィッド・リーンは、コロムビア社長への当てつけか?アメリカ兵は自己中心で要領がよくてワガママ、イギリス人隊長をプライドの高い、名誉を重んじる頑固な男として描いた。ウイリアム・ホールデンは主役ではないが、この映画で破格の100万ドルの出演料を手にした。
太平洋戦争時に、日本軍が当時の同盟国であったタイのカンチャナブリー県の町に設置した第十六捕虜収容所に、鉄道建設の作業員としてシンガポールのチャンギ捕虜収容所(英軍のセララン兵舎もチャンギの刑務所にされた)から連れて来られた、英軍とオーストラリア軍捕虜の隊長の目線から描かれている。
1942年6月中旬から起工された、当時の日本軍がタイのバンコクとビルマ(現在はミャンマーと改名)のラングーン(現在はヤンゴンと改名)間を結ぶ、泰緬鉄道(たいめんてつどう)という日本軍専用鉄道の架橋工事が背景になった作品である。
この鉄道は、工事に従事した英兵捕虜にも死亡者が多かったので、「Death Railway:死の鉄道」と呼ばれていて、70年前の当時も現在も、インドシナ鉄道標準軌(1000mm)が採用されていて、JR在来線の狭軌ゲージ(1067mm)に近いので、廃車にしたJNRのブルトレなどがタイに譲渡されている。現在は、タイ国鉄のナムトック線(旧泰緬鉄道)は、バンコク・トンブリ駅〜ナムトック駅まで、毎日2往復のディーゼル機関車牽引の客車が運行されている。
この映画のロケーションは、ピエール・ブールの小説にはない鉄橋爆破のシーンがあるので、タイ政府の許可が降りず、残念ながらタイ国内ではなく、景観と樹木がタイと似たセイロン島(スリランカ)で行われることになった。
首都コロンボから東へ80kmほど離れたキトゥルガラ(Kitulgala)というジャングル地帯で、映画関係者の宿泊施設が建てられ、250日掛けて撮影が行われた。
ここに決まったのは、アート・ディレクターのドナルド・M・アシュトンの親戚が、ヌワラエリアで大規模な茶園を経営していたので、デヴィッド・リーンをセイロンに誘ってロケハンし、監督もここで映画を撮ることに同意した。
キトゥルガラに撮影用の線路(軌間610mm)を2kmほど敷き、セイロン国鉄のナローゲージ路線で廃車になった機関車(インドのダージリン・ヒマラヤ軽便鉄道と同形式の中古車)1両と客車4両、後ろから押す補機のディーゼル機関車1両を買い取って走らせ、木製の鉄道橋は、デンマークの橋梁建設会社に依頼し、鉄道橋の爆破シーンは、火薬を扱うイギリスの化学会社のICI社に頼んで、セイロンで行われた。
キトゥルガラはヌワラエリア市の隣でヌワラエリアはセイロン紅茶の名産地である。大阪のインド料理店で食事したことがあるが、食後に飲んだヌワラエリア産の紅茶を使ったミルク・ティーが、メイン料理よりも美味しかった。
泰緬鉄道を建設したのは、元は英国であったが、湿度の高い熱帯雨林のジャングルで、犠牲の多い難工事になったので、道床工事を少しやった時点で中止にした。その跡を大日本帝国陸軍の第15軍(1942年当時の司令官は、飯田祥二郎中将:ビルマ方面担当)が、泰緬鉄道の工事を再開した。
第15軍の配下には、当初は五個師団(凡そ11万人:大日本帝国陸軍1個師団 凡そ22,000人×5)が、ビルマ(ミャンマー)方面に派兵され、その中から1万2千人の将兵が鉄道建設の任務に就き、第25軍(大本営南方軍)がシンガポール作戦で、降伏したパーシバル中将の英軍捕虜(オーストラリア兵も含む)たち6万1千人を泰緬鉄道の建設に動員し、さらに占領地で募集したタイ人、ビルマ人、マレーシア人、インドネシア人、中国人、インド人たち14万人を動員して鉄道が敷設されたと伝えられている。
捕虜には労働の賃金はないが、日本軍が募集した土木作業の労務者には賃金が払われたが、3K(きつい、きたない、きけん)の仕事に、14万人もの労働者が集まるワケがなく、半ば徴用による動員だったらしい。
第15軍が、タイとビルマに敷設した泰緬鉄道とは、タイのノンブラドック駅(バンコク駅から西へ約70kmの駅)〜泰緬国境の峠”スリーパゴダパス”まで263km、ビルマ側のタンビュザヤ〜スリーパゴダパスまで152kmの総延長415kmの鉄道路線で、見積りで60カ月の工期を17カ月で完成し、1943年10月17日から415km
の全区間の運用が始まったが、大本営が第15軍指揮官に工事を急がせたため、手抜き工事も多く、開通当初は列車運行中の脱線事故が相次いだらしい。
泰緬鉄道に使う鉄道車両は、1942年2月15日に第25軍(大本営南方軍)の山下奉文中将(やましたともゆき:最終階級は陸軍大将、通称が"マレーの虎")が占領したシンガポールで接収した、英国製の蒸気機関車やボギー台車を履いた貨物車を利用することになった。
運良く、シンガポール〜バンコク間はマレー鉄道(現在はイースタン&オリエント急行も運行)があって、途中駅のノンブラドック駅に車両基地を建設し、この基地にシンガポールの車両を回送すればいいワケだ。
太平洋戦争後は、泰緬鉄道の所有権は、日本から戦勝国のイギリスに移転し、第15軍で生き残れた僅かな日本軍将兵たちは、武装解除されてビルマから撤退し、輸送船で日本へ帰国し、家族のもとに復員していったが、イギリスが日本に代わってビルマを再び占領し、英軍は忌まわしいビルマ側の泰緬鉄道の線路を一部撤去した。
タイ政府は、イギリスから泰緬鉄道を買取り、ビルマ国境近くのナムトックまで泰緬鉄道の線路が保存され、別名で"死の鉄道”と呼ばれた線路の上を現在はタイ国鉄ナムトック支線の列車が運行している。
タイ国鉄の「ナムトック支線」の動画では、泰緬鉄道の今の様子がインターネットに多数アップされている。「前面展望:death railway cab view」のキーワード入力で検索できる。
死の鉄道と言われた所以は、泰緬鉄道の工事で、タイ側の工事だけでも、21カ月間に8722名の死者が出た。タイの2カ所に慰霊碑のある墓地が建設されている。殆どが過労死、栄養失調、脚気、自殺、蚊が媒介する二つの風土病と伝染病(デング熱、マラリア、赤痢など)による病死だと言い伝えられている。
映画の「戦場にかける橋」に該当する橋は、今でも現地に現存するようだが、日本政府が太平洋戦争の戦後賠償として、戦後間もない1950年に、この映画が製作・公開される6年前に、横川橋梁と日本橋梁の二社によって建て替えられたものだ。
その橋がどこにあるのかと言えば・・・、
タイ国鉄のバンコク・トンブリ駅から西北西に138km離れた熱帯雨林に囲まれたところにある、ローカル気動車で、バンコクから約3時間掛かるらしい。
カンチャナブリー県のカンチャナブリー駅の次「River Kwai Bridge駅」を下車して歩いて見学できる、クウェー・ヤイ川に架ける鉄道橋の事である。
現在は鉄道橋の近くが観光地になっていて、資料館も建てられ、日本人観光客の他に、欧米からの観光客も多いらしい。戦時中に架けられた鉄道橋は、現在より100m南に架けられていたが撤去された。
なお、行先を聞くのに、
タイ人に「クワイ川鉄橋はどこですか?と訊かないように。クワイとはタイ語で、男性器のことなので、クウェーと言うように。
この川は、メークローン川という名前だったが、映画でクウェー川として描かれたので、観光客を誘致したいタイ政府は映画に合わせて改名したそうだ。
日本軍が、このような熱帯雨林のジャングルの中に鉄道を敷設した理由は、日本の友好国であったタイ政府の許可を得て、ノンブラドック駅から、軍用鉄道の分岐線を敷設し、日本が一時占領したビルマのタンビュザヤまで、第15軍配下の第15師団(祭兵団)、第31軍(烈兵団)、33師団(弓兵団)の66,062名の将兵や物資を泰緬鉄道で輸送して、印緬国境に近いインパールにある英軍基地や飛行場を破壊し、中華民国国民政府への武器弾薬の供給路になっている中国雲南省の昆明を結ぶ「援蒋ルート」を断つことであった。
さらに、インドの反英独立運動家チャンドラ・ボースのインド国民軍(英印軍の捕虜集団)45,000 余名を支援して、英軍を弱体化させたい目論見もあった。
「戦場に架ける橋」の映画は、英国人の視点から描かれたもので、日本版には、上記のような説明が一切なく、日本の観客に一番肝心な事は省略されている。
つまり、この映画は、実際の泰緬鉄道では全く撮影されず、かといって、娯楽作品でもない。
「戦場に架ける橋」という映画は、人間の狂気を描いた大作なのである。
この映画の原作は、なんとピエール・ブールというフランス人が書いた小説を英国風にアレンジしたものだ。
第二次世界大戦で、1940年7月1日〜1944年8月25日まで、パリはナチスドイツ軍に占領され、フランスの首都はパリから南へ350km離れた町・ヴィシーに遷都して、親独政権のヴィシー政権(1940〜1944年)が誕生し、フィリップ・ペタン主席による新政権が誕生した。
ペタン主席は、ナチス政権のドイツに発足した国家秘密警察"ゲシュタポ"に協力して、フランス人の抗独レジスタンスを厳しく取り締まった。
フランスのドイツ贔屓の警官が、フランスの真の愛国者を逮捕する風潮を嫌った、作家のピエール・ブールは本国を離れ、当時はフランスの植民地であった、印度支那(インドシナ:ベトナム・ラオス・カンボジアの三国)において抗日ゲリラ兵、反ヴィシー政権のゲリラ兵として活動していた。
ピエール・ブールが、実際に日本軍の捕虜になって、捕虜収容所内での体験を書いた原作(英訳本)をカール・フォアマン脚色して映画化されることになったが、デヴィッド・リーンは、フランス語直訳の台詞が気に入らず、マイケル・ウィルソンに頼んで台本を仕上げた。
1942年当時は、日本軍はフランス政府の親独ヴィシー政権との間で捕虜引き渡し協定を結んでおり、ピエール・ブールが日本軍の捕虜収容所にいた期間は短い。
ピエール・ブールは、ヴィシー政権のレジスタンス活動家の収容所で強制労働されていた期間の方が長く、彼が脱獄したときは、母国フランスでは、米英の連合軍によって、パリが解放されていたらしい。
普通の映画監督なら、凡庸な映画になるところを、巨匠のデヴィッド・リーン監督は、従来の戦争映画を超越した作品に仕上げた。
1、日本人の捕虜収容所所長の斎藤大佐とは・・・日本軍に降伏した英軍部隊の将兵は、その瞬間から軍人ではなく、(降伏して切腹しなかった)将校も、二等兵と同様にスコッブを持って鉄道工事の作業を命じる。
武士道の精神と「戦陣訓」が反映。第25軍(大本営南方軍)の司令長官、山下奉文(ともゆき)中将の「喜んで働け」が座右の銘。
2、イギリス人であるニコルソン中佐とは・・・敵軍に降伏しても、将校の名誉はジュネーブ協定27条で守られ、敵のために労働しなくて良いと主張し、斎藤大佐からビンタを食らい、オーブンと怖れられた営倉に入れられる。部下の英兵捕虜たちは、日本人の隊長から命じられてもあほらしくて、真面目に働かない。
クウェー川橋梁の工期は、完成期日が決まっており、工事が一向に進まない斎藤大佐は、ニコルソンの無言の抗議に折れて、クウェー川橋梁の建設は、部下の英兵から信頼されているニコルソン中佐に任す。
兵士の上に立つ将校は、いかなる環境に於いても部下に明確な目標を持たせることが重要だとして、日本人が考えた橋よりももっと凄い橋を造ろうと部下を叱咤激励する。これには、斎藤大佐は驚く。
3、アメリカ人のシアーズ中佐とは・・・シアーズは米太平洋艦隊の二等水兵で、日本軍の攻撃を受けた時に艦が沈み始め、死体になった海軍中佐の帽子や服を脱がせて、米海軍の中佐に成り済ました要領のいい男である。
シアーズ水兵は、捕虜になっても、中佐と詐称すれば、二等水兵よりも好待遇が得られると考えた。しかし、斎藤大佐の前では、捕虜になれば、大将も二等兵も同じ扱いにすると、通じなかった。
第十六捕虜収容所では、自称シアーズ中佐は、死んだ捕虜の墓掘り係を進んで担当し、遺体から金品を掠めて、タバコが欲しい時や仮病したい時の賄賂に使う。熱帯雨林に囲まれた第十六捕虜収容所から脱走すると、99%助からないが、1%に賭けて3人の仲間と脱走し、図太いシアーズだけが生き残る。
しかし、英軍情報部にシアーズの階級詐称がばれて、クウェー川橋梁の爆破隊のガイド役に命じられるようになる。この三人が絡むストーリー展開が面白い。
1943年2月〜5月、タイ西部のジャングルを蛇行するクウェー川に架ける泰緬鉄道の鉄橋工事を巡って、捕虜収容所所長の斎藤大佐、捕虜になった英軍のニコルソン中佐、収容所から脱走した米兵のシアーズが、それぞれの使命を果たすため、誇りを持って闘う。
「戦場に架ける橋」は、汗臭い男ばかりが出る映画ではなく、アメリカ人が好む水着女性の登場シーンもある。
主なキャスト
Shears(シアーズ:米海軍の二等水兵だが、日本軍に捕まって中佐と詐称)・・・William Holden(ウィリアム・ホールデン)
Colonel Nicholson (ニコルソン英軍中佐:捕虜になってもプライドが高い)・・・Alec Guinness(アレック・ギネス)
Major Warden (英情報部将校ウォーデン少佐:316部隊を指揮)・・・Jack Hawkins(ジャック・ホーキンス)
Colonel Saito (斎藤大佐:大日本帝国陸軍第15軍第十六捕虜収容所所長)・・・Sessue Hayakawa (早川雪洲)
Major Clipton (クリプトン軍医:少佐)・・・James Donald(ジェームズ・ドナルド)
Lieutenant Joyce(爆破隊員 ジョイス中尉)・・・Geoffrey Horne(ジェフリー・ホーン)
Colonel Green (爆破隊員 グリーン大佐)・・・Andrè Morell(アンドレ・モレル)
Captain Reeves (橋梁建設技師リーヴス少佐)・・・Peter Williams(ピーター・ウィリアムズ)
Major Hughes (橋梁建設技師ヒューズ大尉)・・・John Boxer(ジョン・ボクサー)
Grogan (グローガン)・・・Percy Herbert(バーシー・ハーバート)
Baker( ベイカー)・・・Harold Goodwin(ハロルド・グッドウィン)
Nurce (セイロン:スリランカにある英陸軍病院の美人ナース)・・・Ann Sears(アン・シアーズ)
Captain Kanematsu (兼松大尉)・・・Henry Okawa(大川平八郎)
Lieutenant Miura (橋梁建設技師の三浦中尉)・・・Keiichiro Katsumoto(勝本圭一郎)
316部隊の爆破隊を支援する数名の女性・・・ビルマの女優(2名は、クレジットあり)
主なスタッフ
監督:Sir David Lean(デヴィッド・リーン)
製作:Sam Spiegel(サム・スピーゲル)
原作:Pierrè Boulle(1952に出版された、ピエール・ブールの小説 Le Pont de la Rivière Kwai)
脚本:Michael Willson, Carl Foreman(マイケル・ウィルソン、カール・フォアマン)
撮影:Jack Hildyard(ジャック・ヒルドヤード)
音楽指揮:Malcolm Arnold(マルコム・アーノルド)
演奏:Royal Philharmonic Orchestra
美術:Donald M. Ashton(ドナルド・M・アシュトン)
ヘアーメイク:Stuart Freeborn, George Partleton(スチュワート・フリーボーン、ジョージ・パートルトン)
編集:Peter Taylor (ピーター・テイラー)
録音:John Cox(ジョン・コックス)
画面:シネマスコープ(1:2.35)、テクニカラー作品
ロケ地:セイロン島(スリランカ)のキトゥルガラ(Kitulgala)
セイロン島のコロンボにあるマウントラヴィニアホテル(戦時中は英陸軍マウントラヴィニア病院)
製作会社:Sam Spiegel Production, Horizon Picture(ホライゾン・ピクチャー)
配給:Columbia Pictures Corporation (コロムビア・ピクチャーズ)
DVD製作:Sony Pictures Entertainment Japan Inc. (ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント・ジャパン)
ストーリー