アラビアのロレンス
1962年公開、日本では1963年公開
Lawrence of Arabia
Directed by Sir David Lean
Disk1:前篇〜INTERMISSIONまで(後篇は別ページに掲載)
「アラビアのロレンス」は、ぼくが写専(当時は、日本写真専門学校:大阪市阿倍野区)に入学した年の1963年2月に、日本でも公開された。
ぼくが子供の頃から、2013年までに観てきた映画の中では、一番大きなカルチャーショックを受けた映画である。
しかし、映画には様々なジャンルの優れた作品が多数あり、観客の年代層とか男性の好みや芸術に対する価値観が女性とは異なるので、どの映画がNo.1の作品だと決めつけられないが、邦画・洋画・近隣の外国映画を問わず、ぼくの中では、断トツのNo.1にしている映画だ。
当作品は、1988年になって、シーンの一部に、ロレンスが右手に腕時計をはめているカットが見つかり、ネガを「裏焼き(左右反対)」の状態でプリントされているのが判明して、修整されることになった。その際に、1962年の初公開時にプロデューサー(サム・スピーゲル)の意向でカットした重要なシーンも復元し、主演のピーター・オトゥールが26年振りに録音スタジオに呼ばれて、ボイス撮りし、227分(前篇139分と後篇88分)の映画に再編集された。1988年以後に製作された227分のDVDや上映用プリントは、「完全版」として販売されている。
但し、「アラビアの英雄」と美化されたロレンス個人の評価は、1917年〜1918年にかけて、米新聞記者のローウェイ・トーマス(映画ではジャクソン・ベントリーの名前に変更)が、ロレンスの功績を新聞にセンセーショナルに書き立てて、それを信じ込まされた大衆の認識なのだが、現在のアラブ諸国はオイルマネーで豊かになって、アラブを中核としたOPEC加盟国の国際的発言力は強い。
近年では、イスラム圏に高まる原理主義復帰の影響もあって、95年前に、アラブ民族の独立戦争にアラブ軍を率いて活躍したキリスト教徒であり、コーランも理解する英国人を「アラブの英雄」だと素直に認めることには、プライド的に抵抗感があるようだ。
さらに、ロレンス個人の評価についても、彼と一緒に仕事した人の立場によっては、毀誉褒貶が付き纏うが、英雄の光と闇を描いた映画の出来映えは見事だと思う。
この映画は、単なる娯楽作品(エンタテインメント)ではない。
監督したデヴィッド・リーンは、原作に基づいたアラビアの英雄の事跡と心の中で渦巻く葛藤から発する狂気を描いた「叙事詩」だと発言されている。
アラビアの英雄とは、どんな人物なのか?
トーマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence:1888年〜1935年)という、身長165cmの小柄なイギリス人(ケルト系のウェールズ人)の考古学者である。
ケルト人という民族(ウェールズやアイルランドに多い)は、農耕や牧畜を生業として、グレート・ブリテン島やアイルランド島の先住民族であったが、5世紀頃から、ローマ帝国の衰退によって、ヨーロッパ大陸から、文化の発達したゲルマン系サクソン人のブリテン島への移住者(アングロ・サクソン人)が急激に増えて、ケルト人はグレート・ブリテン島の山岳地帯やアイルランド島に追いやられ、サクソン人はサセックス王国(Sassex:SouthとSaxonの造語)を建国した。因みにLondonはエセックス(Essex)王国に編入。
さらに、フランスのノルマンディー地方を征服していたスカンディナヴィア半島のノルマン人(ヴァイキング)によるノルマン王国のウィリアム1世にも、1066年にイングランドを征服されたので、ウェールズやアイルランド生まれの人々は、征服民族に対して反体制的な考えを持つようになった。
T.E.ロレンスがオスマン帝国に支配されていた、アラブ民族の独立戦争に指導的な情熱を注いだのは、ケルト系民族の血統が影響していたのだろうと思う。
1888年、T.E.ロレンスは、グレート・ブリテン島の中西部の海岸にある、ノース・ウェールズのトレマドグ(North Wales,Tremadog Gwynedd)に生まれた。
彼は、貴族の父であるトーマス・ロバート・チャップマンの非嫡出子(婚外子)として生まれたので、未婚の母であるセアラ・ロレンスの姓を名乗った。
彼は、1907年にオックスフォード大へ進学し、1907年と1908年の夏休みには渡仏して、何と自転車でフランス国内の古城を観て回ったらしい。
1909年には、中東のレバノンの首都ベイルートに渡って、徒歩で十字軍遠征(1095年に始まったキリスト教国によるイスラム教国からの聖地エルサレムの奪還戦争)の遺跡調査(移動距離1600km:本州の下関から青森までの高速道路距離に相当)をして、1910年に実地調査をまとめた卒論を書いた。
そして、大学卒業後も、アラビア語を習得するため、レバノンのビブロス(ここの十字軍要塞遺跡は世界遺産)に長期滞在した。
1911年には、大英博物館の遺跡調査隊に参加して、考古学者のレオナード・ウーリー(Sir Charles Leonard Woolley)と一緒に、トルコとシリア国境のカルケミシュでヒッタイト王朝時代の遺跡(紀元前16世紀〜12世紀頃)の発掘調査に従事した。
この頃に、同じ考古学者の学位を持つ、英外務省の女性諜報部員のガートルド・ベル(Gertrude Margaret Lowthian Bell:1932年にイラク王国の建国に尽力したが、謎の睡眠薬自殺を図る)と知己を得る。
ウーリーとロレンスは、ヒッタイト遺跡の調査で、中東に長期滞在してアラビア語が堪能になり、ベドウィン族と寝食を共にしてアラブ民族の気質、コーランの知識、中東方面の地理に詳しいことから、英陸軍からネゲブ砂漠の調査依頼(水源地の調査)を頼まれ、現地に出張して軍用地図を作成した。
1914年(大正3年)に第一次世界大戦が始まり、ロレンスは英陸軍に召集され、陸軍省作戦部地図課に配属になった。ここまでのロレンスなら、映画のネタにはならない。
やがて、欧州や中東で戦火が拡大し、ドイツやオーストリー=ハンガリー帝国と同盟を結ぶオスマン帝国(1924年にトルコ共和国として独立)の攻撃に備えて、イギリスにとっては、スエズ運河の防御を固める必要性から、英陸軍はオスマン帝国が支配していた中東に、中東情報に詳しいロレンスを中尉に昇進させて、エジプトのカイロ英陸軍司令部に情報将校として転属させた。
映画で描かれるのは、ここからだ。この映画のエピソードを少し紹介すると、
ロレンスが、第一次世界大戦(1914年〜1918年)中に、アラブ民族の独立戦争にアラブ軍を指揮して闘ったことを書き留めた「知恵の七柱(Seven Pillars of Wisdom)」で、1926年に215部刷られた予約販売の「私家版」の映画化権を映画製作者のサム・スピーゲルが、版権相続者であった末弟のアーノルド・ロレンスから買い取って、脚本家のロバート・ボルトとマイケル・ウィルソンが脚色し、映画化されたものである。
映画は原作通りでは無い。登場人物の実名が伏せられる人もいる。 物語の内容は、このページをスクロールして、ストーリーを参照して頂きたい。
「アラビアのロレンス」は、アラブ民族の独立の過程を描いた作品なので、ロケ撮影の場所はアラビアが中心になった。
1960年から始まったオーディションのテスト撮影は、本番撮影のメインになるヨルダンの砂漠地帯で行われた。
ヨルダンでは、国王の協力で、砂漠警備兵3万人とベドウィン族1万5千人が動員され、本物の武器を集め、数千頭のラクダや馬を集め、銃の撃ち方やラクダの乗り方の指導、砂漠にテント生活をする600名の撮影スタッフの食料品や飲料水、医薬品の調達、変電所や電話局の設置、砂漠のロケハンのために空軍機も用意された。
モロッコ政府もこの映画のために、ロケ場所の提供とラクダ集めやエキストラ集めに国王が協力した。
邦画では、このような異国での大掛かりな撮影は不可能だ。
もし、T.E.ロレンスがアラブ民族の独立に貢献したのがウソであれば、1915年のフセイン=マクマホン協定(※後述)で、いくらイギリスには恩があるヨルダン国王でも、この映画の製作には協力しなかっただろう。
デヴィッド・リーン監督は、撮影監督のフレディー・ヤング、セットデザインのジョン・ボックスとロケハンした結果、エルサレム、ダマスカス、カイロ、アカバの4都市は、第一次世界大戦から40年以上も経っていて、往時のイメージが殆ど無かったので、エルサレム、ダマスカス、カイロ、アカバのシーンは、イスラム建築が今でも数多く残るスペインのアンダルシア州のセビリア県とアルメリア県で行われた。
イギリス映画(配給はアメリカのコロムビア:現在はソニー)なのに、イギリスで行われたロケは、ロンドンのセントポール大聖堂と、ロンドン郊外の西にあるサリー州コバム(Surrey
County,Chobham)で、ロレンスの葬儀シーンと、バイクの事故シーンが撮影された。
この映画の助演役のキャスティングは、名立たる名優が早く決まったが、主役のT.E.ロレンス役の人選には時間が掛かった。
監督は、米俳優のマーロン・ブランドに声を掛けたが、ラクダに乗るのは厭だと断られた。
欧米男性の俳優で、身長165cmの男優を探すのは難しい。
最終的にロレンスと顔つきが似ていた身長188cmの舞台俳優、ピーター・オトゥールが主役に抜擢された。
ピーター・オトゥールは、この映画のクランクインになる3カ月前から、ヨルダンでベトウィン族と一緒にテント暮らしをして、同じ食事を摂り、ラクダに乗り慣れる訓練をした。
また、原作には登場しないハリト族の首長アリ役に、エジプト人俳優のオマー・シャリフが起用された。
オマー・シャリフはエジプト人なのにラクダに乗れなかった。
オマーは、コロムビア映画と複数年契約を条件にアリ役を承諾し、ラクダに乗り慣れる猛練習をした。
アカバ襲撃のシーンは、俳優たちがラクダや馬から落ちないように鞍と足を紐で結んでいたらしい。
ファイサル王子には、アレック・ギネス・・・「戦場に架ける橋」で、日本軍の捕虜になったニコルソン中佐役を演じたこの人の個性的な演技力は凄い。当作品ではアラブ王族の衣裳が似合っている。目の演技も良い。
気性の荒いベドウィン族の首長アウダ・アブ・タイ役にアンソニー・クィンが出演している。
アンソニー・クインは、メイキャップアーチストが作った鉤鼻を付けて特殊メイクを施し、アラブ部族の首長の衣裳を着て、監督と初めて会った。サプライズである。
監督は、アンソニー・クインだと気付かず、マネージャに、クインが此処に来たら、もう、用が無くなったから帰国するように伝えてくれと話したそうである。
シカゴ紙の新聞記者ジャクソン・ベントリー役には、本物のローウェル・トーマスが演じる予定だったが、俳優のアーサー・ケネディになった。クラシックカメラの操作が上手い。
特筆すべきは、この映画の為に、スペイン南部のアルメリア(Almeria)近くのカルボネラス(Carboneras)海岸に、砲台のあるアカバの港町に似せた、オープンセット工事が行われ
約300棟の市街地や防波堤が建設され、丘の上には口径30cmの対艦砲も設置された。
日中は50℃を超える灼熱砂漠では、スーパー パナビジョン撮影機用の65mm幅の生フィルムや露光済みフィルムの扱いには、フィルムの温度管理にかなり苦労したようである。
最初に撮ったマスツラの井戸のシーンは、画面のセンターに帯のような滲みがついているが、これは65mm幅カラーフィルムのセンター部分に熱が溜まって、膜面の温度差によって、エマルジョンのカラーバランスが崩れ、画面中心部が変色したものである。このシーンは困難な撮影だったので、撮り直しができなかったらしい。
灼熱の太陽アップのシーンは、フィルムに穴が開き、実写が無理なので、絵の複写になった。
灼熱の砂漠での撮影では、スーパー パナビジョンの巨大な65mmフィルムマガジンの上に、氷を入れた大きな水枕を載せてフィルムを常温の20℃に冷やしながら撮影したそうだ。
日本の新聞社もヨルダンへ飛んで、「アラビアのロレンス」の撮影現場の様子を新聞で報道していて、当時19歳だったぼくは、この映画の完成をワクワクして期待していた。
第一次世界大戦を時代背景に、前代未聞の異色の英雄を描いた映画で、男尊女卑のアラビア圏でも上映するために、女性が主演や助演で登場しない映画(回教国に配慮)になっているので、女性たちにとっては馴染めない映画かも知れない。
この映画では、女性の登場シーンが僅かにある。モスレムで無い女性や少女がイスラム僧侶の許可を得てベドウィンの女性として、ヒジャーブ(Hijab)を着用して出演している。
この映画を脚色したロバート・ボルトは社会主義者で、アラビアのロレンスの撮影中に一時帰国して、ロンドンのトラファルガー広場で、反戦の実力行使のデモに参加してロンドン市警に逮捕され、事情聴取の書類にサインしなかったので、簡易裁判所から1ヶ月の禁固刑が科せられた。
映画製作者のサム・スピーゲルはボルトの勝手な行為に激怒し、監獄へ行ってロバート・ボルトに強引にサインさせ、2週間で出獄させた。ロバート・ボルトは、傲慢なサムとは二度と口を利かなかったそうである。
しかし、ロバート・ボルトは、1965年にデヴィッド・リーン監督の「ドクトル・ジバゴ(Doctor Zhivago)」、1966年にフレッド・ジンネマン監督の「わが命尽きるとも(A Man for All Seasons)」で、アカデミー脚色賞を2年連続で受賞したのだった。
主なキャスト
Thomas Edward.Lawrence(ロレンス:考古学者だが、アラブ民族の独立戦争に活躍)・・・Peter O'Toole(ピーター・オトゥール)
Sherif Ari(アリ:ハリト族の首長:架空の部族。原作ではメディナ豪族のナースィル)・・・・Omar Sharif(オマー・シャリフ)
Prince Feisal(ファイサル王子:フセイン・イブ・アリーの3男で、イラク国王になる)・・・Alec Guinness(アレック・ギネス)
Auda Abu Tayi(アウダ・アブ・タイ:ハウェイタット族の首長で、気性は荒いが勇敢)・・・Anthony Quinn(アンソニー・クィン)
General Allenby(アレンビー将軍:人を見る目のある将軍)・・・Jack Hawkins(ジャック・ホーキンス)
Turkish Bay(トルコ軍司令官のベイ:男色の軍人)・・・Jose Ferrer(ホセ・フェラー)
Colonel Brighton(ブライトン大佐;軍の規律や訓練に固執する将校)・・・Anthony Quayle(アンソニー・クェイル)
Mr.Dryden(ドライデン:英外務省アラブ局の諜報顧問で、とぼけた顔をしていて悪賢い)・・・Claude Rains(クロード・レインズ)
Jackson Bentley(シカゴ紙の記者、英雄をスクープし、自分も有名になって大儲け)・・・Arthur Kennedy(アーサー・ケネディ)
General Murrey(マレイ将軍:短気な司令官で、アラブを軽視)・・・Donald Wolfit(ドナルド・ウォルフィット)
Gasim(ガシム:ロレンスに助けられて、ロレンスに処刑される)・・・I.S.Johar(I・S・ジョハール)
Majid(マジド:)・・・Gamil Ratib(ガミル・ラティブ)
Farraj(ファラジ:ロレンスの召使いになる少年・鉄道爆破作戦中に死亡)・・・Michel Ray(マイケル・レイ)
Tafas(タファス:ベニサレムのハジミ族のガイド)・・・Zia Mohyeddin(ジア・モヘディン)
Daud(ダウド:ロレンスの召使いになる少年、流砂に呑まれる)・・・John Dimech(ジョン・ダイメック)
主なスタッフ
Directed by Sir David Lean(監督:デヴィッド・リーン:Sirは英国における騎士の称号)
Produced by Sam Spiegel(製作:サム・スピーゲル)
Screenplay by Robert Bolt,Michael Wilson(脚色:ロバート・ボルト、マイケル・ウィルソン)
Director of Photography / Frederick A. Young,B.S.C.(撮影監督:フレディー・ヤング)
Music Composed by Maurice Jarre(映画音楽の作曲:モーリス・ジャール)
Editor/Anne V. Coates(編集:アン・V・コーツ)
Production Designed by John Box(セットデザイン:ジョン・ボックス)
Art Director John Stoll(美術:ジョン・ストール)
Costume Designer/Phyllis Dalton(衣裳:フィリス・ダルトン)
Photographed in SUPER PANAVISION 70(スーパー・パナビジョン65mmカメラ使用・上映用は70mmプリントで、専用映写機で上映 上映時のアスペクト比1:2.2)
HORIZON PICTURE(製作会社:ホライゾン・ピクチャー)
Columbia Pictures Industries, Inc.(配給:コロムビア映画)
Manufactured by Sony Pictures Entertainment(Japan)Inc.(DVDの販売元:(株)ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)
ストーリー(前篇から、INTERMISSIONまで)
スクリーンの幕が開き、映写機の窓を閉じて映像無しで、サウンドトラックの音声だけを活かした、ロンドン
フィルハーモニックの序曲演奏が凡そ4分間流れる。
黒い画面の中に、46歳の若さで亡くなった退役後のロレンスの様子が、映画では省略されている。それは、アラビアでの出来事ではないからだ。
1918年に、ロレンス名誉大佐は、中東のダマスカスから失意のまま帰国して、英陸軍を退官した。最終階級は中佐であった。
その後、1921年に英植民地省大臣のウィンストン・チャーチル(Sir Winston Churchill)に頼まれて、カイロ会議に参加して、一旦は表舞台にカムバックしたが、その後は、「知恵の七柱」とそのダイジェスト版の「砂漠の反乱」の執筆活動に入った。
その傍らで、1923年〜1935年まで、実名や経歴を詐称して英空軍に一兵卒として入隊した。その理由は不明である。
やがて定年で除隊したT.E.ロレンスは、イングランド南部ドーセット州にあった自宅で暮らしていた。アラブの英雄は一生独身で、スピードの出せるバイクが好きだった。
1935年当時は、バイクのロールスロイスと云われた、ブラフ・シューペリア製の愛車ジョージ号に跨って、自宅近くの道を走り回っていた。
ジョージ号の意味は、第一次世界大戦の時に英首相になった、デヴィッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George)の名に因む。
この映画のプロローグは、画面がフェードインして、タイトルロールがスタート。
1935年5月13日、その日は晴天だった。ロレンスは、いつものように愛車のジョージに跨って、新緑の農道でアクセルを噴かして時速100キロ近くで飛ばしていると、前方の上り坂に少年が乗るフラフラした2台の自転車を発見、避けようとして急ブレーキを掛けたので、バイクがスリップし、路肩のブッシュ(低木の茂み)に突っ込んだ。
バイクから投げ飛ばされたロレンスはヘルメットを被っておらず、ゴーグルが枝に引っ掛かり瀕死の重傷を負い、陸軍病院に救急搬送された。
持ち物から身元はショーという名の男だったが、元英植民地省の大臣であったウィンストン・チャーチルは、ショーという男は、かっては自分の部下で、1921年のカイロ会議で同席した、アラビアの英雄・T.E.ロレンスだと気付いて、国王専属の外科医と内科医を陸軍病院に派遣して、救命治療を懸命に行ったが、5月19日に永眠した。
彼の銅像は、ロンドンのセントポール大聖堂(聖パウロ大聖堂)に建てられ、アラブの英雄と知己のある方々を多数招いて本葬が行われた。
大聖堂の司祭:「あなたは、ロレンスさんとお知り合いですか?」
ブライトン大佐:「私の戦友です。並外れた人物でした」。
大聖堂の司祭:「しかし、この立派な大聖堂に、銅像を飾るに値する人物だったのでしょうか?」(※彼はコーランも信じていたので・・・)
ロンドンの新聞記者:「閣下、故ロレンス大佐について一言・・・」。
アレンビー将軍:「又、質問かね。砂漠の反乱は、我が中東戦線において決定的な役割を果たした」。
新聞記者:「大佐個人については?」
アレンビー将軍:「いや、ワシは彼のことをよく知らん」。
新聞記者:「ベントリーさん、故人について何か一言を」。
ベントリー記者:「私は大佐の知遇を受け、彼を全世界に紹介した。彼は詩人であり、学者であり、偉大な戦士だった」。
新聞記者;「ご協力、ありがとうございました」。
ベントリー記者:「同時に、恥知らずな自己宣伝家だった」。
傍にいた英軍医:「君は何者だ?」
ベントリー記者:「ジャクソン・ベントリーだ」。
英軍医:「何者であれ、今の発言は聞き捨てならん。彼は偉大な人間だ」。
ベントリー記者:「大佐とお知り合いか?」
英軍医:「親しい仲とは言わんが、ダマスカスで握手した」。
映画は1916年10月に戻る。場所はエジプトのカイロ英陸軍司令部地図課で、ロレンス中尉はアラビア半島のヒジャーズ地方(紅海に面した方のアラビア半島の地域)の地図製作を行っていた。
ロレンス:「ハートレー伍長、ここは狭くて汚い部屋だ。我慢できないね」。
ハートレー伍長:「塹壕よりマシです。中尉は戦士になれませんよ」。
ロレンス:「伍長、今日の新聞のヘッドラインを見ろよ。ベトウィン族、トルコ軍を攻撃・・・司令部の連中は、この動きを知るまい」。
ロレンスはタバコを吸う時、マッチの火を消すのに親指と人差し指で炎を摘んで消すマゾヒストなところがあり、同僚から変人だと見做されていた。
ロレンスは、英外務省カイロ諜報庁アラブ局(Cairo Intelligence Department Arab Bureau)の諜報顧問のドライデンと英陸軍カイロ司令部のマレイ将軍に呼び出され、特命を受ける。
第一世界大戦に参戦したイギリスは、オスマン帝国がドイツやオーストリア=ハンガリー帝国と同盟国だったので、オスマン帝国(中心はトルコ)とも闘うことになった。
イギリスは、先ず、インドに拠点を置く英東洋艦隊がペルシャ湾へ出動して、石油が採れるイラクのバスラを攻撃して占領した。
当時のオスマン帝国は、アラビア半島のほぼ全域を領有しており、遊牧民族のベドウィン族や定住民族のアラブ人を支配していた。
当時は、アラブの有力王族であったスンナ派でハーシム家のフセイン・イブン・アリー(メッカの太守)は、アラブ人によるヒジャーズ王国建国(現在はワッハーブ派でサウード家のサウジアラビア領)のために、トルコ兵を中心としたオスマン帝国軍にゲリラ攻撃を仕掛け、しばしば散発的な軍事行動を起こすようになっていた。
1915年にカイロで、英外務省エジプト駐在高等弁務官のヘンリー・マクマホンとフセイン・イブン・アリーとの間に、フセイン及び4人の息子の軍隊が、トルコに対して反乱を起こすと、イギリスが武器供与の支援をする約束と、フセイン王の悲願であるヒジャーズ王国の独立を認める密約「フセイン=マクマホン協定」を結んでいたが、イギリス軍部は、アラブ民族の民度が低いことやアラブ兵の戦力を軽視して、この協定には反対していた。